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エピソード

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三月事件と軍部の台頭、柳条湖事件と満州事変
 私は、従軍した近所の人に戦争の話を聞くのが好きでした。軍隊生活はとても悲惨だったといいます。
「どうして、戦争に反対しなかったのですか」と聞くと、大人たちは、「そんな気持ちはさらさらなかった」というのです。
 当時はとても不思議に思えましたが、歴史を学ぶうちに、徐々に「第一ボタンの掛け間違い」がやがては取り返しのつかない風潮になっていったことを知りました。
 今回は、その辺りに焦点をあててお話したいと思います。
 1924(大正13)年1月7日、@23清浦奎吾内閣が誕生しました。
 1月20日、中国国民党第一回全国代表大会(1全大会)で、連ソ・容共・扶助・工農という中国国民党綱領を採択し、軍閥打倒を目的とする第一次国共合作を発表しました。
 5月31日、中ソ協定が成立し、中ソ両国の外交関係を樹立しました。
 6月11日、@24加藤高明(護憲三派)内閣が誕生しました。
 6月16日、孫文は、黄埔軍官学校を開校し、校長に蒋介石を抜擢しました。また、幹部に国民党代表寥仲ト、政治部主任周恩来、顧問にロシア人ガレンを任命しました。
 9月18日、孫文は、呉佩孚打倒の北伐を宣言しました。これを第二次北伐宣言といいます。
 11月3日、呉佩孚が敗走し、第二次奉直戦争は終了しました。
 11月5日、馮玉祥は、紫禁城からの溥儀追放を命令しました。
 1925(大正14)年7月1日、広東国民政府が成立しました。汪兆銘・寥仲ト・胡漢民・蒋介石ら政治委員16の合議制を採用しました。
 12月23日、郭松齢軍は、張作霖軍に敗北しました。これを郭松齢事件といいます。
 1926(大正15)年1月4日、広東で中国国民党第二回全国代表大会(2全大会)が開かれ、汪兆銘・蒋介石らが実権を掌握し、宣伝部長代理に毛沢東を選出しました。
 1月30日、@25若槻礼次郎内閣が誕生しました。
 3月20日、蒋介石は、戒厳令を公布し、広州を封鎖し、中山艦艦長李之竜・国民革命軍第一軍政治部主任周恩来ら軍隊内の共産党員を逮捕しました。これを中山艦事件といいます。
 7月1日、広東国民政府は、北伐を宣言しました。
 10月10日、北伐軍は、武昌を占領しました。
 1927(昭和元)年2月21日、汪兆銘の武漢国民政府が樹立しました。
 3月15日、金融恐慌がおこりました。
 3月24日、中国革命軍(北伐軍)は、南京入城に際し、日本・イギリス・アメリカなどの領事館に暴行を働き、日本の海軍軍人に対しても無抵抗で武装解除しました。これを南京事件といいます。
 4月6日、幣原喜重郎外相は、駐華公使芳沢謙吉に「南京事件の解決は外交交渉による」と訓令しました。
 4月7日、陸相の宇垣一成は、若槻礼次郎首相に対して、中国の共産派抑圧のため列強と協調して積極策をとるよう申し入れました。
 4月12日、蒋介石は反共クーデタを敢行し共産党幹部を銃殺しました。これが4・12クーデタです。
 4月17日、枢密院は、協調外交の若槻内閣に反発し、台湾銀行救済緊急勅令案を否決しました。
 4月17日、若槻礼次郎内閣が総辞職しました。
 4月18日、蒋介石は、汪兆銘の武漢政府に対抗し、南京国民政府を樹立しました。
 4月20日、@26田中義一(政友会)内閣が誕生しました。田中義一の強硬外交への転換です。
 5月28日、田中義一内閣は、日本人居留民の保護を名目に、山東出兵を声明し、関東軍2000人に出動を命令しました。これを第一次山東出兵といいます。
 6月27日、東京で、東方会議を開催しました。満蒙での日本の権益を死守するという対華の基本政策である「対支政策綱領」を決定しました。つまり、支那本土と満蒙は趣を異なるという根本方針を確立しました。特に、「必要ニ応ジ断乎トシテ自衛」という現地保護方針と「機ヲ逸セズ適当ノ措置ニ出ツルノ覚悟」を必要とするという声明は、東三省の自治・独立を示唆するもので、中国における民族自決・国権回復といずれは衝突する性格のものでした。
 7月7日、田中義一首相兼外相は、「対支政策綱領」を発表し、満州の権益自衛の方針を声明しました。しかし、これは張作霖と利害が対立することになります。
 7月13日、中国共産党中央委員会は、国民政府から退出し、第一次国共合作が終了しました。
 9月6日、汪兆銘の武漢政府は、蒋介石の南京政府に合流しました。主席は蒋介石です。
 11月5日、来日中の蒋介石は、田中首相と会見し、国民政府による中国統一に協力を要請しました。
 1928(昭和3)年2月20日、@第16回総選挙が行われました。これが最初の普通選挙です。
 2月中旬、藤井斉ら海軍の青年将校は、天皇を奉じた国家改造をめざして王師会を結成しました。
 3月15日、日本共産党員が全国的に検挙され、488人が起訴されました。これが3・15事件です。
 4月7日、国民革命軍は、北伐を開始しました。
 4月19日、田中義一内閣は、第二次山東出兵を決定し、第6師団5000人に動員命令を出しました。
 5月3日、山東出兵の日本軍は、済南で、北伐途中の革命軍と衝突しました。これが済南事件です。
 5月10日、国民政府は、日本の山東出兵を国際連盟に提訴しました。
 5月18日、駐華公使の芳沢謙吉は、張作霖に対して、東三省に復帰するように勧告しました。
 5月30日、張作霖は、北京総退却を命令しました。
 6月4日、張作霖は、奉天に引揚げの途中、関東軍の謀略で、列車を爆破されて、死亡しました。
 6月9日、北伐軍(閻錫山軍)は、北京に入城しました。これで北伐戦争が終了しました。
 6月21日、中国側は、張作霖の死亡を公表しました。これを張作霖爆死事件といいます。
 6月29日、田中義一内閣は第55議会で審議未了の治安維持法を、緊急勅令で公布しました。その内容は、死刑・無期懲役を追加し、即日実施されました。
 7月3日、内務省保安課を拡充強化し、未設置の全県警察部に特別高等課設置を公布しました。
 8月27日、不戦条約に調印しました。別名ケロッグ・ブリアン条約といいます。
 10月8日、蒋介石は、国民政府主席に就任しました。
 11月3日、アメリカは、国民政府を正式に承認しました。
 12月20日、イギリスは、国民政府を承認しました。
 12月22日、フランスは、国民政府を承認しました。
 12月29日、張学良は、東三省の易幟を通電し、国民政府に合流しました。この結果、張学良は満鉄に代表される権益を中国へと取り戻そうとする国権回復運動を推進することになりました。
 ここでいう国権とは、中国からすると、次のようになります。
(1)治外法権の撤廃・関税自主権・鉄道権益の回収・租借地の回復・外国軍隊の撤退などをいいます。
(2)実際に張学良が行ったことは、アメリカの資本援助を得て満鉄並行線の建設に着手しました。
 一方、日本からすると、満州は日本の生命線であり、日本の特殊権益地帯です。その理由として、
(1)対ソ戦略拠点であり、石炭・鉄鉱石などの重要な資源の供給地であり、それを機能的に統合するのが満鉄でした。
(2)疲弊した日本の農業移民の受入れ地でもありました。
 しかし、中国が国権回復宣言をしたことにより、
(1)軍部は危機感を強めました。
(2)特に関東軍は、武力によって満州を中国の主権から切離し日本の支配下におこうと計画しました。しかし、この計画は、九カ国条約に違反しています。
 1929(昭和4)年1月25日、中野正剛は、満州某重大事件について、田中首相を追及しました。
 3月5日、衆議院本会議で治安維持法に反対した山本宣冶が刺殺されました。
 4月16日、日本共産党員が全国的検挙され、339人が起訴されました。これが4・16事件です。
 6月26日、枢密院は、留保宣言付で不戦条約を可決しました。
 7月1日、満州某重大事件について、田中首相は昭和天皇に叱責されました。
 7月2日、田中義一内閣が総辞職しました。
 7月2日、@27浜口雄幸(民政党)内閣が誕生しました。第二次幣原外交が始まりました。
 10月24日、ニューヨークのウオール街の株価が大暴落しました。これを暗黒の木曜日といい、アメリカで恐慌がはじまりました。
 11月9日、浜口雄幸内閣はは、前年度比9165万円減という大幅緊縮予算案を決定しました。
10  1930(昭和5)年1月11日、金輸出解禁を実施しました。これを金解禁といいます。
 2月20日、@17回総選挙が行われ、与党の民政党は273人で圧勝しました。
 4月22日、岡田啓介らの努力で、軍部・右翼の反対を抑え、ロンドン海軍軍縮条約に調印しました。
 4月25日、犬養毅鳩山一郎は、ロンドン海軍軍縮条約に関して統帥権干犯問題と追求しました。
 7月、この頃、ドイツの不況が深刻化しました。アメリカの恐慌が世界恐慌に発展して行きました。
 7月、張学良は、満鉄包囲網線の1つとして、葫蘆島の築港工事に着手しました。
 9月下旬、陸軍中佐の橋本欣五郎(31歳)・少佐長勇・少佐田中清らは、桜会を結成して、「我が国の前途に横たわる暗礁を除去せよ」と主張し、国家改造のために武力行使も辞せずとの決議を行いました。この桜会に、小磯国昭軍務局長、二宮治重参謀次長、建川美次第二部長、社会民衆党の赤松克麿、右翼の思想家大川周明らも参加しました。活動資金は、徳川義親が20万円を出資しました。
 10月2日、ロンドン海軍軍縮条約は、昭和天皇の裁可を受けて、批准されました。
 10月、世界恐慌が日本に波及しました。これを昭和恐慌の始まりといいます。
 11月14日、浜口首相は、東京駅頭で右翼団体愛国社の佐郷屋留雄に狙撃され重傷を負いました。
11  1931(昭和6)年3月17日、政党政治に反発する陸軍の橋本欣五郎中佐・長勇少佐・田中清少佐など桜会の一部将校らが軍部クーデタによる軍部内閣の樹立を計画しました。それを小磯国昭軍務局長・参謀本部の建川美次第二部長・参謀本部の重藤千秋支那課長らが支援しました。陸軍次官の杉山元や参謀次長の二宮治重も密かに支持したといいます。
 その計画によると、右翼の大川周明や無産政党を率いる赤松克麿らが1万人のデモ隊を動員して、開催中の第59回帝国議会を包囲し、首相官邸などを襲撃して、戒厳令を出す。そして国会に軍隊を導入して、現内閣を総辞職させ、陸相の宇垣一成を中心にする軍部内閣を樹立しようとするものです。
 この計画は、相互の連絡が不十分で、宇垣一成が消極的となったので、未遂に終わりました。これを三月事件といいます。司法省刑事局の史料によると、「宇垣陸相は始め大川に対して天下の形勢を論じ、一生一度の御奉公がしたい旨の事を言い、政党の腐敗から国民が自暴自棄になって行くから、この際起とうと思う、君もその時は一緒に死んでくれ、と言って改造運動に乗り出す意志をほのめかし、小磯、建川等にも同様の意志を示しながら、その後、政界の有力なる方面から宇垣陸相を首班とする内閣樹立の政治的陰謀が持ちかけられ、これによって憂国の至情よりする改造運動より変心し、政権獲得の後に改造を図る考えとなって、小磯、建川との接触を避け、計画より脱退したといわれる」とあります。宇垣の裏切りが、様々な形で陸軍から復習される原因となります。
 本来ならば、厳正な処分になるはずが、陸軍は、首謀者の中に陸軍首脳部もいたことで、処分も出来ず、逆に緘口令を布いてこの事件を隠蔽しました。
 私は、満州某重大事件が第一ボタンの賭け間違いなら、三月事件は第二ボタンの賭け間違いだと思っています。
12  4月1日、重要産業統制法を公布しました。その内容は、各種重要産業部門におけるカルテル結成を助長し、その生産と価格の制限するという統制経済のさきがけになるものでした。この結果、国家独占資本主義へと日本経済は移行して行きます。
 4月13日、浜口雄幸首相が病状悪化のため、内閣総辞職しました。
 4月14日、@28若槻礼次郎内閣が誕生しました。外相に幣原喜重郎が任命されました。
 5月16日、蒋介石軍20万人は、第二次掃共戦を開始しましたが、紅軍のゲリラ戦により撃退されました。
 5月28日、汪兆銘・李宗仁らは、反蒋連合を結成し、広州に国民政府を樹立しました。これを、蒋介石の南京政府に対して、広東国民政府といいます。
 6月17日、三月事件で首班に目された宇垣一成は、朝鮮総督に任命されました。
 6月、陸軍省・参謀本部の5課長は、「1年の準備後軍事行動を行う」という満蒙問題解決方策の大綱を決定しました。
13  7月、蒋介石軍30万人は、第三次掃共戦を開始しましたが、紅軍のゲリラ戦により撃退されました。
 7月2日、万宝山で、朝鮮人農民と中国農民・警察官が衝突しました。これを万宝山事件といいます。
 8月4日、陸相の南次郎は、軍司令官・師団長会議で、「満蒙問題の積極的解決」を訓示しました。後に軍が外交に関与したとして問題化しました。
 8月17日、北満視察中の中村震太郎太尉が殺害されました。これを中村震太郎大尉殺害事件といいます。
 8月26日、元首相の浜口雄幸(62歳)が亡くなりました。
14  9月18日午後10時30分、中国の内戦状況を分析した関東軍参謀の板垣征四郎大佐・石原莞爾中佐らは、満州占領を企てて、奉天郊外の柳条湖の満鉄線路を爆破しました。しかし、関東軍司令官の本庄繁は、これを「中国軍の所為」として、総攻撃を命じました。これを柳条湖事変といいます。これがきっかけで満州事変が始まりました。
 9月19日、関東軍は、奉天城を占領しました。
 9月19日、奉天総領事の林久治朗は、「今次の事件は軍部の計画的行動である」と幣原外相に報告しました。
 9月21日、中国政府は、柳条湖事件を国際連盟に提訴しました。
 9月21日、イギリスは、禁輸出を再禁止しました。その結果、他の列強も同調しました。
 9月21日、関東軍は、吉林に出動しました。
 9月21日、朝鮮軍司令官の林銑十郎中将は、天皇の奉勅命令を待たずに独断で朝鮮軍を越境して満州に進軍させました。林銑十郎は後に、「越境将軍」と呼ばれるようになります。
 9月24日、政府は、満州事変に関し不拡大方針の第一次声明を発表しました。
 9月30日、国際連盟理事会は、満州事変解決を日中両国に要望する決議案を採択しました。
 9月、イギリスの金本位制停止により、日本の金輸出再禁止を見越して、ドルの為替思惑買いが激化しました。これをドル買いといいます。この実態に、国民の多くは、財閥と政治家の癒着を感じ、政党政治に不満を持つようになります。
15  10月8日、奉天を放棄した張学良は、錦州に拠点を移動しました。そこで、関東軍は、新国家樹立の方針を確認し、関東軍の飛行隊12機は錦州(遼東半島の東の付け根部分)を爆撃しました。
 陸相の南次郎は、首相の若槻礼次郎に、「中国軍の対空砲火を受けたため、止むを得ず取った自衛行為である」と報告しました。
 しかし、関東軍は、「張学良は錦州に多数の兵力を集結させており、放置すれば日本の権益が侵害される」と発表し、取り繕うとする陸相の報告を否定しました。
 10月17日、未遂に終わった三月事件以降、甘い処分に、陸軍内部では、柳条湖事変に呼応して武力による国家改造の気運が盛り上がりました。大川周明・北一輝ら民間人も参加しました。
 橋本欣五郎中佐・長勇少佐・田中清少佐らは、10月21日になると、桜会の将校120人・近衛歩兵10個中隊・抜刀隊10人を率いて、首相官邸で行われている閣議を襲撃し、若槻礼次郎首相・幣原喜重郎
外相らを斬殺し、「錦旗革命本部」と書いた旗を掲げる。その後、閑院宮載仁親王・東郷平八郎・西園寺公望らに急使を派遣し、陸軍中将の荒木貞夫軍部内閣の樹立を計画しました。
 それには、大川周明を蔵相に、橋本欣五郎を内相に、建川美次少将を外相に、北一輝を法相に、長勇を警視総監に、小林省三郎少将を海相にという組閣表もあったといいます。
 しかし、この情報を知った憲兵隊が関係者を逮捕して、この計画も未遂に終わりました。この時の処分も、首謀者の橋本欣五郎中佐は20日の重謹慎、長勇少佐らは重謹慎10日という甘い処分でした。これを錦旗革命事件とか、十月事件といいます。
16  10月18日、陸軍中央部は、関東軍の独走を説得するため、白川義則大将の満州派遣を決定しました。
 10月24日、国際連盟理事会は、日本への11月16日までに満州撤兵を勧告する案を、賛成13、反対1の圧倒的多数で可決しました。
 10月26日、政府は、満州事変に関し撤兵の前提条件の第二次声明を発表しました。
 10月27日、蒋介石の南京政府と汪兆銘の広東政府が、和平予備会議を開きました。
 11月8日、天津で日中両軍が衝突しました。
 11月10日、関東軍の命を受けた奉天特務機関土肥原賢二大佐は、清朝復興を条件に同意した宣統帝溥儀(ラストエンペラー)を天津から脱出させ、関東州旅順に向かいました。
 11月18日、閣議は、満州への軍隊増派を決定しました。
 11月19日、関東軍は、チチハルを占領しました。
 11月26日、天津で日中両軍が再衝突し、関東軍は増援部隊を派遣しました。
 11月27日、中華ソヴィエト共和国臨時政府が樹立されました。これを瑞金政府といいます。主席に毛沢東、副主席に項英らが選出されました。
 12月11日、若槻礼次郎内閣は、新聞や世論も関東軍の行動を支持したので、収拾の自信を失い、足達謙蔵内相の辞職拒否により閣内不統一ということを理由に総辞職しました。
 12月13日、@29犬養毅内閣が誕生しました。政友会内閣です。外相に犬養毅(77歳)が兼任し、蔵相に高橋是清、陸相に荒木貞夫、海相に大角岑生、文相に鳩山一郎が任命されました。これ以降を高橋財政といいます。
 12月13日、犬養内閣は、金輸出再禁止を決定しました。
 12月23日、閑院宮戴仁親王は、参謀総長に就任しました。
 12月28日、関東軍は、錦州に進撃を開始しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
柳条湖事件と満州事変
 1928年12月、父の張作霖を日本人に爆殺された張学良は、蒋介石と手を結び、国民政府の支配下に入りました。張学良は、日本が持つ満州の権益の回収を表明しました。これを国権回復運動といいます。具体的には、張学良は、アメリカの資本援助を得て、満鉄並行線を建設しました。これは、満鉄の独占的権益を打破しようという意図があります。
 他方、日本政府は、満州を日本の生命線(特殊権益地帯)と位置づけており、満鉄がその中心的存在でした。協調外交を推進する若槻首相と幣原外相は、中国の主権を尊重しつつ、日本の権益を守ろうと交渉しましたが、こんな虫のいい話はありません。軍部や右翼は、こんな姿勢を軟弱外交と攻撃しました。 
 現地の軍部である関東軍参謀の石原莞爾は、蒋介石や張学良の動きに対抗して、武力を用いて満州を支配しておこうと考えました。石原莞爾は、1940(昭和15)年に『世界最終戦論』を発表し、「日米両国がやがて世界の最終戦に突入する。そのためにも満蒙を領有する必要がある」と主張しています。もうこの段階でも、そのような考え方が出来ていたのでしょうか。
 当時の新聞には以下のように記録されています。「18日午後10時半、北大営(奉天北方の張学良軍)の西北において暴戻な支那兵が、満鉄線を爆破し、わが守備兵を襲撃したので、わが守備隊は時を移さずこれに応戦し、大砲をもって北大営の支那兵を襲撃し、北大営の一部を占領した」(朝日新聞)。
 この文面を読めば、張学良軍が柳条湖付近の満鉄を爆破し、関東軍を襲撃したので、関東軍は反撃して、張学良支配地を一部占領したとなります。
 しかし、中国政府は、この事実を国際連盟に提訴しています。
 次の史料には、以下のような記述があります。「参謀本部建川(美次少将)部長は18午後1時の列車にて当地に入込みたりとの報あり、軍側にては極秘に附し居るも、右は或は真実なるやに思はれ、また満鉄木村理事の内報に依れば、支那側に破壊せられたると伝へらるる鉄道箇所修理の為、満鉄より線路工夫を派遣せるも、軍は現場に近寄らせしめざる趣にて、今次の事件は全く軍部の計画的行動に出
でたるものと想像せらる」(日本外交文書)。
 爆破直後に、南満洲鉄道の線路工が修理のために現場に入ろうとしたが、関東軍はこれを拒否しています。また、爆破直後に、急行列車「はと」が現場を通過しているので、この爆発が小規模だったことが分かります。でっち上げて攻撃の口実を得ればよかったのです。
 この日本側史料からみても、関東軍の計画的は明瞭です。これを中国側の攻撃だとウソの発表をしています。大本営のウソの発表の根はここに芽生えています。
 事件の翌日(9月19日)、閣議で、陸相の南次郎は「これは関東軍の自衛行為である」と主張しましたが、外相の幣原喜重郎は「外交活動により解決を図りたい」と意見を述べました。
 その結果、「事件の不拡大方針」を決定しましたが、関東軍は、政府の決定を無視して、「自衛」と称して戦線を拡大していきました。シビリアンコントロールが麻痺し、閣議が不一致だったことが分かります。
 関東軍参謀の石原莞爾は、関東軍の幹部に対して、「満蒙は漢民族の領土に非ずして、むしろその関係はわが国と密接であり、…中国人には近代国家を作る能力は無く、そのために苦しんでいる満州3000万民衆を救い、国家を打ち立てるのが、日本の使命だ」と述べています。
 福沢諭吉の脱亜論と似ている論法です。
 満州事変の時も、中国では、資本主義を標榜する広東の国民政府と南京の国民政府が対立し、そこに共産主義を標榜する共産党と内戦状態です。日本の軍部や関東軍は、いつでもそういう状況にあり、そういう状態の中国人を侮っていたのです。
 「相手を知らず、己を知らず、そして何も学ばず」という戦争指導屋に引きずられた日本は、一体どこへいくのでしょうか。
 現在(2006年2月)、トリノで冬のオリンピックが開催されています。日本のTVや新聞は、大々的にメダルを5個以上取ると大騒ぎしていました。私は、長野オリンピックで活躍していた選手が多数含まれていたことで、選手の世代交代が進んでいないから、余り期待できないと思っていました。
 外国のメディアは、日本のメダルを「0」としており、それをTVコメンテーターなどは「ワールドカップで優勝」とか、世界記録保持者とかの実績を主張して、「それはない」と躍起になっていました。
 ところが、ふたを開けると、今日(21日)現在、メダルは「0」です。すると、TVのコメンテーターなどは、「強いプロが参加しないW杯で勝っても強さの証明にはならない」などといいます。
 「相手を知り、己を知れば、何を喋っても間違うことはない」ということです。

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