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エピソード

248_01

転向の時代U(二・二六事件、矢内原事件、人民戦線事件)
 転向の時代のその(2)です。
 二・二六事件というクーデタによって、内相・蔵相らの重臣が殺害され、より物を言えぬ時代になってきました。 
 1934(昭和9)年7月、@31岡田啓介(陸軍大将)内閣が誕生しました。
 1335(昭和10)年1月24日、民政党の斉藤隆夫は、衆議院で、陸軍パンフレットおよび軍事費偏重を攻撃しました。
 2月18日、菊池武夫男爵は、貴族院で、美濃部達吉の天皇機関説を攻撃しました。
 3月4日、岡田啓介首相は、議会で、天皇機関説反対を言明ました。
 7月16日、教育総監の真崎甚三郎が罷免され、後任に渡辺錠太郎が任命されました。統制派と皇道派の対立が深刻化しました。
 8月2日、士官学校事件で休職中の村中孝次磯部浅一は、「粛軍に関する意見書」を頒布して、免官となりました。
 8月3日、岡田啓介内閣は、国体明徴を声明しました。
 8月12日、陸軍省軍務局長の永田鉄山少将は、陸軍省内で、皇道派の相沢三郎中佐に刺殺されました。
 9月18日、美濃部達吉が貴族議員を辞任しました。
 1336(昭和11)年1月10日、天皇機関説論者として攻撃された法制局長官の金森徳次郎が辞任しました。
 1月15日、ロンドン海軍軍縮会議の首席全権である永野修身は、ロンドン海軍軍縮会議よりの脱退を通告しました。
 2月18日、村中孝次・磯部浅一・安藤輝三ら陸軍皇道派の青年将校は、クーデタの具体案を決定しました。
 2月20日、@19回総選挙が行われました。その結果民政党が205人、政友会が171人、昭和会22人、国民同盟が15人、中立その他が35人、社会大衆党は5人から一挙に3倍の18人が当選しました。
 2月26日、皇道派青年将校は、1400人の部隊を率いて挙兵し、内大臣斉藤実・蔵相高橋是清・教育総監渡辺錠太郎らを殺害しました。永田町一帯を占拠して、国家改造を要求しました。これを二・二六事件といいます。
 2月27日、東京市に戒厳令を布告しました。
 2月29日、戒厳部隊が討伐行動を開始したので、反乱軍は帰順しました。
 3月6日、陸相候補の寺内寿一は、自由主義的色彩の入閣予定者排除を要求し、組閣に干渉しました。
 3月9日、@32広田弘毅内閣(外交官)が誕生しました。外相には広田弘毅が兼任、陸相には寺内寿一、海相には永野修身らが任命されました。
 4月17日、閣議は、支那駐屯軍を2000人から5000人に増強することを決定しました。
 5月5日、紅軍は、山西から撤退し、国民政府に、反蒋スローガンを放棄し、停戦講和一致抗日を通電しました。
 5月7日、第一師団軍法会議は、相沢三郎中佐に死刑の判決を下しました。
 5月18日、広田弘毅内閣は、陸海軍大臣・次官を現役とする旨を勅令で公布しました。
 6月1日、上海の全国各界救国連合会は、国民政府に対して、連共抗日を要求しました。
 6月8日、帝国国防方針・用兵綱領の第三次改定が裁可されました。その内容は、次の通りです。
(1)仮想敵国をアメリカ・ソ連とする。
(2)所要兵力は、陸軍50個師団、航空142中隊、海軍戦艦12隻、空母12隻、航空65隊とする。
 7月5日、東京陸軍軍法会議は、二・二六事件に関して、17人に死刑を宣告しました。
 7月12日、村中孝次・磯部浅一を除いて、死刑を執行しました。
 7月18日、スペイン内乱が始まりました。
 8月7日、首相・外相・陸相・海相の4相会議で、帝国外交方針を決定しました。首相・外相・陸相・海相・蔵相の5相会議で、国策の基準を決定し、大陸・南方への進出と軍備充実を決定しました。
 8月25日、中国共産党は、国民党に対して、抗日民主国共合作・民主共和国の樹立を提唱しました。これを8月書簡といいます。
 11月5日、斉藤隆夫ら民政党有志代議士は、軍人の政治干与排撃を決議しました。
 11月6日、陸相の寺内寿一は、議会制度改革案につき「陸軍は憲法を遵守する」旨釈明の談話を発表しました。
 11月14日、内蒙軍は、関東軍の援助を受け、綏遠東部に進出しました。
 11月23日、内蒙軍は中国傳作儀軍に大敗し、百霊廟が陥落しました。これを綏遠事件といいます。
 11月23日、国民政府は、章乃器ら救国連合会の7領袖を逮捕し、抗日世論を弾圧しました。
 11月25日、日独防共協定がベルリンで調印されました。
 12月4日、蒋介石は、西安に飛び、張学良らに掃共継続を命令しました。
 12月12日、張学良は、逆に蒋介石を軟禁しました。これを西安事件といいます。
 12月16日、国民政府は、張学良の討伐を決定しました。共産党の周恩来は、西安に飛び、張学良と蒋介石と会談しました。
 12月19日、中国共産党の中央は、蒋介石を含む和平会議の招集を提案しました。
 12月21日、ワシントン海軍軍縮条約が失効しました。
 12月26日、蒋介石は、南京に帰還しました。
 1937(昭和12)年1月21日、政友会の浜田国松は、衆議院で、演説中に、陸相の寺内寿一と腹切り問答を行い、政党と軍部の対立が激化しました。
 1月23日、解散を主張する寺内寿一陸相と、政党出身の閣僚が対立し、広田弘毅内閣は総辞職しました。
 1月30日、陸軍当局は、憲政についての軍の意向に関し、ファッショ政治を企図せずなどと釈明の声明を発表しました。
 2月2日、@33林銑十郎内閣が誕生しました。外相・文相は林銑十郎が兼任、海相は米内光政らが就任しました。政友会や民政党からの入閣はありませんでした。
 3月11日、労農無産協議会は、日本無産党を結成しました。
 3月31日、衆議院は、会期最終日に解散しました。林銑十郎首相は、議会刷新のため解散を断行すると談話しました。これを食い逃げ解散といいます。
 4月16日、外相・蔵相・陸相・海相は、対支実行策・北支指導方策を決定しました。
 4月30日、@20総選挙が実施されました。その結果、民政党が179人、政友会が175人、社会大衆党が37人、昭和会が19人、国民同盟が11人、東方会が11人、日本無産党が1人、中立その他が33人の当選者を出しました。
 5月24日、望月圭介は、唯一の与党である昭和会の解党をつげ、林銑十郎首相に総辞職を進言しました。
 5月26日、政友会と民政党は、林銑十郎内閣の即時退陣を要求しました。
 5月31日、林銑十郎内閣が総辞職しました。
 6月4日、@34近衛文麿内閣が誕生しました。外相には広田弘毅、蔵相には賀屋興宣、陸相には杉山元、海相は米内光政らが就任しました。政友会や民政党からも入閣しました。
 7月7日、蘆溝橋で、日中両軍が衝突しました。これが日中戦争の発端です。
 8月14日、陸軍軍法会議は、二・二六事件民間関係者の北一輝・西田税に死刑判決を下しました。
 8月15日、蒋介石は、廬山で周恩来と会談し、対日抗戦の総動員令を下しました。
 8月19日、北一輝・西田税・村中孝次・磯部浅一が死刑を執行されました。
 8月21日、南京で、中ソ不可侵条約を調印しました。
 9月23日、蒋介石は、中国共産党の合法的地位を承認しました。これを第二次国共合作の成立といいます。
 9月、東大教授の矢内原忠雄が『中央公論』に書いた「国家の理想」が全文削除されました。
 11月8日、新村猛真下真一らの世界文化グループが検挙されました。
 11月20日、蒋介石は、重慶への遷都を宣言しました。
 11月24日、東京帝大経済学部長の土方成美は、教授会で、矢内原忠雄の言論活動を非難しました。
 12月4日、矢内原忠雄は、帝大教授を退官しました。
 12月7日、内務省は、活動写真の興行時間を3時間以内に制限しました。
 12月13日、日本軍は、旧首都の南京を占領しました。この時、虐殺事件をおこしました。これを南京事件といいます。
 12月15日、労働運動家の山川均・日本無産党委員長の加藤勘十・同党書記長の鈴木茂三郎大森義太郎ら労農派など400人は、反ファッショ人民戦線の結成を企図したとして、検挙されました。これを第一次人民戦線事件といいます。
 12月22日、日本無産党・日本労働組合全国評議会に結社禁止令が出されました。
 12月、内務省警保局は、人民戦線派の執筆禁止を出版業者に通告しました。
10  1938(昭和13)年2月1日、労農派長老の大内兵衛・東大助教授の有沢広巳・労農派経済学者の美濃部亮吉脇村義太郎ら教授グループなど労農派が検挙されました。これを人民戦線事件第二次検挙といいます。
 2月7日、岩波文庫社会科学関係書目28点が自発的休刊を強要されました。
 2月9日、全国農民組合を中心に、大日本農民組合が結成され、反共・反人民戦線を主張して、戦争に協力を表明しました。
 2月15日、警視庁は、盛り場でサボ学生狩りを行い、3日間に3486人を検挙し、宮城遥拝後、釈放しました。
 2月25日、蓑田胸喜松田福松らは、「国家と大学ー東京帝国大学法学部の民主主義無国家思想に対する学術的批判」と題する講演を行いました。それに煽られた一部学生が法学部の教授を攻撃しました。
 3月3日、陸軍省軍務課員の佐藤賢了中佐は、衆議院国家総動員法案委員会で、説明員として答弁中、委員に「だまれ」とどなって問題となりました。
 3月13日、ドイツは、オーストリアを併合しました。
 3月、内務省警保局は、雑誌社に戸坂潤(39歳)・宮本百合子(41歳)らの原稿掲載を見合わせるよう内示しました。
 4月1日、国家総動員法が公布されました。
 5月19日、日本軍は、徐州を占領しました。
 7月11日、張鼓峰事件がおこりました。
 7月30日、内務省は、個人主義排除など映画の内容制限を各社に要請しました。
11  9月29日、イギリス・フランス・ドイツ・イタリアがミュンヘンで会談し、ズデーテン地方のドイツへの割譲を決定しました。これをミュンヘン協定といいます。
 10月5日、東大教授の河合栄治郎『ファシズム批判』・『社会政策原理』・『第二学生生活』・『時局と自由主義』が発売禁止になりました。
 10月6日、東京帝大経済学部助教授の有沢広巳が休職処分を受けました。
 10月17日、日本軍は、武漢三鎮を占領しました。
 11月3日、近衛文麿首相は、東亜新秩序建設を声明しました。これを第二次近衛声明といいます。
 12月14日、東京帝大経済学部助教授の脇村義太郎が休職処分を受けました。
 12月24日、東京帝大経済学部教授の大内兵衛が休職処分を受けました。
12  1939(昭和14)年1月5日、@35平沼騏一郎内閣が誕生しました。外相に有田八郎、陸相に板垣征四郎、海相に米内光政、内相に木戸幸一、文相に荒木貞夫らが就任しました。
 1月28日、東京帝大総長の平賀譲は、経済学部教授の河合栄治郎と同教授の土方成美の休職処分を文相に上申しました。
 1月30日、休職処分に反対の13教授が辞表を提出しました。 
 1月31日、高等文官分限委員会は、河合栄治郎の休職処分を発表しました。
 2月13日、高等文官分限委員会は、土方成美の休職処分を発表しました。これが平賀粛清です。
 3月30日、文部省は、大学でも軍事教練を必修としました。
 5月12日、ノモンハン事件がおこりました。
 7月8日、国民徴用令が公布されました。
13  8月15日、東京市は、隣組回覧板10万枚を配布しました。
 8月23日、モスクワで、独ソ不可侵条約が調印されました。
 8月28日、平沼騏一郎内閣は、「欧州情勢複雑怪奇」と声明して、総辞職しました。
 8月30日、@36阿部信行内閣(陸軍大将)が誕生しました。外相に阿部信行が兼任しました。
 9月1日、ドイツ陸軍・空軍は、ポーランドに進撃を開始しました。これを第一次世界大戦の始まりといいます。
 9月1日、この日を興亜奉公日と定め、毎月1日に実施しました。酒不売のため、待合・バー・料理屋などは休業となりました。
14  1940(昭和15)年1月11日、津田左右吉は、東京帝大講師に就任しました。右翼が攻撃し、早稲田大学教授も辞任せざるを得なくなりました。
 1月14日、阿部信行内閣は、陸軍の支持を失い、総辞職しました。
 1月16日、@37米内光政内閣(海軍大将)が誕生しました。外相に有田八郎、陸相に畑俊六らが就任しました。
 2月6日、山形県で村山俊太郎ら3人が生活綴り方に関係したとして検挙されました。その後、全国で300人の教員が検挙されました。
 2月10日、津田左右吉は『古事記及日本書紀の研究』で、『記紀』神話は事実ではないと主張したとして発売禁止になりました。
 2月12日、津田左右吉の『神代史の研究』・『上代日本の社会及思想』・『日本上代史研究』などが皇室の尊厳を冒涜しているとして発売禁止になりました。
 3月8日、津田左右吉の出版元である岩波茂雄は、出版法違反で、起訴されました。
 7月16日、陸相の畑俊六が単独辞職して、米内光政海軍内閣は総辞職しました。
 7月22日、@38近衛文麿内閣が誕生しました。外相は松岡洋右、陸相は東条英機、商相に小林一三らが就任しました。
 7月6日、社会大衆党が解党しました。
 8月8日、解党した諸会派は、新体制促進同志会を結成しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
学者への批判は、学問によってなすべきである
 戦後、矢内原忠雄は、東京大学の総長になりました。優しい顔立ちとは違い、論法は鋭いものがあり、日本の良心という印象があります。
 医者の子として生まれた矢内原忠雄は、内村鑑三の無教会主義のキリスト教に接近し、帝大に入学すると、吉野作造の民本主義や人道主義的な立場から植民政策学を講じていた新渡戸稲造の影響を受けたといいます。
 その後、新渡戸稲造が国際連盟事務次長に就任したので、その後任として帝大経済学部助教授となりました。教授となった矢内原忠雄は、『帝国主義下の台湾』らの著作で、「帝国主義の一環としての日本の植民地政策」を批判していました。
 1937年7月、盧溝橋事件がおきました。日中戦争に発展していきます。
 9月、盧溝橋事件直後に、矢内原忠雄は、雑誌『中央公論』に「国家の理想」を発表しました。その内容は、「国家が目的とすべき理想は正義であり、正義とは弱者の権利を強者の侵害圧迫から守ることであること、国家が正義に背反したときは国民の中から批判が出てこなければならない」というものでした。その結果、この内容が反戦的であるとして教授会で問題となりました。
 10月、矢内原忠雄が個人的に発行していたキリスト教関係の雑誌『通信』に、矢内原は自分の講演記録を掲載しました。その中に、「日本の理想を生かすために、一先ず此の国を葬って下さい」という文章がありました。この報告を受けた木戸幸一文相は、矢内原を非難するようになりました。
 12月、矢内原忠雄は、教授を辞任しました。辞職後も矢内原は、『通信』に代わって『嘉信』を発行し、キリスト教信仰に基づく平和主義を主張しました。
 1945年11月、矢内原忠雄は、東大教授に復帰しました。
 1951年、矢内原忠雄は、東大総長に選出されました。
 1952年2月20日、私の10歳の時、東大ポポロ事件がおこりました。後の学習かは知りませんが、鮮明に印象に残っています。東大の学生劇団「ポポロ」が劇を上演中、情報収集のために観客を装って潜入していた私服警官3人の様子が妙なので、学生が手帳を取り上げると、警察手帳でした。
 2月21日、警視庁予備隊は、大学構内に入り、経済学部の学生を暴行容疑で逮捕しました。矢内原忠雄総長は、大学の自治を守るよう呼びかけました。
 2月25日、「我々は告発する−警察手帳の全貌」というパンフレットが配布されました。そこでは、戦前と同じ治安警察の実態が浮かび上がりました。
 1963年5月22日、最高裁は、「大学における学問の自由を保障するために、伝統的に大学の自治が認められている」「大学の学問の自由と自治は、大学が学術の中心として深く真理を探求し、専門の学芸を教授研究することを本質とするに基づくから、直接には教授その他の研究者の研究、その結果の発表、研究結果の教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味すると解される」として、大学の学問の自由と自治は教授やその他の研究者に与えられると判決しました。しかし、学生には「学生の集会が真に学問的な研究またはその結果の発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動に当る行為をする場合には、大学の有する特別の学問の自由と自治は享有しないといわなければならない」と公共性との関係を指摘しました。
 学問・研究は、学問・研究を通じて批判すべきものだということがよく理解でしました。
 私も在職中や、自治会の役員や、子供関連の様々な役職についてきました。ある程度の総意で進行すると、絶対に反対派がいます。その人の発言を封ずれば、議事はスムースに進むので、「欠席してくれればいいなー」と内心思ったことが何度もあります。
 しかし、そのような亡霊に脅かされるのでなく、「今までの経過を、正々堂々と説明しよう。不都合な事があれば素直に謝罪しよう。そして、出席者の過半数の賛成を得よう」と腹をくくります。
 自分の嫌いな考えや人物を排除するのでなく、ルールに従い、丁寧に説明すれば、時間がかかりますが、必ず分かってもらえます。
 ここで検挙された人物の戦後を調べてみました。
 新村猛氏は、大ベストセラー辞典『広辞苑』の著者です。
 真下真一氏は、名古屋大学の教授で、ヘーゲル研究家で著名です。
 大内兵衛氏は、社会保障制度審議会会長・統計審議会会長・日本統計学会長・日本学士院会員を歴任しています。
 有沢広巳氏は、傾斜生産方式を立案したり、原子力委員会委員長を務めました。
 美濃部亮吉氏は、美濃部達吉の子供で、内閣統計委員会事務局長・経済安定本部参与・東京都知事・参議院議員などを歴任しました。
 脇村義太郎氏は、持株会社整理委員会委員・船員中央労働委員会会長・海運造船合理化審議会委員・独占禁止懇談会会長などを歴任しました。
 文学・哲学・経済の学問で活躍している教授を排除する社会に発展はありません。排除したい教授より説得ある教授を育成して、どちらが日本の将来に大切かを競争する原理が大切なのです。
 今の日本に、「排除の論理」がないとはいえません。
 共産主義者の労働運動家や学者や小説家が検挙される。国民は「やっぱり」と黙認する。次に、自由主義的・個人主義的・民主主義的な発言をする教授が検挙される。ここでも国民は「やっぱり」と黙認する。
 その次に、何が来るでしょうか。
 今、私たちの周囲で色々な現象が起こったいます。政治家の発言があります。第二・第三のホリエモンのパフォーマンスがあります。彼らは、次を意図して言動を発しています。想像力をたくましくする必要があります。
 警視庁は、盛り場でサボっている学生狩りを行い、3日間に3486人を検挙しました。今、警察に、都会を働かず徘徊している若者を逮捕してくれという声が大きい。
 内務省は、映画会社に、個人主義的な映画は制作しないよう要請しました。今、TVの「下らないバラエティ番組」排除の大人の婦人の声が大きい。
 あっという間に、戦前に戻る常態が揃っています。想像をたくましくして、戦前を見つめてみましょう。

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