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エピソード

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皇道派と統制派の対立、二・二六事件
 太平洋戦争中、日本軍を分析したアメリカ軍によれば、「日本には陸軍と海軍が対立しているので、統一的な戦略に欠ける」という指摘がありました。「自分を知って敵を知る」という戦争の定石です。
 指摘するように、長州閥系の陸軍と薩摩系の海軍はことある毎に対立していました。
 そのうえ、皇道派と統制派という派閥も存在していました。空虚で美しい言葉を使うと「皇軍」にあってはならない構造です。
 陸軍と海軍の対立は、戦争や戦略をめぐって、紹介します。ここでは皇道派と統制派の説明をします。
 皇道派という名前の由来は、荒木貞夫大将が「国軍」を「皇軍」と命名し、日本軍を天皇親率軍と位置づけたことにあります。
(1)皇道派とはどんなグループですか?
@三月事件といい、十月事件といい、未遂に終わったクーデタ計画は、皇道派が計画したものです。
A皇道派は、北一輝の『日本改造法案大綱』や国家主義者の西田税などの影響を受け、クーデタによる軍部内閣の樹立を目指す青年将校らのグループです。
B天皇中心の革新論を唱え、元老・重臣・政党・財閥などを現状維持勢力とし、それを排撃する。
Cその中心人物が荒木貞夫真崎甚三郎山下奉文でした。天皇機関説批判の中心的存在でもありました。
(2)統制派とはどんなグループですか?
@五・一五事件以来、斎藤実・岡田啓介と海軍大将内閣が続き、軍備拡大も海軍主導で進められると、皇道派に対抗して組織化されたのが統制派です。
Aクーデタによる国家改造を否定し、政財界に接近し、合法的に権力を樹立しようとする陸軍省・参謀本部などの中堅幕僚将校のグループです。
B陸軍全体の指導力を強化し、合法的に高度国防国家を樹立するために、元老・重臣・財閥・既成政党・無産政党を利用・統制する。国家総動員体制につながります。
Cその中心人物が永田鉄山林銑十郎東条英機、それに石原莞爾らもそうです。
 1930(昭和5)年4月22日、ロンドン海軍軍縮条約が調印されました。
 9月14日、ドイツ国会選挙で、社民は143人(9減)、ヒトラー率いるナチスは107人(95増)、共産は77人(23増)が当選しました。
 1931(昭和6)年4月、@28若槻礼次郎内閣が誕生しました。
 9月、関東軍が満鉄を爆破するという柳条湖事件がおきました。これを満州事変といいます。
 10月17日、荒木貞夫を擁立する軍部内閣の樹立計画が未遂に終わりました。これを十月事件といいます。この結果、陸軍の実権は、皇道派が握ることになります。
 12月、@29犬養毅内閣が誕生しました。荒木貞夫が陸相に就任しました。参謀総長は、閑院宮載仁親王でしたが、荒木陸相は、参謀本部を動かす参謀次長に盟友の真崎甚三郎、軍務局長に山岡重厚、軍事課長に山下奉文、参謀本部第三部長に小畑敏四郎らを任命しました。その結果、親荒木派が陸軍省・陸軍部の有力ポストを独占しました。
 1932(昭和7)年3月1日、満州国が建国されました。
 5月15日、古賀清志中尉ら海軍青年将校らは、犬養毅首相を射殺しました。五・一五事件です。しかし、彼らは禁錮15年以下の軽い刑でした。この軽い刑が次の事件へと発展します。
 5月26日、@30斉藤実内閣(海軍大将)が誕生しました。陸相には、皇道派の荒木貞夫が留任しました。
 1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領は、ヒトラーを首相に任命し、ナチス政権が誕生しました。
 2月24日、国際連盟総会は、満州国は日本の傀儡政権であるというリットン報告を承認しました。
 7月14日、ヒトラーは、新政党結成を禁止し、その結果、ナチスは唯一の政党となりました。
 10月14日、ヒトラーは、国際連盟からの脱退を声明しました。この結果、国際連盟からの脱退は日本だけでなくなりました。世界の孤立組みが手を結ぶ可能性が出てきました。
 1934(昭和9)年1月23日、荒木貞夫陸相が病気で辞任しました。後任には、同じ皇道派の真崎甚三郎が就任することになっていました。しかし、荒木貞夫の強引な人事から除外された中堅幕僚は、参謀総長の閑院宮載仁親王を動かして、巻き返しを図り、荒木陸相の後任に、統制派の林銑十郎を就任させました。
 3月、統制派の林銑十郎陸相は、統制派の永田鉄山を軍務局長に起用しました。この結果、統制派が陸軍省の実権を握ったことになります。
 ここで、少し軍隊のことのおさらいをします。
 日本は、ドイツ帝国の軍制を学んで、軍政・軍令の二元主義を採用しました。
(1)軍政には、兵役行政・経理事務・徴発事務などの閣議に諮る一般国務に関する軍政事務と、平時編制・動員計画・要塞兵備などの閣議に諮らない統帥及び編成事項に関する軍政事務があります。中央行政官省としての陸軍省が設置され、そのトップに陸軍大臣がいます。
(2)軍令には、国防計画・作戦計画・平戦両時における兵力の使用などがあり、軍隊運用にかかわる統帥的側面をいいます。軍令は、内閣や議会を通さず、天皇が陸軍と海軍を統帥するため制定する法律です。戦闘行為に政治が口を出すことを禁じているのです。
 軍務局長は、軍政方面におけるエリートで、大臣や次官への登竜門です。軍務局長は、大臣・次官に次ぐ軍政方面のナンバー3で、軍令方面のナンバー3である第1部長と交渉します。
 永田鉄山は、陸士を優等で卒業し、陸大も優等で卒業して、恩賜の軍刀を賜ったエリート中のエリートです。
 7月、@31岡田啓介(海軍大将)内閣が誕生しました。陸相は統制派の林銑十郎が留任しました。
 8月19日、ヒトラーは、国民投票で、総統に就任しました。これをドイツ第3帝国の成立といいます。
 9月18日、ソ連が国際連盟に加入しました。
 11月20日、皇道派の村中孝次磯部浅一らの青年将校は、クーデタを計画したという容疑で検挙されました。これを士官学校事件または、十一月事件といいます。この事件により、統制派と皇道派の対立が激化する契機となったといわれています。その経過を調べてみました。
 統制派の辻政信太尉は、部下の士官学校生徒である佐藤勝郎から、「別の中隊の同級生である武藤与一が皇道派の村中孝次大尉・磯部浅一主計・西田税予備少尉らの国家改造理論グループに参加を進められている」という話を聞かされました。その結果、「11月21日に、クーデタを決行して首相の岡田啓介・前首相の斎藤実・公爵の西園寺公望らを殺害し、皇道派の荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎らを中心とする軍部内閣を樹立しようとしている」ということが判明しました。
 そこで、辻政信は片倉衷少佐・塚本誠憲兵大尉と相談して、橋本虎之助陸軍次官に報告しました。皇道派の一部は、「これは統制派が仕組んだ皇道派追い落としの策略だ」と証言しています。
 1335(昭和10)年3月16日、ヒトラーは、ヴェルサイユ条約の軍備条項を破棄し、徴兵制による再軍備を宣言しました。
 4月6日、教育総監の真崎甚三郎は、国体明徴の訓示を陸軍に通達しました。
 7月15日、統制派の林銑十郎陸相は、皇道派の真崎甚三郎教育総監に対して、統制派の永田鉄山軍務局長・杉山元参謀次長も参加し、今井清人事局長・柳川平助陸軍次官の作成した人事案を示しました。そこには、皇道派の真崎甚三郎や山岡重厚・小畑敏四郎・山下奉文・鈴木率道らを排除する意図が明瞭でした。真崎は、「軍の最高人事は、陸軍大臣・参謀総長・教育総監で決定するという内規を無視するのか」と抗議しました。
 7月16日、統制派の林銑十郎陸相は、皇道派の真崎甚三郎教育総監を罷免し、後任に統制派の渡辺錠太郎を任命しました。統制派と皇道派の対立が深刻化しました。真崎甚三郎は、「この人事の背景には永田鉄山がいる」と皇道派将校に吹聴しました。
 8月2日、士官学校事件で休職中の皇道派の村中孝次磯部浅一は、「粛軍に関する意見書」を頒布して、免官となりました。
 8月3日、岡田啓介内閣は、国体明徴を声明しました。
 8月12日、陸軍省軍務局長の永田鉄山少将(51歳)は、陸軍省軍務局長室で、東京憲兵隊長の新見英夫大佐から報告を聞いていました。その時、皇道派の相沢三郎陸軍中佐(46歳)がドアを蹴破り、「天誅!」と叫んで斬りかかり、永田鉄山を刺殺しました。永田少将は陸士16期生で、相沢中佐は陸士22期生で、先輩・後輩の間柄でした。これを相沢事件といいます。
 新聞は、「現役将校が白昼公務執行中の上官に対し危害を加え『危篤』に陥らせたという事実は、我が陸軍未曾有の重大事」と報じました。
 9月5日、林銑十郎陸相は辞職し、後任に中立派の川島義之陸軍大将が就任しました。皇道派の陸軍青年将校は、再び、形勢を挽回するために、クーデタを計画しました。しかし、第1師団の満州への派遣が内定したので、その前に、クーデタを決行することを決意しました。これが後の二・二六事件です。
 9月15日、ヒトラーは、「ドイツ人の血と尊厳の保護」として、ニュルンベルク法を制定しました。
 10月3日、イタリアは、エチオピアに侵入を開始しました。これをエチオピア戦争といいます。
 1936(昭和11)年2月26日、二・二六事件が起こりました。
 2月26日未明、前夜からの雪の中で、陸軍の一部決起将校は、「君側の奸を除き、天皇親政を実現するため」という美名の下で、近衛師団の近衛歩兵第三連隊・第一師団の歩兵第一連隊・歩兵第三連隊の1483人の将兵に動員命令を下しました。
 2月26日午前0時、栗原安秀中尉・丹生誠忠中尉・野中四郎大尉・坂井直中尉・安藤輝三大尉らが集結しました。
 2月26日午前3時30分、歩兵第三連隊の安藤輝三大尉は、第六中隊の兵・機関銃隊四箇分隊・機関銃四挺など204人を率いて連隊を出発しました。
 2月26日午前4時20分、丹生誠忠中尉が率いる歩一部隊は、香田清貞大尉・磯部浅一・村中孝次・竹嶋継夫中尉・山本又(予備少尉)らを加えた下士官兵170人で、営門を出発し、霞が関から三宅坂周辺を完全に占拠しました。「陸軍大臣に会見がしたい」と言つて、憲兵と押問答しています。
 2月26日午前5時、歩兵第一連隊機関銃隊付栗原安秀歩兵中尉の指揮する機関銃隊約300人は、首相官邸内に乱入し、岡田啓介首相と間違えて松尾伝蔵陸軍大佐(岡田首相の義弟)を殺害します。護衛の警察官が応戦している間に、岡田啓介首相は押入れに隠れました。新聞には、岡田首相殺害と報道されました。
 2月26日午前5時、野中四郎大尉は、部隊の下士官兵500人を率いて、警視庁を占拠しました。
 2月26日午前5時、坂井直中尉・高橋太郎少尉・麦屋清済少尉・安田優少尉らが率いる部隊は、四谷区仲町3丁目の斎藤実内大臣私邸が襲撃しました。夫人は「撃つなら私を撃ちなさい」と夫をかばい重傷を負いました。夫の斉藤実は殺害されました。
 2月26日午前5時、中橋基明歩兵中尉の部隊130人は、赤坂表町3丁目の高橋是清蔵相私邸に到着しました。中橋は表門から、中島莞爾歩兵少尉は東門の塀を乗り越えて邸内に入りました。就寝中の高橋是清を発見すると、「中橋基明ハ掛蒲団ヲ撥ネ除ケ、天謙ト叫ビッツ拳銃数弾ヲ発射シ」、中島莞爾は軍刀で高橋の肩を斬りつけ、さらに右胸部を突き刺しました。
 2月26日午前5時、安藤輝三大尉らは、麹町区三番町の鈴木貫太郎侍従長を襲撃しました。夫人鈴木たかが懇願したので、安藤大尉は止めを刺さず敬礼をして立ち去りました。そのため一命をとりとめました。
 2月26日午前5時、河野寿航空兵大尉らは、前内府の牧野伸顕を湯河原の旅館に襲撃しました。牧野伸顕は、岩本屋旅館の岩本亀三らにおぶさって難を逃れました。
 2月26日午前6時、高橋太郎少尉・安田優少尉らは、教育総監渡辺錠太郎大将郎を襲撃しました。渡辺錠太郎は殺害されます。
10  2月26日午前6時40分、川島義之陸軍大臣はやっと、決起将校と会見します。決起将校は、川島陸軍大臣に決起趣意書と7項目からなる要望書(「真崎甚三郎を首相にし、処理を一任する」)を提出して昭和維新の断行を迫ります
 2月26日午前8時、真崎甚三郎大将が官邸に現れ、大喜びの英雄気取りで「たうとうやったかお前たちの心はヨオックわかつとる、ヨオックわかつとる」と言ったといいます。
 2月26日午後3時30分、陸軍大臣告示が川島義之の名で出されました。
「東京警備司令部
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
二、諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現(弊風ヲ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニ依リ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之レ以上ハ一ニ大御心ニ待ツ」
 2月26日、側近を殺害された昭和天皇は、「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」「今回のことは精神の如何を問わず不本意なり。国体の精華を傷くるものと認む」と激怒し、「速やかに暴徒を鎮定すべき」という命令を出しました。
 2月26日、昭和天皇の命令が出たにもかかわらず、陸軍首脳部は武力鎮圧を躊躇し、戒厳令が敷かれると反乱部隊までもが戒厳部隊に編入されるような措置を取りました。
12  2月27日早朝、岡田啓介首相の生存を知った首相秘書官らは、首相を弔問客に変装させて官邸から救出しました。
 2月27日、戒厳令が施行されました。皇道派の香椎浩平陸軍中将が戒厳司令官に任命されました。
 2月27日午後、海軍は、第1艦隊を東京湾に急行させ、長門以下艦隊の砲門を反乱軍に向けましたた。
 2月28日午前5時、「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」との奉勅命令が下されました。この段階でも、武力鎮圧を匂わせるものではありませんでした。
 2月29日、陸軍は、やっと「反乱を鎮圧する」という声明を出しました。そして、戒厳司令部は、次のようなビラをまきました。この時点で決起将校たちの昭和維新の夢は完全に断たれたといえます。
「  下士官兵に告ぐ
一、今カラデモ遲クナイカラ原隊ヘ歸レ
二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ國賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
 二月二十九日   戒 嚴 司 令 部」
 2月29日、中村茂アナウンサーは、ラジオを通じて、次のように語りかけました。
「 兵に告ぐ、
勅命が発せられたのである。既に、天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前達は上官の命令を正しいものと信じて絶対服従して誠心誠意活動して来たのであらうが、既に、天皇陛下の御命令によって、お前達は皆復帰せよと仰せられたのである。此上お前達が飽く迄も抵抗したならば、夫は勅命に反抗することになり逆賊とならなければならない。正しいことをしてゐると信じていたのに、それが間違って居たと知ったならば、徒らに今迄の行懸りや義理上から、何時までも反抗的態度をとって、天皇陛下に叛き奉り逆賊としても汚名を永久に受けるやうなことがあってはならない。今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ。そうしたら今までの罪も許されるのである。お前達の父兄は勿論のこと国民全体も、それを心から祈って居るのである。速かに現在の位置を棄てて帰って来い。
戒厳司令官 香椎中将」
 ラジオでは「今までの罪も許される」と放送されています。
 2月29日、下士官兵は相次いで帰順し、反乱将校は東京衛戌刑務所に収容されました。
13  3月7日、ヒトラーは、ラインラント非武装地帯に進駐しました。
 3月9日、@32広田弘毅内閣が誕生しました。陸相は統制派の寺内寿一、海相は永野修身が就任しました。この結果、統制派による軍部主導権が確立しました。
 5月9日、イタリアは、エチオピア併合を宣言しました。
 5月18日、勅令で、陸海軍大臣・次官を現役とする旨が公布され、軍部大臣現役武官制が復活しました。
 7月5日、陸軍刑法第25条の内容は次の通りです。
「第二十五条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
 一 首魁ハ死刑ニ処ス
 二 謀議ニ参与シ又ハ群衆ノ指揮ヲ為シタル者ハ死刑、無期若ハ五年以上
   ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他諸般ノ職務ニ従事シタル者ハ三年以上ノ
   有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 三 附和随行シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」
 7月12日、東京陸軍軍法会議が開かれました。軍法会議主席検察官には匂坂春平陸軍法務官、軍法会議裁判官には陸軍法務官小川関治郎ら任命されました。二・二六事件に関し、17人に死刑、69人有罪を判決しました。
 死刑執行は、代々木練兵場で、死刑執行の銃声をかくすため、軽機関銃で空砲を打ちつづけたといいます。磯部浅一の獄中手記には、「…真崎を起訴すれば川島、香椎、堀、山下等の将軍に累を及ぼし、軍そのものが国賊になるので…云々」と書かれていました。
 7月18日、アサーニャ内閣打倒のスペイン内乱が始まりました。フランコ将軍は、スペイン国家主席を名乗りました。
 8月15日、イギリス・フランスは、スペイン内乱に不干渉を宣言しました。
 10月25日、ローマ・ベルリン枢軸が結成されました。
 11月18日、ドイツ・イタリアは、スペインのフランコ政権を承認しました。
 11月25日、日独防共協定がベルリンで調印されました。
14  1937(昭和12)年1月25日、皇道派の真崎甚三郎大将は、反乱幇助で軍法会議に起訴されましたがたが、真崎はその事実を完全に否認しました。
 9月25日、皇道派の真崎甚三郎大将は、論告求刑では「反乱者を利する罪で禁錮13年」を求刑されましたが、最終的に真崎甚三郎大将は無罪判決が下りました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
皇道派と統制派、二・二六事件
 相沢事件を再現します。
 1935年8月12日午前9時40分、統制派の指導的立場にいる永田鉄山少将は、軍務局長の机に座って、東京憲兵隊長の新見英夫大佐や兵務課長の山田長三郎大佐と打ち合わせをしていました。
 その時、皇道派の相沢三郎中佐が軍刀を抜いて、いきなり部屋に入って来ました。右の方へ避逃げた永田鉄山の背後から、相沢三郎が斬りつけました。最初の一刀は、それほど効果的ではありませんでした。永田は、自分の机の前に廻って、隣の軍事課長室へ逃れようとしましたが、鍵がかかっていました。
 相沢三郎は、永田鉄山の左背部から、突き刺しました。相沢は、武士の作法として、永田の首筋にとどめを刺しました。
 皇道派の荒木貞夫陸相は、若い将校の面倒を良く見ました。そこで、若い将校は、よく荒木邸を訪問したといいます。彼らが泥酔状態で世情の不満を語ると、「若い奴は元気がいいのう」などと目を細めたといいます。
 しかし、高橋是清蔵相が「要するに君はどうしたいというのだね」と聞くと、荒木貞夫はまともに答えられなかったといいます。
 或いは、荒木貞夫陸相は「竹槍三千万本があれば列強はおそるるに足らず」と放言して、周囲を唖然とさせたともいいます。
 皇道派の真崎甚三郎も、天皇機関説問題で、在郷軍人を扇動して、攻撃の中心人物でしたが、機密事項を若い将校に見せたりして、人気取りをする人物でした。
 次は、二・二六事件の「蹶起趣意書」です。
 「謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる 天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。
 此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。
 然るに、頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我慾を恣にし至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す、所謂、元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。
 倫敦軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にしてその滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕せしむは火を賭るより明かなり。内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして宏謨を一空せん。恰も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡状に憂心転々禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし
 臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪を翻すに由なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神洲赤子の微衷を献ぜんとす。
 皇祖皇宗の神霊冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを!
昭和拾壱年弐月弐拾六日
陸軍歩兵大尉 野中四郎
外同志一同
 いつも指摘するように、美しく空虚な言葉が羅列しています。
 「同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し」(かくされている真実をひらきあらわし、肝脳を出し尽くす)とか「神洲赤子の微衷を献ぜん」(神の国の天子の子である私の真心を奉げる)です。
 ただ、若手尉官に共鳴する言葉がありました。「万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ…」(彼らの実家である農村では、自分の妹が貧しいために、色街に身を売っている)。その反面「元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は」「依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり」という状況です。
 自分の妹が身売りし、上官に付いて行った飲屋で、若い娘が春を売る姿を見た尉官は何か考えるでしょうか。
 1934(昭和9)年、岩手県では農家7万7000戸の内40%は生活保護が必要としています。当時の新聞は「稗・粟さえも尽きようとし、楢の実が常食となり、農民が鶏のエサであるふすまや稗糠を買い、練り物にして食べていた。県下の10月現在の欠食児童は2万4000名を数え、12月には5万名を超えるものと予想された」と報じています。
 1934(昭和9)年、山形県警察本部保安課の調査資料によると、山形県内の娘身売りの数は3298人で、その内訳は芸妓249人+公娼1420人+私娼1629人と記録しています。
 1934(昭和9)年、青森県の資料によると、青森県内の身売り数は2279人で、その内訳は芸妓405人+公娼850人+私娼1024人と記録しています。
(1)岡田啓介首相の次男である海軍経理学校3年生の岡田貞寛は、二・二六事件のことを「築地の経理学校では、いつも通りの課業が行はれてゐた。午後になつて、財政学の講義中、教官から突然の、異例の呼び出しを受け、”貴様のお父さんが、陸軍の部隊に襲撃されて亡くなられた。すぐ仕度をして家に帰れ”と告げられる」と書いています。
(2)直木賞作家で、斉藤斉(内大臣斎藤實の養子)の妻の弟である有馬頼義は、二・二六事件のことを「私は、道路を見て愕然とした。ちょうど目の下に、内大臣斎藤實の鉄の門があり、それはひらかれていた。その門外の正面に、軽機関銃が据えられ、一人の将校が、そのうしろに立っていた。それだけではない。そこから、大通りへ通じる四メートル幅の狭い道には、四列縦隊の兵隊が、雪の上に折敷をして、その長さは、三百メートルに及んだ。…どの位待っただろうか。一人の将校と、一個分隊位の兵隊が、斎藤内大臣邸の正面玄関を出て、雪をけたてて、門の方へ近付いてきた。将校は、大きな声で云った。”目的は、成功した。われわれは、これから大内山へ向う”と。分隊毎か、小隊毎に、小さい声で号令が起り、折敷をしていた兵隊は立って、整列し、それから、門から遠い方から順に、粛々として引き上げていった」と書いています。
(3)永井荷風は、『断腸亭日乗』で、二・二六事件のことを「朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り来り見る見る中に積り行くなり。午後二時頃歌川氏電話をかけ来り、■■■■警視庁を襲び同時に朝日新聞社等を襲撃したり。各省大臣官舎及三井邸宅等には兵士出動して護衛をなす。ラヂオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラッパの声のみ物哀れに聞るのみ。市中騒擾の光景を見に行きたくは思へど降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す。九時頃新聞号外出づ。岡田斎藤殺され高橋重傷鈴木侍従長また重傷せし由。十時過雪やむ」と書いています。
(4)『鈴木貫太郎自伝』によると、「熟睡中に女中が私を起こして、今兵隊さんが来ました、後ろの塀を乗り越えて入って来ましたと告げたから、直覚的にいよいよやったなと思って、すぐ跳ね起きて、何か防禦になるものはないかと、床の間にあった自鞘の剣をとろうとした」と書いています。
(5)難を逃れた牧野伸顕は、二・二六事件のことを「夜は白々明けはなれた。二、三人が行き交う。私はピストル、刀をさして同志と共に隊長に従った。旅館前の幅七、八間の小川の橋を渡り、坂道を二十間程上る。玉突場のある家の前に止った。大尉は此処だと玉突場の前の家を指した。平屋建、地形は崖の上で、片方は山になっている。石垣でたたんだ一隅にこの家はあるのだ…予備曹長宮田晃は、早くも奥から射ってくる拳銃で負傷した。私は奥に駆けこむ。弾がビューンとかすめる。私は座敷に向けて五、六発達射する。薄暗い、何人いるか分らぬが、守衛のいることは分る。守衛ではなく、護衛警官だった」と書いています。
二・二六事件死刑判決者
階 級 氏 名 判 決 死刑判決を受けた
人物を見ると、少尉
から大尉までの若
手尉官ばかりです。

皇道派の指導層が
いないのが不思議
です。トカゲの尻尾
切りでしょうか。

 指導層の派閥争
いに巻き込まれた
若手尉官には罪は
ありません。

 若手尉官は、甘い
刑を予想していたの
か、「極刑の判決」
に驚愕したといいま
す。
退役陸軍騎兵少尉 西田税 死刑
陸軍歩兵大尉 野中四郎 事件後自決
陸軍歩兵大尉 香田清貞 死刑
元陸軍歩兵大尉 村中孝次 死刑
陸軍歩兵大尉 安藤輝三 死刑
元陸軍一等主計 磯部浅一 死刑
民間人 渋川善助 死刑
陸軍航空兵大尉 河野寿 事件後自決
陸軍歩兵中尉 栗原安秀 死刑
陸軍歩兵中尉 対馬勝雄 死刑
陸軍歩兵中尉 中橋基明 死刑
陸軍歩兵中尉 丹生誠忠 死刑
陸軍歩兵中尉 坂井直 死刑
陸軍歩兵少尉 高橋太郎 死刑
陸軍歩兵少尉 安田優 死刑
陸軍歩兵中尉 竹島継夫 死刑
陸軍歩兵中尉 田中勝野 死刑
陸軍歩兵少尉 林八郎 死刑
陸軍歩兵少尉 池田俊彦 死刑
陸軍歩兵少尉 中島莞爾 死刑
民間人 北一輝 死刑
民間人 水上源一 死刑

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