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エピソード

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朝鮮問題U(甲申事変、閔妃、天津条約)
 1884(明治17)年3月、フランス軍は、ハノイ北のバクニンタイグエンを占領しました。
 5月、清仏天津条約が調印されました。その内容は@清軍はトンキンから撤退するAフランスは賠償を請求しないなどです。
 6月、フランス軍は、ハノイの北のバクレー近くの観音橋で、清軍の守備隊と衝突しました。清軍は、フランス軍を撃退しました。これを清仏戦争といいます。
 7月12日、フランスは、清国に最後通牒を送り、「軍隊の速やかなトンキン撤退と2億5000万フランの賠償支払い」を要求しました。
 7月15日、フランスの軍艦3隻は、福州に到着しました。
 7月31日、清国は、フランスの賠償要求を拒否しました。
 8月4日、フランスは、自由行動を声明しました。
 10月23日、フランス軍は、台湾を封鎖しました。
 10月31日、秩父事件がおこりました。
 11月4日、朝鮮独立党金玉均朴泳孝らは、京城(ソウル)の日本公使館の島村久書記官とクーデタについて協議しました。その背景は、次の通りです。
(1)朝鮮独立党金玉均・朴泳孝らは、壬午事変以降、清国への依存を強めている関妃政権に反発している。
(2)清仏戦争で、清国の朝鮮駐留軍の数が半減されている。
 11月9日、済物浦条約による壬午事変賠償金の一部返還に関する日本・朝鮮間往復文書が成立しました。
 11月12日、朝鮮駐在公使の竹添進一郎は、朝鮮における清国勢力を打破するため、甲案(親日派を扇動して内乱をおこす)・乙案(親日派を保護するにとどめる)につき、伊藤博文井上馨両参議に請訓しました。
 11月28日、伊藤博文・井上馨両参議は、「乙案を可とし、公の干渉を行わないよう」に電訓しました。
 12月1日、朝鮮独立党の金玉均・朴泳孝らは、再度、日本公使館で会合しました。
 12月4日、ソウルで、親日派で朝鮮独立党の金玉均・朴泳孝らは、事大党の一掃を狙って、クーデターをおこしました。これを甲申事変第二次京城事件)といいます。
 12月4日、朝鮮駐在公使の竹添進一郎は、日本公使館守備隊を率いて王宮を占領しました。
 12月5日、朝鮮独立党の金玉均・朴泳孝らは、閔妃派(事大党)の重臣である尹泰駿韓圭稷李祖淵らを殺害し、独立党による新政権を樹立しました。
 12月6日、事大党は、清国軍に出動を要請し、戦闘となったため、日本守備隊は王宮の占領を解きました。日本軍の敗北です。
 12月7日、朝鮮国王高宗は、清軍内に移されました。朝鮮独立党の朴泳教らは、清軍に殺害され、親日派によるクーデタは3日で失敗に終わりました。
 12月8日、朝鮮駐在公使の竹添進一郎は、仁川から日本に逃げ帰りました。
 12月11日、朝鮮独立党の金玉均・朴泳孝ら9人は、日本に亡命するため、仁川を出発しました。
 12月19日、イギリスは、清国に日本と交戦することを回避するように勧告しました。
 1885(明治18)年1月3日、甲申事変のため、特派全権大使の井上馨外務卿は京城に着きました。
 1月9日、特派全権大使の井上馨は、朝鮮全権金宏集漢城条約(甲申事変善後処理の条約)に調印しました。その内容・結果は、次の通りです。
(1)朝鮮政府国書により日本に謝罪する。
(2)犯人を処罰し、死傷者に賠償金を支払う。
(3)日本公使館の再建を約束する。
(4)この結果、閔妃は、親日派を一掃しました。
 1月11日、朝鮮全権の金宏集は、特派全権大使の井上馨に対し、日本に亡命の朝鮮独立党の金玉均・朴泳孝らの引渡しを要求しました。それに対し、特派全権大使の井上馨は、これを拒絶しました。
 2月7日、閣議は、甲申事変後の対清国交渉方針を決定しました。その内容は、次の通りです。
(1)日本攻撃の清国指揮官を処罰する。
(2)在朝鮮日清両軍の撤退を要求する。
 2月20日、朝鮮国王使徐相雨らが来日し、明治天皇に国書を奉呈しました。
 2月23日、フランス軍は、ベトナム・清国境にある鎮南関を占領しました。
 3月26日、馮子在は、清軍を率いて、フランス軍を破り、ランソンを回復しました。
 4月3日、全権大使の伊藤博文は、天津で、李鴻章と甲申事変善後交渉を開始しました。しかし、日清両軍衝突の責任をめぐり難航しました。
 4月6日、清・仏は、停戦と撤兵を宣言しました。
 4月18日、全権大使の伊藤博文は、李鴻章と天津条約に調印しました。その内容・結果は、次の通りです。
(1)朝鮮から4ヶ月以内に日清両軍は共同撤兵する。
(2)将来、朝鮮に派兵する際は、行文知照する。
(3)両国とも、朝鮮に軍事教官は派遣しない。
(4)この結果、朝鮮における親日派政権樹立の構想は破綻し、軍事により清国を圧倒し、朝鮮を日本の影響下に置く構想へと転換しました。日清関係は、「危険をはらみながらも、一時小康を保つ」状態です。
 6月9日、清仏天津講和条約を調印しました。その内容は@清国はユエ条約を承認するAフランスは台湾を撤兵するというものです。
 7月3日、駐清公使の榎本武揚は、井上馨外務卿の訓令により、天津に李鴻章を訪問しました。日清協同による朝鮮内政改革・大院君の帰国を提議しました。
 10月5日、清国に抑留中の大院君は、帰国を許され、朝鮮通商委員袁世凱と共にソウルに帰着しました。
 11月23日、朝鮮でもクーデタをめざす計画が発覚し、大井憲太郎らが大阪で逮捕されました。これを大阪事件といいます。
 12月21日、朝鮮と海底電線設置条約続約を調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)朝鮮政府は、義州・仁川間電信架設を認める。
(2)釜山日本電信局の海外電信独占権を放棄する代わりに、朝鮮政府は、仁川・釜山間の電信線を架設する。
 12月22日、内閣制度が確立しました。
 1894(明治27)年8月、日清戦争が始まりました。
 1895(明治28)年4月17日、日清講和条約が調印されました。
 4月23日、ドイツフランスロシア3国は、遼東半島の返還を要求しました。これを三国干渉といいます。
 8月、宮中顧問官の三浦悟楼は、朝鮮駐在公使に就任しました。
 10月8日、京城で、日本人の壮士と軍隊は、大院君を擁してクーデタをおこし、閔妃を殺害しました。これを閔妃殺害事件(乙未事変)といいます。この結果、親日派の大院君が、政権に復帰しました。
 10月17日、閔妃暗殺事件に関し、三浦悟楼公使に帰国を命じ、小村寿太郎を朝鮮駐在公使に任命しました。
 この項は、『近代日本史総合年表』などを参考にしました。
明治30年代までの日朝関係
 日朝修好条規では、日本は、ペリー・ハリスにやられたのと同じ方法で、同じ内容を、朝鮮に押し付けました。その結果、日本の明治維新をモデルに朝鮮を近代化しようとするグループ(開化派)が誕生しました。ペリー・ハリスと日本を、日本と朝鮮に置き換えた状態です。
 しかし、ペリー・ハリスと日本と同じ様にいかなかったのが、朝鮮には大国清国がいたからです。中国と結んで政治をするグループ(保守派)との戦いです。朝鮮国内の開化派と保守派の争いに介入することを内政干渉といいます。 しかし、帝国主義時代は、内部分裂をおこさせ、他方を援助して、植民地化することは、当然のことですから、日本が行った政策を非難することは出来ません。
 日本の朝鮮支配を、「朝鮮の近代化に役立っており、感謝している朝鮮人もおる」と発言する人もいます。
 海底電線設置条約続約では、「義州・仁川間電信架設」とか「仁川・釜山間電信線架設」なども含まれていると思います。
 この議論は、朝鮮だけが感謝しているのでなく、日本人も儲けている点を指摘すべきです。最近でも、携帯電話器そのものは、無料で提供して、通話料でガボッと儲ける商法もあります。パソコンの導入でも「落札価格0円」という記事がありました。導入時は「0円」でも、その後のメンテナンスで取り返す商法です。
 アジアで最初に近代化を成功させた日本は、政治・経済・文化面でのソフト面での援助や技術指導によるハード面の援助で、永遠の友人・親日派をたくさん作れたのに、稚拙さのあまり、次々と友人・知人を失っている経過もよく分かりました。
 成功した例を引き継ぎ、失敗して例は、今後の糧にして、日朝関係を、よき隣人として、構築したいものです。よき隣人とは、信頼があれば、「今をよりよくするために、本音を語れる関係」の人という意味です。壊れることを気にして、いいたいこともいえない関係は、最初から壊れているのです。
 朝鮮駐在公使三浦悟楼は、朝鮮王宮に進入し、閔妃(朝鮮国王高宗の妃)を殺害しました。
(1)「日本に召喚された三浦悟楼は、殺人犯でありながら、学習院院長・貴族院議員・枢密院顧問官を歴任しています。これは、我々の側の驕りであり、慢心であり、不遜な行為であり、弁解の余地のない行為である」という人もいます。
(2)「閔妃を殺したのは、日本のためにも、なすべきではなかった。しかし、日本の公使館が襲撃され、日本人が多数惨殺された壬午事変や、日本の公使館が焼き払われ、女性を含む多くの日本人居留民が惨殺された甲申事変が起きています。滅茶苦茶なことが朝鮮半島内では、行われていたので、止むを得なかったのである」という人もいます。
(3)朝鮮では明成皇后を「国母」と呼んで親しまれています。掲示板には「国母を日本人に殺された気持ちが分かるか」という文章が登場します。国母といわれる明成皇后は、実は閔妃なのです。
 閔妃殺害は、止むを得なかったという人は案外多い。その根拠は、事実に基づいていない場合は多い。上記で紹介した部分では、朝鮮人によって日本公使館が襲撃されたとしています。しかし、甲申事変の場合は、花房義質公使の提議に従い、堀本礼造少尉が朝鮮軍に訓練を開始したことへの反感です。壬午事変の場合は、清仏戦争で、清国軍の手薄なのを利用して、日朝で打ち合わせています。
 日本人を庇いたい気持ちは分かりますが、悪は悪、善は善と客観的に把握しないと「臭いものには蓋」では、いずれ臭いボロが出てきます。

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