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エピソード

246_01

重化学工業の発達(ブロック経済、新興財閥)
 戦争は絶対反対ではありますが、戦争が経済を刺激し、変化させたのも、事実です。
 ここでは、世界恐慌という、人類がかって経験したことがない未曾有の不況を克服するために辿った道を検証しました。
 日本は、この世界恐慌を乗り切る手段として管理通貨制度に移行しました。
 1930(昭和5)年、金解禁時代の平価(為替相場)は100 円=50(49.845)ドルでした。
 1931(昭和6)年、犬養毅内閣は、低為替政策といって円安を利用した輸出増進策を実施するため、金輸出の再禁止を断行しました。金本位制を停止し、銀行券と金の兌換を停止しました。
 1932(昭和7)年、為替相場は100 円=20ドルになりました。これを円安といい、為替相場の下落を意味します。この結果、輸入が減少して、輸出が増加します。
 1933(昭和8)年、外国為替管理法を制定し、横浜正金銀行を通じて外国為替の管理や貿易を統制しようとしました。
 1942(昭和17)年、管理通貨制度に移行しました。その結果、日本政府が銀行券の最高発行額を管理統制することになりました。
 次に、世界列強がどう世界恐慌からの脱出を図ったか調べました。
 まず、イギリスです。
 1929年、第2次マクドナルド労働党内閣が成立しました。失業者は116万人に達しました。
 1931年、失業者は270万人に達しました。
 1931年8月、マクドナルド労働党内閣は総辞職し、保守党及び自由党の協力を得て、マクドナルド挙国一致内閣が誕生しました。
 12月、ウエストミンスター憲章を制定し、各自治領には、イギリス連邦の一員としてイギリス国王に忠誠を誓うことを条件に、本国と対等の地位を与えました。
 1932年6月、保護関税法を制定し、食料品以外の輸入品に10%、奢侈品に30%の関税を課しました。
 1932年7月、カナダのオタワでイギリス連邦経済会議が開かれました。この会議で結ばれた協定をオタワ協定といいます。
 8月、イギリスは、オタワ協定によって、連邦内部だけの安定と保護をはかりました。その貿易保護政策をポンド=ブロックまたはスターリング=ブロックといいます。参加国は、イギリス・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ・アイルランド・インド・南ローデシアです。その内容は、次の通りです。
(1)イギリス連邦から外国商品を追い出すことを目的とする。
(2)イギリス連邦以外の国の製品には、高関税をかける。これを保護貿易制度といいます。
(3)イギリス連邦内の商品に対しては無税または低関税を課す。
 しかし、連邦外の国から連邦内各国への輸出は減少します。
 この結果、世界経済の自給自足化と国際経済競争を激化させ、以後「持てる国と持たざる国」との対立が強まる原因となりました。
工業生産指数 ブロック経済により
イギリスの生産指数
は向上しました。
1929年 1932年 1934年
100 85 104
 次は、フランスです。
 1926年、ポワンカレ内閣が誕生しました。賃金を10%引下げ・卸売物価を25%引下げ・財政支出の削減を図りました。
 1931年、ポンド圏諸国に対して輸入関税を引上げ、輸入割当による直接的な貿易統制の開始しました。
 1933年7月、フランスは、東南アジアやアフリカの植民地を囲いこんだフラン=ブロックを形成しました。
 1936年、貿易統制を、農産物・農業関連工業製品・工業製品などすべての商品に適用しました。
 1936年、社会党と急進社会党の連立内閣であるレオン・ブルム人民戦線内閣(共産党も閣外協力)が誕生しました。
 1936年、スト中止と引き換えに、経営者側に有給休暇法・週40時間労働法・失業者救済の公共土木事業・賃金の15%の引上げを認めさせるマティニョン協定が成立しました。
 1937年、経済危機を克服できず、レオン・ブルム人民戦線内閣が総辞職しました。
 1939年、軍事費の増大と軍事工業の拡張により、フランス経済が回復に向かいました。
 次に、アメリカです。
 1929年10月24日、ニューヨークのウォール街で株式相場が大暴落しました。これを暗黒の木曜日といいます。
 10月29日、株価が再暴落し、株式取引所の機能が停止されました。銀行の破産は4500に達しました。これを悲劇の火曜日といいます。
 1930年、失業者が30万人になりました。
 1932年、民主党のフランクリン・ローズヴェルトは、ニューディール政策を掲げて、大統領に当選しました。
 1933年、失業者が150万人に達しました。
 1933年、民主党のフランクリン・ローズヴェルトが大統領に就任し、公約のニューディール政策を実施しました。その内容は、次の通りです。
(1)全国産業復興法農業調整法は、最高裁では違憲とされました。
(3)テネシー渓谷開発公社TVA)は、公共事業を行って、失業を救済し、水力発電・土地改良などを行う公社です。
 1933年、第7回パン・アメリカ会議がモンテビデオで開かれ、この席上で、国務長官ハルは、善隣外交を唱えし、互恵的関税引き下げを声明しました。この結果、カリブ海・中南米にドル=ブロックが形成されました。
 次は、社会主義国のソ連です。
 1928年、第1次5カ年計画を発表しました。重工業を優先しました。
 1933年、第2次5カ年計画を発表しました。消費部門の生産に力を注ぎました。
 1938年、第3次5カ年計画を発表しました。軍需部門とウラル・シベリアの開発に力を注ぎました。
 社会主義国の計画経済により、ソ連は世界恐慌の圏外にありました。
 イギリス・フランスは植民地をブロック化して、世界恐慌から脱出しました。アメリカは、ニューディール政策で世界恐慌から脱出しました。ソ連は、計画経済で、世界恐慌とは無縁でした。
 植民地もなく、ニューディール政策という知恵もなく、計画経済も出来ない日本・ドイツ・イタリアなどはどうしたでしょうか。
 植民地を持つ国を「持てる国」植民地を持たない国を「持たざる国」といいます。植民地を持っている国が保護貿易化して、ブロック化すると、植民地を持たない国は、止むに止まれずファシズム化するという説を唱える人がいます。しかし、アメリカは、ニューディール政策で世界恐慌から脱出していますから、この説は否定されます。
 ここでは、ドイツを取り上げます。
 1932年、ヒトラーは、世界恐慌を背景に、ヴェルサイユ条約反対を唱えて、総選挙で230人を当選させ、社会民主党を抜いて、ナチスは第1党になりました。
 1932年、世界恐慌の影響で、工業生産は4割減少、失業者は600万人にたっしました。
 1932年11月、共産党が議席を増加させ、危機を抱いた資本家がナチスを支持するようになりました。
 1933年1月、ヒンデンブルク大統領は、ヒトラーを首相に任命しました。
 3月1日、ナチスは、共産党への投票を無効にしたり、社会民主党や労働組合への弾圧をしたり、暴力による徹底した選挙干渉で、総選挙に圧勝しました。
 10月、ナチスは、国際連盟を脱退しました。
 1934年8月、大統領制を廃止し、国民投票により、ついに、ヒトラーは、首相と大統領を兼務する総統(フューラー)に就任しました。これをドイツ第3帝国といいます。
 1935年、ヒトラーは、再軍備を宣言し、ヴェルサイユ条約の軍備条項を破棄しました。
 次は日本です。
 植民地のない日本は、3段階を経て強引なブロック経済化を目指します。
(1)1933年7月22日、満州国は、日満ブロック経済化を目的とする新関税税率を公布しました。これが第一段階です。五族協和による王道楽土の建設という名目で行われました。
(2)1937年7月7日、盧溝橋事件で日中は全面戦争に突入しました。これが日満支ブロック経済化で、第二段階です。東亜新秩序の建設という名目で行われました。
(3)1940年9月23日、日独伊三国同盟という武力を背景に、北部仏印(今のベトナム地方)に進駐しました。
 1941年7月28日、日ソ中立条約を背景に、南部仏印に進駐しました。これが大東亜圏ブロック経済化で、第三段階です。大東亜共栄圏の建設という名目で行われました。
 美しい言葉には裏があります。その裏を探ってみると、本当の目的が見えてきます。
(1)満州には石炭・鉄が豊富です。
(2)華北には金・石炭・銅・クロームが豊富です。
(3)オランダ領インドネシアには石油・ゴム、イギリス領マラヤには錫・ゴム・ボーキサイトが豊富です。
10  次はイタリアです。
 1920年、労働者のストライキが激化し、社会党左派の指導のもとで、革命前夜の状況となりました。ムッソリーニが率いる戦闘者ファッショは、社会党左派などの労働運動を暴力で鎮圧しました。
 1921年5月、ムッソリーニが率いる戦闘者ファッショは、共産主義を恐れる資本家・地主・軍部などの支持を受けて、総選挙では31人を当選させました。
 11月、戦闘者ファッショは、ファシスト党に改組されました。ムッソリーニは、30万人の党員を軍隊的な黒シャツ隊に組織化しました。三島由紀夫も、ムッソリーニのやり方を学んでいたかも知れませんね。
 1922年、民兵の黒シャツ隊がローマを占領し、ムッソリーニ政権(ファシスト政権)が成立しました。
 1924年、ファシスト党は暴力による徹底した選挙干渉を行い、第一党(総投票数の65%)に躍進しました。
 1926年、ムッソリーニは、ファシスト党以外の全政党を解散し、ファシスト党一党独裁制を確立しました。
11
国家予算に占める軍事費の割合(1924年から1945年。単位%)
24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45
29.6 29.4 27.7 28.1 28.6 28.6 28.5 31.2 35.9 39.1 43.8 47.1 47.6 69.5 77.0 73.7 72.5 75.7 77.2 78.5 85.3 72.6
12  軍部内閣の誕生により。国家財政は、軍事費中心となりました。
 既成の財閥は、基盤を確固として築いていたので、死の商人になってまで、新興の工業に手を出すことはありませんでした。そこで、国策に協力しつつ軍需・重化学工業を中心に新しい財閥が誕生しました。新興の財閥は、軍事費という国家予算で、朝鮮・満州に進出していきました。
 1906(明治39)年、野口遵は、曾木電気株式会社を創立しました。その後、日本カーバイト商会と合併し、日本窒素肥料会社を設立し、石灰窒素・硫安の製造に成功しました。それを母体に、朝鮮の水力発電・化学工業を開発しました。その後28社3億9000万円の資本金を有する大財閥に成長しました。これが、日窒コンツェルンのルーツです。現在は、チッソ・旭化成・積水化学工業・センコー・信越化学工業として活動しています。
 1920(大正9)年、中野友礼は、食塩電解法によるソーダを製造する日本曹達を設立しました。これが、その後、26社を支配する日曹コンツェルンのルーツです。現在も、日本曹達・興人として活動しています。
 1925(大正14)年、理化学研究所長の大河内正敏は、理化学興業を設立しました。これが、理研コンツェルンのルーツです。
 1928(昭和3)年、久原財閥の久原鉱業を引き継いだ鮎川義介は、日本産業株式会社に改組しました。中心に日産コンツエルンを設立しました。軍用ジープが特色でした。
 1934(昭和9)年、八幡製鉄中心に大合同した半官半民の日本製鉄会社が発足しました。
 1938(昭和13)年、鮎川義介は、政府の要請により満州に移転し、満州重工業開発株式会社に改組し、満鉄に代って、満州の重化学を独占支配しました。18社3億5000万円の資本金を有する大財閥に成長しました。資本金の80%以上が軍事産業に投資されました。しかし、関東軍と対立したため、国内部門と満州部門にグループを分割再編せざるを得なくなりました。現在は、日産自動車と日立製作所・日立造船が有名です。日産・日立を冠した会社は略して、それ以外の企業を紹介します。鬼怒川ゴム工業・リケン・日本無機・ニチレイ・日本油脂・ジャパンエナジー・損保ジャパンなどです。
 1939(昭和14)年、森矗昶は、アルミニウムなどの森興業を主体に28社の森コンツエルンを形成しました。現在は、味の素・昭和電工などが活動しています。
13  この結果、日本は欧米列強と同じく、重化学工業が軽工業を圧倒する産業構造になりました。
重化工業 軽工業
1930年 36% 64%
1937年 58% 42%
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
既存財閥の転向、満州国の位置づけ、ニュー=ディール政策
 日本の軍国化にともない、国家予算の多くはは、軍需産業に投資されるようになりました。既存の財閥は、死の商人になることを恐れました。そこで、国策に協力しつつ軍需・重化学工業を中心に新しい財閥が誕生しました。
 しかし、新興財閥の勢いを知った既存財閥は、恥も外聞も捨て、「バスに乗り遅れるな」とばかりに、死の商人に手を出しました。
 社会事業への寄付という形式をとり、軍部や右翼に接近しました。三井の大番頭である池田成彬は、北一輝を通じて右翼にかなりの献金をしていました。
 やがて、軍財抱合が現実化しました。軍部と財閥(財界)が抱き合う、協力し合うという意味です。
 戦前の日本の軍事費を調べると、1933年は39.1%、1937年は69.7%、1940年は72.5%です。残りが病院とか学校とか道路に回されます。1940年では、民需は27.5%でした。憲法9条が改正され、軍隊が保有され、軍事費が増加すると、生活費が切り詰められることを覚悟して、憲法改正を論じる必要があります。
 各国の軍事費を調査しました(2002年)。アメリカが1位です。2位はロシアで588億ドル、3位は日本で444億ドル、4位は中国で411億ドルです。韓国は125億ドル、北朝鮮は23億ドルです。
 『CIA The World Factbook』によると、日本を100とした場合、アメリカ・北朝鮮の割合は次の表になります。
日本 アメリカ 北朝鮮 (1)日本に比して、アメリカの軍事は3.06倍です。
(2)日本に比して、北朝鮮の軍事は15倍です。
 日本の戦前の状態を想像することができます。
GDP 100 306 0.8
軍事費 100 872 12
 最近、満州国に関し、次のような説に出会いました。
 「日本は満州国の建国に深く関与し、その後も政治・軍事・社会基盤(インフラ)整備など、多岐にわたって支援しました。しかし、日本は満州国において、匪賊掃討を支援し、治安維持には協力しました」。この作者は、匪賊を集団的に略奪等を行う支那特有の武装犯罪者集団と規定しています。
 匪賊には単に武装して集団強盗化した者もいます。
 しかし、歴史的にいう匪賊とは、反日軍閥が匪賊化したもので、東北救国軍司令遼寧民衆自衛軍がいます。
 関東軍が一番対策に悩んだのが、共産主義を奉ずる武装団体です。赤衛隊・突撃隊・遊撃隊などが中国共産党に指導された東北抗日連合軍に再編され、共匪といわれました。その数は20万人とも30万人ともいわれました。地元民から情報を得た匪賊は、関東軍の手薄な箇所を集中的に攻撃しました。最高に訓練・組織化されたアメリカ軍でも、ベトナムのゲリラに敗北したように、地元民を敵にしては勝てません。
 満州国軍政部軍事調査部の『満州共産匪の研究』(1936年)によると、「満州国における治安情勢の現況は…思想的にも政治的にも匪団組織が強化していること、特に質的な共産匪化である」と書いています。
 次に、「日本は満州国の社会基盤(インフラ)整備など、多岐にわたって支援しました」ということを、学者や評論家でも主張する人がいます。
 満州国のためにしたのか、日本のためにしたのかが、ここではポイントになります。
 関東軍参謀の石原莞爾中佐の『世界最終戦論』によると、要約すると、「日本の景気回復は、満州を日本が支配し、開発することしかない。そうすれば、日本の失業者は減り、加えて日満経済ブロック圏を形成することによって日本経済は景気回復することができる。そうすれば必ず欧米列強の干渉を招き、アメリカとの戦争になる。これは、西欧の代表アメリカとアジアの代表日本との戦争であり、これは世界最終戦争である。そのため、日本は国家総動員体制を作らなければならず、それは軍部による強力な独裁体制である」となります。
 ここには、日本のために満州国支配するという意図が明確に記されています。
 戦後、石原莞爾は、「戦争放棄」・「軍事力の不保持」の憲法9条を支持したといいます。
 統計的に、満州国の位置づけをしてみました。
 これは、1934(昭和9)年1月21日の『国民新聞』の記事です。
 「日満経済ブロック漸次強化ー満洲国は愈々建国第二周年を迎え面目を一新する事となったが同国経済発展の現状は建国前に比し誠に隔世の感がある、而して隣邦日本との経済ブロックは漸次強化の度を加えつつあり今その概略を示せば次の如くである(【新京十九日発電通】)」
満洲国に於ける列国の投資額(単位1000円) 埋蔵量(単位1000トン)
日本 ソ連 イギリス アメリカ フランス 鉄鉱 石炭
2、036、366 456、015 39、590 26、400 21、086 1221986 4804000
 ルーズベルト大統領のニュー=ディール政策を次のように説明しました。
 テネシー渓谷にダムを造ります。ダムには、鉄やセメントが大量に必要です。国家は(A)企業から材料を購入します。(A)企業にはお金が入り、(X)失業者を採用します。(A)企業は鉄やセメントの材料を(B)企業から購入します。(B)企業にはお金が入り、(Y)失業者を採用します。国家はダム工事に失業者を採用します。(Z)失業者には国家から給与が支払われます。お金が入った(X)(Y)(Z)の失業者は、(C)企業から食料品や衣服を購入します。(C)企業は、失業者を採用します。
 ダムを造りだけで、企業や失業者にお金が入り、それが循環して全ての企業が失業者を採用し、採用された失業者はあらたの消費を行います。
 ダムを造ることを、公共事業といい、その結果、有効需要が作り出されます。これを最初に提唱したのが、イギリスの経済学者ケインズで、それを実践したのがルーズベルトです。
 ケインズは、以前のレッセフェール(自由放任主義)的政策でなく、政治が経済に介入することで、失業・恐慌を克服することを主張しました。
 道路工事が終わったと思うと、また道路工事をしている。なんと無駄なことをしていると思い、尋ねると前のは単なる道路工事だが、今回のは下水道工事だという。一度のすれば効率的だと思うが、有効需要からいえば、その無駄が失業者を救済しているのだという。昔は、それを妙に納得したものです。
 しかし、今、公共事業という名で、高速道路や新幹線整備・新空港の開発が行われています。昔はその周辺で地価が上がったものですが、今は、平静です。ケインズ理論の行き詰まりを感じます。新しい経済理論、私は小さい政府がよみがえって欲しいと願っています。

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