print home

エピソード

251_01

日中戦争T(華北分離工作、塘沽停戦協定)
 ここでは、日中関係の1924年〜1934年までを扱います。
 日本は、万里の長城の北側の満州国の建国に深く関与しています。
 日本は、万里の長城に南側の華北の諸自治政府とも深く関与しています。ここら辺の様子を調べてみました。
 1910(明治43)年、外モンゴル(今のモンゴル国)は、活仏ジェプツンダンパ8世を君主として独立しました。しかし、内モンゴル(今の中国の内モンゴル自治区)は、自治さえ認められませんでした。
 1924(大正13)年1月7日、@23清浦奎吾内閣が誕生しました。
 1月20日、中国国民党第一回全国代表大会(1全大会)で、連ソ・容共・扶助・工農という中国国民党綱領を採択し、軍閥打倒を目的とする第一次国共合作を発表しました。
 6月11日、@24加藤高明(護憲三派)内閣が誕生しました。
 6月16日、孫文は、黄埔軍官学校を開校し、校長に蒋介石、主任に周恩来を任命しました。
 9月18日、孫文は、呉佩孚打倒の北伐を宣言しました。これを第二次北伐宣言といいます。
 1925(大正14)年7月1日、広東国民政府が成立し、汪兆銘・蒋介石らの合議制を採用しました。
 *この段階の中国は、軍閥打倒の国民党と共産党が国共合作を組織していました。
 1926(大正15)年1月4日、蒋介石が国民党の実権を握り、宣伝部長に毛沢東を選出しました。
 1月30日、@25若槻礼次郎内閣が誕生しました。
 10月10日、北伐軍は、武昌を占領しました。
 *この段階の中国は、軍閥打倒の国民党と共産党が国共合作を組織していました。
 1927(昭和元)年3月24日、中国革命軍(北伐軍)は、南京に入城しました。
 4月12日、蒋介石は反共クーデタを敢行し共産党幹部を銃殺しました。これが4・12クーデタです。これを国共分離といいます。
 4月17日、枢密院は、協調外交の若槻内閣に反発し、台湾銀行救済緊急勅令案を否決しました。
 4月18日、蒋介石は、汪兆銘の武漢政府に対抗し、南京国民政府を樹立しました。
 4月20日、@26田中義一(政友会)内閣が誕生しました。田中義一の強硬外交への転換です。
 5月28日、田中内閣は、居留民の保護を名目に、山東出兵しました。これが第一次山東出兵です。
 6月27日、東方会議で、満蒙での日本権益を死守するという「対支政策綱領」を決定しました。
 7月7日、田中義一首相兼外相は、満州の権益自衛の方針を声明しました。
 7月13日、中国共産党中央委員会は、国民政府から退出し、第一次国共合作が終了しました。
 *この段階の中国は、蒋介石の国民党と共産党の国共合作が終了し、国民党内部でも、蒋介石の国民党と汪兆銘とが対立していました。
 1928(昭和3)年2月2日、蒋介石は、中華民国(南京国民政府)を創立し、国旗・党章として青天白日旗(青地に白い太陽)を決定しました。
 4月7日、国民革命軍は、北伐を開始しました。
 4月19日、田中内閣は、第二次山東出兵を決定し、第6師団5000人に動員命令を出しました。
 5月3日、山東出兵の日本軍は、済南で、北伐途中の革命軍と衝突しました。これが済南事件です。
 5月10日、国民政府は、日本の山東出兵を国際連盟に提訴しました。
 5月11日、日本軍は、済南城を占領しました。
 6月4日、張作霖は、奉天に引揚げの途中、関東軍の謀略で、列車を爆破されて、死亡しました。
 6月9日、北伐軍(閻錫山軍)は、北京に入城しました。これで北伐戦争が終了しました。
 6月21日、中国側は、張作霖の死亡を公表しました。これを張作霖爆死事件といいます。
 6月29日、田中義一内閣は、治安維持法を公布し、死刑・無期懲役を追加しました。
 7月3日、内務省保安課を拡充強化し、未設置の全県警察部に特別高等課設置を公布しました。
 7月22日、張学良は、東三省保安総司令官に任命され、青天白日旗の掲揚を決定しました。つまり、東三省(後の満州)が国民政府の支配下に入ったことを意味します。
 8月27日、不戦条約に調印しました。別名ケロッグ・ブリアン条約といいます。
 10月8日、蒋介石が国民政府主席に就任し、米・英・仏が国民政府を承認しました。
 12月29日、張学良は、東三省の易幟を通電し、国民政府に合流しました。
 *この段階の中国は、蒋介石の国民党は中国を統一しましたが、共産党とは対立していました。
 1929(昭和4)年1月、共産党の毛沢東・朱徳らが率いる紅軍は、蒋介石の率いる国民党軍に包囲され、井崗山を放棄して江西南部に進撃しました。
 3月26日、蒋介石は、湖南で、反蒋運動をおこした広西派の李宗仁らの討伐総攻撃を命じました。
 7月1日、満州某重大事件について、田中首相は昭和天皇に叱責されました。
 7月2日、@27浜口雄幸(民政党)内閣が誕生しました。第二次幣原外交が始まりました。
 10月24日、ウオール街の株価が大暴落しました。アメリカで恐慌がはじまりました。
 *この段階の中国は、蒋介石の国民党は共産党や反蒋運動をおこした広西派と交戦していました。
 1930(昭和5)年4月22日、ロンドン海軍軍縮条約に調印しました。
 4月25日、犬養毅鳩山一郎は、ロンドン海軍軍縮条約に関して統帥権干犯問題と追求しました。
 7月27日、共産党の彭徳懐が率いる紅軍第3軍団が長沙を占領し、長沙ソビエトを樹立しました。
 7月、この頃、ドイツの不況が深刻化しました。アメリカの恐慌が世界恐慌に発展して行きました。
 8月4日、蒋介石が率いる国民政府軍は、長沙を占領し、長沙ソビエトは崩壊しました。
 9月1日、汪兆銘閻錫山馮玉祥らは、北京に反蒋北方政府を樹立しました。
 10月10日、国民政府中央軍は、閻錫山らの反乱軍を討伐して、洛陽に入城しました。
 10月、世界恐慌が日本に波及しました。これを昭和恐慌の始まりといいます。
 12月27日、蒋介石軍10万人は、紅軍包囲攻撃戦を開始しました。これが第一次掃共戦です。
 *この段階の中国は、国民党は国内の反蒋北方政府と交戦し、共産党の掃討を図っていました。この状態が国共内戦です。
 1931(昭和6)年3月、クーデタによる軍部内閣の樹立を計画しました。これが三月事件です。
 4月14日、@28若槻礼次郎内閣が誕生しました。外相に幣原喜重郎が任命されました。
 5月16日、蒋介石軍20万人は、第二次掃共戦を開始しましたが、失敗しました。
 5月28日、汪兆銘・李宗仁らは、反蒋連合を結成し、広州に広東国民政府を樹立しました。
 7月、蒋介石軍30万人は、第三次掃共戦を開始しましたが、紅軍のゲリラ戦により撃退されました。
 7月2日、万宝山で、朝鮮人農民と中国農民・警察官が衝突しました。これを万宝山事件といいます。
 9月18日、柳条湖事変により、満州事変が始まりました。
 9月24日、政府は、満州事変に関し不拡大方針の第一次声明を発表しました。
 9月26日、上海で10万人の抗日大集会が開かれました。
 10月17日、クーデタによる軍部内閣の樹立を計画しました。これを十月事件といいます。
 10月24日、国際連盟理事会は、満州撤兵を勧告する案を13対1で可決しました。
 10月、上海と北京で、抗日救国会が開かれ、義勇軍が組織されました。
 10月27日、上海で、南京政府の蒋介石と広東政府の汪兆銘・胡漢民和平予備会議をしました。
 11月5日、蒋介石の南京政府は、抗日運動禁止令を公布しました。
 11月6日、南京の金陵大学で、全国学生抗日救国会成立大会が開かれました。
 11月27日、共産党は、瑞金政府を樹立し、主席に毛沢東、副主席に項英らを選出しました。
 12月13日、@29犬養毅内閣が誕生しました。
 *この段階の中国は、蒋介石の国民党は反蒋の広東政府と対立したり和を結んだり、共産党の掃討を図っていました。
 民衆が抗日大集会、学生が抗日救国会を開いたりしました。共産党がソビエト式の瑞金政府を樹立するなど、まったく新しい動きが出てきました。蒋介石は、相変わらず抗日運動を禁止しり、共産党の掃討を図っています。この状態が国共内戦です。
 1932(昭和7)年1月1日、蒋介石の南京政府は、汪兆銘の広東政府と合体して、新国民政府を樹立しました。
 1月3日、関東軍は、錦州を占領しました。
 1月7日、米国務長官スティムソンは、パリ不戦条約に違反する取り決めを認めない」と通告しました。
 1月7日、陸軍中央部は、支那問題処理方針要綱満州独立の方針)を関東軍に指示しました。
 1月14日、国際連盟理事会は、イギリスのリットンlを団長に任命しました。
 1月18日、日本人僧侶が、上海で、中国人に殺害されました。陸海軍の増派が決定しました。
 1月28日、居留民保護を名目に海軍の陸戦隊3000人が上海に上陸し、上海防衛の中国第19路軍と交戦しました。これを上海事変といいます。
 2月2日、上海方面に、司令官の野村吉三郎中将が率いる第3艦隊を編成しました。
 2月5日、関東軍は、ハルビンを占領しました。
 3月1日、世界の目が上海に向いている時、首都長春で、満州国建国を宣言しました。
 3月9日、ラストエンペラーの宣統帝溥儀は、満州国執政に就任しました。
 4月26日、瑞金の駐華ソヴィエト政府は、対日宣戦を布告しました。
 5月5日、上海から日中両軍が撤退するという内容の上海停戦協定が調印されました。蒋介石は、共産党の紅軍を攻撃するために、国民党の精鋭部隊である中国第19路軍を福建に移動させました。
 5月15日、海軍青年将校らは、犬養毅首相を射殺しました。これを五・一五事件といいます。
 5月26日、@30斉藤実内閣が誕生しました。これを挙国一致内閣といいます。
 6月10日、蒋介石は、廬山会議を開き、第4次掃共作戦と対日妥協政策を決定しました。
 6月15日、蒋介石軍50万人は、第4次掃共作戦を開始しました。
 6月、熱河省内の列車に乗っていた関東軍の石本権四郎が抗日義勇軍に殺害されました。
 9月15日、武藤信義陸軍大将と 満州国の鄭孝胥国務総理は、日満議定書に調印しました。
 10月1日、リットン調査団は、日本政府に報告書を通達しました。
 *この段階の中国は、共産党は対日宣戦を布告しましたが、蒋介石の国民党は日本と妥協し、逆に共産党の掃討を図っていました。この状態が国共内戦です。
10  1933(昭和8)年1月1日、日本軍は、山海関で、中国軍と衝突しました。これが山海関事件です。
 1月17日、中国共産党の毛沢東朱徳は、抗日協定締結の3条件を公表しました。
 1月30日、ナチスが政権を得て、ヒトラーが首相に就任しました。
 2月17日、石本権四郎殺害事件を利用して、熱河省の抗日運動を弾圧するため、関東軍は熱河省併合を奏上しました。昭和天皇は、「関内(長城以南)に進出せざるべし、関内に爆撃せざるべし」を条件に裁可しました。
 2月20日、閣議は、対日勧告案を可決した場合には国際連盟を脱退することを決定しました。
 2月23日、日満両軍は、熱河省への侵攻作戦を開始しました。
 2月24日、国際連盟総会は、リットン報告を42対1の圧倒的多数で可決しました。
 3月5日、ドイツで総選挙が行われ、ナチス党が288人の当選者を出しました。
 3月7日、日本軍は、熱河省都の承徳を占領し、次に長城線に達して、国民政府軍を衝突しました。日本軍は、長城線から北に引き上げました。
 3月27日、外相の内田康哉は、国際連盟事務総長に脱退通告文を通達しました。
 5月1日、蒋介石は、宋慶齢らが上海で結成した国民禦侮自救会に解散を命令しました。
 5月7日、関東軍は、長城の南側から国民党軍の反撃があったとして、中央の許可を得て再び長城線を越えて関内作戦を開始しました。
 5月21日、日本軍は、通州を占領し、北京城外に接近しました。
 5月31日、蒋介石の国民党政府は、塘沽停戦協定を締結しました。その内容は、日本軍と国民党軍は河北省東部から撤退し、ここを非武装地帯とするというものでした。その結果、蒋介石が排日運動の取締りを約束し、両国の公使館を大使館に昇格させるなど日中親善が表面的化しました。
 7月14日、ナチス党が唯一の政党となりました。
 7月17日、雲王徳王・烏盟旗長2人・錫盟旗長1人は、内蒙古自治のため、百霊廟で、第一回蒙古王公会議を開催しました。徳王は、内モンゴル(内蒙古)のシリンゴル盟・スニット右旗の王族の子でした。外モンゴルは独立を認められていましたが、内モンゴルは自治さえ認められていなかったので、独立を悲願に、関東軍の板垣征四郎参謀副長らに協力を求めていました。
 徳王には、内モンゴル(内蒙古)・外モンゴル(外蒙古)ロシア領ブリヤート(北蒙古)を統一し、大モンゴルを再興するという野望がありました。
 8月1日、毛沢東の瑞金政府は、反日・反帝・反国民党を指示しました。
 8月19日、徳王(32歳)らは、第二回蒙古王公会議を百霊廟で開き、蒋介石の国民政府に内蒙古自治要求の請電を発信しました。
 9月18日、軍長の楊靖宇は、南満州に東北人民革命軍1000人を結成しました。
 10月5日、蒋介石は、100万人の兵力を動員して、第五次掃共戦開始しました。
 10月14日、ヒトラー政府は、ジュネーブ軍縮会議および国際連盟から脱退を声明しました。
 10月24日、内蒙古自治政府を組織することを決議し、委員長に雲王、政務委員長に徳王らを選出しました。
 11月26日、国民党の精鋭部隊である第19路軍を中心に出来た福建人民革命政府(主席は李済深)は、共産党の紅軍と反蒋抗日初歩協定を締結しました。
 11月、蒋介石の国民政府は、百霊廟に黄紹超丕廉を特派しました。在廟中の班禅ラマも参加しました。しかし、強硬な徳王らを説得できず、逆に蒙古自治の許諾を与えました。
 *この段階の中国は、共産党は反日・反帝・反国民党を指示したり、福建人民革命政府と反蒋抗日協定を締結しました。国民党は、共産党の掃討を図っていました。この状態が国共内戦です。
 蒋介石は、中国人同士の国共内戦を行う一方、日本とは停戦協定を結び、満州を承認しました。
11  1334(昭和9)年1月、国民党中央軍は、福建人民革命政府を総攻撃して壊滅させました。
 2月、張学良は、総司令の蒋介石から河北・湖北・安徽の華中三省剿匪副総司令を任命され、武昌に司令部をおきました。
 3月1日、満州帝国が成立し、溥儀が満州帝国最初の皇帝に就任しました。
 4月10日、中国共産党は、反日統一戦線・抗日救国の6大綱領を提示しました。
 4月23日、百霊廟で、蒙古自治政務委員会が開設され、蒋介石の国民政府に対し、高度自治を要求しました。委員長に雲王、政務委員長に徳王、指導長官に何応欽が選出されました。しかし、蒋介石は自治の要求を認めませんでした。
 5月3日、宋慶齢らの中国民族武装自衛委員会は、「抗日作戦宣言」と基本綱領を発表しました。
 7月8日、@31岡田啓介内閣が誕生しました。
 10月15日、中国紅軍は、瑞金を脱出して長征を開始しました。これを大西遷といいます。
 11月10日、国民政府軍は、瑞金を占領しました。これで、第五次掃共戦が終了しました。
 *この段階の中国は、共産党は抗日救国を宣言し、中国民族武装自衛委員会は抗日作戦を発表しましたが、国民党は共産党の掃討を図っていました。この状態が国共内戦です。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
討論会のイロハ、傀儡政権とは
 最近見たTVで、暴言を吐くことで人気のあるベテランの政治評論家が「共産主義の国から」とか「選挙をやったことのない中国から」とか前置きして、「日本にいちゃもんをつけるな」と発言しました。相手は孔子から数えて75代の直系という中国人ですが、初出演ということもあり、言葉のハンディもあってまとも反論ができませんでした。多分そのTVを見た人は、ベテランの中国を中傷する発言が印象に残ったことでしょう。
 コラムニストは最初からケンカ腰です。仲介者に「最初は抑えて」とたしなめられていました。
 しかし、日本人のナショナリズムを刺激しても、中国人を納得させたことにはなりません。
 以前のTVは、発言が偏らない人選をしていたと思います。しかし、最近、バランスを考えてはいるが、護憲とか、協調派の人選に不自然さを感じます。外国人が登場しても、日本語で議論します。当然、微妙な言い回しや、暴言になれていない外国人の発言は少なくなります。重要な外交問題は、日本語の機微の理解できる外国人を採用すべきです。以前は、そういう外国人に日本人が日本のことで打ちまかされる場面を何度も見たことがあります。
 この項では、年代順に、中国の動きを追って行きたいと思います。日本の指導者は、中国人を偏見から侮り、見落としていました。そこことが、多くの悲劇を生んだのです。
 傀儡とは操り人形のことです。傀儡政権とは、特定の他国から思うままに操られる政権、または、首脳部の任免を他国に握られている政府のことをいいます。名目上は主権国家の体裁を整えていても、実質的に内政権・外交権・軍事権を奪われている国家を、傀儡国家といいます。
 つまり、名前をどうであれ、内政権・外交権・軍事権がないことを傀儡といいます。
 最近、満州国について、次のような文章に出会いました。
(1)「日本の関東軍作戦主任参謀であった石原莞爾は、満州事変を起こして産み出した極東の理想国家が満州国だったのです。清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀(宣統帝)を国家元首に戴き、”五族協和の王道楽土”を国家の根本理念とし、満州の地に五族(日本・朝鮮・満州・蒙古・漢民族)、ロシア革命によって亡命した白系ロシア人・ユダヤ人などの多民族からなる合衆国を樹立したのです」。
 この著者は、自ら、次の文章で、その欺瞞を、証明します(墓穴を掘ります)。
 「しかし、”日満一体”の名の下、日本との結び付きが余りにも強固だったが故に、大東亜戦争に於ける日本の敗戦に際して、満州国もその歴史に終止符を打ったのです」。
(2)「満州国は国軍を保有せず、関東軍が駐留していたではないか。これこそ、傀儡国家の証拠では無いのか?と仰られる方もおありでしょう」「日本と満州国との間で取り交わされた『日満議定書』には、両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルヘキコトヲ約ス之カ為所要ノ日本国軍ハ満洲国内ニ駐屯スルモノトスと明記されており、この条項に遵って関東軍は満州国建国後も、引き続き駐留する事となったのです」。
 この著者は、満州国の内政権・外交権には、触れていません。
(3)「日米二国間で締結された日米安保条約に基づいて米軍が駐留している以上、これを違法行為と断ずる事は出来ません。ましてや、米軍の日本駐留を理由に日本は米国の傀儡国家であるとして、日本を独立主権国家として承認していない国がこの世界にあるでしょうか?」「それと同じで、関東軍の駐留によって、自国の国防を日本に全面委任していた満州国を傀儡国家とはいえない」
 この著者は、日本の内政権・外交権・軍事権には、触れていません。
 私は、当時の世界は、植民地を支配し、傀儡政権を通じて、その地域を統治していた時代です。
 朝鮮を植民地支配し、満州や華北に傀儡政権を樹立したといって、どこに問題があるのでしょうか。
 どうして、日本が戦前したことを、ガセネタを使って、否定したがるのか分かりません。人間はミスをする動物です。再びミスをしないように、チェック機能(システム)を構築することの方が重要なのです。
 そのためには、事実を向き合い、ミスはミスと認め、確認する作業が必要です。
 失敗しない、無謬の人間・組織こそ、気味が悪い存在です。

index