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エピソード

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日清戦争T(福沢諭吉の脱亜論、防穀令、東学党の乱)
 1881(明治14)年、福沢諭吉(48歳)は、「アジア改造論」を発表しました。その内容は、次の通りです。
(1)欧米列強の東アジア進出に対抗するには、日本・清国・朝鮮の提携が必要である。
(2)そのために、日本がアジアの先頭に立って、清国・朝鮮の近代化を図る必要がある。
 1882(明治15)年、壬午事変により、朝鮮は、清国との提携を進め、親日派を一掃しました。
 1884(明治17)年、甲申事変により、朝鮮は、清国との提携を進め、親日派を一掃しました。朝鮮における親日派政権樹立の構想は破綻し、軍事により清国を圧倒し、朝鮮を日本の影響下に置く構想へと転換しました。
 1885(明治18)年3月、壬午事変・甲申事変を知った福沢諭吉(52歳)は『脱亜論』を『時事新報』の社説に掲載しました。その内容・結果は、次の通りです。
(1)日本の進出を妨害しているのは、欧米ではなく清国である。これは日本・清国・朝鮮提携論の解消です。
(2)そこで、日本は欧米列強と行動を同じく、アジア諸国に対し侵略すべきである。これを脱亜入欧論といいます。
(3)福沢諭吉は、日清戦争を文明国日本と野蛮国清国の対立と見て、日本の戦争を「義戦」と評価しました。
(4)日清戦争の勝利によって、日本人のアジアに対する蔑視が定着化しました。
  4月、全権大使の伊藤博文は、李鴻章天津条約に調印しました。その内容・結果は、次の通りです。
(1)朝鮮から4ヶ月以内に日清両軍は共同撤兵する。
(2)将来、朝鮮に派兵する際は、行文知照する。
(3)両国とも、朝鮮に軍事教官は派遣しない。
(4)この結果、朝鮮における親日派政権樹立の構想は破綻し、軍事により清国を圧倒し、朝鮮を日本の影響下に置く構想へと転換しました。日清関係は「危険をはらみながらも、一時小康を保つ」状態です。
 11月、朝鮮でもクーデタをめざす計画が発覚し、大井憲太郎らが大阪で逮捕されました。これが大阪事件です。
 12月、内閣制度が確立しました。
 1886(明治19)年1月、各鎮台の師団番号を決定しました。その結果、東京鎮台は第一師団、以下六師団を改称しました。
 3月、参謀本部条例を改正しました。陸海軍の統合的軍令機関として、陸軍部海軍部を設置し、本部長は皇族を充て、次長に陸海軍将官を任命することにしました。
 8月13日、長崎に上陸の清国水兵は、飲酒暴行して、日本の巡査に逮捕されました。
 8月15日、数百人の清国水兵は、日本人巡査と乱闘し、双方に死傷者を出しました。これを長崎清国水兵事件といいます。
 9月、両国連合委員会は、調査を開始しましたが、意見が一致せず、外交交渉に委ねました。その結果@関係者はそれぞれの国の法律で公平に裁くA死傷者への憮恤金を相互に支払うということになりました。
 1887(明治20)年10月、大同団結運動がおこり、三大事件建白書が提出されました。
 1889(明治22)年2月、大日本帝国憲法が公布されました。
 3月、参謀本部条例・海軍参謀部条例を交付しました。その内容は、次の通りです。
(1)参軍(軍事参議官)の下に陸・海軍参謀本部を置く制度を廃止する。
(2)陸軍は、天皇の下に直隷する参謀本部を設置する。
(3)海軍は、海軍大臣の下にある海軍参謀部より軍令事項を管理する。
 10月、朝鮮政府は、咸鏡道黄海道防穀令を施行しました。その背景・内容は、次の通りです。
(1)1890年頃、朝鮮から日本への輸出は全体の90%を占め、しかも米穀がその30%以上を占めていました。
(2)日本の米穀の買占めの結果、朝鮮国内では、穀物価格が暴騰しました。
(3)そこで、米・大豆の輸出を禁止しました。これは、米を取り扱っていた日本商人に大打撃を与えました。
 11月、朝鮮代理公使の近藤直鋤は、朝鮮政府に防穀令施行は通商章程に違反と抗議し、損害賠償要求と発しました。違反の理由は、「防穀令は1カ月前に日本領事に通告していない」というのです。
 1891(明治24)年5月、滋賀県大津で、巡査津田三蔵(38歳)は、来日中のロシアの皇太子に切りつけ負傷させました。これを大津事件といいます。
 12月、朝鮮駐在公使の梶山鼎介は、防穀令施行の損害として14万7168円を朝鮮政府に要求しました。朝鮮政府は、要求が過大であるとして、交渉が難航しました。
 1892(明治25)年8月、朝鮮政府は、日本の防穀損害14万円に対し、6万円が打倒と回答し、日本側はこれを拒否しました。
 1893(明治26)年2月、朝鮮駐在公使の大石正巳は、朝鮮政府に対し、防穀令による日本商人の損害として改めて17万円を要求しました。
 3月、朝鮮政府は、日本商人の損害を4万円とする調査書を提出しました。
 4月4日、大石正巳公使は、防穀令賠償問題解決のため、軍艦派遣・税関占領などの強圧策につき請訓を求めました。
 4月8日、閣議は、強圧策をを避け、清国の袁世凱に斡旋を求める方針を決定しました。さらに、金額を減額しても交渉を妥結させる方針を決定しました。
 5月19日、防穀令問題は、袁世凱の斡旋により、清国政府が損害賠償11万円を支払うことで、妥結しました。
 5月20日、海軍軍令部条例などを公布しました。その内容は、次の通りです。
(1)海軍は、天皇に直隷する海軍軍令部を設置し、軍令事項を掌握する。
(2)戦時の最高統帥部として戦時大本営を設置し、陸海軍大作戦の計画は、参謀総長の任とする。
 1894(明治26)年2月15日、朝鮮の全羅道古阜郡で、郡主の趙氏に対する民衆の反乱がおこりました。
 2月24日、民衆は、自主的に解散しましたが、朝鮮政府は、東学に責任があるとして弾圧を始めました。東学とはどんなものでしょうか。調べてみました。
(1)西学は、西洋のでキリスト教をいいます。西学に対する用語が東学です。
(2)朝鮮の伝統的な儒仏道3教を折衷した民族的宗教を東学といい、創始者は、崔済愚です。
(3)東学の教えは「呪文を唱え、霊符をいただけば万病もなおる」という現世利益的で単純だったので、農民の支持を得ました。朝鮮政府は東学を邪教として扱っていました。
 3月28日、朝鮮の亡命者である金玉均は、上海で日本より同行の洪鐘宇に暗殺されました。
 3月29日、朝鮮の全羅道東学党が蜂起し、東学党の幹部である全■準は、国政の改革を唱えて、総督に就任しました。これを東学党の乱(甲午農民戦争)といいます。
 5月14日、忠清道慶尚道でも、東学党が蜂起しました。朝鮮国内は内乱化しました。
 5月31日、東学党は、全羅道を占領しました。東学党の反乱を鎮圧できない朝鮮国王は、総理交渉通商事宜の袁世凱に清軍派遣を要請しました。
 6月1日、朝鮮駐在代理公使の杉村濬は、東学党指導の農民暴動により全羅道占領と朝鮮政府の清国への援兵要請を陸奥宗光外相に通告しました。
 6月2日、閣議は、清国の出兵に対抗して、混成1個旅団の朝鮮派遣を決定しました。
 6月4日、李鴻章は、900人の派兵を指令しました。
 6月5日、大本営を参謀本部内に設置しました。
 6月7日、清国公使は、外務大臣の陸奥宗光に対して、「朝鮮国王の要請に応じ属邦保護のため出兵する」旨を通告しました。陸奥宗光は、「朝鮮を清国の属邦とは認めず」と抗議しました。駐清代理公使の小村寿太郎は、清国政府に対し、公使館保護のための日本軍出兵を通告しました。
 6月7日、日本は、朝鮮に出兵を通告しました。
 6月9日、清軍の派遣軍が朝鮮の牙山に到着しました。
 6月9日、李鴻章は、イギリス公使に日本の朝鮮派兵阻止を要請しました。
 6月10日、休暇帰国中の朝鮮駐在公使である大鳥圭介は、陸戦隊を率いて京城に帰任しました。
 6月12日、混成1個師団は、仁川に到着しました。
 6月14日、朝鮮公使は、外務大臣の陸奥宗光に対して、日本軍の撤退を要求しました。
 6月16日、外務大臣の陸奥宗光は、清国公使に東学党の反乱の共同討伐および朝鮮内政の共同改革を提議しました。
 6月22日、清国は、陸奥宗光外相を提議を拒否しました。
 6月23日、外務大臣の陸奥宗光は、日本は内政改革実現まで撤兵せずと通告しました。
 6月25日、ロシア公使は、陸奥宗光外相に日清関係の斡旋を申し入れました。
 6月30日、ロシア公使は、陸奥宗光外相に「朝鮮政府の撤兵要求に応じるよう」勧告しました。
 7月2日、イギリス代理公使は、陸奥宗光外相に日清間の調停を申し入れました。
 7月10日、朝鮮駐在公使の大鳥圭介は、実行期限を付した内政改革案を朝鮮政府に提出しました。
 7月12日、清国側は、イギリスの調停案を拒絶しました。
 7月14日、駐清代理公使の小村寿太郎は「今後の事態(戦争)の責任は清国にあり」と通告しました。
 7月16日、朝鮮政府は、「日本軍の撤退が先決だ」と回答しました。
 7月16日、陸奥宗光外相と青木周蔵駐英大使は、日英通商航海条約に調印しました。
 この項は、『近代日本史総合年表』などを参考にしました。
福沢諭吉の脱亜入欧論と、日本の外交政策
 「一切萬事西洋近時の文明を採り、獨り日本の舊套を脱したるのみならず、亞細亞全洲の中に在て新に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亞の二字にあるのみなり」「我日本の國土は亞細亞の東邊に在りと雖ども、其國民の精神は既に亞細亞の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に國あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云ふ。此二國の人民も古來亞細亞流の政教風俗に養はるゝこと、我日本國に異ならずと雖ども、其人種の由來を殊にするか、改進の道を知らず」
 「麻疹に等しき文明開化の流行に遭ひながら、支韓兩國は其傳染の天然に背き、無理に之を避けんとして一室内に閉居し、空氣の流通を絶て窒塞するものなればなり。…西洋文明人の眼を以てすれば、三國の地利相接するが爲に、時に或は之を同一視し、支韓を評するの價を以て我日本に命ずるの意味なきに非ず」
 「今日の謀を爲すに、我國は隣國の開明を待て共に亞細亞を興すの猶豫ある可らず、寧ろその伍を脱して西洋の文明國と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣國なるが故にとて特別の會釋に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に從て處分す可きのみ。惡友を親しむ者は共に惡友を免かる可らず。我は心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり」
 これは明治18年に、福沢諭吉が『時事新報』に掲載した社説の抜粋です。ここには、「脱亜」という用語と、西洋人を気にして「惡友を親しむ者は共に惡友を免かる可らず。我は心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり」という文章が見えます。これを「脱亜入欧論」といいます。            
 明治22年の防穀令が東学党の乱の背景にあります。朝鮮政府の防穀令は、米穀が日本に大量に輸出されるための防衛策ですが、日本政府は、これによって被害を受けた日本商人への賠償要求を要求します。
 西学(キリスト教)に対する東学運動は、日本の攘夷運動と同じで、「日本人を初め外国人が来る以前は、幸せだった」という復古主義に、絶望的な貧困が絡んだ運動です。
 日本は、着々と、朝鮮を支配するために、宗主国である清国との戦争を準備してきました。年表を丹念に見ると、平和の衣の下に、鎧がチラついています。これを一概に非難は出来ません。イギリスのアヘン戦争は、1894年からすると、54年前のことです。清仏戦争は、10年前のことです。
 1894年から111年も経過しているのに、中国・韓国から非難されるのでしょうか。イギリスやフランスには、あまり非難の話は聞きません。外交政策も問題でしょうか。いずれその問題を取り上げる予定です。

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