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エピソード

250_01

広田弘毅内閣と広義国防国家体制、スペイン内乱
 この頃の歴史を詳細に見ると、全てイギリス・フランス・アメリカが正しくて、日本が悪いとは言えません。
イギリス・フランス・アメリカは自国のエゴのため、エチオピアの侵略を許し、スペインの内乱を放任し、ヒトラーの脅しに屈したことが、第二次世界大戦の原因の1つになっています。
 1336(昭和11)年1月10日、天皇機関説論者として攻撃された法制局長官の金森徳次郎が辞任しました。
 1月15日、ロンドン海軍軍縮会議の首席全権である永野修身は、ロンドン海軍軍縮会議よりの脱退を通告しました。
 2月18日、村中孝次・磯部浅一・安藤輝三ら陸軍皇道派の青年将校は、クーデタの具体案を決定しました。
 2月19日、スペイン国会選挙で、人民戦線派が勝利し、アサーニャ内閣が成立しました。
 2月20日、@19回総選挙が行われました。その結果民政党が205人、政友会が171人、昭和会22人、国民同盟が15人、中立その他が35人、社会大衆党は5人から一挙に3倍の18人が当選しました。
 2月26日、皇道派青年将校は、1400人の部隊を率いて挙兵し、内大臣斉藤実・蔵相高橋是清・教育総監渡辺錠太郎らを殺害しました。永田町一帯を占拠して、国家改造を要求しました。これを二・二六事件といいます。
 2月27日、東京市に戒厳令を布告しました。
 2月29日、戒厳部隊が討伐行動を開始したので、反乱軍は帰順しました。
 3月6日、陸相候補の寺内寿一は、自由主義的色彩の入閣予定者排除を要求し、組閣に干渉しました。
 3月7日、ヒトラーは、ヴェルサイユ条約武装禁止条項とロカルノ条約を一方的に破棄し、ラインラント非武装地帯に進駐しましたが、フランスは何ら有効な手を打ちませんでした。
 3月9日、@32広田弘毅内閣(外交官)が誕生しました。陸相は統制派の寺内寿一、海相は永野修身が就任しました。この結果、統制派による軍部主導権が確立しました。これを広義国防国家体制といいます。
 4月17日、閣議は、支那駐屯軍を2000人から5000人に増強することを決定しました。
 5月5日、紅軍は、山西から撤退し、国民政府に、反蒋スローガンを放棄し、停戦講和一致抗日を通電しました。
 5月7日、第一師団軍法会議は、相沢三郎中佐に死刑の判決を下しました。
 5月9日、イタリアは、エチオピア併合を宣言しました。
 5月18日、勅令で、陸海軍大臣・次官を現役とする旨が公布され、軍部大臣現役武官制が復活しました。この結果、内閣に対する軍の介入が深まりました。
 6月1日、上海の全国各界救国連合会は、国民政府に対して、連共抗日を要求しました。
 6月8日、帝国国防方針・用兵綱領の第三次改定が裁可されました。その内容は、次の通りです。
(1)仮想敵国をアメリカ・ソ連とする。
(2)所要兵力は、陸軍50個師団、航空142中隊、海軍戦艦12隻、空母12隻、航空65隊とする。
(3)中国大陸と南方を日本中心にブロック化し、陸軍が政治の主導権を掌握する。
 7月5日、東京陸軍軍法会議は、二・二六事件に関して、17人に死刑を宣告しました。
 7月12日、村中孝次・磯部浅一を除いて、死刑を執行しました。
 7月17日、スペイン内乱が始まりました。この原因は、スペイン人民戦線内閣が土地改革に着手すると、地主や教会などの特権階級は、スペイン領モロッコで、フランコ将軍を指導者として政府打倒の陰謀を企てました。ドイツ・イタリアは、右翼のフランコ将軍派を援助しました。
 8月1日、オリンピック=ベルリン大会はじまりました。ヒトラーは、このオリンピックをナチス・ドイツの宣伝用に利用しました。
 8月7日、首相・外相・陸相・海相の4相会議で、帝国外交方針を決定しました。首相・外相・陸相・海相・蔵相の5相会議で、国策の基準を決定し、大陸・南方への進出と軍備充実を決定しました。
 8月9日、オリンピックの男子マラソンで、日本人の孫基禎(ソンキジョン)が1位、日本人の南昇龍(ナムスンリョン)が3位になりました。
 8月15日、イギリス・フランスは、スペイン内乱に不干渉を宣言しました。
 8月25日、中国共産党は、国民党に対して、抗日民主国共合作・民主共和国の樹立を提唱しました。これを8月書簡といいます。
 9月、スペイン人民戦線政府を援助したのはソ連だけでした。
 10月、スペイン人民戦線政府は、国際旅団の設置を承認し、国際義勇軍が反ファシズムを合言葉に世界各地から駆けつけました。この中には、アメリカ人のヘミングウェイやフランス人のマルローらがいました。
 10月25日、イタリア外相のチアーノは、ベルリンを訪問し、ローマ・ベルリン枢軸が結成されました。
 11月5日、斉藤隆夫ら民政党有志代議士は、軍人の政治干与排撃を決議しました。
 11月6日、陸相の寺内寿一は、議会制度改革案につき「陸軍は憲法を遵守する」旨釈明の談話を発表しました。
 11月6日、スペイン人民戦線政府は、バルセロナに移動しました。フランコ軍がマドリードを包囲しました。
 11月14日、内蒙軍は、関東軍の援助を受け、綏遠東部に進出しました。
 11月18日、ドイツ・イタリアは、スペインのフランコ政権を承認しました。
 11月23日、内蒙軍は中国傳作儀軍に大敗し、百霊廟が陥落しました。これを綏遠事件といいます。
 11月23日、国民政府は、章乃器ら救国連合会の7領袖を逮捕し、抗日世論を弾圧しました。
 11月25日、アジアの現状打破勢力である日本は、ヨ−ロッパ現状打破勢力であるドイツに接近し、ベルリンで、仮想敵国をソ連とする日独防共協定に調印しました。
 12月4日、蒋介石は、西安に飛び、張学良らに掃共継続を命令しました。
 12月12日、張学良は、逆に蒋介石を軟禁しました。これを西安事件といいます。
 12月16日、国民政府は、張学良の討伐を決定しました。共産党の周恩来は、西安に飛び、張学良と蒋介石と会談しました。
 12月19日、中国共産党の中央は、蒋介石を含む和平会議の招集を提案しました。
 12月21日、ワシントン海軍軍縮条約が失効しました。
 12月26日、蒋介石は、南京に帰還しました。
 1937(昭和12)年4月26日、ドイツ義勇航空隊のコンドル旅団とイタリア空軍は、バスク地方のゲルニカを徹底的に爆撃・破壊しました。この悲劇をスペイン人の画家であるパブロ・ピカソが絵にしました。それが『ゲルニカ』です。
 11月6日、イタリアは、イギリス・フランスに対する枢軸体制を強化するため、日独防共協定に参加し、日独伊三国防共協定が成立しました。
 12月11日、イタリアは、国際連盟を脱退しました。
 12月15日、労働運動家の山川均・日本無産党委員長の加藤勘十・同党書記長の鈴木茂三郎大森義太郎ら労農派など400人は、反ファッショ人民戦線の結成を企図したとして、検挙されました。これを第一次人民戦線事件といいます。
 1938(昭和13)年6月、ローマ教皇庁は、フランコ政権を承認しました。
 9月、ミュンヘン会談で、イギリス・フランスは、ファシズム勢力に対する宥和政策を表明し、スペイン人民戦線政府の期待を裏切りました。
 12月、フランコ軍30万人がカタルーニャを攻撃しました。
10  1939(昭和14)年1月、フランコ将軍は、バルセロナを陥落しました。
 2月、イギリス・フランスがフランコ政権を承認したので、人民戦線内閣のアサーニャ大統領が辞任しました。
 4月、マドリードを占領したフランコ将軍は、勝利を宣言しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
2つのオリンピックと孫基禎、ピカソの『ゲルニカ』
 私には、記憶にあるオリンピックの記録映画があります。白黒の画面ですから、相当古い映画です。選手と一緒にカメラが走ったり、カメラを上を選手が飛び越えたり、まったく新しい手法を使っていました。ヒトラーのアップした表情が何度も出てきました。「古畑頑張れ!」の絶叫アナウンサーもありました。女性の美しい裸体や男性の逞しい裸の演技姿もありました。
 後で分かったことですが、題名は『民族の祭典』といい、監督はヒトラーが起用したレニ・リーフェンシュタールという女性でした。
 現在、オリンピックといえば聖火リレーが定番になっていますが、これを最初に採用したのが、ベルリンオリンピックでした。
 皆さんは、次の質問に対して、どうお答えになりますか。「オリンピックの男子マラソンで、優勝した日本人はいるが、優勝した国に日本はいない」。
 答えは、「金メダルの孫基禎(ソンキジョン)と銅メダルの南昇龍(ナムスンリョン)は、当時、日本国籍の日本人でしたが、当時、朝鮮は植民地で日本国ではなかった」ということです。
 1936年8月9日、オリンピックの男子マラソンで、孫基禎(ソンキジョン)が優勝しました。
 8月25日、東亜日報は、表彰台上の孫基禎のユニホームから日章旗を削除して、掲載しました。
 8月26日、東亜日報の記者10人が警察に逮捕されました。東亜日報は、停刊処分を受けました。逮捕された記者は、「孫基禎選手のユニホームの鮮かな日章旗のマークを、そのまま載せることはできない」「しかし、月桂樹の冠を持った孫選手は、初めてだから入れたくて…」と語っています。
 孫基禎の写真を見ると、頭に月桂樹の冠を被り、胸には月桂樹を抱きしめています。胸は張っていますが、国旗(日の丸)を見ないためか、目は下を向いています。そのユニホームには、1枚は日の丸が写っていますが、もう1枚には、日の丸はありません。
 帰国した孫基禎は、日本の警察に監視され、自由に外出出来ませんでした。日本は、孫基禎が植民地朝鮮の英雄となることで、反日闘争に火がつくことを恐れたのです。
 アメリカの五輪歴代マラソン優勝者記念碑や五輪記録集などを見ると、孫基禎の国名は「Korea」となっています。
 1988年9月17日、オリンピック・ソウル大会の開会式が始まりました。その場には不似合いな1人の老人が大観衆で埋まった厳粛なメインスタジアムにピョコンピョコンと飛び跳ねるように、笑顔で入ってきました。万雷の拍手の中で、その老人は、韓国の若い男女に聖火を引き継ぎました。
 いったいこの老人は、何者かと目と耳を集中していると、「孫基禎(ソンギジョン)」であることが分かりました。その時は既に76歳になっていました。朝鮮人は、「日本人孫基禎の52年前の悔しさ」を覚えていたのです。
 朝鮮人が見守る中、「朝鮮人のソンキジョン」が栄光のメインスタジアムを走ったのです。
 日本陸連は、本番直前に選考レースを行い、孫基禎と南昇龍のオリンピック出場を妨害したといいます。しかし、選手枠の3人の内2人までが朝鮮人が選ばれました。
 日本の若者にもこの事実は知って欲しいです。民族の誇りを奪ってまで、日本の植民地支配を合理化するグループや政治屋がいます。何を望んでいるのでしょうか、彼らは?
 1937年4月26日、ナチス・ドイツの航空隊は、フランコ将軍を支援するため、スペインのバスク地方にあるゲルニカを無差別爆撃しました。この話をパリで聞き、写真を見たピカソは、『ゲルニカ』を完成させました。
 この『ゲルニカ』は、パリの万博に出品された後、ピカソは「フランコが死んで、スペインに自由な体制が実現するまで」という条件つきで、ニューヨークの近代美術館に預けました。フランコ将軍が死に、スペインが民主化された1981年、『ゲルニカ』はプラド美術館で公開されました。
 現在は国立ソフィア王妃芸術センターで見ることが出来ます。私も縦3.5m×横7.8mの大作に念願のご挨拶をしました。大画面なので近づいても意味がないかも知れませんが、2人の警備員がいて、絵に近づいて鑑賞できません。周囲に誰もいなくなってから、ゆっくり『ゲルニカ』の絵と対面したかったのですが、平日でも、見学者の絶えることはことはありませんでした。
 中央には荒れ狂い逃げまどう馬が描かれています。左上には虚ろな目をした牡牛が描かれています。馬は人間を意味し、牡牛は獣性と暗黒を象徴しています。そのほかには、死んだ子供を抱えて号泣する母親、天に救いを求める人、苦しみもがく人々が描かれています。白・黒・グレーを基本色としたモノトーンの世界からは、人間性を抹殺する戦争の恐ろしさとピカソの静かな怒りが伝わってきます。
 ピカソの『ゲルニカ』を激賞しながら、近隣諸国の人の人間性を平気で踏みにじる発言をする人がいます。もっともっと、『ゲルニカ』のもつメッセージを感じて欲しいと思いました。
 私のビデオ鑑賞法は、TV映画をビデオに録画し、何回も何回も見て、その後、VHS(今はDVD)映画を購入することにしています。
 その中の1つに『誰が為に鐘は鳴る』があります。ヘミングウェイが義勇軍としてフランコ軍と戦った体験を1940年に小説化しました。それを、1943年にセシル・B・デミル制作、サム・ウッド監督で映画化したものです。ヘミングウェイは主演にゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンを指名したといいます。
 主演のゲーリー・クーパーの目の輝き、イングリッド・バーグマンのキラキラした美しさ、そしてそのストーリに魅せられ、何度も見ました。
 黒澤明監督が、若い山田洋二監督に、「シナリオが書ける監督になるように」とアドバイスしたという話が残っています。映画やTVドラマは、シナリオ次第だということがよく分かります。

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