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エピソード

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朝鮮問題T(日朝修好条規、壬午事変、済物浦条約、大院君)
 小泉純一郎首相が、「総理大臣」という肩書きで、靖国神社に参拝したりすると、中国や韓国から、猛烈な反発を受けています。
 自由主義史観と名乗るグループが他の教科書を自虐史観に貫かれていると批判し、自グループで作った教科書が文科省の教科書検定に合格すると、中国や韓国から、猛烈な反発を受けています。
 今回は、日本・中国・朝鮮の歴史を調べてみました。
 当時の日本政府の基本的な外交戦力を説明しましょう。ペリーが日本にしたように、富国強兵の意図が読み取れます。
(1)朝鮮がロシアの支配下にはいることは、日本の国家的独立も危うくなると判断していました。
(2)そこで、朝鮮を日本の支配下にいれて、列強と対抗することを主張しました。
(3)そうなると、朝鮮の宗主権を主張する清国と対立するようになる。
(4)清国との戦争も覚悟して、軍事費は増大する。明治11年には軍事費は国家財政の15%でしたが、明治25年には31%に膨張しています。その分、民政費が減少しますが、当時はそんなことを言わない(言えない)時代です。
 1868(慶応4)年3月、明治新政府は、対馬藩主宗義達を通じて、朝鮮政府に、幕府の滅亡・新政府の成立を通告しました。朝鮮の執政(実力者)である大院君(49歳)は、受け取りを拒否しました。大院君は、国王李太王の実父で実権をにぎり、攘夷鎖国政策を方針にしていました。
 1872(明治5)年8月、外務大丞の花房義質を派遣し、草梁公館を接収しました。
 1873(明治6)年5月、明治新政府は、朝鮮との自由貿易をとなえ、三井組釜山に派遣しました。大院君は「近ごろ彼(日本人)の所為を見るに、無法の国というべし」という張り紙をしました。
 7月、明治新政府は、朝鮮に派遣されていた外務省役人から、大院君の「無法の国」という報告を受けました。閣議で、征韓が論議されました。
 8月、閣議は、参議西郷隆盛の朝鮮派遣を内定しました。
 10月、明治天皇は、岩倉具視の奏上を受け入れ、「朝鮮遣使を無期延期する」という詔を発しました。
 1875(明治8)年1月、征韓派の高知県士族武市熊吉らは、右大臣の岩倉具視を赤坂喰違で襲撃し、負傷させました。これを赤坂喰違の変といいます。
 4月、明治新政府の外務官僚の一部は、朝鮮王室の内紛に介入して、軍艦を派遣し、朝鮮を屈服させる糸口を作ろうという意見が出てきました。
 9月、軍艦雲揚号は、沿岸の測量を行いながら、朝鮮の首都京城近くに侵入しました。そこでで、朝鮮の守備兵が雲揚号に発砲しました。雲揚号も応戦し、砲台を破壊しました。これが江華島事件です。
 12月9日、明治新政府は、開戦も辞せずという方針を堅持しながら、陸軍中将兼参議黒田清隆を特命全権弁理大臣とし、江華島事件談判のため、軍艦6隻と共に、朝鮮に派遣しました。
 1876(明治9)年2月、黒田清隆・井上馨正副大臣は、江華府で、日朝修好条規江華条約)に調印しました。その内容と意義は次の通りです。
(1)釜山仁川元山を開港する。これは、鎖国朝鮮の開国を意味します。
(2)領事裁判権と関税免除を認める
(3)朝鮮は自主国であり、朝鮮の清国の属邦ではない。清国の宗主権を否定する。
(4)これは、日本が結んだ最初の不平等条約です。
(5)日本の明治維新をモデルに自国を改革したいとする親日派(独立党)は、攘夷鎖国派の大院君に対し、国王の妻閔妃とその閔氏一族に接近しました。日本の朝鮮における勢力伸張と共に、やがて、実権を握っていきました。これを閔妃政権といいます。親日派の独立党には、金玉均(32歳)・朴泳孝(22歳)がいます。
 1878(明治11)年5月、軍艦天城は、外務省の求めに応じて、良港探索のため朝鮮沿岸の測量を開始しました。
 8月23日、近衛砲兵隊は俸給削減への不満のため暴動をおこしました。これを竹橋事件といいます。
 8月、陸軍卿山県有朋は、軍人訓戒を達示しました。
 11月、政府は、朝鮮政府の釜山港輸出入品課税を協定違反として、抗議する為に、代理公使花房義質を釜山に派遣しました。
 12月5日、参謀本部条例を定め、陸軍省参謀局を廃止しました。その内容・結果は次の通りです。
(1)軍令に関する事項は専ら参謀本部長の管知するところと規定する。
(2)その結果、これが統帥権独立の発端となりました。
 12月23日、朝鮮政府は、釜山港輸出入品課税について、代理公使花房義質に、徴税中止を通告しました。
 12月24日、山県有朋は、参謀本部長に就任しました。
 1879(明治12)年3月、政府は、日朝修好条規により開港を約束した残りの仁川・元山の開港を交渉させるため、代理公使花房義質を、再度、朝鮮に派遣することを決定しました。
 6月、朝鮮政府は、元山は了承しましたが、仁川の開港は拒否しました。
 この頃、参謀本部は、清国の兵制・軍備・地理などを調査するために、10人以上の将校を、中国に派遣しました。
 1881(明治14)年2月、朝鮮政府と交渉し、「仁川開港を1882年9月とする」ことで、合意しました。
 5月、朝鮮政府は、朝鮮派遣弁理公使の花房義質の提議に従い、堀本礼造少尉を教官とする別技軍を創設し、訓練を開始しました。閔氏政権は、新式軍隊の別技軍を優遇し、旧式軍隊を差冷遇しました。そこで、旧式軍人らは、大院君に直訴しました。
 10月、明治十四年の政変がおきました。
 1882(明治15)年1月、陸軍勅諭が陸軍卿大山巌に下されました。内容は、@天皇の統師権A忠節・礼儀・武勇・信義・質素の徳目B軍人の政治参加の禁止でした。
 7月23日、大院君(63歳)の指示で、反閔氏・反日の旧式軍人は、京城で反乱をおこし、親日派の重臣である閔氏一族を捕殺しました。
 7月24日、反閔氏・反日の旧式軍人と民衆は、軍事教官の堀本礼造少尉らを殺害し、日本公使館を包囲・投石しました。朝鮮派遣弁理公使の花房義質らは、包囲網を脱出して、済物浦よりイギリスの測量船で、長崎に向かいました。
 7月24日、反閔氏・反日の朝鮮兵は、王宮に入って閔妃(32歳)に負傷を負わせました。これらを壬午事変(壬午軍乱・第一次京城事件)といいます。朝鮮は、親清派になりました。
 7月31日、閣議は、仁川・釜山に軍艦3隻の派遣を決定しました。
10  8月9日、清国公使は、属邦保護のため朝鮮に派兵すること及び日本公使館を保護することを通告しました。
 8月9日、清国の北洋艦隊司令官である丁汝昌は、軍艦3隻を率いて、馬建忠と共に煙台より朝鮮に向かいました。
 8月11日、外務卿代理の吉田清成は、「日本は朝鮮を自主国と認める。公使館は自ら保護する」と反論しました。
 8月16日、花房義質公使は、2個中隊を率いて京城に入りました。
 8月20日、花房義質公使は、朝鮮国王に謁見し、壬午事変に関し、3日間を期限として要求を提出しました。
 8月23日、馬建忠は、200の兵を率いて、仁川より京城(ソウル)に入りました。
 8月27日、朝鮮の大院君は、清軍に捕らえられ、天津に送られました。親日派の閔妃政権が復活しました。
 8月30日、花房義質公使は、済物浦条約を調印しました。その内容・結果は次の通りです。
(1)壬午事変の犯人を処罰し、謝罪使を派遣し、賠償金50万円を支払う。
(2)公使館駐兵権を認める。
(3)屈辱的な内容に反発した親日派の閔妃政権は、親清派へ転換しました。閔妃派は、親日派の独立党に対し、事大党を結成しました。
 8月30日、花房義質公使は、日鮮修好条規続約を調印しました。その内容は、居留地の拡張などです。
11  9月30日、清国は、壬午軍乱を鎮定し、首謀者大院君を保定に移しました。その後、清軍は、駐留を継続する旨を各国公使に通告しました。
 10月1日、清朝商民水陸貿易章程が調印されました。その内容は、清の宗主権を強化するというものでした。
 10月19日、独立党の朝鮮全権大臣兼修信使朴泳孝らは、明治天皇に謁見し、朝鮮国書を捧呈しました。
 11月17日、清国の李鴻章は、馬建常(馬建忠の兄)と元天津駐在ドイツ領事代理のフォン=メーレンドルフを朝鮮の外務顧問に推挙しました。その後、朝鮮政府は、この人事を承認しました。
 12月18日、独立党の朝鮮全権朴泳孝は横浜正金銀行と紙幣17万円の借款協定に調印しました。
 12月30日、政府は、大陸戦争に備え、軍備拡張につき陸・海軍両省に増額を内達しました。その内容は、次の通りです。
(1)明治16年度以降、陸軍は年額150万円を増額する。
(2)明治16年度以降、海軍は年額300万円を増額する。
 この項は、『近代日本史総合年表』などを参考にしました。
外交は、歴史・文化の異なる相手国がいる
 日本政府と朝鮮政府のやり取りを調べていて、条約で「釜山・仁川・元山の開港」を約束していながら、最初は釜山だけ、交渉すると、元山はいいが、仁川はダメだという。つい、日本人の立場から「どうなっているんだー」という感情に一時なりました。
 それから類推すると、ペリーの時も、アメリカ人は、「拒否しやがって」と思ったでしょう。
 一部の学者や評論家は、「受験の為に、日本近代史を教わっていないから、正しく反論できないのだ」と議論にもならないカビの生えた暴論を持ち出します。センター試験の導入以来、近現代史の比重が高くなり、「受験の為に、日本近代史は飛ばせない」ということもご存じないないのだ。
 仮に、教わってなくても、「今の若者は…」という議論とは全く関係がありません。学校で教わってないことの方が、人生では多いのだ。それを全て教科書(他人)のせいにするのは、自分が詐欺・汚職をして、「社会が悪いのだ」と言っている犯罪者と同じです。
 世界一受けたい授業を受けて、皆が優秀になれるでしょうか。受けた後、どう対処するかで、自分の一生が左右されるのです。
 明治維新をモデルに朝鮮の近代化を推進している親日派の閔妃や独立党が政権を握りました。日本の近代化を伝授し、今までのお礼をする絶好のチャンスだったのに、親清派に政権を奪われてしまいました。外交の失敗です。
 親清派を事大党といいます。事大の事は字源的には、「つかえる」です。つまり、事大は「大につかえる」という意味です。自分からこのような自虐的な名前を使うか調べてみました。
 歴史家は、開化派を独立党といい、守旧派を事大党といってます。日本をモデルに近代化を図るグループを開化派といい、清国に対し事大の礼をとらされていたグループを守旧派といっています。明治29年、軍艦からロシア兵をソウルに引き入れ、ロシア公使館に国王を匿い、親ロシア政権をつくったグループを保守派といってます。
 以上のことは分かったのですが、日本人が書いた書物からは、親清派が自ら事大党と名乗った事実は発見できませんでした。私は、近代化を図るグループ(独立党)が、親清派を大国中国に従属するグループつまり、「事大党」と揶揄して命名したのではないかと推測しています。いずれ、朝鮮人の書いた朝鮮近代史を調べて見たいと思います。

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