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エピソード

250_02

林銑十郎内閣と近衛文麿内閣、三国防共協定
 先入観なく、「暴力で政権と握ったり、国際連盟を脱退した国をどう思うか?」と質問されたら、どう答えるでしょうか。しかも「その3国が結束したらどうなりますか?」。たぶん、「怖い存在だ」と思うでしょう。
 その1つが日本で、他の2国はドイツ・イタリアのファシズム国家です。つまり、日本もファシズム国家だったのです。
 ファシズム3国家は、ベルサイユ=ワシントン体制打破による「世界の新秩序」を建設するという正義を主張します。批判する政党もなく、弾圧された言論からは、何も知らされません。国民はその正義を当然と受け入れます。
 他方、ファシズム国家に対抗した陣営(英米仏とソ連)は、自らをファシズムから自由主義を守る正義を主張します。
 1935(昭和10)年7月25日、モスクワで、第7回コミンテルン大会が開催されました。その大会は、日本とドイツの世界再分割の野心を指摘し、それに対する反対闘争を世界の共産主義者に指示しました。これを人民戦線のテーゼといいます。
 10月、駐独大使館の陸軍武官である大島浩大佐は、ナチスの外交部長格であるリッペントロップと、「反共的協定・日独提携強化の可能性について」会談しました。大島浩は、駐独大使とは相談せず、その結果を参謀本部に連絡しました。今度は、参謀本部は、外務省の頭越しに、若松只一中佐をドイツに派遣し、リッペントロップや国防相のブロンベルグと会見させました。これ後押ししたのがスエーデン公使の白鳥敏夫でした。
 陸軍武官とは、語学が堪能な軍人で、外交官資格を持つ人を駐在武官といいます。陸軍の駐在武官を陸軍武官といいます。駐在武官が外務省や駐在大使を経由せずに陸軍省・海軍省と直接連絡をすることが許されており、こういう外交を二元外交といいます。
 1936(昭和11)年1月21日、人民戦線のテーゼというコミンテルンの情報を入手した日本の外務省は、反共を掲げることによって英米仏と国交を調整し、国際的孤立から脱出しようと企図しました。
 1月21日、外相の広田弘毅は、議会で「日中提携・満州国承認・共同防共の対華3原則」を演説しました。これを広田三原則といいます。
 2月26日、二・二六事件が起こりました。
 3月9日、@32広田弘毅内閣が誕生しました。外相は広田弘毅が兼任、陸相は寺内寿一、海相は永野修身が就任しました。これを広義国防国家体制といいます。広田内閣では、日英接近派日独提携派の間に議論がありましたが、軍部の意向は日独提携でした。その結果、アジア派の有田八郎が次期外相に推薦されました。
 4月2日、外相の広田弘毅の後任に、外交官の有田八郎が就任しました。有田は、欧米派の外交官でなく、アジア派の外交官といわれていました。
 5月18日、勅令で、陸海軍大臣・次官を現役とする旨が公布され、軍部大臣現役武官制が復活しました。この結果、内閣に対する軍の介入が深まりました。
 8月7日、首相・外相・陸相・海相の4相会議で、帝国外交方針を決定しました。首相・外相・陸相・海相・蔵相の5相会議で、国策の基準を決定し、大陸・南方への進出と軍備充実を決定しました。
 10月25日、イタリア外相のチアーノは、ベルリンを訪問し、ローマ・ベルリン枢軸が結成されました。
 10月、大島浩とリッペントロップが進めた「反共的協定・日独提携」は、やがて、外務省に打診されました。反共的協定に賛成の有田八郎外相と武者小路公共駐独大使が交渉に当たり、日独の間で仮調印されました。
 11月25日、枢密院本会議で、日独防共協定が可決されました。
 11月25日、アジアの現状打破勢力である日本は、ヨ−ロッパ現状打破勢力であるドイツに接近し、ベルリンで、仮想敵国をソ連とする日独防共協定に調印しました。
 11月25日、外務省は、「日独防共協定には、秘密協約なく、またソ連を対象としない」と声明を発表しました。しかし、ソ連を仮想敵国とする秘密協定を結んでいました。
 12月12日、張学良は、逆に蒋介石を軟禁しました。これを西安事件といいます。
 12月28日、ソ連外務人民委員のリトヴィノフは、「かかる協定は、フアッショ侵略戦争を二大大陸に拡大するものである」と声明して、仮調印を終えたばかりの日ソ漁業条約の調印を、破棄しました。
 1937(昭和12)年1月21日、政友会の浜田国松は、衆議院で、演説中に、陸相の寺内寿一と腹切り問答を行い、政党と軍部の対立が激化しました。この背景には、政党は軍備拡張による国際収支の悪化に不安を抱いており、軍部は国内改革が不徹底であることに不満を抱いていました。
 1月23日、解散を主張する寺内寿一陸相と、政党出身の閣僚が対立し、広田弘毅内閣は総辞職しました。
 1月25日、昭和天皇は、朝鮮総督の宇垣一成陸軍大将に組閣の大命を下しましたが、陸軍の反対で陸相を得られず、宇垣は辞退を申し出ました。これを宇垣流産内閣といいます。三月事件の時、首相に擁立された宇垣一成が敵前逃亡したことの結果がこういう形で仕返しを受けたのです。天皇の命令といえ、軍隊の意向を無視できない当時の日本の実情を示しています。
 1月25日、皇道派真崎甚三郎大将は、反乱幇助で軍法会議に起訴されましたがたが、真崎はその事実を完全に否認しました。
 1月30日、陸軍当局は、憲政についての軍の意向に関し、ファッショ政治を企図せずなどと釈明の声明を発表しました。
 2月2日、@33林銑十郎内閣(陸軍大将)が誕生しました。外相・文相は林銑十郎が兼任、陸相に中村孝太郎陸軍中将、海相は米内光政らが就任しました。蔵相には、財界の安田財閥出身である結城豊太郎日銀総裁を招きました。今までの財閥敵視策から一転しての起用したので、これを軍財抱合といいます。政友会や民政党からの入閣はありませんでした。
 2月8日、中村孝太郎陸相の後任に、杉山元陸軍大将が就任しました。
 3月11日、労農無産協議会は、日本無産党を結成しました。
 3月31日、衆議院は、予算が成立すると、会期最終日に解散しました。林銑十郎首相は、議会刷新のため解散を断行すると談話しました。これを食い逃げ解散といいます。
 4月16日、外相・蔵相・陸相・海相は、対支実行策・北支指導方策を決定しました。
 4月30日、@20総選挙が実施されました。その結果、民政党が179人、政友会が175人、社会大衆党が37人、昭和会が19人、国民同盟が11人、東方会が11人、日本無産党が1人、中立その他が33人の当選者を出しました。
 5月24日、望月圭介は、唯一の与党である昭和会の解党をつげ、林銑十郎首相に総辞職を進言しました。
 5月26日、政友会と民政党は、林銑十郎内閣の即時退陣を要求しました。
 5月31日、林銑十郎内閣が総辞職しました。
 6月4日、@34近衛文麿内閣が誕生しました。外相には広田弘毅、蔵相には賀屋興宣、陸相には杉山元、海相は米内光政らが就任しました。政友会や民政党からも入閣しました。
 近衛文麿は、当時、各界からも期待されていました。青年時代には、英米中心の国際平和主義に反対する論文を書き、反骨を評価されました。軍部には、政党政治と強調外交を打破する革新政治家とみ期待されていました。国民には、皇族ということから腐敗政治には縁のない潔白な政治家として人気がありました。そういえば、最近(2006年3月)の首相とよく似ていますね。
 7月7日、蘆溝橋で、日中両軍が衝突しました。これが日中戦争の発端です。
 8月14日、陸軍軍法会議は、二・二六事件民間関係者の北一輝・西田税に死刑判決を下しました。
 8月15日、蒋介石は、廬山で周恩来と会談し、対日抗戦の総動員令を下しました。
 8月19日、北一輝・西田税・村中孝次・磯部浅一が死刑を執行されました。
 8月21日、南京で、中ソ不可侵条約を調印しました。
 9月23日、蒋介石は、中国共産党の合法的地位を承認しました。これを第二次国共合作の成立といいます。
 9月25日、皇道派の真崎甚三郎大将は、論告求刑では「反乱者を利する罪で禁錮13年」を求刑されましたが、最終的に真崎甚三郎大将は無罪判決が下りました。
 9月、東大教授の矢内原忠雄が『中央公論』に書いた「国家の理想」が全文削除されました。
 10月5日、アメリカのルーズベルト大統領は、シカゴで、日独を侵略国家だと非難しました。これを隔離演説といいます。「反共を標榜すれば欧米列強との国交回復の調整が可能」という日本側の意図を簡単に見破られていたということです。
 11月6日、イタリアは、イギリス・フランスに対する枢軸体制を強化するため、日独防共協定に参加し、日独伊防共協定が成立しました。
 11月8日、新村猛真下真一らの世界文化グループが検挙されました。
 11月20日、蒋介石は、重慶への遷都を宣言しました。
 11月24日、東京帝大経済学部長の土方成美は、教授会で、矢内原忠雄の言論活動を非難しました。
 12月4日、矢内原忠雄は、帝大教授を退官しました。
 12月7日、内務省は、活動写真の興行時間を3時間以内に制限しました。
 12月11日、イタリアは、国際連盟を脱退しました。
 12月13日、日本軍は、旧首都の南京を占領しました。この時、虐殺事件をおこしました。これを南京事件といいます。
 12月15日、労働運動家の山川均・日本無産党委員長の加藤勘十・同党書記長の鈴木茂三郎大森義太郎ら労農派など400人は、反ファッショ人民戦線の結成を企図したとして、検挙されました。これを第一次人民戦線事件といいます。
 12月22日、日本無産党・日本労働組合全国評議会に結社禁止令が出されました。
 12月、内務省警保局は、人民戦線派の執筆禁止を出版業者に通告しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
大命降下に従わぬ皇軍、日独伊防共協定とは
 「1937(昭和12)年、宇垣一成に組閣の大命が降下しました。しかし、陸軍は、この天皇の命令に反対して陸軍大臣を推薦しませんでした。その結果、宇垣一成は組閣を諦めました」と説明しました。その授業の後、1人の生徒が職員室にやって来て、「先生のさっきの話は嘘や」と詰問するのです。
 彼は純粋な天皇崇拝者でした。そこで、放課後に職員室に呼んで、具体的な資料を見せて、説明しました。卒業後、会っていませんが、彼はどうしているでしょうか。
 天皇の命令を持ち出したり、皇軍という空虚な美名をつけて、部下を厳しく統制するが、自分たちは平気で大命に背いている実態が暴かれました。こんな二枚舌の上官の軍部は、いずれ腐敗します。
 宇垣一成に大命降下の報が入た陸相官邸には、寺内寿一陸軍大臣・梅津美治郎陸軍次官・磯谷廉介軍務局長・中島今朝吾憲兵司令官・阿南惟幾兵務局長・佐藤賢了軍務課国内班長・石原莞爾参謀本部第一部長心得らが集合しました。
 石原莞爾は「今やわが陸軍は粛軍の途上にある。とくに三月事件におけるクーデター同調の嫌疑は粛軍工作上大いに考慮する必要がある。この際断固として宇垣を忌避すべきである」と発言しました。その結果、宇垣の組閣は流産してしまった。天皇の大命が下ったにもかかわらず、組閣不能になったのは文字通り前代未聞のことでした。
 石原莞爾が指摘した粛軍とはどういうことでしょうか。
 1925年、加藤高明内閣の時、宇垣一成は陸相として、タブーとされた軍縮に手をつけました。21個師団の内高田の第13・豊橋の第15・岡山の第17・久留米の第18の4個師団を廃止しました。そして、それに伴う連隊区司令部16ヶ所を廃止としました。その上、陸軍病院5ケ所と陸軍幼年学校2校も廃しました。
 他方、欧米に比べて遅れていた装備の近代化を図りました。戦車連隊・高射砲連隊を各1個、飛行連隊を2個、台湾山砲連隊を1個新設しました。また、自動車学校や通信学校を開校したり、飛行機・戦車・軽機関銃・自動車牽引砲・野戦重砲を配備して、陸軍の近代化を図りました。
 その結果、石原莞爾らが強く推した林銑十郎が組閣しました。石原莞爾は、「林のおやじなら、猫にも虎にもなれる」といったと言うことです。ということは、林銑十郎は自分らにとって御しやすいが、宇垣一成は信念があって、扱いにくいということでしょうか。
 陸軍では、最後まで、抵抗に会い、総理大臣になることはありませんでした。宇垣のその後の経歴を見てみましょう。
 1938年、第1次近衛文麿内閣で外務大臣に就任。
 1945年、太平洋戦争終結の後、公職追放。
 1952年、公職復帰。
 1953年、参議院議員に全国区で立候補し、51万票を集めトップ当選。
 1956年、現職のまま死去。享年88。
 次に「日独防共協定」を調べてみました。全文紹介しました(『日本外交年表並主要文書』)。
「 大日本帝國政府及燭逸國政府ハ共産「インターナショナル」(所謂「コミンテルン」)ノ目的ガ其ノ執リ得ル有ラユル手段ニ依ル現存國家ノ破壊及暴壓ニ在ルコトヲ認メ、共産「インターナショナル」ノ諸國ノ國内関係ニ封スル干渉ヲ肴過スルコトハ其ノ國内ノ安寧及社會ノ福祉ヲ危殆ナラシムルノミナラズ、世界平和全般ヲ脅スモノナルコトヲ確信シ、共産主義的破壊ニ對スル防衛ノ爲協カセンコトヲ欲シ左ノ通協定セリ。
第一條 締約國ハ共産「インターナショナル」ノ活動ニ付相互ニ通報シ、必要ナル防衛措置ニ付協議シ且緊密ナル協カニ依リ右ノ措置ヲ達成スルコトヲ約ス。
第二條 締約國ハ共産「インターナショナル」ノ破壊工作ニ依リテ國内ノ安寧ヲ脅サルル第三國ニ對シ本協定ノ趣旨ニ依ル防衛措置ヲ執リ、又ハ本協定ニ参加センコトヲ共同ニ勧誘スベシ。
第三條 本協定ハ日本語及燭逸語ノ本文ヲ以テ正文トス。本協定ハ署名ノ日ヨリ實施セラルベク且五年間効力ヲ有ス。締約國ハ右期間満了前適當ノ時期ニ於テ爾後ニ於ケル爾國協カノ態様ニ付了解ヲ途グベシ。
右証拠トシテ下名ハ各本國政府ヨリ正當ノ委任ヲ受ケ本協定ニ署名調印セリ。(署名略)
 附属議定書
本日共産インターナシヨナルニ對スル協定ニ署名スルニアタリ下名ノ全権委員ハ左ノ通リ協定セリ。
(イ)両締約國ノ當該官憲ハ共産インターナシヨナルノ活動ニ關スル惰報ノ交換并ニ共産インターナショナルニ對スル啓發及防衛ノ措置ニ付緊密ニ協カスベシ。
(ロ)両締約國ノ当該官憲ハ國内又ハ國外ニオイテ直按又ハ間接ニ共産インターナシヨナルノ勤務ニ服シ又ソノ破壊工作ヲ助長スル者ニ對シ現行法ノ範囲内ニオイテ嚴格ナル椿置ヲ執ルベシ。
(ハ)前記(イ)ニ定メラレタル両締約國ノ當該官憲ノ協カヲ容易ナラシムル爲常設委員會設置セラルベシ共産インターナショナルノ破壌工作防■ノ為必要ナル爾後ノ防衛措置ハ右委員會ニ於テ考究且協議セラルベシ。(署名略)
 秘密附属協定
大日本帝國政府及濁逸國政府ハ「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦政府ガ共産「インターナショナル」ノ目的ノ實現ニ努力シ且之ガタメ其ノ軍ヲ用ヒントスルコトヲ認メ、右事實ハ締約國ノ存立ノミナラズ此界平和全般ヲ最深刻ニ脅カスモノナルコトヲ確信シ、共通ノ利益ヲ擁護スル爲左ノ通協定セリ。
第一條 締約國ノ一方ガ「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦ヨリ挑発ニ因ラザル攻撃ヲ受ケ、又ハ挑発ニ因ラザル攻撃ノ脅威ラ受クル場合ニハ、他ノ締約國ハ「ソヴイエト」社會主義共和國聯邦ノ地位ニ付負担ヲ軽カラシムルガ如キ効果ヲ生ズル一切ノ措置ヲ講ゼザルコトヲ約ス。
前項ニ掲グル場合ノ生ジタル時ハ締約國ハ共通ノ利益擁護ノ為執ルベキ措置ニ付直ニ協議スベシ。
第二條 締約國ハ本協定ノ存続中相互ノ同意ナクシテ「ソヴイエト」社会主義共和國聯邦トノ間ニ本協定ノ精神ト両立セザル一切ノ政治的条約ヲ締結スルコトナカルベシ。
第三條 本協定ハ日本語及燭逸語ノ本文ブ以テ正文トス。本協定ハ本日署名セラレタル共産「インターナショナル」ニ對スル協定ト同時ニ實施セラルベク、且ツ之ト同一ノ有効期間ヲ有ス
     昭和十一年十一月二十五日」
 要するに、共産主義やコミンテルンに対して、「国家を破壊したり暴圧する」「世界平和を脅かす」勢力と規定し、それを放任することは国内の安寧・福祉を危険に陥れるので、共産主義から防衛するために協力する。場合によっては、ソ連から攻撃を受けたときは、協力して対応するという内容です。
 こうした史料や演説を調べるとき、重要なのが史料を書いた時期や人物・団体の性格です。また演説をした時期や人物・団体の立場です。必ず自己弁護をしています。
 「大日本帝国政府及独逸国政府」は、当時、どのような性格で立場だったのでしょうか。暴力と選挙で権力を握ったファシズム政府です。「持たざる国」であるファシズム政府の戦略は、資本主義とは相容れない共産主義とか社会主義国ソ連の脅威を宣伝し、イギリス・フランスをファシズムに対して融和策をとらせることでした。そして、ファシズム政府の目的は、社会主義国ソ連の解体、隣国への侵略、強いて「持てる国」であるイギリス・フランスとの戦争、そして「持てる国」からの植民地の再分割だったのです。
 「リッペントロップの魔力に引っかかってナチスドイツと協定を結んでしまったことは、侵略主義のレッテルを貼られる恰好の材料となった」という人もいます。
 「大日本帝国政府及独逸国政府」は、国際連盟を脱退した「世界の孤児」だったのです。資本主義の国である欧米列強は、「共産主義の脅威」に対する防衛のためといえば、殆どのことが許されたのです。
 「共産主義だから、脅威である」と規定する論調も、最近は増えている。私たちは、その人の性格や立場を知ることが大切です。大学教授だからとか著名な評論家だとか、有名な茶髪の弁護士が言っているから正しいと信じ込み、鵜呑みにすると、同じ過ちを犯すことになります。TVに出演したいために、メディアに魂を売って食っている人もいるのです。
 日独防共協定の第2条の「本協定ニ参加センコトヲ共同ニ勧誘スベシ」の趣旨により、日本は、イギリスとの関係完全を図りましたが、イギリスは、この協定により「イギリス本国はドイツの脅威を受け、東洋のイギリス植民地は日本の脅威をこうむる」と警戒して、失敗しました。
 フランスは、この協定を「日本はアジアにおける立場を強化し、ドイツはヨーロッパにおける覇権を確立するもので、世界的混乱の出発点になる」とその危険性を指摘しました。
 次に、日本は、オランダとの関係完全を図りましたが、オランダも、日独伊の提携を警戒して、失敗しました。アメリカのルーズベルト大統領は、日独を侵略国家だと非難しました。
 逆に、イタリアのムソリーニは、イギリスと対抗するため、日独防共協定に参加を申し入れました。
 秘密付属協定の第2条には「締約國ハ…(ソ連)トノ間ニ本協定ノ精神ト両立セザル一切ノ政治的条約ヲ締結スルコトナカルベシ」というのがあります。しかし、ドイツは1939年8月に独ソ不可侵条約を締結しました。その結果、平沼騏一郎内閣は「欧州情勢複雑怪奇」と声明して、総辞職しました。
 首相となった駐独大使館の陸軍武官である大島浩が日独防共協定を推進している時、駐英大使の吉田茂は、反対を表明しました。そこで、辰巳栄一が吉田茂を説得するために、駐英大使館陸軍武官として派遣されました。しかし、吉田茂は、辰巳栄一に対して、次のように説きました。
 「一体、日本の軍部はナチス・ドイツの実力を買いかぶっている。如何にドイツ民族が偉いといっても、(第一次大戦後)二十年そこらの期間に、英仏、ひいて米国を相手として、太刀打ちできるほど回復しているはずがない。
 軍部は、枢軸側との協定は単に防共というイデオロギーの問題に過ぎないというが、かかる協定を結ぶことは、明らかに日本が枢軸側に伍することを意味する。…現状打破を叫んで驀進している枢軸側が、もし戦争を起こした場合…日本は英米を向こうにまわして戦わねばならぬ羽目に陥る危険がある。
 日本は今求めて枢軸側につくべき時では断じてない。国際情勢の現状から見て、日本は外交のフレキシビリチーを持つ方が賢明と思うが、若しいずれかに伍するものとすれば、自分としては独伊側よりもむしろ英米側を選ぶ。それが日本の将来のためにとるべき道であると確信する」
 戦後、辰巳栄一は「防共協定論議の当時、すでに第二次世界大戦、ひいて日本の参戦を予見した吉田さんの鋭い勘には全く敬服の他はない」と語りました。
10  このような見識のある吉田茂は、冷静で高度な分析により、ナチスドイツに傾く軍部の行動を批判しました。しかし、軍部は、これを「日本には大和魂がある」と精神論で封じました。
 日本に大和魂があり、ドイツにゲルマン魂があれば、アメリカにはヤンキー魂がありますよね。

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