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エピソード

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転向の時代1(河上肇、小林多喜二の検挙、滝川事件)
 ドイツでは、世界恐慌を脱出する方法として、国家社会主義を唱えたナチスが大衆と資本家・大統領に支持されて、合法的に権力を掌握しました。
 イタリアでは、同じく、世界恐慌を脱出する方法として、国家社会主義を唱えたファシスト党が大衆と資本家・国王に支持されて、合法的に権力を掌握しました。
 日本では、軍部が右翼と結んで、五・一五事件を起こして、軍部内閣を樹立させました。ドイツ・イタリアとは、少し違います。その違いを調べてみました。
 転向とは、国語辞典では、「向きをかえる。自分のもっていた主義・思想をかえて、別の思想を支持するようにかわること」とあります。この場合は、自分の都合で自分の心を変えることですから、よくあります。
 しかし「権力の圧迫などにより、それまでの思想上の立場をかえること」になると、別な問題があります。権力とは、この場合は治安維持法とそれを守護する特高をさします。つまり、転向とは、「治安維持法による特高などの弾圧から逃れるため、その政治的信念を放棄すること」といえます。
 1927(昭和2)年4月、@26田中義一(陸軍大将)内閣が誕生しました。
 1928(昭和3)年、河上肇は、京都帝大教授を辞職し、大山郁夫労働農民党の結成に参加しました。
 1929(昭和4)年4月16日、共産党員が全国的に一斉に検挙され、864人が起訴されました。その結果、日本共産党の組織は、壊滅的打撃をうけました。四・一六事件といいます。
 7月、@27浜口雄幸内閣が誕生しました。
 1930(昭和5)年、中野重治は、治安維持法違反の容疑で逮捕されて、『第一章』を書きました。これが転向文学の第1号です。
 1930(昭和5)年、河上肇は、労働農民党は誤っていると批判し、大山郁夫と決別しました。
 5月20日、三木清宇都宮徳馬村山知義林房雄らは、日本共産党に資金を提供したとして検挙されました。これを共産党シンパ事件といいます。
 1931(昭和6)年4月、@28若槻礼次郎内閣が誕生しました。
 9月、関東軍が満鉄を爆破するという柳条湖事件がおきました。これを満州事変といいます。
 12月、@28犬養毅内閣が誕生しました。
 1932(昭和7)年3月24日、プロレタリア文化連盟の窪川鶴次郎らが逮捕されました。
 5月15日、軍部により犬養毅首相が暗殺されるという五・一五事件がおこりました。この結果、選挙による多数派が内閣を組織するという憲政の常道が途絶えました。
 5月26日、@29斉藤実内閣(海軍大将)が誕生しました。
 5月29日、社会民衆党を脱党した赤松克麿(37歳)・平野力三らは、日本国家社会党を結成しました。その綱領は「一君万民の国民精神に基き搾取なき新日本を建設する」という美しい空虚で言葉で飾られ、「資本主義体制の打破」「国際的な領土の再分割」という矛盾する主張をしています。これが無産政党から国家社会主義への転向した第1号です。
 5月29日、社会民衆党分派の下中弥三郎は、新日本国民同盟を結成し、労働運動から手を引き、革命的大日本主義を主張しました。下中弥三郎は、『東亜建設』で「高天原の霞がたなびいているの感があるが、その本文の中に流れる思想に於いては今日ともに変りはないのが日本主義である。日本主義は政党政治の腐敗、晴落を鋭く衝くが決して議会制度を否認するものではない。我々革命的大日本主義者の重大任務は、即ちかかる亡国議会の否認と毒虫的既成政党の撲減闘争である」と書いています。
 下中弥三郎氏といえば、平凡社を設立した人と同姓同名です。確認すると、同一人物でした。
 6月、京都帝大教授の滝川幸辰は、ラジオ放送した『公民常識講座 刑法』を『刑法読本』として発売しました。そこには、「姦通罪について、妻の姦通だけを犯罪にし、夫の姦通を不問に付すのはよろしくない」・「国家は革命家を敵として取扱うのはよいが、道徳的に下等な人間として処置してはならない」と書かれていました。大審院長は、裁判官に『刑法読本』の一読を薦めたといいます。
 7月24日、社会民衆党と全国労農大衆党が合同して、社会大衆党が結成されました。委員長に安部磯雄、書記長に麻生久を選びました。「軍部と結んで資本主義打破」という意味不明な綱領を採択しました。
 10月29日、治安維持法違反で、佐野学鍋山貞親らは無期懲役、徳田球一志賀義雄福本和夫らは懲役10年の判決を受けました。
 11月、京都帝大教授の滝川幸辰は、中央大学で、「復活に現はれたるトルストイの刑罰思想」と題する講演を行いました。その趣旨は「社会が犯人に対し復讐的態度をもって望むに先立ち、犯罪の原因を十分に検討しなければならない。同情と理解は報復に勝り、トルストイの復活の思想は肯定されるべきである」というものでした。
 1933(昭和8)年1月12日、『貧乏物語』の著者で、従四位・勲三等・法学博士の河上肇(55歳)は、翻訳物の書類を閲覧中に、治安維持法違反で逮捕され、小菅監獄に収監されました。
 1月、国粋右翼団体である原理日本社蓑田胸喜三井甲之らは、「司法官赤化事件と帝大赤化教授」と題したパンフレットを配布しました。東京帝大の美濃部達吉牧野英一末広厳太郎、京都帝大の滝川幸辰らを名指しで、学匪赤化教授と決め付け攻撃しました。これを司法官赤化事件といいます。
 貴族院議員の菊池武夫や政友会の宮沢裕は、第64議会で、京都帝大の滝川幸辰教授が『刑法読本』で「姦通罪が妻にだけ適用されるという不法である」というのは共産主義的だと取り上げました。
 また、「復活に現はれたるトルストイの刑罰思想」は国家が刑罰を加えるのを不当とする学説であり、自由主義は共産主義の温床になるとして、滝川幸辰を赤化教授として追求しました。
 1月、菊池武夫や宮沢祐は、鳩山一郎文相に、赤化教授である滝川幸辰の処分を要求しました。
 2月20日、『蟹工船』の作者である小林多喜二(31歳)は、治安維持法違反で検挙され、築地署で虐殺されました。
 2月20日正午、小林多喜二は、踏み込んだ警察から走って逃げました。
 2月20日午後5時、小林多喜二は、取調べ中に顔面蒼白になりました。
 2月20日午後7時、小林多喜二は、急死しました。
 2月21日、東京朝日新聞は、左翼関係者が「小林多喜二の死因は官憲の暴行」であると警察に抗議したという記事を掲載しました。
 2月21日午後6時、小林多喜二の母小林タキは、新聞の記事を読んで、築地署にやって来ました。死体の変わりように、多喜二の母タキは、帝大・慶大・慈恵医大病院に解剖を依頼しましたが、全て断わられました。その結果、拷問による暴行死という証明がないので、起訴も出来ず、特高の責任は問われることがありませんでした。しかし、全ての大学病院が解剖を拒否したことから、皮肉なことに拷問を裏付けることになりました。
 3月23日、衆議院は、久原房之助らが提案した「教育革新に関する決議案」を可決しました。その内容は、「近時我が国民の一部に矯激なる思想を抱懐して民心を惑乱するものがあり、政府は確固たる思想対策をたてて、根本的に之を芟除し以て民心の帰嚮を明かにし其安定を図るべし」というものでした。
 4月5日、日本国家社会党の平野力三は、陸海在郷軍人と農民との提携をめざして皇道会を結成しました。
 4月10日、鳩山一郎文相は、滝川幸辰教授の『刑法読本』を大学の最高法規である大学令に規定した「国家思想の涵養の義務に反する」と非難しました。その結果、内務省は、滝川幸辰教授の『刑法読本』・『刑法講義』を発売禁止処分にしました。
 4月22日、第64議会の追求を受けて、鳩山一郎文部大臣は、滝川幸辰教授の辞職を小西重直京大総長に要求しました。処分理由として「内乱はよりよい社会の建設を目的としており、ふつうの犯罪のように破廉恥なものでないと書いたのは内乱を煽動するものだ」「妻の姦通のみを罰し夫のそれを不問に付するのは片手落ちだと書いたのは姦通を奨励するものだ」などを列挙しました。
 4月22日、小西総長や京大法学部教授会は、「文部当局のこの要求は、大学の自治を踏みにじり、学問の自由・思想信条の自由を脅かすものだ」と反対しました。
 5月26日、鳩山一郎文部大臣は、文官高等分限令委員会を開き、文官分限令を使って、滝川幸辰教授を教職処分にしました。
 5月26日、法学部長の佐々木惣一や法学部教授15人のうち8人、助教授18人のうち13人が辞表を提出し、抗議の意思表示を行いました。しかし、京都帝国大学や京大の他学部は傍観的立場を維持しました。
 6月7日、日本共産党の実力者である佐野学・鍋山貞親は、転向声明を、獄中から上村進弁護士の送りました。転向声明の内容は、次の通りです。支離滅裂で、苦し紛れの継ぎ接ぎ声明といえます。
(1)天皇制打倒・帝国主義戦争反対というコミンテルンの画一主義は批判間違っていた。
(2)天皇制打倒は誤りで、天皇の下でも、一国社会主義革命が可能である。
(3)満州事変は、国民を解放する戦争に転化することが可能である。
 この転向声明により、日本共産党の未決囚415人、既決囚136人が相次ぎ転向を表明しました。1936(昭和11)年までに、全受刑者の324人(76%)が転向したといわれます。
10  7月1日、京大・東大の学生らは、滝川事件に関して、全国大学に呼びかけ、大学自由擁護連盟を結成し、滝川教授の復職・鳩山文相の辞職などを決議しました。東大の美濃部逹吉横田喜三郎ら少数の教授は、この決議を支持すると表明しましたが、全国の大学の多くの教員や学生は、沈黙を守りました。
 7月初、小西重直総長が辞職し、後任に松井元興が京大総長に就任しました。
 7月11日、松井元興総長は、強硬派とされる佐々木惣一・滝川幸辰・宮本英雄森口繁冶末川博宮本英脩の6教授の辞表を受理し、他の教授らの辞表は受理しませんでした。文部省は、分裂策を導入したのでした。
 7月25日、恒藤恭田村徳治の2教授は、慰留を蹴って辞職しました。しかし、辞表を受理された宮本英脩は、転向して、教授に復職しました。文部省は、「今回の措置は非常特別のことで、一般には大学の具申を尊重する」と声明したので、他の教授・助教授らは、辞表を撤回して、復職していきました。自由主義的学問の自由が政治的圧力に屈した滝川事件は、こうして終了しました。
11  1934(昭和9)年2月7日、菊池武夫男爵は、貴族院で、中島久万吉商相『足利尊氏論』を追及し、中島を辞任に追い込みました。
 2月15日、政友会の岡本一巳は、衆議院で、文相の鳩山一郎の収賄を追及しました。
 3月、鳩山一郎文相は、綱紀問題で辞任しました。
 5月、村山知義は、転向して出獄し、『白夜』を書きました。これが転向文学の第2号です。
 7月、@31岡田啓介(陸軍大将)内閣が誕生しました。
 10月、陸軍省は、陸軍パンフレットを頒布し、「国防の本義とその強化の提唱」を発表しました。
 1937(昭和12)年10月、島木健作は、転向して、『生活の探求』を書きました。これは転向の苦悶を描いた作品です。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
政治と学者、河上肇、小林多喜二
 私は一時学者を目指して、大学院に席を置いていました。その後、高校に勤務するようになりました。学問・研究の自由と教育という一致する部分と矛盾する要素を抱えての生活が続きました。
 しかし、河上肇や滝川幸辰事件を見ると、学問は政治には無力だなーと感じました。だからこそ、学問の自由は大切だということも分かりました。
 赤松克麿や佐野学の様に、大衆運動のリーダーが転向した例もあります。転向後の声明を見ると、滑稽というか哀れさを感じます。知識人は、拷問に弱いんだなーと感じました。だから、思想・信条の自由の重要性を実感しました。
 最近のTVは学者や評論家、弁護士までが、激論(?)を交わすようになってきました。山内昌之東大教授はこれを「政治討論じみたバラエティー番組」と規定しています(2006年3月2日付け朝日新聞)。
 私が高校時代、画家の岡本太郎氏と小説家林房雄氏らが白黒のTVで討論会をしていました。どんな流れかわかりませんが、林氏がかなり激しい発言をすると、岡本氏は「そんなことを言う権利があるのか」と林氏を詰問しました。林氏はすごい形相で岡本氏を睨んでいたのを覚えています。後で、調べてみると、岡本氏は林房雄氏の転向を指摘していたということが分かりました。
 転向した赤松克麿は、(1)「一君万民の国民精神に基き搾取なき新日本を建設する」と主張しました。赤松克麿は、国際労働歌である「赤旗の歌」を訳詞した人物です。
(2)「民衆の旗 赤旗は 戦士の屍を包む 死屍固く冷えぬ間に 血潮は旗を染めぬ
  高くたて赤旗を その蔭に死を誓う 卑怯者去らば去れ 我等は赤旗守る」
 (1)と(2)の間に余りにも差があるので、赤松克麿の心境を深く思うと、複雑な気がします。
 河上肇の自伝の一部です。時代を達観した人と、周囲の世相がよくわかります。
 改造社から「四月号の『改造』が発売禁止になつた」という電報が来ました。
 2年前に、大学教授の地位を利用しながら、社会主義の宣伝をしようと『社会問題研究』を刊行していました。内務大臣の鞄持ちをしてゐる滝正雄君は、「一日も早く刊行を中止するやうお勧めする」と言ってくる。福田徳三君は、「河上は研究の名に隠れて主義の宣伝をしてゐる、内務省はなぜあれを発売禁止にしないのか」と咆哮していると聞いた。私は、大学教授中の「危険思想家の巨頭」だと極印づけられてゐた。発売禁止になつたら最後、その時こそは直ぐに免官になる筈だといふ噂があり、私自身も已にその覚悟を決めてゐた。
 今になつては夢のやうな話だが、二十年余り前の大学教授といふものは、それほどの権威を有ち、軍部的警察的帝国主義の治下に在りながら、大学の一角に拠り、敢然として言論の自由を享受してゐたのである。当時私は民間の社会主義者よりも遥に広い言論の自由を有つてゐた。堺利彦、山川均などいふ人が筆にすれば直ぐに発売禁止になるやうなことでも、私は伏字も使はずに平気に書いてゐた。昭和二年末、日本共産党が公然その姿を民衆の前に現はすに至るまでは、日本の資本家階級はまだ自信を失はずに居たので、大学における学問研究の自由については、まだ比較的寛大であつた。それに大正の初年に起された同盟辞職の威嚇によつて京都帝大の贏ち得た研究の自由は、牢乎として此の大学の伝統となり、私は少からず其の恩恵に浴したのである。
 難波大助が皇太子(後の昭和天皇)を襲撃した虎の門事件が発生しました。山本権兵衛内閣は、その日のうちに総辞職し、警視総監の湯浅倉平は、懲戒免職となりました。河上肇の親戚で、河上肇が書いた「断片」に影響されていたらしい。
 「この難波大助といふ青年は、後年の共産党員が、一たび検挙されると、有名な巨頭から無名の末輩に至るまで、相次いで転向の誓約を敢てしたのとは反対に、最後までその自信を曲げず、徹頭徹尾、毅然たる態度を持した、世にも珍らしい、しつかりした男であつた。彼のために裁判長をした当時の大審院長は、後年退官後、何十年かに亘る彼の司法官生活の回顧の中で、”自分の取扱つた被告は無数であるが、その数多き被告の中で、自分は難波くらゐしつかりした男を見たことがない”と言つた」。
 「彼の最も愛してゐた妹を差し向け、何遍でも彼の面前で泣かしめるやうになつてから、遂に閉口して、ともかく表面上では、当局者の注文通りにしようと約束することになつた。…裁判長は悔悛の情、顕著なるものありと認め、情状を酌量し、死一等を減じて無期懲役の判決を下す。…死一等を減ずることによつて、天皇の名において行はれる裁判の上に、皇室の限りなき仁慈を現はすことも出来る…。ところが、裁判の当日、法廷に立つた難波は、その場に居た総ての人々の予期を破つて、意外にも堂々と自分の変はることなき確信を述べ、最後に声を張り上げてコミンテルン万歳を三唱した。かくて難波は、彼の希望 「裁判は傍聴禁止のもとに極秘の裡に行はれたから、裁判長が被告に読み聞かせた判決文もまた極秘に附せられた。…慎み深い高官たちの中には、誰一人として余計なおしやべりなどする者は居なかつた。幸運な私は、おかげで助かつた。もし此の判決文が新聞紙にでも掲載されようものなら、私はとくの昔し甘粕大尉のやうな人に、何遍殺されてゐるか知れないのだ。
 と云ふのは、判決文はごく短いものだが、その一節には、河上肇の『断片』を読みて遂に最後の決意をなし云々といふことが、明記されて居るのである」。
 「つい近頃のことである、京都帝大経済学部の教授石川興二君は、その著書に禍されて休職になつたが、その著書といふのも、両三年前、著者自ら市場より引上げ且つ絶版に附して居たものである、元来、同君の如きは、盛んに国体主義を振り廻はし、天皇中心の思想を宣伝これ努めて居たのであるのに、偶資本主義制を不用意に非難し過ぎたといふ廉を以て、忽ちこの災に遇つた。問題にされた著書の如きも、嘗て発売禁止にもならず、暫くの間無事世上に流布されて居たものであるが、一朝にしてこの災に遇つた筆者は、さぞかし意外とされたであらう」。(昭和18年4月)
 次はプロレタリア作家で、『蟹工船』の作者である小林多喜二です。
 逮捕された7時間後、小林多喜二は急死しました。
 検事局と警視庁は「心臓麻痺」と発表したため、母の小林タキが大学病院に死体の解剖を依頼しましたが、大学病院はそれを拒否しました。その結果、本当の死因は不明となりました。
 毛利基特高課長は「決して拷問した事実はない。心臓に急変をきたしたものだ」という心臓麻痺の談話を発表し、これが各新聞に掲載されました。
 死体を引き取りに行った江口渙は「顔面の打撲裂傷、首の縄の跡、腰下の出血がひどく、たんなる心臓マヒとは思えません」という談話を発表しました。これを都新聞だけが掲載しました。
 母の小林タキは「むごくも変わりはてた姿に死の対面をした」と語り、それを読売新聞が掲載しました。
 自宅に帰った息子に対して、母の小林タキは「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか」と泣き叫んだといいます。
 小林多喜二が虐殺された当時の警視庁特高部長は安倍源基で、直接手を下したのは毛利基特高課長・中川成夫警部・山県為三警部でした。
 戦後、彼らがどんな運命を辿ったか調べてみました。安倍源基は、A級戦犯容疑として拘置されますが、占領政策の転換で釈放されされました。
 毛利基は、終戦直後、埼玉県警察部長を退職します。
 中川成夫は、戦後の1946年には東映取締役興行部長となり、『警視庁物語』シリーズなどを制作しました。1964年には東京都北区教育委員長に就任しています。
 『阿Q正伝』を書いた魯迅は、小林多喜二の死を聞いて、次のような文章を寄せています。
 「日本と支那との大衆はもとより兄弟である。資産階級は大衆をだまして其の血で界をゑがいた。又ゑがきつつある。併し無産階級と其の先駆達は血でそれを洗って居る。同志小林の死はその実証の一つだ。我々は知って居る、我々は忘れない。我々は堅く同志小林の血路に沿って前進し、握手するのだ」。
(『プロレタリア文学』1933年4・5月合併号より)

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