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エピソード

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ムソリーニとファシスタ、ヒトラーとナチス
 第一次世界大戦が終了後、世界の人々は、国際連盟を作り、二度の戦争をしない事を誓ったはずです。しかし、第二次世界大戦が勃発しました。
 ここでは、どうして、あってはならないはずの戦争が始まったのか、その過程を、ヨーロッパの歴史を通して見ていきます。
 1915年、イタリアは、三国同盟に背き、連合国側で参戦しました。秘密協定であるロンドン協約では、参戦を条件に、フィウメを含むダルマティアの領有が約束されたからです。
 1919年1月5日、ドイツ労働者党(Deutsche Arbeiter-partei)がミュンヘンで結成されました。反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義・産業の国有化・福祉政策の推進など総花的な25ケ条綱領を主張しました。後にヒトラーも入党しました。
 1月19日、ドイツ国民議会選挙が実施され、社民党が163人、中央党が88人、民主党が75人、独立社民党が22人当選しました。
 3月23日、ムッソリーニは、ミラノで戦闘者ファッショを結成しました。
 6月28日、ヴェルサイユ講和条約が調印されました。イタリアは、三国同盟を裏切り、50万人の戦死者を出したにも拘わらず、ロンドン協約は反故にされ、フィウメはアメリカ・イギリス軍が占領しました。
 7月31日、ドイツ国民議会は、ワイマール共和国憲法を採択しました。
 9月12日、愛国詩人のダヌンツィオは、黒シャツ隊(復員軍人などの義勇兵)4000人を率いてフィウメを占領し、共和国を樹立しました。しかし、イタリア政府は、これを承認しませんでした。
 1920年2月24日、ドイツ労働者党は、国家社会主義ドイツ労働者党と改称しました。ドイツ語ではNational-sozialistische Deutsche Arbeiter-parteiと書き、略してNSDAPとなります。一般にはNAZIS(ナチス)といわれます。党員数は2000人でした。
 9月、イタリアでは、労働者のストライキが激化し、社会党左派の指導のもとで、革命前夜の状況となりました。ムッソリーニが率いる戦闘者ファッショは、社会党左派などの労働運動を暴力で鎮圧しました。
 1921年5月15日、ムッソリーニが率いる戦闘者ファッショは、共産主義を恐れる資本家・地主・軍部などの支持を受けて、総選挙では22人を当選させました。自由・民主が275人で過半数を制し、社会が122人、共産が16人の当選者を出しました。
 7月29日、ヒトラーが国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首となりました。
 10月、エルンスト・レーム大尉が設立した体育スポーツ局を突撃隊(SA) と改称しました。これは後に、左翼のデモ弾圧に投入されます。
 11月、ムッソリーニは、戦闘者ファッショをファシスト党(ファシスタ)に改組し、30万人の党員を軍隊的な黒シャツ隊に組織化して、社会党が過半数のボローニャ市会を襲撃し、市庁舎を占拠しました。楯の会を組織した三島由紀夫も、ムッソリーニのやり方を学ん可能性があります。
 1922年4月16日、ラパロ条約により、フィウメは、独立都市として認められました。
 8月1日、ミラノの労働同盟は、ゼネストを宣言しました。
 8月3日、ムッソリーニのファシスタは、ミラノに潜入し、市庁舎を占拠しました。
 10月24日、ムッソリーニは、ナポリのファシスト党大会で、政権奪取を宣言しました。
 10月28日、ムッソリーニは、黒シャツ隊を率いて、ナポリからローマに進撃しました。これをローマ進軍といいます。ファクタ首相は、イタリアの国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世に戒厳令の発布を求めました。しかし、国王はこれを拒否しました。
 10月30日、国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は、ムッソリーニに組閣を命令しました。
 10月31日、ファシスト党と国家主義者の連合内閣が成立しました。これをファシスト政権といいます。
 11月、ムッソリーニは、フィウメにイタリア軍を進駐させました。
 11月25日、黒シャツ隊はローマを占領しました。国王と議会は、ムソリーニに秩序回復のための独裁権を与えました。これをムッソリーニ政権の成立といいます。
 1923年1月11日、フランス・ベルギー軍は、ヴェルサイユ条約の賠償金の支払い遅延を理由に、ドイツの工業地帯であるルール地方に侵入し、占領しました。
 1月14日、イタリアの国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は、ファシスタ国防義勇軍(黒シャツ軍)を正規の国防軍として認可しました。
 8月13日、ドイツで、シュトレーゼマン大連合内閣(国民党・社民党・中央党・民主党)が成立しました。
 8月、ドイツで、マルク紙幣が大暴落(1ドル=460万マルク)しました。
 9月11日、フリードリヒ・エーベルト大統領が非常事態宣言を出すと、粋主義的政党は反ベルリン・反ワイマール共和国を唱えて武装蜂起しました。
 11月8日、ヒトラーは、バイエルン州のミュンヘンで、軍人ルーデンドルフを擁して右翼政権樹立のクーデタを計画しました。これをミュンヘン一揆といいます。バイエルン州政府は、この一揆を鎮圧しました。ヒトラーは投獄され、禁固5年の判決を受けまし。獄中で『我が闘争』を書いて、合法路線に転換しました。
 11月14日、イタリア議会は、ムソリーニの選挙法改正案を可決しました。その結果、得票数4分の1以上の第一党い3分の2の議席を下付することになりました。
 11月15日、ドイツで、マルク紙幣が最大暴落(1ドル=4兆2000億マルク)しました。その結果、レンテンマルクを発行し、インフレは収束に向かいました。
 1924年1月27日、ムッソリーニは、ローマ帝国の再現を唱えて対外拡張政策を進め、フィウメを併合しました。
 4月6日、ファシスト党は暴力による徹底した選挙干渉を行い、第一党(総投票数の65%)に躍進しました。
 4月9日、ドイツの賠償支払い案(ドーズ案)を完成しました。8億金マルクの外資導入を決定しました。
 7月1日、イタリア政府は、出版物検閲法を公布しました。
 1925年10月5日、ロカルノ条約に調印し、ドイツ西部国境の現状維持を約束しました。
 12月20日、イギリス・イタリア間に覚書を交換し、エチオピアでの勢力範囲の相互尊重を約束しました。
 1925年、ヒトラーは、自分を警護させるために、突撃隊の下部組織として親衛隊を設置しました。
 1926年9月8日、ドイツは、国際連盟に加入し、常任理事国になりました。
 11月、ムッソリーニは、ファシスタ以外の全政党を解散し、ファシスタ一党独裁制を確立しました。
 1928年5月20日、ドイツ議会選挙で、社会民主党・共産党が議席を増大させました。ナチスは2.6%を獲得しました。
 6月28日、社民党のミュラーは、ブルジョワ諸政党との大連合内閣を形成しました。
 8月27日、パリで、日本など15カ国は不戦条約ケロッグ・ブリアン条約)に調印し、国策の手段としての戦争を放棄することを約束しました。
 11月15日、ファシスト大評議会がイタリアの正式の国家機関となりました。
 1929年1月6日、ヒトラーは、ハインリヒ・ヒムラーを第4代の親衛隊最高指揮官に任命しました。ヒムラーは280人の親衛隊員を20万9000人にまで拡大しました。
 2月11日、ムソリーニは、ローマ法王とラテラン条約に調印し、バチカン市国の独立を承認しました。
 8月6日、ドイツは、ヤング案に同意し、連合国は、ラインラント撤退に同意しました。
 10月24日、世界恐慌が始まりました。
 1930年4月22日、ロンドン海軍軍縮条約が調印されました。
 9月14日、ドイツ国会選挙で、社民は143人(9減)、ヒトラー率いるナチスは18.3%を獲得して107人(95増)、共産は77人(23増)が当選しました。
 1931(昭和6)年4月、@28若槻礼次郎内閣が誕生しました。
 9月、関東軍が満鉄を爆破するという柳条湖事件がおきました。これを満州事変といいます。
 10月17日、荒木貞夫を擁立する軍部内閣の樹立計画が未遂に終わりました。これを十月事件といいます。この結果、陸軍の実権は、皇道派が握ることになります。
 10月26日、親衛隊長のヒムラーは、右腕であるラインハルト・ハイドリッヒを党内警察組織である親衛隊保安部長に任命し、敵性分子を諜報・監視させました。
 12月、@29犬養毅内閣が誕生しました。
 1932(昭和7)年3月1日、満州国が建国されました。
 3月13日、ドイツ大統領選挙で、中道政党・社会民主党が支持するヒンデンブルクが49.6%、ヒトラーが30.1%、テールマンが13%を獲得しました。
 4月10日、第二回ドイツ大統領選挙で、ヒンデンブルクが53%を獲得して、再選されました。
 5月15日、古賀清志中尉ら海軍青年将校らは、犬養毅首相を射殺しました。五・一五事件です。しかし、彼らは禁錮15年以下の軽い刑でした。この軽い刑が次の事件へと発展します。
 5月26日、@30斉藤実内閣(海軍大将)が誕生しました。陸相には、皇道派の荒木貞夫が留任しました。
 5月30日、ドイツのブリューニング内閣は、東部救済問題で、ヒンデンブルク大統領の新任が得られず、総辞職しました。
 6月1日、ドイツで、パーペン内閣が成立しました。
 7月31日、ドイツ国会選挙で、ナチスは37.8%を獲得して、230人を当選させ、社会民主党の133人を抜いて第1党になりました。共産党は89人が当選しました。
 11月6日、ドイツ国会選挙(全議席584)で、ナチスは33.1%を獲得して196人(34減)、共産党は100(11増)が当選しました。危機を抱いた資本家がナチスを支持するようになりました。
 12月2日、パーペン内閣が総辞職しました。議会の同意を得ず、ヒンデンブルク大統領の緊急勅令により、ブリューニング・パーペン・シュライヒャー連立のシュライヒャー内閣が誕生しました。
 12月、ドイツでは、世界恐慌の影響で、工業生産は4割減少、失業者は600万人にたっしました。
10  1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領は、ヒトラーを首相に任命しました。シュライヒャー内閣が総辞職し、ナチス政権が誕生しました。党員数は250万人でした。
 2月2日、ジュネーブ軍縮会議は、ドイツの反対で結実しませんでした。
 2月24日、国際連盟総会は、満州国は日本の傀儡政権であるというリットン報告を承認しました。日本は、国際連盟脱退を通告しました。
 2月27日、ゲーリングは、突撃隊を使ってベルリン国会議事堂に放火し、その犯人を共産党員としてディミトロフらが逮捕しました。裁判の結果が出るまで、あらゆることに着手しました。
 2月28日、ヒンデンブルク大統領は、戒厳令を布きました。
 3月5日、ドイツで最後の国会総選挙が行われ、徹底した選挙干渉で、ナチスは43.9%を獲得して288人、社会民主党は120人、共産党は81人が当選しました。
 3月9日、ヒトラーは、共産党を非合法化しました。
 3月23日、全権委任法が可決され、4年間という期限付きのヒトラーの独裁体制が確立しました。ヒムラー長官が率いる国家秘密警察ゲシュタポがその権限に違反する者を逮捕しました。
 6月22日、ヒトラーは、社会民主党の活動を全面的に禁止しました。
 7月14日、ヒトラーは、新政党結成を禁止し、その結果、ナチスは唯一の政党となりました。
 9月21日、裁判の結果、議事堂放火事件で逮捕されたディミトロフらは、全員無罪となりました。
 10月14日、ヒトラーは、国際連盟からの脱退を声明しました。
11  1934(昭和9)年1月23日、荒木貞夫陸相が病気で辞任しました。後任には、統制派の林銑十郎が就任しました。
 1月26日、ドイツ・ポーランド不可侵条約が調印されました。
 4月、親衛隊長のヒムラーは、ゲーリンクからプロイセン州秘密国家警察局(ゲシュタポ)を引き継ぎました。
 6月30日、ヒトラーは、親衛隊長のヒムラーを使い、党内不平分子の突撃隊(SA)指揮官のエルンスト・レームシュライヒャーG.シュトラッサーらを粛清しました。これをレーム事件といいます。この功績により、ヒムラーの親衛隊は突撃隊より独立しました。
 7月、@31岡田啓介(海軍大将)内閣が誕生しました。陸相は統制派の林銑十郎が留任しました。
 8月2日、ヒンデンブルク大統領が亡くなりました。
 8月19日、ヒトラーは、大統領制を廃止し、国民投票により、総統(フューラー。首相と大統領を兼務)に就任しました。これをドイツ第3帝国の成立といいます。
 9月18日、ソ連が国際連盟に加入しました。
 11月20日、皇道派の村中孝次磯部浅一らの青年将校は、クーデタを計画したという容疑で検挙されました。これを士官学校事件または、十一月事件といいます。
12  1335(昭和10)年1月7日、フランス・イタリア間に協定を調印し、フランスはフランス領ソマリランドの一部を割譲し、エチオピア鉄道株の売却を承認しました。
 1月13日、国際連盟下のザール地域の人民投票を施行し、90%がドイツへの復帰に賛成しました。
 3月16日、ヒトラーは、ヴェルサイユ条約の軍備条項を破棄し、徴兵制による再軍備を宣言しました。
 9月15日、ヒトラーは、ニュルンベルクで行われたナチス党大会で「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」として、ニュルンベルク法を制定しました。8分の1までの混血をユダヤ人と規定し、ユダヤ人の市民権剥奪・公職からの追放・ドイツ人との結婚禁止・財産没収・企業活動禁止・ゲットーへの脅威隔離などが法の名の下で行われました。
 10月3日、イタリアは、エチオピアに侵入を開始しました。これをエチオピア戦争といいます。
 10月7日、国際連盟の理事会は、イタリアを侵略者と断定しました。
 11月18日、国際連盟の総会は、石油を除く武器・原料禁輸による経済制裁を実施しました。
13  1936年2月19日、スペイン国会選挙で、人民戦線派が勝利し、アサーニャ内閣が成立しました。
 2月26日、皇道派青年将校が、首相官邸などを襲撃し、内大臣の斉藤実や蔵相の高橋是清らを殺害しました。二・二六事件が起こりました。
 3月7日、ヒトラーは、ヴェルサイユ条約武装禁止条項とロカルノ条約を一方的に破棄し、ラインラント非武装地帯に進駐しましたが、フランスは何ら有効な手を打ちませんでした。
 3月9日、@32広田弘毅内閣が誕生しました。陸相は統制派の寺内寿一、海相は永野修身が就任しました。この結果、統制派による軍部主導権が確立しました。
 5月9日、イタリアは、エチオピア併合を宣言しました。
 7月18日、アサーニャ内閣打倒のスペイン内乱が始まりました。フランコ将軍は、スペイン国家主席を名乗りました。
 8月15日、イギリス・フランスは、スペイン内乱に不干渉を宣言しました。
 10月25日、イタリア外相のチアーノは、ベルリンを訪問し、ローマ・ベルリン枢軸が結成されました。
 11月18日、ドイツ・イタリアは、スペインのフランコ政権を承認しました。
 11月25日、日独防共協定がベルリンで調印されました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
ファシスタ・ナチスと小泉純一郎首相
 ファシスタ(ムソリーニが率いるファシスト党)やナチス(ヒトラーが率いる国家社会主義労働者党)が権力を握る過程を検証してみました。ドイツ社会民主党員は、国家社会主義労働者党を「ナチ(Nazi)」と罵り、国家社会主義労働者党員はドイツ社会民主党を「ゾチ(Sozi)」と言い返したことが語源と言われます。ナチス(Nazis)はナチ(Nazi)の複数です。
 まず、第一次世界大戦後の戦後不況がありました。ついで、世界恐慌が襲いました。
 ドイツ・イタリアでは、その原因を戦勝国に押し付ける風潮がありました。その風潮を利用したムソリーニやヒトラーは、国民に甘い綱領を作成しました。ナチスの前身のドイツ労働者党は、反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義・産業の国有化・福祉政策の推進など、相矛盾する総花的な公約を掲げています。
 ナチスは、国民が圧制の象徴と考えているヴェルサイユ条約の破棄と再軍備というナショナリズムを刺激して、人気を得ました。
 ムソリーニやヒトラーは私兵である親衛隊を組織して、労働運動を弾圧したり、共産党や社会民主党などの抑圧に利用しました。
 本来、私兵は、名称や目的がどうであれ、認められない存在です。しかし、時の政権や資本家が認めたのです。
 ムソリーニの黒シャツ隊は、社民党政権を都市を次々と、暴力で占拠していきました。最後には、黒シャツ隊を正規軍と認めました。
 ヒトラーの場合は、突撃隊を組織し、その下部組織として親衛隊を結成し、反対派を徹底的に弾圧しました。
 戦後の項で、詳しく述べますが、三島由紀夫の「楯の会」も同じ発想です。当時の日本では受け入れれれませんでしたが、文学者としての仮面を被って、今も、支持者が多いことは注意が必要です。
 ファシスタやナチスの台頭の背景には、甘い蜜に釣られた民衆の支持があります。次に、労働運動や共産主義勢力を暴力で弾圧する姿勢を支持する資本家の支持があります。
 余り指摘されていないことに、イギリスやフランスなどの大国のエゴがあります。
 イタリアのエチオピア侵略を許したのが、フランスです。
 スペインのフランコ政権を支持したのがドイツ・イタリアのファシズム勢力です。スペインの人民戦線内閣を見殺しにしたのがイギリスであり、フランスです。自分の国さえ被害に会わなければいいというエゴです。
 歴史は、最初は、少数派が弾圧され、やがては、自分に敵対したり、異論を挟むものへと攻撃や矢が放たれます。歴史の教訓は「第一ボタンを掛け間違うな!」です。
 ムソリーニもヒトラーも、私兵という暴力を使いながら、国民には選挙で、徹底して媚を売り続けました。
 ヒトラーの選挙術を知るには、その著書である『わが闘争』(Mein Kampf)が一番です。獄中のヒトラーは、エミール・モーリスやルドルフ・ヘスに口述しました。最初のタイトルは『嘘と臆病、愚かさに対する四年半』で、内容も雑な著述と反復が多く読解するのが困難だったといいます。
 日本語版で出版されましたが、アジア人に対する蔑視的表現が削除されていました。若し、この部分が削除されていなければ、日独関係は変わったものとなったかも知れません。知る権利の大切さを実感しました。
 『わが闘争』では、「アーリア人種が文化創造の主体である」という生物学的な人種理論を唱えたりしていますが、より有名なのが、群衆心理についての考察と宣伝の方法です。
(1)ワグナーの楽劇を鑑賞したヒトラーは、「われわれは芸術家をこの上なく偉大だと感じる。なぜなら、彼はその全作品の中で基礎的な国民気質、すなわちドイツ人気質を表現したからである。わが国民はそのことを熱望していたのである」と書いています。
(2)ドイツ労働者党に入党したヒトラーは、「それはわたしの人生で最も重要な決意であった。こうしてわたしはドイツ労働者党の党員登録を済ませ、番号7と記された仮の党員証を受け取った」と書いています。
(3)多くの大衆を相手に宣伝する場合は、「いかなる宣伝も大衆の好まれるものでなければならず、その知的水準は宣伝の対象相手となる大衆のうちの最低レベルの人々が理解できるように調整されねばならない。それだけでなく、獲得すべき大衆の数が多くなるにつれ、宣伝の純粋の知的程度はますます低く抑えねばならない」と書いています。
(4)宣伝の効果については、「大衆の受容能力はきわめて狭量であり、理解力は小さい代わりに忘却力は大きい。この事実からすれば、全ての効果的な宣伝は、要点をできるだけしぼり、それをスローガンのように継続しなければならない。この原則を犠牲にして、様々なことを取り入れようとするなら、宣伝の効果はたちまち消え失せる。」と書いています。
(5)課題の出し方については、「大衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮でなく、むしろ感情的な感覚で考えや行動を決めるという、女性的な素質と態度の持ち主である。だが、この感情は複雑なものではなく、非常に単純で閉鎖的なものなのだ。そこには、物事の差異を識別するのではなく、肯定か否定か、愛か憎しみか、正義か悪か、真実か嘘かだけが存在するのであり、半分は正しく、半分は違うなどということは決してあり得ないのである」と書いています。
(6)言葉の魅力については、「この世界における最も偉大な変革は、決してガチョウの羽ペンでは導かれなかった。宗教的・政治的たぐいの偉大な歴史的雪崩をひきおこした力は、大昔から語られる言葉の魔力であった」と書いています。
(7)扇動者が指導者であるについては、「偉大な理論家が偉大な指導者であることは稀で、むしろ扇動者の方が指導者に向いているだろう。指導者であるということは大衆を動かしうるということだからである」と書いています。
(8)短いフレーズについては、「ここでは人間はもはや知性を働かせる必要はない。眺めたり、せいぜいまったく短い文章を読んだりすることで満足している。それゆえ、多くのものは、相当に長い文章を読むよりも、むしろ具体的な表現を受け入れる用意ができているのである」と書いています。
(9)政治能力については、「その言葉の質朴さ、その表現の形式の独創性、さらにわかりやすい最も簡単な例を用いることこそ、このイギリス人のすぐれた政治能力があることを示す」と書いています。
(10)民衆に対する演説については、「民衆に対する政治家の演説というものは、わたしは大学教授に与える印象によって計るのではなく、民衆に及ぼす効果によって計るのである」と書いています。
 ヒトラーの『わが闘争』を読んで、小泉純一郎首相との共通点に気がつかれた方も多いでしょう。
(1)ヒトラーの信条は以下の通りです。
 「大衆は馬鹿である。同じ事を繰り返し喋れば真実になる。小さい嘘はすぐばれるが、大きな嘘は確認できないからばれない」「宣伝は一方的な発言だ。一つの事を真っ直ぐに強調して言え。宣伝は大衆に対してのみ行え」「民衆の心を獲得することは、目標の敵対者を絶滅させる場合にのみ可能である」
(2)小泉淳一郎首相の手法を披露しましょう。
 ワンフレーズで、具体的です。
 色々な場所で、色々な時に、同じ事を何度も繰り返し発言しています。
 常に巨大な敵対者をおき、それに立ち向かうヒーローを演じています。
 @自民党を巨大な「抵抗勢力」と見立てて、「自民党をぶっ壊す」と叫ぶ。
 A優勢民営化反対派を「抵抗勢力」と見立てて、「刺客」をおくる。
 B巨大な大陸中国を「抵抗勢力」と見立てて、心の問題だと「靖国参拝」を続ける。外交問題を心の問題をすり替えて、ナショナリズムに訴え、国民感情を揺さぶる。
(3)国民大衆の支持を得て、小泉首相がやったことは、いずれ歴史が評価するでしょうが、私なりにコメントしておきます。年寄や貧困層を優遇しても、お金は経済活動の還流されない。それなら、イギリスの鉄の女といわれたサッチャー首相ややアメリカのレーガン大統領やブッシュ大統領が行ったように、お金を経済活動に還流できる富裕層などを優遇しようというのです。これを小泉首相や竹中氏は「構造改革」と名づけたのです。
 案の定、空虚な美しい言葉に踊らされた大衆は、自分の首を絞めているとも知らず、小泉さんの構造改革を支持し、優遇されたヒルズ族のホリエモンに喝采を送ったのです。
 ヒトラーやムソリーニ、ナチスやファシスタが出現する素地は十分あることが証明されました。
 ヒトラーは、演説だけでなく、パフォーマンスにも力を注ぎました。
 じゅんじゅんと理論的に語るのでなく、感情的に、大げさに語りかけました。
 物静かに冷静に語るのでなく、手を振り上げ、時には、檄してコップをひっくり返す演出までして、大衆に呼びかけました。
 マス=コミを動員し、不眠不休で国民のために働くヒトラー像を作り上げました。同じ時間に同じ場所で同じ服装で、背景の時計の針だけを動かして、撮影し、「午前5時には起床して執務し、翌日の午前1時にも執務しているヒトラー」を宣伝しました。
 こうした手法は、今も色々な形で使われています。
 芥川賞作家の辺見庸さんは、「小泉時代とは」をテーマに次のように書いています。
 論理の射程が短く、「感動した」だの「ぶっ壊す」だのとエモーショナルな言葉を重ねる首相はとても幽玄な哲学の持ち主には見えないが、群衆にとってはかえって明快で小気味よく、マスメディアにとっては報じやすい政治家であるだろう。…
 人気絶頂時に民放テレビの報道番組担当ディレクターが嘆くのを聴いたことがある。「支持率80%の首相に批判的な番組をつくるのは不可能に近い」。かくしてメディアも情報消費者もこぞって「群衆化」していくようであった。いわゆる小泉劇場はしばしば大観衆に埋めつくされたが、劇揚を首相官邸サイドの思惑どおりに設えたのはマスメディアなかんずくテレビメディアではなかったか。
 それでは、政治権力とメディアが合作したこの劇揚の空気とは何だろうか。第一に、わかりやすいイメージや情緒が、迂遠ではあるけれど大切な論理を排除し、現在の出来事が記憶すべき過去(歴史)を塗りかえてしまうこと。第二に、あざとい政治劇を観る群衆から分析的思考を奪い、歓呼の声や潮笑を伝染させて、劇を喜ばない者たちにはシニシズムを蔓延させたことであろう。
 「世界のいたるところで新たなかたちをとって現れてくる原ファシズム(ファシズムの特徴を帯びた現象)を、一つひとつ指弾すること」だろう。(『朝日新聞』2006年3月8日号)

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