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エピソード

201_02

桂園時代(桂太郎、大逆事件、工場法)
 1908(明治41)年1月14日、蔵相の阪谷芳郎・逓相の山県伊三郎は、鉄道建設改良費予算問題に関し、辞職しました。首相の西園寺公望も辞表を提出しましたが、却下されました。
 1月21日、政府は、増税諸法案(酒造税・砂糖消費税増徴案と石油消費税新設案)を衆議院に提出しました。
 1月23日、衆議院は、増税案に対する内閣不信任案を、賛成168・反対177で否決しました。その結果、増税案は可決・公布されました。
 5月15日、*10衆議院議員総選挙が行われました。政友会187人、憲政本党70人、大同倶楽部29人、猶興会29人でした。政友会が初めて絶対多数を獲得しました。
 6月22日、荒畑寒村らは、山口孤剣出獄歓迎会を開きました。大杉栄や荒畑寒村らは、酔った勢いで、「無政府共産」などと書いた赤旗を振り回し、戸外に飛び出したところ、警察官と衝突しました。大杉栄・荒畑寒村・堺利彦山川均らが逮捕されました。これを赤旗事件といいます。
 6月25日、山県有朋は、明治天皇に、西園寺内閣の社会主義者取締の不完全なことを上奏し、内相の原敬も上奏しました。
 6月27日、西園寺公望首相は原敬内相・松田正久蔵相を招いて、病気を理由に辞職を告げました。
 7月4日、西園寺内閣は、総辞職しました。
 7月14日、@13桂太郎内閣が誕生しました。
 8月14日、赤旗事件の被告に判決が下されました。大杉栄は重禁固2年半、堺利彦と山川均はが重禁固2年、荒畑寒村は重禁固1年半でした。桂内閣の社会主義に対する傾向が読み取れます。
 10月13日、戊申詔書を発布しました。その内容は、次の通りです。
(1)国民の間に芽生えた自由主義的傾向を思想・風紀の悪化と規定し、これを是正する。
(2)節約と勤勉による国力の増強の重要性を強調する。その内容は、次の通りです。
 10月13日、戊申詔書とセットで出されたのが、地方改良運動です。
(1)内務省が主導し、町村の租税負担能力を強化する。
(2)そのために、国家の基礎である村落共同体の秩序を再編成し、家族主義を強調する。
(3)従来の青年会を、旧村落から町村ごとに再編し、内務省・文部省との関係を強化する。
(4)町村ごとの在郷軍人会の上部団体として、帝国在郷軍人会を設立する。
 12月25日、第25通常議会が開かれました。これを第25議会といいます。
 1909(明治42)年1月29日、桂太郎首相は、政友会総裁の西園寺公望と会見し、政府と政友会の妥協が成立しました。
 4月11日、輸入原料砂糖戻税法案をめぐり、贈収賄事件が発覚し、大日本製糖の重役や衆議院議員24人が逮捕され、23人が有罪となりました。これを日糖疑獄事件といいます。
 5月6日、新聞紙条例を廃止し、新聞紙法を公布しました。その内容は、次の通りです。
(1)発売頒布禁止の行政処分を復活させる。
(2)違反者には、体刑を与える。
 10月26日、伊藤博文暗殺事件がおこりました。
 11月17日、山県有朋が枢密院議長に就任しました。
 11月、幸徳秋水の家に出入りしていた菅野スガ宮下太吉ら4人は、天皇暗殺計画を煉り、爆弾の製造に取り組みました。
 12月24日、第26通常議会が開かれました。これを第26議会といいます。
 1910(明治43)年2月8日、政府と政友会が妥協し、政府は地租を8厘下げ、政友会は官吏の増俸25%を認めました。
 3月1日、大同倶楽部戊辰倶楽部の一部が合同し、中央倶楽部を結成しました(代議士50人)。
 3月13日、憲政本党は又新会無名会・戊辰倶楽部の一部と合同し、立憲国民党を結成しました(代議士92人)。
 5月25日、長野県警は、宮下太吉を爆発物製造の嫌疑で逮捕しました。これが大逆事件検挙の始まりです。
 6月1日、幸徳秋水を湯河原で逮捕しました。以後、容疑者が大量に逮捕されました。堺利彦・山川均・荒畑寒村らは、赤旗事件で投獄されていたので、難を免れたといいます。
 7月4日、第二回日露協約に調印しました。
 8月22日、韓国併合に関する日韓条約に調印しました。これを日韓併合条約といいます。
 12月6日、フランスの社会主義者は、大逆事件に抗議してパリの日本大使館にデモを行いました。
 12月10日、大審院は、幸徳秋水ら26人に対する大逆事件第一回公判を非公開で行いました。
 12月23日、第27通常議会が開かれました。これを第27議会といいます。
 1911(明治44)年1月18日、大審院は、幸徳秋水ら大逆事件被告24人に死刑判決を申し渡しました。
 1月19日、明治天皇の恩赦の形で、12人は無期懲役に減刑、2人は長期の刑が下されました。
 1月24日、幸徳秋水ら12人は、死刑が執行されました。その結果、社会主義者は冬の時代を迎えました。
 1月29日、桂太郎首相は、政友会総裁の西園寺公望と会談しました。その結果、政府と政友会の提携が成立し、「情意投合」を公表しました。
 1月、大逆事件の死刑執行に関し、各国社会主義者は、日本在外公館に抗議しました。
 3月11日、衆議院は、松本君平らが提出した普選法案を可決しましたが、貴族院が否決しました。
 3月29日、日本最初の労働立法である工場法が公布されました。その内容は、次の通りです。
(1)12歳未満の就業を禁止する。
(2)15歳未満及び女子に対する1日12時間以上の就業と深夜業を禁する。
(3)休日は月2回を必要とする。
(4)但し、15人未満の工場は除外し、当分の間は14時間労働・深夜業を認める。
 7月13日、第三回日英同盟協約に調印しました。
 8月25日、桂太郎首相は、政綱実行の一段落を期として辞表を提出し、後任首相に西園寺公望を推薦しました。
 8月30日、@14西園寺公望内閣が誕生しました。内相は原敬です。
 11月2日、工場法の施行が延期されました。農商務省は、明治45年度予算に約30万円の工場法施行経費を計上しましたが、大蔵省が全額削除と査定したため、工場法の施行が延期となったのです。
 12月27日、第28通常議会が開かれました。これを第28議会といいます。
 1916(大正5年)年9月1日、工場法が施行されました。条件付きで実施を15年間猶予する例外規定を設ける。
 1929(昭和4年)年7月1日、改正工場法が施行され、15歳未満と女子の深夜業が完全に禁止されました。
 この項は、『近代日本史総合年表』などを参考にしました。
工場法、労働時間と自由時間
 私は、日本史の授業の最初の方で、「日本史は、日本の歴史です。日本史は、社会科の1つです。社会科の社会とは何ですか」と問うことにしています。
 次に、社会の字源的解釈から説明します。社会の「社」は鳥居と土、つまり神社です。「会」は建物の下で人が云う、1人では喋れないので、たくさんの人が話す意味です。そこから、祭りのような日に、神社でたくさんの人が集まる状況を社会と定義します。自分の部屋に閉じこもっておればおきないことも、たくさんに人が集まれば、様々の現象がおこります。それを社会現象・問題といいます。
 たくさん人が集まることで起こる現象の歩みが日本史です。
 多くの労働者が工場に集められました。そこで起きた問題が社会問題です。
 明治43年に成立した工場法を見てみましょう。「12歳未満の就業を禁止する」とあるのは、12歳未満の子供(今の小学生)を使用していたのです。
 「15歳未満及び女子に対する1日12時間以上の就業と深夜業を禁する」とあります。ということは、中学生以下の子供や女子を、朝の部(8:00〜18:00)と夜の部(18:00〜8:00)の二交替で使用していたのです。
 「休日は月2回を必要とする」とあります。昔は、薮入り(盆)と正月の2回しか休みがありませんでした。
 当然子供ですから、体力がなく、病気になったりします。家恋しさに脱走した子供もいたでしょう。つらければ、余裕がなくて、弱い者に、イジメが集中します。これを社会問題といいます。
 経営者の中には、「労働者は気を許すと、すぐサボる。厳しく監視する」という人もいます。
 中には、「気持ちよく働いたほうが、能率が上がる」と考え、労働時間を短く、休憩をゆったり与え、給料もたっぷり与える経営者もいます。
 私は、経営者ではないので、どちらがいいか、分かりません。しかし、監視されると、監視を目を盗んで(抵抗して)、心身を休めるとともに、気持ちよく働かないでしょう。
 他方、経営者の自分に対する思いやりが分かれば、気持ちよく、しかも頑張るでしょう。この気持ちの延長が、工場法や労働基本法の誕生ではないでしょうか。
 在職中には、中国に3回、ロンドン・パリ・ローマに各1回、定年後はスペイン・オーストリアに各1回の海外旅行をしました。あまり多い方ではありませんが、印象に残っているのが、労働についての考えの差です。
 24時間営業のコンビニはありません。日曜日は百貨店はお休みです。土曜日も夕方5時に終わります。全国が同じサイクルであれば、その窮屈な時間内で処理します。それよりも、自分たちに自由な時間をたっぷりとっていることにとても好感を持ちました。
 他方、日本では、24時間営業のコンビニが満開です。いつでも好きな時間に買える素晴らしさがあります。しかし、そこで働いている人の自由や家族との団欒、24時間対抗できない地元商店の閉鎖など、たくさんの弊害もあります。 日本人は本当に勤勉です。「よく働いてよく働く」という意味での勤勉です。「よく働いてよく遊ぶ」という意味での勤勉でなければ、心身疲労で、ダメになります。

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