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エピソード

193_02

日清戦争U(豊島沖の海戦、平壌の戦い、黄海海戦、下関条約、三国干渉)
 1894(明治27)年3月、東学党の乱がおこりました。
 7月16日、陸奥宗光外相と青木周蔵駐英大使は、念願の日英通商航海条約に調印しました。
 7月20日、朝鮮駐在公使の大鳥圭介は、清・朝鮮宗属関係の破棄その他を要求する最後通牒を朝鮮政府に提出しました。その内容は「回答期限を7月22日とする」というものです。
 7月23日、李鴻章は、イギリス船4隻を雇い、牙山に2600人を派兵しました。
 7月23日、日本軍は、京城の朝鮮王宮を占領し、朝鮮軍を武装解除しました。朝鮮国王は、日本側の圧力により、大院君に国政総裁を命じました。その結果、大院君が政権に復帰しました。
 7月24日、清の援兵1700人は、牙山に到着しました。
 7月25日、大院君は、清・朝鮮宗属関係の破棄を宣言し、牙山の清国軍撤退を大鳥圭介公使に依頼しました。
 7月25日、日本艦隊は、豊島沖で清国軍艦を攻撃し、イギリス国籍の輸送船を撃沈しました。これを@豊島沖の海戦といいます。
 7月27日、朝鮮政府は軍国機務処を設置し、内政改革に着手しました。これを甲午更張といいます。
 7月29日、大島混成旅団は、朝鮮の成歓を占領しました。これをA成歓の戦いと言います
 7月30日、大島混成旅団は、牙山も占領しました。これをB牙山の戦いといいます。
 8月1日、日清両国は、お互いに宣戦布告しました。これを日清戦争といいます。
 8月2日、朝鮮国王は、各国公使に援助を要請しました。
 8月7日、イギリスは、日清戦争に中立を宣言しました。その後、ロシアも中立を宣言しました。
 8月20日、朝鮮政府と暫定合同条款に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)朝鮮政府は、日本の内政改革勧告を受け入れる。
(2)日本による京仁・京釜鉄道敷設を認める。
 8月20日、李鴻章は、朝鮮国王から援助の要請の密電を受けました。
 8月26日、朝鮮政府と両国盟約に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)朝鮮政府は、清国との戦争に協力し、日本軍の進退・糧食準備に便宜を与える。
(2)平和回復後は、この便宜を廃止する。
 9月1日、大本営は、第一軍を編成し、司令官に山県有朋大将を任命しました。
 9月15日、大本営を広島に移し、明治天皇は、広島に到着しました。
 9月16日、第一軍は、平壌を総攻撃し、占領しました。これをC平壌の戦いといいます。
 9月17日、連合艦隊司令長官の伊東祐亮は、清国北洋艦隊の主力と遭遇し、5隻を撃沈しました。これをD黄海海戦といいます。
 10月、東学農民軍は、再蜂起して、日本軍に抗戦しました。
 10月25日、大鳥圭介公使を召喚し、井上馨内相を朝鮮駐在公使に任命しました。
 10月26日、第一軍は、鴨緑江を渡河し、九連城を占領しました。
 11月、孫文は、ハワイ興中会を組織しました。
 11月4日、清国の恭親王は、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・ドイツ・ロシアの各公使に、朝鮮の独立・賠償支払いを条件に、日清戦争の休戦調停を要請しました。
 11月6日、第二軍の司令官である大山巌大将は、遼東半島花園口から上陸し、E金州城を占領しました。
 11月12日、アメリカ公使は、清国の依頼により講和条件の基礎を提議しました。
 11月20日、井上馨公使は、各大臣列席の上、朝鮮国王に謁見しまし、内政改革要綱20カ条に同意を要求しました。
 11月21日、第二軍は、F旅順口を占領しました。この時、万余の中国人の市民が虐殺されました。これを旅順虐殺事件といいます。その後、犠牲者の墓である万忠墓が建てられました。
 11月22日、日米通商航海条約・付属議定書を調印しました。
 11月27日、外務大臣の陸奥宗光はこの提議を拒否し、「清国側の講和全権委員任命を先決とする」と回答しました。
 12月13日、第一軍は、漢城を占領しました。
 12月20日、清国は、「張蔭桓らを講和全権委員に任命する」の旨を、アメリカ公使を通じて通告してきました。
 1895(明治28)年1月13日、大本営は威海衛攻略後に澎湖島占領作戦を行うことを決定しました。
 1月20日、第二軍は、遼東半島に上陸しました。
 1月20日、ロシアは、極東艦隊の増強と朝鮮独立保障のためのイギリス・フランスとの協力を決定しました。
 2月1日、日清両国全権は、広島県庁で会議を開きました。
 2月2日、日本全権の伊藤博文首相と陸奥宗光外相は、清国全権委任状の不備を理由に交渉を拒絶しました。
 2月2日、日本軍は、北洋艦隊を降伏させ、G威海衛を占領しました。
 2月19日、清国は、講和全権に李鴻章を任命する旨をアメリカ公使を経て通告してきました。
 3月20日、日本全権の伊藤博文首相と陸奥宗光外相は、下関の春帆楼李鴻章と会談しました。
 3月24日、李鴻章は、第三回講和会談終了後、帰途につく途中で、小山六之助(豊太郎)に襲撃され、負傷しました。この結果、日本は苦境に立たされました。
 3月26日、混成1個師団は、澎湖島を占領しました。
 3月27日、李鴻章が負傷したので、明治天皇は無条件休戦を勅許しました。
 3月30日、台湾・澎湖列島を除いて、日清休戦協定が調印されました。
 4月8日、ロシアは、イギリス・ドイツ両国に対し、遼東半島の日本への割譲に関し、共同干渉を提案しました。イギリスはこの提案を拒否し、ドイツは了承しました。
 4月16日、ロシアは、御前会議で、対日干渉を決定しました。ドイツのウィルヘルム2世は、ロシアのニコライ2世にロシアの極東政策支持の書簡を送りました。
 4月17日、日清講和条約(下関条約)が調印されました。その内容は、次の通りです。
(1)朝鮮の独立を承認する
(2)遼東半島台湾澎湖列島の割譲を認める。
(3)沙市重慶杭州蘇州の4港を開港・開市し、日本の工業企業権を確立する。
(3)賠償金2億両を支払う
(4)欧米並みの通商条約を締結する。
(5)条約履行の担保として威海衛を占領する。
 4月23日、在京のドイツフランスロシア各国公使は、外務省に外務次官を訪ね「日本が遼東半島を所有することは、東洋永遠の平和に害があるから速やかにこれを放棄すべきである」と勧告しました。ついで清国政府もこの干渉を口実に講和条約の批准延期を要求してきました。東洋の利害関係が少ないドイツにとって、ロシア・フランス2国に接近し、ロシアの勢力を欧州から極東に向ける必要があったからです。これを三国干渉といいます。
 4月24日、広島の大本営で、三国干渉に関し、御前会議が開かれました。その結果、列国会議召集により処理する方針を決定しました。
 4月29日、イギリス外相は、三国干渉に関し日本に助力できない旨、駐英公使加藤高明に通告しました。
 4月30日、閣議は、三国干渉を部分的に受け入れ、金州庁を除く遼東半島を清国に返還する方針を決定し、3国駐在公使に電訓しました。
 5月3日、ロシア外相は、駐露公使の西徳二郎に対し、「日本の旅順所有に不満である」と通告しました。
 5月5日、閣議は、遼東半島の全面放棄を決定し、その旨を3国に通告しました。
 5月10日、海軍大将の樺山資紀台湾総督に任命しました。
 5月25日、閣議は、朝鮮の独立を永続させるため列国と協同し、日本との関係は条約上の権利に基づかせるようにする方針を決定しました。
 5月25日、台湾割譲に反対した台湾在住清国人が反乱し、台湾巡撫の唐景松を総統として台湾民主国を建国しました。
 6月4日、閣議は、「将来の対朝鮮政策は、なるべく干渉をやめ自立させる方針をとること」を決定しました。
 6月7日、日本軍は、台湾に上陸し、台北を占領しました。その後、唐景松は中国に亡命しました。
 6月8日、日露通商航海条約・付属議定書を調印しました。
 7月6日、閔妃らは、ロシア公使と結んでクーデタを決行し、親日派を追放し、親露派を登用しました。
 8月6日、陸軍省は、台湾総督府条例を制定し、樺山資紀台湾総督は、台湾で軍政を開始しました。
 8月17日、宮中顧問官の三浦悟楼は、朝鮮駐在公使に任命されました。
 10月8日、京城で、日本人壮士・軍隊は、大院君を擁してクーデタをおこし、閔妃を殺害しました。
 10月17日、閔妃暗殺事件に関し、三浦悟楼に帰国を命じ、後任に小村寿太郎を任命しました。
 10月21日、台湾民主国の南部防衛の首領劉永副は厦門に逃走し、日本軍は、台湾を無血占領しました。
 11月8日、遼東半島還付条約を調印しました。その内容は、遼東半島を還付する代償として3000万両を支払うというものです。
 1896(明治29)年4月、日独通商航海条約・付属議定書を調印しました。
 8月、日仏通商航海条約・付属議定書を調印しました。
 この項は、『近代日本史総合年表』『日本合戦全集』などを参考にしました。
準備して臨んだ日清戦争
 既に、明治12年には、参謀本部は、清国の兵制・軍備・地理などを調査するために、10人以上の将校を、中国に派遣しています。当然、兵隊の姿でスパイ活動をすれば、殺害されます。修行僧として調査活動に専念しました。
 日本が動員できる軍艦は28隻(59,000トン)に対し、清国の軍艦は82隻(85,000トン)です。
 日本の陸軍が動員できる兵隊は12万3000人に対し、清国陸軍は35万人です。
 彼らは、明治27年には、武器・軍艦でも、兵士の士気においても、清国には勝てるという報告を出しています。
 海軍については、中国の軍艦(定遠・鎮遠)は大筒ですが、大砲を発射した後は甲板が揺れ、再び、装填するまでの間、空白の時間があることが分かりました。そこで、日本海軍は、オランダに特注して、小回りの聞く軍艦を購入しました。
 陸軍については、李鴻章率いる北洋軍3万人と東北三省の練軍5000人は精鋭部隊でしたが、主力である満州族の世襲軍である八旗・漢人の軍は、弓・太刀が中心の旧式部隊でした。日本陸軍は、村田経芳が開発した歩兵銃で訓練を受けていました。
 宣戦布告前に戦闘がありました。これを豊島沖の海戦といいます。
 7月23日に佐世保を出港した連合艦隊の第1遊撃隊(司令官は坪井航三少将で、海軍大学校長)の「吉野」・「浪速」・「秋津島」は、25日に豊島沖で清国軍艦の「済遠」・「広乙」と遭遇しました。未だ宣戦は布告されていなかったので、外国軍艦に遭遇したときにする敬礼の準備をしていた時、「済遠」が「吉野」に発砲しました。日本艦隊が応戦すると、「済遠」は西方に敗走しました。
 「吉野」・「浪速」が「済遠」を追撃していると、清国軍艦の「操江」とイギリス商船の「高陞号」と遭遇しました。「高陞号」の清国兵1200人が抵抗したので、「浪速」艦長の東郷平八郎大佐はイギリス船の「高陞号」に停船を命じ、清国兵を捕虜とし、「高陞号」を撃沈しました。
 東郷平八郎は、事前に海軍省から「此汽船英国商船旗ヲ掲ゲ支邦兵ヲ運搬セハ砲撃ヲ為サス宜シク他ノ手段ヲ採リ兵員捕獲ヲ為スヘシ注意迄申送ル」という指示を受けていました。しかし撃沈したので、伊藤博文首相は「日清間のトラブルに列強が介入してこないよう慎重に事を進めてきたのに、東郷というバカ者によって水泡に帰した」と激怒しました。
 しかし、イギリスの国際法の権威者であるホーランド博士が「東郷の措置は、国際法に叶ったものだ」と新聞に公表しました。この結果、東郷平八郎の名が日本中に知れ渡りました。
 牙山への増援部隊を乗せた「高陞号」の撃沈は、陸軍の成歓・牙山作戦に大きく貢献しました。
 「済遠」に大損害を与え、「操江」は捕獲し、「広乙」は座礁しました。
 こうして、日本最初の海戦は、日本の大勝利に終わりました。
(1)坪井司令官は「午前七時五分敵艦ト相近ツク殆ト三千メートル許リ二シテ我ヨリ発砲ヲ始ム」という豊島沖海戦の報告書を提出しています。
(2)しかし、「此電文ノ字句ハ不徹底ナレバ宜シク補修シテ之ヲ配布スヘシ」と清国軍艦済遠からの先制攻撃であったように修正されました。
(3)そして、陸奥宗光外相から伊藤博文首相に宛てた公文書には「貴国(清国)軍艦ヨリ首トシテ先ツ帝国軍艦二向ケテ戦端ヲ開カレタルモノニシテ」となっています。正義の戦いに、相手が先でなければならなかったのです。
 朝鮮半島の平壌は、日清にとって、制海権を握る大切な拠点でした。平壌の戦いです。
 平壌付近には、北洋大臣の李鴻章の計画により、直隷(華北)と満州ら本格的な正規軍の集中が行われました。↓の数は1万5000人でした。平壌の清国軍は、専守防禦の陣を布きました。
 日本の大島旅団は、大同江の南岸から攻めましたが、地形の不利と、頑強な精鋭部隊の反撃にあい、牽制の任務を果たして退却しました。
 9月15日、第5師団長野津道貫中将は、一斉に攻撃しました。猛将佐藤正大佐は、敵の背後突きました。その一角に玄武門(北門)がありました。原田重吉一等卒らは、12メートルの城壁をよじ登り、そこから城内へ飛び降りて門扉を開きました。これが「玄武門一番乗り」のエピソードです。
 日没近くに、清国軍は、白旗を掲げ翌日の開城を約束し停戦となりました。その後、清国軍は、風雨と夜陰に紛れて逃走したので、日本軍は、平壌城を占領しました。
 増援部隊を仁川港に送りには、黄海の制海権が必要で、そのためには、清国艦隊を撃破する必要がありました。それが黄海海戦です。
 宣戦布告の翌日(8月2日)、連合艦隊司令長官の伊藤祐亨中将に清国艦隊撃滅の命令が出ました。
 伊藤祐亨中将は、偵察を出しましたが、清国艦隊を発見できないでいました。
 他方、提督の丁女昌が率いる清国艦隊は、威海衛を根拠地とし、東洋一という30センチの巨砲をもつ「定遠」・「鎮遠」を中核にしていましたが、もっぱら渤海湾の警戒と兵船輸送の護衛を任としていました。
 9月15日、この情報を入手した伊藤祐亨中将は、大同江付近に進みました。
 9月17日、伊藤祐亨中将は、海洋島沖から大孤山沖に向かっていました。伊藤祐亨中将が率いる旗艦の「松島」と「千代田」・「厳島」・「橋立」・「比叡」・「扶桑」、坪井航三少将が率いる第1遊撃隊の「吉野」・「高千穂」・「秋津洲」・「浪速」、樺山資紀軍令部長の「西京丸」・砲艦「赤城」らが単縦陣(一列縦隊)を形成して突進しました。
 丁女昌提督が率いる清国艦隊は、中央に「定遠」「鎮遠」を配し、左右に各4隻を配する後翼単梯陣形(三角隊形)で、艦首砲をふりかざし、昔ながらに艦首の水面下に突き出した衝角で、日本艦隊の側面に衝突するように突進してきました。
 日本側は単縦陣(一列縦隊)を崩さず、敵の正面を右に見て、高速で駆け抜けました。
 12時50分、距離6000メートルで旗艦「定遠」が「吉野」を砲撃しました。それを合図に清国艦隊が一斉に砲撃しました。次の砲撃を準備している間に、速度に勝る日本艦隊は、単縦陣(一列縦隊)で、敵陣形の周りを旋回しつつ、相手に横腹を見せながら3000メートルに踏み込んで、清国艦隊の右翼に、12センチの速射砲を浴びせました。
 清国艦隊の右翼が崩れて、「揚威」「超勇」ら3隻が炎上しました。左翼の3隻は、速力の遅い「赤城」を1時間近く追います。孤立した「定遠」「鎮遠」は、日本艦隊の10隻から、集中砲火を浴び、「定遠」は159発を被弾し、「鎮遠」は220発を被弾しました。
 小艦「比叡」は、敵中突破し、九死に一生を得ました。速力の遅い「赤城」も、敵艦3隻に300メートルまで追い込まれた時、艦尾砲から放った一弾が「来遠」に命中し、炎上した間に、危地を脱しました。樺山資紀軍令部長が乗っている「西京丸」は、敵の水雷艇から40メートルの距離で魚雷3本を打ち込まれましたが、魚雷が船底を通過したので助かりました。
 4時半ほど経った日没頃、清国艦隊の「定遠」「鎮遠」は、沈没3隻・遁走6隻以外の艦をまとめて旅順口に引き上げました。日本の沈没はゼロでした。
 単縦隊・速射砲による単位時間の打撃という戦法を採用した、日本海軍の海戦初勝利でした。
 「鎮遠」に乗り込んでいた清国海軍の顧問武官であるアメリカ人マッギフィン少佐は、「日本海軍は、終始、単縦陣を守り、快速を利して有利なる形において攻撃を反復したのは驚嘆に値する」と述べています。
 日清戦争の損害は、死者・廃疾者1万7000人、馬1万1500頭、軍費2億47万円です。武器が最新になればなるほど、被害が多くなります。
 下関の春帆楼で日清講和条約(下関条約)が締結され、賠償金2億両(日本円にして3億1000万円)を手に入れました。余り知られていませんが、遼東半島を返還した代償に、清国は3000万両(日本円にして5000万円)を受け取っています。軍費として費やした額です。日本国民は、被害より、「戦争は、勝てば儲かる」ことを知りました。
 この春帆楼にも泊まってきました。今でも高級旅館として、最高の「フク」(フグは不遇を連想させるので使わない)料理を食べさせてくれます。しかし、高級旅館の2〜3倍の宿泊費ですから、くれぐれもご注意を!
 「臥薪嘗胆」とは、薪の上で臥す(うつぶせになる)と痛くて寝れない。胆(きも)を嘗(なめる)と苦くて食べられない。この言葉は、「呉王の夫差が、父の敵である越王の勾践に対するあだうちの志を忘れないために、薪の上に寝て身を苦しめ、夫差に敗れた勾践があだうちの志を忘れないために胆をなめて身を苦しめた」という故事から来ています。
 徳富蘇峰は、遼東半島の石を懐に入れて持ち帰り、「武力がなければ正義はないのか」と嘆いたといいます。
 「臥薪嘗胆」は、国民の合言葉となって、ロシアに対する敵愾心が燃え上がりました。国民は、ロシアに対抗できる軍備拡張を支持しました。その結果、軍事費の全予算に占める割合は、明治26年の32%から明治31年の56%に膨張しています。陸軍師団は、明治28年の7個から明治38年の13個にほぼ倍増しています。
 軍事費が増大することは、民政費(学校・病院・道路など)が減少します。それでも国民は、敵愾心を燃やしました。

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