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エピソード

245_02

政党内閣の崩壊U(尊氏事件、陸軍パンフレット、天皇機関説問題)
 ここでは、思想・信条の自由、学問・研究の自由は、政治に利用され、政治に立ち向かう思想や学問は、簡単に弾圧される歴史を調べてみました。
 いかに、思想・信条の自由、学問・研究の自由の大切さを知るきっかけにもなりました。
 1334(昭和9)年1月23日、陸相の荒木貞夫が病気で辞任し、後任に林銑十郎が任命されました。
 1月、商相の中島久万吉は、雑誌『現代』に10年前に掲載していた「足利尊氏論」を再掲しました。
 2月3日、五・一五事件に関し、民間側の判決が下り、最高刑が無期懲役という軍人に比べ重刑が申し渡されました。
 2月7日、貴族院の菊池武夫男爵は、陸軍中将・奉天特務機関長という経歴を持ち、南朝方の菊池武時の末裔という関係から、商相の中島久万吉の「足利尊氏論」を貴族院で追求しました。菊池は、「国務大臣の地位にあるものが、乱臣賊子を礼賛するがごとき文章を天下に発表したような大問題が、議会にたいし陳謝しただけで済むものではない。よろしく罪を闕下に謝して、辞職すべきではないか」と糾弾しました。さらに、子爵の三室戸敬光も「逆賊礼賛者はまた言論の破壊者である。商相としては、この際辞職しきである」と迫りました。これを尊氏事件といいます。
 2月9日、商相の中島久万吉が辞任しました。
 3月1日、満州国で帝政が実施され、満州帝国となりました。ラストエンペラーの宣統帝溥儀満州帝国最初の皇帝に就任し、康徳帝となりました。元号は康徳、皇居は首都新京(今の長春)です。
 初代皇帝は、憲法に従って国務院総理など各大臣を任命できるとなっていますが、日満議定書によれば、任免権は関東軍にあり、結局初代国務院総理には鄭孝胥が任命されました。
 4月10日、中国共産党は、「全国民衆に告ぐるの書」を発表し、反日統一戦線・抗日救国の6大綱領を提示しました。
 4月18日、帝国人絹会社株式買受をめぐり疑獄事件が発生しました。大蔵次官の黒田英雄が召喚されました。これを帝人事件といいます。
 帝国人絹は、鈴木商店系の会社で、人絹ブームにのって、成長を続けていました。ところが金融恐慌の時、帝人の22万株が台湾銀行の担保に入っていました。そこで、金子直吉らは、台湾銀行から株を買い戻そうとして、その斡旋を番町会永野護に依頼しました。永野から依頼を受けた正力松太郎は、鳩山一郎文相・黒田英雄大蔵次官らに働きかけ、台湾銀行の島田茂頭取を動かして、11万株の手にすることができました。
 しかし、株の買取値段で永野護と金子直吉の話がまとまらず、永野らは1株125円で買いりました。ところが、帝人が増資をきめたので、1株150円に値上がりし、永野らは何もせずに1株25円×11万株=275万円を手にしたのです。
 この内容が、元鐘紡社長の武藤山治が経営する『時事新報』に掲載されました。その結果、台湾銀行の島田茂頭取、帝人の高木復亨社長、永野護ら番町会メンバーが召喚されました。その後、大蔵次官の黒田英雄・銀行局長の大久保偵次らも収賄容疑で拘引され、起訴されました。
 4月、司法省に思想検事、文部省に思想局が設置されました。
 5月2日、出版法改正が公布され、皇室の尊厳冒涜・安寧秩序の妨害などの取り締まりが強化されました。
 5月3日、宋慶齢らの中国民族武装自衛委員会は、「抗日作戦宣言」と基本綱領を発表しました。
 5月3日、天皇機関説論者の美濃部達吉の師匠である一木喜徳郎が枢密院議長に就任しました。
 7月3日、帝人事件で、斉藤実内閣が総辞職しました。
 7月8日、@31岡田啓介内閣が誕生しました。外相には広田弘毅、蔵相には藤井真信、陸相には林銑十郎らが任命されました。
 10月1日、陸軍省は、「国防の本義とその強化の提唱」という陸軍パンフレットを頒布して、広義国防国家を主張しました。
 10月15日、中国紅軍は、瑞金を脱出して長征を開始しました。これを大西遷といいます。
 10月、美濃部達吉は、『中央公論』で陸軍パンフレットを批判しました。その内容は次の通りです。
 「本冊子を通読して最も遺憾に感ぜらるるところは、本冊子が熱心に民心の一致を主張しながら、みづからは政府の既定の方針との調和一致をもはからず、ただ軍部だけの見地から自分の独自の主張を鼓吹し、民心をして強ひてこれに従はしめんとする痕跡の著しいことである」。
 11月7日、蔵相の藤井真信は、陸海軍の両省に予算復活要求の削減を要請しました。
 11月10日、国民政府軍は、瑞金を占領しました。これで、第五次掃共戦が終了しました。
 11月20日、村中孝次磯部浅一らの青年将校は、クーデタを計画したという容疑で検挙されました。これを士官学校事件または、十一月事件といいます。この事件により、統制派と皇道派の対立が激化する契機となったといわれています。その経過を調べてみました。
 統制派の辻政信太尉は、部下の士官学校生徒である佐藤勝郎から、「別の中隊の同級生である武藤与一が皇道派の村中孝次大尉・磯部浅一主計・西田税予備少尉らの国家改造理論グループに参加を進められている」という話を聞かされました。その結果、「11月21日に、クーデタを決行して首相の岡田啓介・前首相の斎藤実・公爵の西園寺公望らを殺害し、皇道派の荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎らを中心とする軍部内閣を樹立しようとしている」ということが判明しました。
 そこで、辻政信は、片倉衷少佐・塚本誠憲兵大尉と相談して、橋本虎之助陸軍次官に報告しました。皇道派の一部は、「これは統制派が仕組んだ皇道派追い落としの策略だ」と証言しています。
 11月22、陸海軍部が復活を要求したので、蔵相の藤井真信は病気を理由に辞任し、後任に高橋是清が任命されました。
 12月29日、閣議は、ワシントン条約単独廃棄を決定して、アメリカに通告しました。
 1335(昭和10)年1月24日、民政党の斉藤隆夫は、衆議院で、陸軍パンフレットおよび軍事費偏重を攻撃しました。
 2月18日、菊池武夫男爵は、貴族院本会議で、同僚の貴族院議員である美濃部達吉を「謀叛人」「反逆者」「学匪」と罵りながら、美濃部達吉の天皇機関説を攻撃しました。美濃部の天皇機関説を叩くことは、美濃部の師匠である枢密院議長の一木喜徳郎や政治に大きな影響を持っている法制局長官の金森徳次郎を失脚させることにも繋がっています。その裏には枢密院議長の座を狙っている平沼騏一郎がいるともいわれています。
 2月25日、美濃部達吉は、天皇機関説の攻撃に対して、弁明演説を行い、反論しました。この時の様子を「満場粛としてこれに聞き入る。約一時間にわたり雄弁を振ひ降壇すれば、貴族院には珍しく拍手起」だったと新聞が報じています。この段階では、岡田啓介首相は、貴族院議員である美濃部を擁護する態度をとっていました。
 2月28日、衆議院議員の江藤源九郎美濃部達吉を不敬罪で告発しました。
 3月1日、貴族院議員の菊池武夫男爵や衆議院議員の井田磐楠らは、貴衆両院有志懇談会を結成し、機関説排撃を決議しました。
 3月4日、岡田啓介首相は、議会で、天皇機関説反対を言明ました。
 3月5日、政友会有志代議士が機関説排撃を決議しました。
 3月8日、右翼の頭山満岩田愛之助らが機関説撲滅同盟を結成しました。
 3月16日、陸軍参謀本部は、「わが国体観念と容れざる学説はその存在を許すべからず」との声明を出しました。
 3月23日、衆議院は、政友会・民政党・国民同盟3党が共同提案した国体明徴決議案を満場一致で可決しました。
 4月6日、教育総監の真崎甚三郎は、国体明徴の訓示を陸軍に通達しました。
 4月9日、美濃部達吉は、天皇機関説のため不敬罪で告発され、なおかつ、『遂条憲法精義』・『憲法撮要』・『日本憲法の基本主義』の3著が発売禁止処分を受けました。
 4月23日、帝国在郷軍人会が天皇機関説排撃のパンフレットを頒布しました。
 4月、京都大学法学部は、天皇機関説の渡辺宗太郎教授担当の憲法講座を自発的に取りやめ、黒田覚教授担当に変更を決定しました。
 5月3日、高等文官試験委員から天皇機関説の4委員(美濃部達吉・宮沢俊義・渡辺宗太郎・野村淳冶)が除外されました。
 7月16日、教育総監の真崎甚三郎が罷免され、後任に渡辺錠太郎が任命されました。統制派と皇道派の対立が深刻化しました。
 7月31日、政友会議員総会は、天皇機関説排撃を声明しました。
10  8月2日、士官学校事件で休職中の村中孝次磯部浅一は、「粛軍に関する意見書」を頒布して、免官となりました。
 8月3日、岡田啓介内閣は、第一次国体明徴声明を出しましたが、一木喜徳郎枢密院議長と金森徳次郎法制局長官は擁護する態度を示しました。
 8月3日、維新会は、「一木喜徳郎を自決せしめよ」という声明を出しました。
 8月3日、明倫会は、政府の声明を「微温的であきたらぬ」として、一木喜徳郎枢密院議長の引退を希望するという態度を明らかにした。
 8月12日、陸軍省軍務局長の永田鉄山少将は、陸軍省内で、皇道派の相沢三郎中佐に刺殺されました。
 8月24日、岡田啓介首相は、「一木氏は、其の後学者たる立場を棄てて永年官中に奉仕せられ学界とは縁を絶っている」と答えると、政友会議員は「一木氏は、憲法の解釈を司る枢密院議長ではないか」と質問しています。
 岡田啓介首相は、「金森徳次郎法制局長官は天皇機関説派ではないと聞いている」と発言すると、政友会議員は「金森氏の『帝国憲法要綱』の一節には、”統治権の主体は国家なり、天皇は之を総纜する自然人なり、天皇を国家機関と云いて誤る所なし”とまで書いている」と反論しました。
 9月18日、美濃部達吉が貴族議員の辞表を提出し、起訴猶予となり声明を発表しました。
 10月15日、岡田啓介内閣は、第二次国体明徴声明を出し、「天皇機関説は国体に背く」と明言しました。
11  1336(昭和11)年3月、美濃部達吉の師匠である一木喜徳郎が枢密院議長を辞任し、その後任に平沼騏一郎が就任しました。
 1337(昭和12)年10月、帝人事件の判決が出ました。全員が無罪でした。その判決理由は、「帝人株の1部を贈与として受け取ったことは事実であるが、それは謝礼であり、商慣習の範囲である。よって背任とか贈収賄にはあたらない」というものでした。大衆は、政党と財閥の結託による腐敗を目の当たりにあたのでした。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
学問が政治問題化するとどうなる?
 私が、このホームページに、私の体験や史料などを通じて、学問的に伝承的に、自由に発言が出来るのは、今の憲法が「思想・信条の自由や表現の自由」を保障しているからです。
 軍部とか一定の主義・主張をもっている人から言えば、私の発言は不愉快かもしれません。不愉快であっても、今は、自由な議論を通じて、テーマは昇華されて行くのです。
 それが、不愉快だからといって、非国民扱いされたり、刑罰の対象にされては、たまりません。
 しかし、戦前の歴史には、現実に、思想・信条・学問が刑罰の対象となった事実があるのです。それを検証してみたいと思います。
 戦前で、最初に思いつくのが、1891(明治24)年に、東京帝大教授で、近代的歴史学を導入した久米邦武は、『神道は祭天の古俗』という論文で、「神道は宗教でなく東洋の祭天の一つである」と主張しました。神道家や国家主義者から、「この内容は皇室への不敬に当たる」と批判され、帝大教授の職を追われました。
 1911(明治44)年、久米邦武は『南北朝時代』を書いています。
 1911(明治44)年、南北朝正閏論争が発生しました。
 「南北朝正閏論争」です。要略を再掲します。
 1911(明治44)年1月19日付けの読売新聞は、「国定教科書の『尋常小学日本歴史』が南北両朝を並立させて正邪・順逆を誤らしめている」という記事を掲載しています。
 それを聞いた大阪出身の藤沢元造が質問することになりました。桂太郎首相は、事の重大さに驚き、色々圧力をかけて、藤沢元造の質問を撤回させました。しかし、藤沢元造が辞職したことで世論が紛糾し、南北朝正閏論争が噴出しました。
  そこで、桂太郎内閣は、上奏して、明治天皇の勅裁を得ました。その結果、「南朝を正統と定め、北朝の天皇を歴代表に記載しないこと」に決定しました。
 1910(明治43)年の大逆事件の裁判のとき、幸徳秋水は「現在の天皇は南朝から皇位を奪った北朝の子孫ではないか」と述べて、裁判長ら関係者を驚愕させたといいます。そこで、政治的理由からどうしても、「南朝正統」とする風潮が必要だったのです。
 学問を政治が圧力をかけたり、利用する場合には、深い深い理由があることが分かりました。
 とはいえ、原敬は「学者の議論としては何れにても差支なき事」(『原敬日記』)と記しているし、桂太郎も原敬に「学者の説は自在に任せ置く考なり」(『原敬日記』)と言ったということです。制度的に学問の自由を圧迫することはなかったということです。当時の大物政治家の大らかさが伝わってきます。
 1917(大正6)年、東京帝大助教授で、史料編纂官の辻善之助は『人物論叢』に「足利尊氏の信仰」を発表しました。その中で、「足利尊氏は日本史上の大人物の1人である。足利尊氏の政治行動には弁護の余地がある」と証明しました。この立場が、学会の大きな流れになっていました。
 1922(大正11)年、中村直勝は『南北朝時代』を書いています。
 1922(大正11)年、田中義成は『南北朝時代史』を書いています。田中義成は、「抑も南北朝時代なる詞は先年之を国定教科書に用ふるに就き朝野の間に問題起りて喧かりし為、文部省に於てこの名称を排し、新に吉野朝時代なる詞を制定せるものにして、今は国定教科書並に中学校、師範学校、女学校等の教科要目等すべてこの名称を用ふる事となり、即ち一の制度となれり。しかれども本講に於ては、もとより学説の自由を有するを以て、この制度に拘泥せず、吾人の所信を述べむ。吾人の考ふる所によれば、学術的には、この時代を称して南北朝時代と言ふを至当とす。何となれば当時天下南北に分れて抗争せるが故に、南北朝の一語よく時代の大勢を云ひ表はせるを以てなり。吾人が歴史を研究する上に、大義名分の為に事実を全く犠牲に供する必要を見ず。必ずや事実を根拠として論ぜざる可からず」と述べています。
 1927(昭和2)年、魚澄惣五郎は『南北朝』を書いています。
 ここまでは、久米邦武事件や南北朝正閏論争があっても、学問的には、自由な研究が出来ていたことになります。
 1929(昭和4)年、魚澄惣五郎は『吉野朝時代史』を書いています。ここから、吉野朝時代に統一されます。
 1934(昭和8)年、中島久万吉の尊氏事件が発生しました。この年は、後醍醐天皇の建武の中興(1334年)600年にあたり、神社関係者を中心に一部の軍人や歴史化を巻き込み、後醍醐天皇や南朝の忠臣である楠木正成らを顕彰しようとする雰囲気が拡大していた時でもありました。
 1935(昭和10)年、中村直勝は『吉野朝史』を書いています。戦後活躍する中村直勝氏でさえ、吉野朝と書かざるを得ない状況になっています。
 1943(昭和18)年、平田俊春は『吉野時代の研究』を書いています。
 1949(昭和24)年、村田正志は『南北朝史論』を書いています。戦後は、学問の自由が復活します。
 昭和に入ると、東京帝大は、軍部にも影響力を持つ平泉澄教授の皇国史観一色に塗り固められました。
 平泉澄教授は、学生の名前を呼ぶ時は「○○君」と言わず、「○○さん」と呼びました。その理由を聞くと「君とは日本の君主たる天皇陛下のほかにありえない」と答えました。講義であっても、南朝側の人物を紹介する時は「楠木正成公」と敬称を付けて呼び、北朝側の人物を紹介する時は「足利尊氏」と呼び捨てました。特に尊氏の尊は後醍醐天皇の尊治の一字をもらったわけで、逆賊となってからは、尊は剥奪されて「足利たか氏」と呼ぶのが正しいと教えました。
 民衆の歴史を研究したいという教え子には、平泉澄教授は「豚に歴史がありますか?」と言って認めなかったといいます。
 私の手元に、1970(昭和45)年に発売された平泉澄氏の『少年日本史』があります。南北朝をどう表現しているか、その一部を紹介します。
 「吉野時代の57年にくらべて、室町時代の182年は、三倍以上の長さです。しかし三倍以上というのは、只時間が長かったというだけの事で、その長い時間は、実に空費せられ、浪費せられたに過ぎなかったのです。吉野時代は、苦しい時であり、悲しい時でありました。然しその苦しみ、その悲しみの中に、精神の美しい輝きがありました」。
 平泉澄氏は、室町時代を空費・浪費の時代とし、吉野時代を精神の美しい輝きのある時代と書いています。何の根拠もなく室町時代を批判し、空虚な意味のない美しい言葉で吉野時代を飾っています。こんな教授が支配する時代を想像すると、寒気がします。
 ここからは、陸軍パンフレットの話です。
 1934(昭和9)年3月、陸軍省は、『祖国の国際的立場』を発行して、「国際的危機の切迫」を主張しました。
 10月、海軍省は、パンフレットを発行して、「古来、戦争に敗れて亡んだ国はあるが、軍備競争でつぶれた国はない」と武装国家を主張しました。
 10月、陸軍新聞班は、新聞各社を呼んで、『国防の本義とその強化の提唱』という陸軍パンフレットを紹介し、広義国防国家を大々的に広報宣伝するよう強制しました。
 以前から陸軍も海軍も様々なパンフレットを発行しています。だのに、『国防の…』のパンフレットが問題になるのは何故でしょうか。それは、陸軍が、思想・政治・経済に介入することを表明したことです。クーデタによらず、財界や政界との幅広い交流を図りながら、合法的に軍部政権を樹立するという意図が込められています。つまり、荒木貞夫・真崎甚三郎ら皇道派ではなく、軍務局長の永田鉄山を中心に、東条英機・武藤章ら統制派の意図でもあります。
 「「たたかいは創造の父、文化の母である。試練の個人に於ける、競争国家に於ける斉しく夫々の声明の生成発展、文化創造の動機であり、刺激である」と戦争を讃美し、「国防は国家生成発展の基本的活力の作用である」と位置づけしています。
 「国防の要は、人的要素であり、正義の維持遂行に対する熱烈なる意識と必勝の信念が不可欠の要素である」とし、それを養うためにとして4点を指摘しています。
(1)建国の理想、皇国の使命に対する確乎たる信念を保持すること
(2)尽忠報国の精神に徹底し、国家の生成発展のため、自己滅却の精神を涵養すること
(3)国家を無視する国際主義、個人主義、自由主義思想を排除し、真に挙国一致の精神に統一すること
(4)列強は国体の変革を企図し、軍民離間を策し、思想的謀略を常用しつつある。従って国民精神統一、即ち思想戦体系の整備は国防上も猶予遅滞を許さぬ重要政策である。
 最後に、「国防国策強化の提唱では、国防と国内問題を取り上げ、生活安定、農漁村更正などの解決のために統制経済政策の強行」を提唱しました。
(1)経済活動の個人主義を排して統制を強化すること
(2)富の遍在を是正して国民の生活安定をはかること
(3)税制をあらためて負担の公平をはかること
10  その仕上げが、美濃部達吉の天皇機関説問題でした。
 2月18日、菊池武夫男爵は、貴族院で、美濃部達吉の天皇機関説を攻撃しました。
 2月25日、美濃部達吉は、天皇機関説の攻撃に対して、弁明演説を行い、反論しました。この弁明を紹介します。
 「所謂機関説と申すのは国家それ自身を一つの生命あり、それ自身に目的を有する恒久的の国体、即ち法律上の言葉を以て申せば一つの法人と観念致しまして、天皇はこの法人たる国家の元首たる地位に在まし、国家を代表して国家の一切の権利を総攬し給ひ天皇が国法に従つて行はせられます行為が即ち国家の行為たる効力を生ずるといふことをいひ表すものであります」
 つまり、「統治権とは、本来国にあります。本当は国民にあるのですが、当時は君主国家だったので、そう表現できませんでした。天皇は、国の最高の機関として、この統治権を行使するのです。そこで、天皇の権限も、憲法その他の法律にしたがって発動されるのです。だから、天皇の権限は、絶対無限ではない」ということになります。吉野作造の民本主義と同じ立場です。
 しかし、上杉慎吉らは、「天皇は神であり、天皇の統治権は、天皇そのものに属する権限で、絶対無限である」と主張します。軍部にとっても、大元帥である「天皇の権限が絶対無限である」という学説の方が都合いいに決まっています。
11  陸軍が出した国体明徴声明の内容は、次の通りです。
 「恭しく惟みるに我国体は天孫降臨し賜へる御神勅により昭示せられるところにして、万世一系の天皇国を統治し給ひ、宝祚の隆は天地とともに窮なし。もしそれ統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使するための機関なりとなすが如きは、これ全く万世無比なる我が国体の本義を愆るものなり」
 吉野作造や美濃部達吉らが築いてきた大正デモクラシーの学説が、クーデタと「万世無比なる我が国体の本義を愆る」という美しいが、空虚な言葉で葬り去られてしまったのです。

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