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エピソード

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満州国建国と日満議定書
 1932(昭和7)年に、満州国が建国され、日本と満州国との間に日満議定書が取り交わされました。日満議定書の前に、関東軍と満州国執政の溥儀と交換された書簡をみると、満州国がどんな意図で建国されたかが分かります。
 ラストエンペラーの宣統帝溥儀は、純粋に皇帝になることを夢見ていたことは事実です。
 1932(昭和7)年1月1日、蒋介石は、汪兆銘と意見が一致し、汪兆銘の広東政府を解消して、新国民政府を樹立しました。
 1月3日、関東軍は、錦州を占領しました。
 1月7日、アメリカの国務長官スティムソンは、門戸開放主義の立場から、日本と中国に対して、「日本の満州侵略による中国の領土・行政の侵害と、パリ不戦条約に違反する一切の取り決めを認めない」と通告しました。これをスティムソン・ドクトリンといいます。中国やイギリスなどヨーロッパ諸国は、消極的ながら賛成しました。 しかし、日本は、「認識不足である」として拒絶しました。
 1月7日、陸軍中央部は、陸軍・海軍・外務3省の協定による支那問題処理方針要綱満州独立の方針)を関東軍の板垣征四郎参謀に指示しました。
 1月8日、朝鮮人の李奉昌は、桜田門外で昭和天皇の馬車に爆弾を投げました。これを桜田門事件といいます。
 1月14日、国際連盟理事会は、イギリス・フランス・イタリア・ドイツ・アメリカの代表の5委員を選出し、その中から、イギリスのリットンlを団長に任命しました。それ以外の委員とは、フランスのクローデル陸軍中将、アメリカのマッコイ陸軍少将、イタリアのアルドロバンディ伯爵、ドイツのハインリッヒ・シュネー博士でした。
 1月18日、日本人僧侶が、上海で、中国人に殺害されました。陸海軍の増派が決定しました。しかし、その後の調査で、陸軍特務機関に教唆された中国人が、犯人と分かりました。
 1月28日、海軍の陸戦隊が、上海で、中国第19路軍と交戦しました。これを上海事変といいます。
 2月2日、第9師団・混成旅団の上海派遣を決定しました。海軍は、上海方面に、司令官の野村吉三郎中将が率いる第3艦隊を編成しました。
 2月5日、関東軍は、ハルビンを占領しました。
 2月18日、張景恵を委員長とする東北行政委員会は、蒋介石の南京国民党政府からの分離独立宣言を宣言しました。
 2月20日、上海に派遣された陸軍は、総攻撃を行いましたが、中国軍の激しい抵抗に合い、戦況は進展しませんでした。
 2月20日、@第18回総選挙が行われました。その結果、政友会が301、民政党が146、無産各派が5人の当選者を出し、与党の政友会が圧勝しました。
 2月23日、陸軍は、司令官の白川義則大将率いる上海派遣軍司令部を編成しました。同時に、第11・第14師団の増派を決定しました。
 2月29日、国際連盟のリットン調査団は、日本にやって来ました。 
 3月1日、世界の目が上海に向いている時、首都長春で、満州国は建国を宣言しました。
 3月9日、ラストエンペラーの宣統帝溥儀は、満州国執政に就任しました。
 3月10日、満州国執政の溥儀から関東軍司令官本庄繁に書簡が送付されました。
(1)満州国の国防は関東軍に委託し、その経費は満州国が負担する。
(2)関東軍が国防上必要とする場合は、既設の鉄道・港湾・水路・航空路の管理と新設の工事については、日本もしくは日本指定の機関に委託する。
(3)日本人を参与として登用する他、中央・地方の官僚にも日本人を登用するが、その人選は関東軍司令官の推薦とし、解職には関東軍司令官の同意が必要とする。
 4月26日、瑞金の駐華ソヴィエト政府は、対日宣戦を布告しました。
 4月29日、朝鮮人伊奉吉は、上海の天長節祝賀会場で爆弾を投げ、上海派遣軍司令官白川義則大将・第3艦隊司令長官野村吉三郎中将・第9師団長植田謙吉中将・駐華公使重光葵らが負傷し、後に、白川大将は亡くなりました。
 5月5日、上海から日中両軍が撤退するという内容の上海停戦協定が調印されました。
 5月12日、関東軍司令官本庄繁から満州国執政の溥儀に書簡が回答されました。その内容は、「満州国執政の溥儀の申し出に異存はありません」というものでした。
 5月15日午後5時半、海軍青年将校と陸軍士官学校生徒らは、満州国の承認を渋る犬養毅首相(78歳)を射殺しました。これを五・一五事件といいます。
 5月26日、@30斉藤実内閣が誕生しました。これを挙国一致内閣といいます。
 6月10日、蒋介石は、廬山会議を開き、第4次掃共作戦と対日妥協政策を決定しました。
 6月14日、衆議院は、満州国承認決議を満場一致で可決しました。
 6月15日、蒋介石軍50万人は、第4次掃共作戦を開始しました。
 7月4日、中国・満州を調査したリットン調査団は、再度日本にやって来ました。
 9月15日、関東軍司令官兼駐満特命全権大使兼関東州長官の武藤信義陸軍大将と 満州国の鄭孝胥国務総理は、日満議定書に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)日本は、満州国が住民の意思で成立した独立の国家である事を確認する。
(2)従来の日中間の条約等の契約による日本の既得権益を承認し尊重する。その中には、関東軍司令官本庄繁と満州国執政の溥儀との間で交わされた秘密の往復書簡が入っていました。
 @満州国の国防は関東軍に委託し、その経費は満州国が負担する。
 A日本人を参与などとして登用するが、その人選は関東軍司令官の推薦と同意がである。
(3)日満の共同防衛のため、日本軍が満州国に駐屯することを認める。
 9月、中国やイギリス・アメリカは、満州国の独立を認めませんでした。
 10月1日、リットン調査団は、日本政府に報告書を通達しました。その内容は、次の通りです。
(1)柳条湖事件及びその後の日本軍の活動は、自衛的行為とは言い難い。
(2)満州国は、地元住民の自発的な意志による独立とは言い難く、その存在自体が日本軍に支えられている。
(3)満州に日本が持つ権益・居住権・商権は尊重されるべきである。
 (1)と(2)では中国側を支持し、(3)では日本側を支持する内容となっています。
 次に日中両国の紛争解決に向けて、次のような提言をしています。
(1)「柳条湖事件以前への回復(中国側の主張)」「満州国の承認(日本側の主張)」は、いずれも問題解決とはならない。
(2)満州には、中国の主権下に自治政府を樹立する。この自治政権は国際連盟が派遣する外国人顧問の指導の下、充分な行政権を持つものとする。
(3)満州は非武装地帯とし、国際連盟の助言を受けた特別警察機構が治安の維持を担う。
(4)日中両国は「不可侵条約」「通商条約」を結ぶ。
 12月8日、松岡洋右は、国際連盟総会で「十字架演説」を行いました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
あっと驚く日満議定書
 3月10日に満州国執政の溥儀より、関東軍司令官の本庄繁に出された書簡は以下の通りです。日本が強制したのではなく、溥儀が自主的に依頼したという形式になっています。
(1)「書簡ヲ以テ啓上候
 此次満洲事変以来貴国ニ於カレテハ満蒙全境ノ治安ヲ維持スル為ニ力ヲ竭サレ為ニ貴国ノ軍隊及人民ニ均シク重大ナル損害ヲ来シタルコトニ対シ本執政ハ深ク感謝ノ意ヲ懐クト共ニ今後弊国ノ安全発展ハ必ス貴国ノ援助指導ニ頼ルヘキヲ確認シ茲ニ左ノ各項ヲ開陳シ貴国ノ允可ヲ求メ候
一、弊国ハ今後ノ国防及治安維持ヲ貴国ニ委託シ其ノ所要経費ハ総テ満洲国ニ於テ之ヲ負担ス
二、弊国ハ貴国軍隊カ国防上必要トスル限リ既設ノ鉄道、港湾、水路、航空路等ノ管理並新路ノ敷設ハ総テ之ヲ貴国又ハ貴国指定ノ機関ニ委託スヘキコトヲ承認ス
三、弊国ハ貴国軍隊カ必要ト認ムル各種ノ施設ニ関シ極力之ヲ援助ス
四、貴国人ニシテ達識名望アル者ヲ弊国参議ニ任シ其ノ他中央及地方各官署ニ貴国人ヲ任用スヘク其ノ選任ハ貴軍司令官ノ推薦ニ依リ其ノ解職ハ同司令官ノ同意ヲ要件トス
 前項ノ規定ニ依リ任命セラルル日本人参議ノ員数及ヒ参議ノ総員数ヲ変更スルニ当リ貴国ノ建議アルニ於テハ両国協議ノ上之レヲ増減スヘキモノトス
五、右各項ノ趣旨及規定ハ将来両国間ニ正式ニ締結スヘキ条約ノ基礎タルヘキモノトス
以上
大日本帝国関東軍司令官 本庄繁殿
  大同元年三月十日
                     溥 儀」
 5月12日に関東軍司令官の本庄繁より、満州国執政の溥儀に出された書簡は以下の通りです。
(2)「三月十日附貴翰正ニ受理ス
当方ニ於テ異存無之ニ付右回答ス
  昭和七年五月十二日
             関東軍司令官 本庄繁
執政 溥儀殿」
 (1)の史料(『日本外交年表竝主要文書』)の主な内容は、以下の通りです。
@満州国の国防・治安維持を日本に委託するので、その費用は満州国が負担する。
A日本の軍隊(ここでは関東軍)が国防上必要とする施設・設備などは全て委託する。
B日本人を満州国の参議などの要職に選任するときは関東軍司令官の同意を得る。
 (2)の史料(『日本外交年表竝主要文書』)については、「日本も依存がありません」というものです。
 子供でも、これは八百長だと分かります。1つか2つ、あるいはもっと、意見の対立があってもよさそうなものです。それがないのは、あらかじめ出されていた日本からの要求を、満州国の執政が全て飲んだという裏取引の証拠です。
 3月10日と5月12日の往復書簡の後、9月15日に日満議定書が調印されました。
 日満議定書の原文(『日本外交年表竝主要文書』)と内容は以下の通りです。
 「日本国ハ満洲国カ其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ独立ノ一国家ヲ成スニ至リタル事実ヲ確認シタルニ因リ満洲国ハ中華民国ノ有スル国際約定ハ満洲国ニ適用シ得ヘキ限リ之ヲ尊重スヘキコトヲ宣言セルニ因リ日本国政府及満洲国政府ハ日満両国間ノ善隣ノ関係ヲ永遠ニ鞏固ニシ互ニ其ノ領土権ヲ尊重シ東洋ノ平和ヲ確保センカ為左ノ如ク協定セリ」
(1)日本は、満州国が住民の意思で成立した独立の国家である事を確認した。
(2)満州国は、中華民国が諸外国と結んでいた条約・協定を可能な限り満州国にも適用する。
(3)日本政府と満州国政府は、領土権を尊重し、東洋の平和を確保するため、次のように協定する。
「一、満洲国ハ将来日満両国間ニ別段ノ約定ヲ締結セサル限リ満洲国領域内ニ於テ日本国又ハ日本国臣民カ従来ノ日支間ノ条約、協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ権利利益ヲ確認尊重スヘシ」
(4)満州国は、将来日満両国間で個別の条約を締結しない限り、満州国領域内において、日本国と日本人が中華民国との間で締結した従来の条約・協定・その他の取り決めや公私の契約によって得ていた全ての権利利益を確認しめ、これを尊重する。
 つまり、満州国は、日本及び日本国民が満州国建国以前から満州に有していた一切の権益・契約等を確認し、それを尊重するというのです。
 @5月10日に満州国執政溥儀と関東軍司令官本庄繁の間で交換された書簡が含まれます。
 Aそこには、満州国の国防は関東軍に委託し、その経費は満州国が負担するとか、日本人を参与として登用・解職する場合、関東軍司令官の同意が必要であると規定されていました。
「二、日本国及満洲国ハ締約国ノ一方ノ領土及治安ニ対スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約国ノ他方ノ安寧及存立ニ対スル脅威タルノ事実ヲ確認シ両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルヘキコトヲ約ス之カ為所要ノ日本国軍ハ満洲国内ニ駐屯スルモノトス」
 つまり、日本国と満州国は、共同で国家の防衛に当たるために、満州国は自国の満州国軍を保持せず、建国以前から駐留していた関東軍が引き続き駐屯するというのです。
(5)日本国と満州国の一方の領土や治安に対する脅威は、同時にもう一方の平穏に対する脅威であるという事実を認識し、両国は共同で国家の防衛に当たるべきである事を約束する。このため、日本軍は満州国内に駐屯する事とする。
 満州国が建国されたのが3月1日です。国際連盟でリットン調査団が結成されたのが1月7日です。日満議定書が調印されたのが9月15日です。
 これらに因果関係があるのでしょうか。私はあると考えています。その理由は、リットン調査団が報告書を作成する前に、過去の韓国などのように、日満関係を既成事実化して、国際連盟で承認させようとしたということです。
 それにしても、わくわくするような史料が残っていて、よくも公表されたものだと感心します。
 最近、50年以上経過し、関係者も物故者になった外交文書が次々に公開されています。
 アメリカなどは、「同じ過ちを繰り返さない」という前提で、どんどん、機密文書を公開しています。
 他方、日本は、「臭い物には蓋」式で、なかなか、公開が進んでいません。私は、日本を愛するがゆえに、日本が同じ過ちを繰り返させたくありません。そういう意味で、どんどん機密文書は公開して欲しいです。
 その文書(史料)を土台に、歴史認識の議論を大いにしたいものです。

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