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エピソード

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国際連盟脱退と日本の孤立化
 1933(昭和8)年1月1日、日本軍は、山海関で、中国軍と衝突しました。これが山海関事件です。
 1月3日、日本軍は、山海関を占領しました。山海関は、中国河北省の東北にあり、遼寧省との境にある渤海湾岸の町で、中国本部と東北とを結ぶ重要な関門です。万里の長城の東端にもあたります。
 1月15日、アメリカは、満州国不承認と列国に通告しました。
 1月17日、中国共産党の毛沢東朱徳は、抗日協定締結の3条件を公表しました。
 1月22日、陸軍省の当局者は、国際連盟脱退も辞さずと言明しました。
 1月30日、ナチスが政権を得て、ヒトラーが首相に就任しました。
 2月17日、閣議は、国際連盟の日本軍満州撤退勧告案反対、熱河省進攻を決定しました。
 2月20日、閣議は、対日勧告案を国際連盟が可決した場合には連盟を脱退することを決定しました。
 2月22日、枢密院本会議は、政府の国際連盟脱退決議を承認しました。
 2月22日、関東軍は、熱河省内にある中国軍隊の24時間内撤退を要求しました。
 2月23日、日満両軍は、熱河省への侵攻作戦を開始しました。この軍事行動は、国際連盟を強く刺激しました。
 2月24日、イースマン議長が国際連盟の総会の開会を宣言しました。中国代表の顔恵慶が無条件受諾の賛成演説を行ないました。日本代表の松岡洋右は、流暢な英語による反対演説を行いました。その後、リットン報告を承認し、アメリカのスチムソンの不承認主義を採択しました。賛成は42カ国、反対は日本のみ1カ国、棄権は日本と友好関係にあるシャム、欠席は12カ国でした。
 2月24日、松岡洋右は、「報告、勧告は、東洋の平和を確保するとは考えられない、平和達成の様式について、日本と他の連盟国とが別個の見解であるとの結論に達した」と演説して、国際連盟総会議場から退場しました。
 3月5日、ドイツで総選挙が行われました。その結果、ナチス党が288人、社会民主党が120人、共産党が81人の当選者を出しました。
 3月7日、日本軍は、熱河省都の承徳を占領し、次に長城線に達して、国民政府軍を衝突しました。
 3月8日、蒋介石は、保定で、張学良と密談しました。
 3月9日、ヒトラー政府は、共産党を非合法としました。
 3月27日、外相の内田康哉は、国際連盟事務総長に脱退通告文を通達し、次いで、政府声明を発表しました。その後、国際連盟脱退についての詔書が出されました。
 4月10日、関東軍は、長城線を越えて華北に侵入したが、中央の反対で、長城線への帰還を命令しました。
 5月1日、蒋介石は、南昌で、第五次掃共戦を蔡廷楷に指令しました。
 5月7日、関東軍は、中央の許可を得て再び長城線を越えて関内作戦を開始しました。関内の関とは山海関のことであり、その内とは万里の長城の内部のことです。つまり長城を越えて北京に接近したということです。
 5月19日、中国の宋子文とアメリカのルーズベルトは、極東の和平の迅速回復を希望するという共同声明を発表しました。
 5月21日、日本軍は、通州を占領し、北平城外に接近しました。通州とは、北京の東12キロにある通県(今の北京市通州区)のことです。北平城とは、当時北京市のことを北平といい、北京城のことです。
 5月22日、何応欽は、中国軍に北平撤退を命じました。
 5月23日、日本政府は、ソ連の東支鉄道(北満鉄道)を満州国に買収させる方針を決定しました。
 5月25日、中国側は、日本側に、停戦を正式の申し出て、停戦交渉が開始しました。
 5月26日、馮玉祥は、チャハル・綏遠抗日同盟軍を結成しました。
 5月31日、関東軍代表の岡村寧次少将と中国軍代表の熊■(文+武)との間で、塘沽停戦協定が成立しました。その結果、国民政府は、日本の満州支配を合法的に承認したことになります。
 その内容は、次の通りです。
(1)長城以南に非武装地帯を設置する。
(2)中国軍の撤退確認後、日本軍も撤兵する。
(3)治安維持は中国警察があたる。
 7月14日、ヒトラー政府は、社会民主党の活動を全面的に禁止し、新生党の結成も禁止したので、ナチス党が唯一の政党となりました。
 9月18日、軍長の楊靖宇は、南満州に東北人民革命軍1000人を結成しました。
 10月3日、国防・外交・財政調整のため、首相・蔵相・陸相・海相・外相の5相会議を開催し、満州国の育成と日満支3国の提携などを方針とする国策大綱を決定しました。
 10月5日、蒋介石は、100万人の兵力を動員して、第五次掃共戦を開始しました。
 10月14日、ヒトラー政府は、ジュネーブ軍縮会議および国際連盟から脱退を声明しました。
 11月9日、関東軍の岡村寧次少将と何応欽は、北平で会談しました。その結果、駐平政務委員会による非武装地帯の接収につき合意しました。これを北平会議といいます。
 11月21日、民政党総裁の若槻礼次郎は、上野駅で、ロンドン海軍軍縮条約に反対する暴漢に襲われましたが、無事でした。
 11月26日、第19路軍が中心の福建人民革命政府は紅軍と反蒋反日初歩協定を締結しました。
 1334(昭和9)年2月7日、貴族院の菊池武夫男爵は、商相の中島久万吉の「足利尊氏論」を追求しました。
 2月9日、商相の中島久万吉が辞任しました。
 2月10日、関東軍と中国軍との間に、山海関付近接収に関し申し合わせが成立しし、即日接収しました。
 3月1日、満州国で帝政が実施され、満州帝国となりました。ラストエンペラーの宣統帝溥儀が満州帝国最初の皇帝に就任し、康徳帝となりました。元号は康徳、皇居は首都新京(今の長春)です。
 4月10日、中国共産党は、「全国民衆に告ぐるの書」を発表し、反日統一戦線・抗日救国の6大綱領を提示しました。
 5月3日、宋慶齢らの中国民族武装自衛委員会は、「抗日作戦宣言」と基本綱領を発表しました。
 7月8日、@31岡田啓介内閣が誕生しました。
 10月15日、中国紅軍は、瑞金を脱出して長征を開始しました。これを大西遷といいます。
 11月10日、国民政府軍は、瑞金を占領しました。これで、第五次掃共戦が終了しました。
 12月29日、閣議は、ワシントン条約単独廃棄を決定して、アメリカに通告しました。
 1335(昭和10)年1月10日、国際連盟は、日本の南洋委任統治継続を承認しました。
 2月18日、菊池武夫男爵は、貴族院で、美濃部達吉の天皇機関説を攻撃しました。
 5月29日、支那駐屯軍の梅津美治郎は、国民政府軍事委員会北平分会長の何応欽に対して、抗日運動を理由に河北省からの国民党部撤退などを要求しました。
 6月5日、関東軍の特務機関員らは、チャハル省張北で宋哲元軍に逮捕されました。これをチャハル事件といいます。
 6月10日、何応欽は、河北省に関する日本軍の要求である「党部の撤去・藍友社などの解散」を全て承認しました。これを梅津・何応欽協定といいます。
 6月10日、国民政府は、睦隣令を発令し、抗日運動を禁止しました。
 6月27日、関東軍の土肥原賢二少将は、チャハル省代理主席秦徳純に対して、チャハル省北中部からの宋哲元軍撤退などの要求を提出し、承諾されました。これが土肥原・秦徳純協定です。
 8月1日、中国共産党は、四川省で、中国同胞に抗日救国統一戦線を提唱しました。これを8・1宣言といいます。
 8月3日、岡田啓介内閣は、国体明徴を声明しました。
 9月18日、美濃部達吉が貴族議員を辞任しました。
 11月25日、日本軍の指導で、長城以南の非武装地帯に冀東防共自治委員会が成立しました。
 1336(昭和11)年1月15日、ロンドン海軍軍縮会議の首席全権である永野修身は、ロンドン海軍軍縮会議よりの脱退を通告しました。
 2月26日、皇道派青年将校は、1400人の部隊を率いて挙兵し、内大臣斉藤実・蔵相高橋是清・教育総監渡辺錠太郎らを殺害しました。永田町一帯を占拠して、国家改造を要求しました。これを二・二六事件といいます。
 3月9日、@32広田弘毅内閣が誕生しました。
 4月17日、閣議は、支那駐屯軍を2000人から5000人に増強することを決定しました。
 5月5日、紅軍は、山西から撤退し、国民政府に対して、反蒋スローガンを放棄し、停戦講和一致抗日を通電しました。
 6月1日、上海の全国各界救国連合会は、国民政府に対して、連共抗日を要求しました。
 6月8日、帝国国防方針・用兵綱領の第三次改定が裁可されました。その内容は、次の通りです。
(1)仮想敵国をアメリカ・ソ連とする。
(2)所要兵力は、陸軍50個師団、航空142中隊、海軍戦艦12隻、空母12隻、航空65隊とする。
 7月18日、スペイン内乱が始まりました。
 8月7日、首相・外相・陸相・海相の4相会議で、帝国外交方針を決定しました。首相・外相・陸相・海相・蔵相の5相会議で、国策の基準を決定し、大陸・南方への進出と軍備充実を決定しました。
 8月25日、中国共産党は、国民党に対して、抗日民主国共合作・民主共和国の樹立を提唱しました。これを8月書簡といいます。
 11月14日、内蒙軍は、関東軍の援助を受け、綏遠東部に進出しました。
 11月23日、内蒙軍は中国傳作儀軍に大敗し、百霊廟が陥落しました。これを綏遠事件といいます。
 11月23日、国民政府は、章乃器ら救国連合会の7領袖を逮捕し、抗日世論を弾圧しました。
 11月25日、日独防共協定がベルリンで調印されました。
 12月4日、蒋介石は、西安に飛び、張学良らに掃共継続を命令しました。
 12月12日、張学良は、逆に蒋介石を軟禁しました。これを西安事件といいます。
 12月16日、国民政府は、張学良の討伐を決定しました。共産党の周恩来は、西安に飛び、張学良と蒋介石と会談しました。
 12月19日、中国共産党の中央は、蒋介石を含む和平会議の招集を提案しました。
 12月21日、ワシントン海軍軍縮条約が失効しました。
 12月26日、蒋介石は、南京に帰還しました。
10  1338(昭和11)年、当初、皇帝の溥儀夫妻は緝煕楼に住んでいました。しかし、皇宮には狭く威厳がないので、関東軍は、同徳殿を皇宮として建てましたが、皇帝溥儀は、関東軍による盗聴を恐れて入居しませんでした。
11  以上見てきたように、日本は、今まで、イギリス・アメリカと同調しながら、国益を図ってきました。
 しかし、満州をめぐって、現地の関東軍は、先鋭化していき、ついには、国際連盟から袋叩きに会いながらも、国際的に孤立の道を歩むようになって行きました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
満州国は傀儡国家か?、国際連盟脱退とホームルーム
 当時、満州国を独立主権国家と認めた国が23カ国いるということを強調する立場の人は、今の教科書を「自虐史観」(日本悪者論)に基づいて記述されていると主張します。
 今の教科書は「満州国は日本の傀儡国家であり、世界からは独立主権国家として認められてはいなかった」と書いているが、これは歴史認識を誤っているとも主張します。
 なるほど、正式の承認した国は、アジアでは日本と汪兆銘の国民政府です。ヨーロッパではファシズムの国であるドイツ・イタリア・スペインと、ヴァチカン・ポーランド・クロアチア・ハンガリー・スロバキア・ルーマニア・ブルガリア・フィンランド・デンマークです。中南米では、エル=サルバドルです。
 国書を交換した国としては、ヨーロッパではエストニア・リトアニアです。中南米ではドミニカです。アジア・太平洋戦争中に承認した国としては、アジアのタイ・ビルマ・フィリピン・内モンゴル・自由インド仮政府です。
 私は、この事実を否定する立場ではありません。相手が主権国家だと認めてもそれが、傀儡国家でないということにはなりません。ベトナム戦争中の、南ベトナムがそのいい例です。
 傀儡とは「あやつり人形」のことです。国家という体裁を整えながら、実際は、ある国家に操られていることをいいます。
 私の立場は、相手が自虐史感の人であれ、自称「自由主義史観」の人であれ関係ありません。史料・資料に沿って、議論する場合、同じ土俵で勝負できます。史・資料を提示せず、持論を展開されても、同対応していいのか分かりません。
 以下、史料・資料に沿って、満州帝国を論じます。
 初代皇帝は、憲法に従って国務院総理など各大臣を任命できるとなっていますが、日満議定書によれば、任免権は関東軍にあり、結局初代国務院総理には、鄭孝胥が任命されました。
 鄭孝胥は、溥儀に帝王学の講義を続けた哲学者です。鄭孝胥は、同時に親日派で、「満日結合ト旧道徳」 と題して次のように述べています。「中国、日本国ハ同ジク亜州ニ在リ。前ノ歴史上ヲ以テセバ全ク是レ旧道徳ノ歴史ナリ。二十世紀ニ至リ、日本ハ変法維新、政治ト戦功トニ於テ世界的大名誉ヲ得タリ。我以爲ラク日本ハ旧道徳アリ、根本ヲ倣セルニ因リ、此ノ如キ大功業ヲ成セル所以ナリ。中国ハ二十年以来、本来有スル旧道徳ヲ、全ク共和共産両党ニ破壊シ尽サレタリ。故ニ国破レ家亡ブノ報応ヲ得。現在満州国成立シタリ。速ヤカニ旧道徳ヲ提唱シ、共和共産ノ流毒ヲ洗尽セバ、将来満日両国ハ自然ニ是レ志ハ同ジク道ハ合スベキナリ」
 それに対して、田中逸平は、鄭孝胥のことを「王道論者たるのみならず、その個人生活の上にも立派なる王道生活の体験者として吾人は翁の全人格の上に多大の尊敬を持つ」と記録しています。
 満州建国の精神的支柱だった笠木良明の送別会で、田中逸平は「鄭総理は笠木氏が政府を去る時涙したといふ。今度の笠木氏の帰満を子の如く又涙を流して迎へるであらう」と挨拶したといいます。
 監察院長には、于仲漢が任命されましたが、その代理として日本人の品川主計が任命されました。
 監察院審計部長には、最初から日本人の寺崎英雄が就任しています。
 宮内府大臣は沈瑞麟ですが、宮内府次長は日本人の入江貫一です。
 参議には、当初7人任命されましたが、そのうち2人が日本人です。
 また、関東軍の吉岡安直大佐は、常に満州皇帝の側近として、その行動や発言に対し「助言」をしました。溥儀に男子がいない場合、弟溥傑と日本人妻との間に生まれた男子が次の皇帝と聞かされ、溥儀は暗殺を恐れていたといいます。溥傑には男子が生まれなかったので、その疑念は薄れたといいます。
 溥儀の弟である溥傑の妻愛新覚羅浩は日本人で、その次女■生さんが満州を訪問したとき、関東軍の建物より皇居の方が貧弱だったことを見て、叔父は傀儡だったと語っています。
 今の教科書ではどうなっているのでしょうか。
 「1932(昭和7)年9月、斎藤内閣は日満議定書Bをとりかわして満州国を承認した。日本政府は既成事実の積み重ねで国際連盟に対抗しようとしたが、連盟側は1933(昭和8)年2月の臨時総会で、リットン調査団の報告Cにもとづき、満州国は日本の傀儡国家であると認定し、日本が満州国の承認を撤回することを求める勧告案を採択した。松岡洋右ら日本全権団は、勧告案を可決した総会の場から退場し、3月に日本政府は正式に国際連盟からの脱退を通告した。
B満州国は、同国における日本の権益を確認し、日本軍の無条件駐屯を認めた。このほか、付属の秘密文書では、満州の交通機関の管理を日本に委託すること、関東軍司令官の推せん・同意にもとづいて満州国政府の要職に日本人官吏を採用することなどが規定された。
Cリットン報告書は、日本の軍事行動は合法的な自衛措置ではなく、満州国は自発的な民族独立運動によってつくられたものではないとしながらも、一方で日本の経済的権益に中国側が配慮すべきであるとする妥協的なものであった」。
 今の教科書を自虐史観とする扶桑社の教科書では、「中国との停戦協定が結ばれ、満州国は、五族協和、王道楽土建設のフローガンのもと、日本の重工業の進出などにより経済成長をとげ、中国人などの著しい人口の流入もあった。しかし実際には、満州国の実権は関東軍がにぎっており、抗日運動もおこった」と書いています。
 国際連盟のリットン調査団が提出した勧告案はどう扱われたでしょうか。勧告案に賛成の国は42カ国に達しました。反対は日本のみ1カ国でした。日本と友好関係にあるシャム(今のタイ)ですら、反対できず、棄権しました。欠席は12カ国でした。
 学校のホームルームにたとえると、42人の生徒が「君が間違っている」と言い、一番の仲好しも「間違っている」とは言わないが、味方にもならない。そこで、自分ひとりだけが「おかーちゃんにいうたる」と泣きながら教室を飛び出す場面を想像します。
 その後、子供が親に諭され、皆に「ごめん」といって、再び、教室に笑いが戻りました。
 しかし、現実の日本は、再び教室に戻らず、教室から出て行った者同志で「傷」を舐めあったのです。

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