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エピソード

245_01

政党内閣の崩壊T(血盟団事件、五・一五事件、神兵隊事件)
 ここでは、どうして、「平和を愛する農耕民族」である日本、「世界に冠たる皇国」日本がどうして、武力・殺人により、戦争への体制を作って行ったかを調べてみました。
 1926(大正15)年1月30日、@25若槻礼次郎内閣が誕生しました。蔵相には浜口雄幸、外相に幣原喜重郎が任命されました。
 1927(昭和2)年4月17日、幣原外交(協調外交)に不満の枢密院・政友会は、19対11の差で、台湾銀行救済緊急勅令案(2億円)を否決しました。若槻内閣が総辞職しました。
 4月20日、@26田中義一内閣が誕生しました。政友会内閣です。外相は田中義一が兼務、蔵相は元首相の高橋是清が任命されました。
 1929(昭和4)年7月1日、政府は満州某重大事件の責任者処分を発表しました。しかし、河本大作大佐を停職にするにとどめたので、田中義一首相は天皇から叱責されました。
 7月2日、田中義一内閣が総辞職しました。
 7月2日、@27浜口雄幸(60歳。立憲民政党)内閣が誕生しました。外相は幣原喜重郎、蔵相は井上準之助が任命されました。
 1930(昭和5)年10月2日、ロンドン海軍軍縮条約は、天皇の裁可を受けて、批准されました。
 11月14日、浜口首相は、東京駅頭で右翼団体愛国社の佐郷屋留雄に狙撃され重傷を負いました。
 1931(昭和6)年3月17日、政党政治に反発する陸軍の桜会の一部将校および右翼らは、軍部クーデタによる軍部内閣の樹立を計画しました。未遂に終わりました。これを三月事件といいます。
 4月13日、浜口雄幸首相が病状悪化のため、内閣総辞職しました。
 4月14日、@28若槻礼次郎内閣が誕生しました。外相に幣原喜重郎が任命されました。
 9月18日奉天郊外の柳条湖の満鉄線路を爆破されました。これを柳条湖事変といいます。これがきっかけで満州事変が始まりました。
 10月17日、全閣僚を暗殺し、「錦旗革命本部」の旗を掲げて、軍部内閣の樹立を計画しました。この計画も未遂に終わりました。これを錦旗革命事件とか、十月事件といいます。
 12月11日、若槻礼次郎内閣は、新聞や世論も関東軍の満州での行動を支持したので、収拾の自信を失い、総辞職しました。
 12月13日、@29犬養毅内閣が誕生しました。政友会内閣です。
 1932(昭和7)年1月7日、陸軍中央部は、陸軍・海軍・外務3省の協定による支那問題処理方針要綱満州独立の方針)を関東軍の板垣征四郎参謀に指示しました。
 1月8日、朝鮮人の李奉昌は、桜田門外で昭和天皇の馬車に爆弾を投げました。これを桜田門事件といいます。
 1月14日、国際連盟理事会は、イギリスのリットンlを調査団の団長に任命しました。
 1月17日、国家主義者の安岡正篤らは、国粋主義団体の国維会を結成しました。
 1月21日、衆議院が解散されました。
 1月31日、井上日召古賀清志海軍中尉らは血盟団事件や五・一五事件の計画を決定しました。
 2月9日、前蔵相の井上準之助が血盟団員に殺害されました。これを血盟団事件といいます。
 2月20日、@第18回総選挙が行われました。その結果、政友会が301、民政党が146、無産各派が5人の当選者を出し、与党の政友会が圧勝しました。
 2月29日、国際連盟のリットン調査団は、日本にやって来ました。 
 3月1日、世界の目が上海に向いている時、首都長春で、満州国は建国を宣言しました。
 3月5日、三井合名理事の団s磨が血盟団員に射殺されました。これを血盟団事件といいます。
 3月9日、ラストエンペラーの宣統帝溥儀が満州国執政に就任しました。
 3月11日、血盟団の盟主である井上日召が自首しました。無期懲役となり、特赦で1943年に釈放されています。
 5月15日午後5時半、血盟団と関係の深い古賀清志中尉・三上卓中尉ら海軍青年将校と陸軍士官学校生徒らは、大川周明らから資金を得て、4隊がそれぞれ、首相官邸・牧野伸顕内大臣邸・立憲政友会本部・三菱銀行を襲撃し、午後7時、別働隊が6ヶ所の変電所を襲い、東京を暗黒化する。そして、東郷平八郎を参内させ、軍政府を樹立しようという計画をたてました。
 車から降りた三上卓中尉・黒岩勇少尉・陸軍士官候補生3人は、満州国の承認を渋る犬養毅首相(78歳)を射殺しました。これを五・一五事件といいます。
 犬養首相が「話せば分かる」と言った時、山岸宏中尉が裏門から入って来て、「問答無用、撃て!」と命ずると、黒岩少尉が犬養首相に発射しました。三上の記録によると、「首相は下腹部を両手で押へて更に前に身体を屈した。私は黒岩の拳銃発射と同時に右手の拳銃を首相の右こめかみに擬し、黒岩の発射に次ぎ引金を引いた。すると首相の右こめかみに小さな穴が明き、そして右頬を伝って、血が流れるのを目撃した」。
 その後、三上卓ら18人は憲兵隊に自首しました。
 古賀清志中尉らは、牧野伸顕内大臣邸に手榴弾を投げ込みましたが、不発に終わりました。
 5月15日午後11時半、犬養毅首相が亡くなりました。
 5月16日、犬養内閣は総辞職しました。
 5月26日、@30斉藤実内閣が誕生しました。これを挙国一致内閣といいます。外相には海軍大将の斉藤実が兼任し、蔵相には高橋是清、陸相には荒木貞夫、海相には岡田啓介、文相には鳩山一郎、商工相には中島久万吉らが就任しました。
 5月29日、社会民衆党を脱党した赤松克麿らは、日本国家社会党を結成しました。
 6月14日、衆議院は、満州国承認決議を満場一致で可決しました。
 6月29日、警視庁に特別高等警察部を設置しました。
 7月4日、中国・満州を調査したリットン調査団は、再度日本にやって来ました。
 7月6日、外相に内田康哉が就任しました。
 7月24日、全国労農大衆党と社会民衆党は、合同して社会大衆党を結成しました。
 9月15日、日本側全権の武藤信義陸軍大将(関東軍司令官)と 満州国側の鄭孝胥国務総理は、日満議定書に調印しました。
 9月、中国やイギリス・アメリカは、満州国の独立を認めませんでした。
 9月24日、文官分限令改正法・文官分限委員会官制が公布されました。
 10月1日、リットン調査団は、日本政府に報告書を通達しました。その内容は、次の通りです。
(1)柳条湖事件及びその後の日本軍の活動は、自衛的行為とは言い難い。
(2)満州国は、自発的な意志による独立とは言い難く、その存在自体が日本軍に支えられている。
(3)満州に日本が持つ権益・居住権・商権は尊重されるべきである。
 1333(昭和8)年1月10日、東京商大教授の大塚金之助が検挙されました。
 1月12日、京大教授の河上肇が検挙されました。
 1月22日、陸軍省の当局者は、国際連盟脱退も辞さずと言明しました。
 1月30日、ナチスが政権を得て、ヒトラーが首相に就任しました。
 2月4日、長野県で教員などの一斉検挙があり、65校138人が検挙されました。これを長野県教員赤化事件といいます。
 2月16日、将校の不足を予備役・後備役からの志願者で補う特別志願士官制度を採用する旨の公布が行われました。
 2月20日、閣議は、対日勧告案を国際連盟が可決した場合には連盟を脱退することを決定しました。
 2月22日、枢密院本会議は、政府の国際連盟脱退決議を承認しました。
 2月24日、国際連盟の総会は、リットン報告を承認し、アメリカのスチムソンの不承認主義を採択しました。賛成は42カ国、反対は日本のみ1カ国、棄権は日本と友好関係にあるシャム、欠席は12カ国でした。
 2月24日、松岡洋右は、国際連盟総会議場から退場しました。
 2月、後の五・一五事件の首謀者である藤井斉少佐が上海上空で戦死しました。
 3月5日、ドイツで総選挙が行われました。その結果、ナチス党が288人で第一党となりました。
 3月27日、外相の内田康哉は、国際連盟事務総長に脱退通告文を通達し、次いで、政府声明を発表しました。その後、国際連盟脱退についての詔書が出されました。
 4月5日、平野力三らは、陸海在郷軍人と農民との連携を目指し皇道会を結成しました。
 4月22日、文相の鳩山一郎は、京都帝大教授の滝川幸辰の辞職を総長に要求しました。これを滝川事件といいます。
 5月16日、在郷将校を中心に明倫会を結成しました。総裁に陸軍大将の田中国重が就任しました。
 5月31日、国民政府が日本の満州支配を合法的に承認した塘沽停戦協定が成立しました。
 6月7日、共産党幹部の佐野学鍋山貞親は、獄中転向を声明しました。その後、共産党事件関件被告の転向が続きました。
 7月11日、天野辰夫らと大日本生産党員のクーデタ計画が発覚し、49人が検挙されました。これを神兵隊事件といいます。
 大日本国生産党の政綱は、以下のようになっています。
(1)欽定憲法に遵い君民一致の善政を徹底せしむること
(2)国体と国家の進運に適合せざる制度法律の改廃を行い政治機関を簡易化せしむること
(3)自給自足立国経済の基礎を確立すること
 政綱に従って行う政策は、以下のようになっています(抜粋)。
(1)各省の廃合を断行し冗員を淘汰し似て官吏の能率増進と経費の節減を計ること
(2)地方の財政経済を徹底的に整理すること
(3)選挙法を改正し一家を構成せる家長は男女年齢を問わず選挙権を付与すること
(4)煩雑荷重なる税制を改革し民力を函養せしむること
 政策については、現在に通ずる行財政改革が夢のように散らばされています。しかし、この政策を実行する方法が問題です。武力によるクーデタを行うというのです。
 実際の計画を検討しました。
 計画を立てたのは、右翼玄洋社・黒龍会系の団体である大日本生産党の幹部である天野辰夫・前田虎雄や青年部長の鈴木善一らです。その他には、元東久邇宮付武官の安田鉄之助予備中佐・海軍の霞ヶ浦航空隊司令山口三郎中佐らが参加しました。
 計画の内容は、次のようなものです。昭和天皇が陸軍士官学校に行幸する日の警備の手薄になる時を狙って、東京府内で騒乱を起こし、陸海軍に呼びかけて戒厳令を施行し、特権支配階級の最後の砦である斉藤実内閣を打倒するというものです。
 行幸に先立って行われた不審人物洗い出しの際、この計画の参加者が検挙され、その自供から発覚したということです。
10  7月14日、ナチス党が唯一の政党となりました。
 9月9日、陸相の荒木貞夫は、陸軍の国策案大綱を高橋是清蔵相に提示し、軍備の充実などを要求しました。
 9月11日、五・一五事件に関し、陸軍側の判決が下り、全員が禁固4年を申し渡されました。
 9月14日、外相の内田康哉が辞任し、後任に広田弘毅が任命されました。
 10月3日、国防・外交・財政調整のため、首相・蔵相・陸相・海相・外相の5相会議を開催し、満州国の育成と日満支3国の提携などを方針とする国策大綱を決定しました。
 10月5日、蒋介石は、100万人の兵力を動員して、第五次掃共戦を開始しました。
 10月14日、ヒトラー政府は、ジュネーブ軍縮会議および国際連盟から脱退を声明しました。
 11月9日、五・一五事件に関し、海軍側の判決が下り、最高は禁固15年を申し渡されました。
 11月21日、民政党総裁の若槻礼次郎は、上野駅で、ロンドン海軍軍縮条約に反対する暴漢に襲われましたが、無事でした。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
血盟団事件、三月事件・十月事件の判決、五・一五事件
 1926(大将5)年から1333(昭和8)年までの歴史をみると、1930年に@27浜口首相がテロに襲われ、1932年に@29犬養首相も五・一五事件というテロに襲われています。
 1931年には、三月事件と十月事件というテロ未遂事件が相次ぎました。
 私は、小学校時代は、何が原因か分かりませんが、いきなり殴られた記憶はあります。中学校時代は、クラブをサボったという理由で、鍬の木の部分で長方形のコブが出来るほど殴られたことがあります。高校時代は、冬の練習後、体が冷えて震えていると、「何をガタガタしとるか」とビンタを食らったことがあります。教師が暴力を振るうクラブは、暴力が蔓延しています。でも、皆、そうして大きくなったものでした。
 高校野球で上級生が下級生に暴力を振るう事件が相次いでますが、これは指導者が鉄拳制裁として暴力を振るっている体質があるからです。その指導者が私と同じ体験をしているのです。
 私が教師になって、ふざけている生徒を思い切り殴ったことがあります。その後、クラス会をした時、その生徒から「一番思い出したくない思い出は、先生に殴られたことだ」と告発されました。私は全く忘れていたので、素直に謝り、二度と体罰をしないことを誓いました。
 テロはテロを生むというのが実感です。
 井上日召は、本名を井上昭といい、群馬県利根郡川場の医者の三男として生まれました。長兄は医師となりましたが、井上昭は挫折して、満州に渡り、陸軍のスパイ活動に専念したりします。井上昭は、ここで「理屈を超えた祖国愛」なる訳の分からないプライドを得て、兄へのコンプレックスを解決します。
 1920(大正9)年に帰国した井上昭が見たものは、戦後恐慌の最中で、「社会主義者の増加、指導階級の狂暴無自覚等々で、見聞するに従って極端にこれを憎悪し、呪わしい感情が洪水の如く私の全心に蔽いかぶさっていた」と記録しています。
 中国で知り合った右翼から国家主義的な運動を進められましたが、井上昭は「理屈を超えた祖国愛」を確固たるものにするために、法華経にすがります。1924(大正13)年、悟りを開いた井上昭は井上日召と名を改めます。そこで得たものとは、祖国日本と日本国民を救うには、今の国家の状態の改造するしかないというものでした。
 井上日召は、「大衆は不景気で困っているのに、政党政治家が財閥と結託して、私利私欲に走り、日本を腐敗させている。このままでは、自分の信ずる”理屈を超えた祖国愛”が失われ、革命が起こる」と心配しました。
 そこで、茨城県の大洗で、農家の青年に国家主義を吹聴したりしています。その後、血盟団を組織して「1人1殺」主義を唱えて、要人暗殺を謀ります。血盟団員の小沼正に元蔵相井上準之助、菱沼五郎に三井合名理事長団琢磨の暗殺を命じました。
 まったく独り善がりの狂信的な人物が、時流に乗って、暗殺による国家改造を実行したのです。
 三月事件を引き起こした桜会を調べてみました。
 発起人は、橋本欣五郎砲兵中佐・坂田義郎歩兵中佐・樋口季一朗歩兵中佐らで、結成当初の会員は96人に上っています。著名な軍人会員には、牟田口廉也・武藤章・長勇・辻政信などがいます。
 桜会の目的は、「国家改造を以て終局の目的となし、これがため、武力を行使するを辞せず」となっており、クーデタによって、軍部内閣を樹立することです。
陸軍省 参謀本部 教育総監部 陸大生徒 憲兵司令部 その他
9人 38人 2人 25人 7人 25人
 三月事件の計画を再現してみました。
 政党政治に反発する陸軍の橋本欣五郎中佐・長勇少佐・田中清少佐など桜会の一部将校らが軍部クーデタによる宇垣一成軍部内閣の樹立を計画しました。それを小磯国昭軍務局長・参謀本部の建川美次第二部長・参謀本部の重藤千秋支那課長らが支援しました。陸軍次官の杉山元や参謀次長の二宮治重も密かに支持したといいます。
 三月事件は失敗に終わりました。国家転覆のクーデタ計画ですから、本来厳罰に処すべき事件です。しかし、陸軍首脳が加担していたことから、陸軍は、処分もせず、緘口令を布いて事件を隠蔽してしまいました。
 この罪に対する罰が甘かったことが、次の十月事件・五・一五事件に発展していったのです。まさにボタンの賭け間違いです。
 十月事件の計画を再現してみました。
 三月事件の処分が甘かったこともあり、桜会の幹部は、柳条湖事変に呼応して武力による国家改造の気運が盛り上がりました。
 橋本欣五郎中佐・長勇少佐・田中清少佐らは、桜会の将校120人らを率いて、若槻礼次郎首相・幣原喜重郎外相らを斬殺し、「錦旗革命本部」と書いた旗を掲げ、陸軍中将の荒木貞夫軍部内閣の樹立を計画しました。
 憲兵隊がこの情報を知るところとなりました。彼らは、関東軍から出た資金を流用して、高級料亭で酒宴しながら、クーデタ計画を練ったというのです。そこで、憲兵隊も放置できず、関係者を逮捕して、この計画も未遂に終わりました。
 この時の処分も、秘密裡に進められ、首謀者の橋本欣五郎中佐は20日の重謹慎、長勇少佐らは重謹慎10日という大甘な処分でした。
 庶民が一生入ることが出来ない高級料亭で豪遊する彼らに、「塗炭の苦しみを救う」という資格は全くありません。資産を何億と持っている今の政治屋にも通じる真理です。
 五・一五事件を再現します。
 古賀清志中尉・三上卓中尉ら海軍青年将校と陸軍士官学校生徒らは、大川周明らから資金を得て、4隊がそれぞれ、首相官邸・牧野伸顕内大臣邸・立憲政友会本部・三菱銀行を襲撃し、午後7時、別働隊が6ヶ所の変電所を襲い、東京を暗黒化する。そして、東郷平八郎を参内させ、軍政府を樹立しようという計画をたてました。
 車から降りた三上卓中尉・黒岩勇少尉・陸軍士官候補生3人は、満州国の承認を渋る犬養毅首相(78歳)を射殺しました。
 その結果、海軍大将の斉藤実軍部内閣が誕生しました。
 三月事件と十月事件は未遂事件ですが、五・一五事件はクーデタ実行事件です。
 日本は、クーデタによって軍部内閣が誕生しました。五・一五事件の時に配布されたように、維新日本は建設されたのでしょうか。
 以下は五・一五事件の時に配布された檄文です(『現代史資料』)。
「日本国民よ!
刻下の祖国日本を直視せよ、政治、外交、経済、教育、思想、軍事、何処に皇国日本の姿ありや。
政権党利に盲ひたる政党と之に結托して民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧政日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育と腐敗せる軍部と悪化せる思想と塗炭に苦しむ農民、労働者階級と而して群拠する口舌の徒と日本は今や斯くの如き錯騒せる堕落の淵に死なんとしている。革新の時機!今にして立たずんば日本は滅亡せんのみ。
国民よ!武器を執って立て、今や邦家救済の道は唯一つ直接行動以外に何者もない、国民諸君よ!
天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!
国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
横暴極まる官憲を膺懲せよ!
奸賊、特権階級を抹殺せよ!
農民よ、労働者よ、全国民よ祖国日本を守れ!
而して、
陛下の聖明の下、建国の精神に帰り国民自治の大精神に徹して人材を登用し朗らかな維新日本を建設せよ。
民衆よ!
この建設を念願しつつ先づ破壊だ!
凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ!
偉大なる建設の前には徹底的な破壊を要す。
吾等は日本の現状を哭して赤手に魁けて諸君と共に昭和維新の炬火を点ぜんとするもの。
素より現存する左傾、右傾の何れの団体にも属せぬ、
日本の興亡は吾等「国民前衛隊」決行の成否に非ずして吾等の精神を持して続起する国民諸君の実行力如何に懸る起て!
起つて真の日本を建設せよ!               
昭和七年五月
海軍青年将校」
 彼らは、「党利党略に走る政党と結託して民衆が苦労して得た利益・財産を搾り取る財閥、彼らを擁護する官憲(役人や警察官)、軟弱外交、堕落する教育、腐敗する軍部、悪化する思想、塗炭(どろにまみれ、炭火に焼かれる)の苦しみ、労働者階級、口ばっかりの評論家で日本は混沌とした堕落の淵に滅亡しようとしている」と分析します。そして「革新の時期だ!今たたなくては日本は滅亡してしまう」と訴えます。ここには、自分が弱い人間だという謙虚さが見られず、神としての無謬性の傲慢な人間性が登場する。こんな人間とは、私は付き合いたくない。
 しかし、彼らは続けて、「今や日本を救う道は、武力による直接行動しかない。天皇の名に於いて君側の奸を皆殺しにせよ」とか既成政党・財閥を殺せとか勇ましいことを言って、「祖国日本を守れ」「朗らかな維新日本を建設せよ」と川端康成的な、意味のない、美しい言葉を主張します。
 「建国の精神に帰り」「偉大なる建設の前には徹底的な破壊を要す」「起つて真の日本を建設せよ」と空虚な言葉が羅列します。
 私は、「美しい花にはトゲがある」「美しい言葉には裏がある」「勇ましい行動には弱味がある」と思っています。この檄文は、その全てを含んでいます。
 五・一五事件によって、政党内閣が崩壊し、軍部内閣が成立し、国際連盟から脱退し、日本はアジア・太平洋戦争へと進み、アジアにおいて多数の国民を殺害し、同胞の日本人を300万人も殺害しました。
 美しい言葉・勇ましい行動の結果が、この悲劇です。
 海軍軍人は、海軍刑法の反乱罪の容疑により、海軍横須賀鎮守府軍法会議で裁判が始まりました。  陸軍士官学校生徒は、陸軍刑法の反乱罪の容疑により、陸軍軍法会議で裁判が始まりました。
 民間人は、爆発物取締規則・刑法の殺人罪・殺人未遂罪の容疑により、東京地方裁判所で裁判が始まりました。
 海軍の首謀者である三上卓海軍中尉・古賀清志海軍中尉・ 黒岩勇予備海軍少尉の3人に死刑が求刑されました。
 しかし、小泉劇場でも見るように、当時の国民は、政党政治の腐敗とその政党と結託して肥え太る財閥に対する反感から、助命嘆願運動が起こり、117万人が減刑嘆願書に署名したといいます。
 その結果、五・一五事件計画・立案者で、すでに上海で戦死している藤井斉少佐に責任を押し付けることにして、海軍軍法会議は、「首魁ハ死刑ニ処分ス」(海軍刑法20条の反乱罪)を適用せず、「謀議ニ参与シ又ハ群衆ヲ指揮シタル者」(謀議罪と群衆指揮罪)を適用し、三上卓と古賀清志は禁固15年、黒岩勇に禁錮13年に軽減されました。山岸宏海軍中尉も禁固10年になりました。
 他方、民間人で、愛郷塾を主宰する橘孝三郎 は、殺人及殺人未遂罪で無期懲役となりました。大川周明 は反乱罪で禁錮5年の微罪でした。
 将校たちへの判決は非常に軽いものでした。二・二六事件の反乱将校らは、投降後の量刑について非常に楽観視していました(『磯部浅一の獄中日記』)
 ここでも、ボタンの穴を間違えたことが分かります。

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