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エピソード

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中国分割U(北京議定書、日露協商論、日英同盟論、非戦論)
 1900(明治33)年10月伊藤博文は、総理大臣に就任しました。これを@10第四次伊藤博文内閣といいます。
 1901(明治34)年1月7日、ロシア公使は、列国共同保証の下に勧告の中立化を提案しました。
 2月19日、衆議院は、増税諸法案を可決しましたが、貴族院で問題化しました。
 1月23日、駐露公使の珍田捨巳は、満州からのロシア軍撤退が先決と回答しました。
 1月26日、政府は、衆議院に北清事変費・建艦費補充などのための増税諸法案(砂糖消費税法・麦酒税法・酒税法)を提出しました。
 2月3日、内田良平が主幹する黒竜会が発足しました。
 2月13日、加藤高明外相は、清国公使に、北清事変処理につきロシアに特殊の権益を与えないように勧告しまました。
 2月16日、ロシアは、清国に満州撤退条件として、満州・蒙古・中央アジアにおける権益の独占と北京への鉄道敷設権などを要求した協約案を提示しました。
 2月24日、日本・イギリス・アメリカ。ドイツ・オーストリアはロシアの対清協約案に不満を表明しました。
 3月、ドイツ駐英代理大使は、駐英公使林薫に日英独3国同盟を提唱しました。これが日英同盟交渉の端緒です。
 4月19日、北京の列国公使団は、清国に義和団事件賠償総額4億5000万円を要求し、清国は受諾しました。
 4月24日、山県有朋は、伊藤博文首相に「東洋同盟論」を送り、日英独3国同盟の推進を建言しました。
 6月2日、桂太郎が総理大臣に就任しました。これを@11桂太郎内閣といいます。外相は小村寿太郎です。
 7月31日、列国の連合軍は、北京より撤退を開始しました(9月17日撤退完了)。
 9月7日、義和団事件最終議定書辛丑和約)に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)日本・アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・ドイツ・オーストリア・イタリア・ベルギー・スペイン・オランダ11カ国と清国全権慶親王・李鴻章の間で調印しました。
(2)清国は、賠償金4億5000万円海関両を39年分割して支払う。
(3)太沽砲台撤去・北京公使館区の各国軍隊駐留などを承認する。
 9月18日、伊藤博文は、ロシアを訪問し、日露協定交渉の目的をもって、横浜を出発しました。
 11月16日、駐英林薫公使は、イギリス外相と公式の同盟交渉に入り、イギリス外相は、同盟条約案を林薫公使に手渡しました。
 12月2日、伊藤博文は、ロシア外相と日露協定につき交渉を開始しました。
 12月4日、伊藤博文は、朝鮮についての日露協定案に関する覚書をロシア外相に提出しました。
 12月6日、伊藤博文は、ベルリンより桂太郎首相に日露協定を先決とし、日英同盟締結の延期を勧告しましたが、政府は同調しませんでした。
 12月7日、桂太郎首相・小村寿太郎外相は、元老会議に出席し、日英同盟修正案を可決しました。その後、明治天皇より裁可されました。 
 12月23日、伊藤博文は、ロシア外相に日露協定の交渉打ち切りを通告しました。
 1902(明治35)年1月30日、イギリスは、日英同盟協約に調印しました。イギリスの「栄光ある孤立」の終焉です。
 1月、ロシアのシベリア鉄道は、ウラジオストク・ハバロフスク間を開通させました。
 4月8日、ロシアと清国は、満州撤兵に関する協定(18ヶ月以内に撤兵)に調印しました。しかし、ロシアは、第1期は履行しましたが、第2期は履行しませんでした。
 1903(明治35)年4月18日、ロシアは、清国に満州撤兵条件として7項目の要求を提出しました。
 4月21日、桂太郎首相・小村寿太郎外相・伊藤博文・山県有朋らは京都で、対露策を協議しました。
 4月27日、清国は、ロシアの要求を拒絶し、満州撤兵に関する協定(18ヶ月以内に撤兵)の履行を要請しました。
 5月、日英同盟を知ったロシア軍は、鴨緑江を越えて竜岩浦に至り、軍事根拠地の建設を開始しました。
 6月10日、東京帝国大学法科大学教授の戸水寛人小野塚喜平次富井政章ら7博士は、「満韓交換の対露方針に反対」の建議書を政府に提出しました。これを『東京朝日新聞』に公表しました。これを7博士事件といいます。
 6月12日、ロシア陸相のクロパトキンは、旅順への途中、東京の桂太郎首相と会談しました。
 6月23日、御前会議を開き、満韓問題に関しロシアとの交渉開始および協定案を決定しました。
 6月、内村鑑三は、『万朝報』を通じて、日露非開戦・戦争絶対反対を主張しました。
 7月3日、対露交渉につきイギリス政府の了解を求めました。
 7月20日、ロシアは、韓国の鴨緑江森林監督の逍と竜岩浦土地租借契約を締結しました。
 8月9日、頭山満神鞭知常佐々友房らは、対露同志会を結成し、ロシアの満州撤兵要求を決議しました。
 8月12日、ロシアは、旅順に極東総督府を設置し、関東軍司令官アレクセーエフを総督に任命しました。
 8月12日、駐露公使の栗野慎一郎は、協定案をロシア外相に提出しました。
 8月23日、ロシア外相は、駐露公使の栗野慎一郎に対し、日露交渉地を東京に移すことを提議しました。
 8月29日、満州・朝鮮への武力進出を狙うベゾブラーゾフ派の陰謀で、ロシア蔵相のウィッテが失脚しました。
 10月3日、ロシア駐日公使のローゼンは、小村寿太郎外相に、ロシア側の協定対案を提出しました。
 10月14日、小村寿太郎外相は、修正案を、ロシア駐日公使のローゼンに提出しました。
 10月8日、ロシア軍は、奉天省城を占領しました。
 10月8日、社会主義者堺利彦木下尚江らは、神田青年館で、反戦演説会を開きました。
 10月12日、内村鑑三と幸徳秋水堺利彦は、それぞれ退社の辞を述べ、開戦論に転じた万朝報社を去りました。
 11月15日、幸徳秋水・堺利彦らは、平民社を結成し、週刊『平民新聞』を創刊し、反戦論と社会主義を唱道しました。
 12月11日、ロシア駐日公使のローゼンは、日本側修正案に対し、ロシア側の対案を提出しました。
 12月21日、小村寿太郎外相は、駐露公使の栗野慎一郎に、ロシア政府に修正条項を提示し、再考を求めるよう訓令を出しました。
 12月28日、戦時大本営条例を改正し、陸軍参謀総長と海軍軍令部長を対等としました。日清戦争の時、海軍軍令部は、陸軍参謀総長の下に従属しており、戦後、海軍から不満が出ていたので、対等になるよう、改正しました。
 12月28日、東郷平八郎中将を司令官に、第一・第二艦隊を合わせて連合艦隊を編成しました。
 12月30日、参謀本部と軍令部の首脳が会議を開き、開戦時の陸海軍共同作戦計画を決定しました。
 12月31日、小村寿太郎外相は、駐英林薫公使に、対露開戦前の財政的援助をイギリス政府に要請するよう訓令しました。
 1904(明治37)年1月、イギリス外相は、財政に余裕がないと回答しました。
 9月、与謝野晶子は、「君死に給ふこと勿れ」を『明星』に発表しました。
 1905(明治38)年1月、大塚楠緒子は、「お百度詣で」を『太陽』に発表しました。
 この項は、『近代日本史総合年表』などを参考にしました。
日露協商論と日英同盟論、非戦・反戦
 日本には、ロシアと提携するか、イギリスと手を結ぶかの選択の余地がありました。
 上記で見たように、ロシアは実質的に満州を軍事占領しています。この事態のなかで、武力衝突を避ける方法として考え出されたのが、「満韓交換論」です。ロシアは、「日本が朝鮮を自由にすることを認める」、日本は「ロシアが満州を自由にすることを認める」という現実的な選択でした。伊藤博文は「日本はロシアと戦って勝つ自信はない。朝鮮問題を解決するには、ロシアと直接交渉して、協定を結んだ方が得策である」と主張し、井上馨も支持しました。
 他方、加藤高明外相は、駐英公使だったころから日英同盟を主張していました。たまたま、ドイツの駐英大使であるエッカルドスタインが日独英の三国同盟を提案しました。
 ロシアの満州占領は、中国において優越していたイギリスの脅威であり、日本の利害と一致していました。
 ドイツは、ロシアの視点をバルカンから極東に向けさせるため、日露対立を煽る必要がありました。
 政府は、駐英公使の林薫に、特にイギリスとの交渉を求めたので、ドイツは手を引きました。
 山県有朋は「中国での通商の利益を占め、鉱山・鉄道の実権を握るためには、ロシアと反目してもイギリスと結んだ方がよい」と主張し、桂太郎首相や小村寿太郎外相らがこれを支持しました。
 伊藤博文が日露協商を進めると、あせったイギリスは、早期に、日英同盟に調印しました。その結果、ロシアは日本との戦争を覚悟し、日本もロシアとの戦争を覚悟して、その準備を始めました。
 こうした動きを尻押ししたのが、世論でした。特に、東大の7博士が「主戦論」を唱えると、権威に弱い庶民は「東大の先生が戦争を主張するんだから間違いなかろう」と一気に盛り上がりました。陸羯南の『日本』や田口卯吉の『東京経済雑誌』が先頭に立って主戦論を煽りました。少数派の『万朝報』も非戦論から主戦論に転向しました。 
 非戦論と反戦論はどう違うのでしょうか。字が違うから、当然意味が違います。「非」は羽が左と右とにそむいたさまを描いたもので、左右に払いのけるという意味を表します。「反」は「厂+又(て)」で、布または薄い板を手で押して、そらせた姿で、そったものはもとにかえるという意味を表します。字源的には、非戦は「戦わない」という弱い意味です。反戦は「戦いに反対する」という強い意味です。
 人道主義者は、「自分も人間、相手も人間、神の前では人間は全て命を落としてはならない」と主張します。
 社会主義者は、「日本の兵隊も労働者か農民、ロシアの兵隊も労働者か農民、世界の労働者と農民は、団結しなければないらない」と主張します。
 ロマン派の与謝野晶子は、弟に対して、「父や母は、他人を殺すためにお前を育てたのではない」と主張します。
 大塚楠緒子は、戦地の夫(大塚保治)に対して、「一と足ふみて夫思ひ ふたあし国を思へども 三足ふたたび夫おもふ 女心に咎ありや 日の本の国は世界にただ一つ …御国とわが夫といづれ重しととはれなば ただ答へずに泣かんのみ」と詠んでいます。
 非戦・反戦・厭戦を主張したり、支持したりする人は、実は、ごく少数なのです。
 熱気が冷めてみると、戦争による犠牲は、死傷者とか重税とか、どーんと庶民に襲いかかることが分かってくるんですが…。また、戦争は忘れた頃にやってくる。

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