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エピソード

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日中戦争U(華北分離工作、西安事件)
 ここでは、日中間の1935年〜1939年までを扱います。
 1935(昭和10)年1月13日、共産党の毛沢東・朱徳が率いる紅軍は、貴州の遵義を占領し、左翼偏向を批判して、毛沢東の共産党指導権が確立しました。
 5月29日、関東軍は、華北五省河北察爾綏遠山西山東)を国民政府の支配から切り離す華北分離工作を企図しました。そこで、支那駐屯軍司令官梅津美治郎は、東北抗日義勇軍が河北省東部の非武装地帯に入ったことを塘沽協定違反だとして、河北省全域からの国民党軍の撤退とその非武装地帯化を要求しました
 5月30日、共産党の毛沢東・朱徳が率いる紅軍は、揚子江を渡河しました。
 5月、関東軍の板垣征四郎参謀副長・石本虎造第二課長・田中隆吉参謀は、ウジムチン王府で、蒙古自治政府委員会の政務院長である徳王らと会見し、関東軍は、蒙古自治政府委員会を支援することを約束しました。
 6月5日、関東軍の特務機関員である大月桂らは、察爾(チャハル)省で、国民党軍の宋哲元にに逮捕されました。これをチャハル事件といいます。関東軍は、これを口実に、察爾省の非武装地帯化を求めました。
 6月10日、国民政府の何応欽は、河北省に関する日本軍の要求の「党部の撤去」など全てを承認しました。これを梅津・何応欽協定といいます。
 6月10日、国民党は、睦隣令を発令し、抗日運動を禁止しました。
 6月23日、関東軍の特務機関長である土肥原賢二少将は、チャハル省代理主席の秦徳純に、チャハル省北中部からの宋哲元軍撤退などを要求しました。
 6月27日、土肥原・秦徳純協定が調印されました。その内容は、次の通りです。
(1)秦徳純は、遺憾の意を表明し、日本側の合法活動を認める
(2)宋哲元軍をチャハル省から長城線南西に後退させる
 7月25日、モスクワの第7回コミンテルン大会は、人民戦線のテーゼを採択しました。軍民一体のゲリラ戦を採用しました。
 8月1日、中国共産党は、抗日救国統一戦線を提唱しました。これを8・1宣言といいます。ゲリラ戦を呼びかけました。
 9月24日、支那駐屯軍司令官の多田駿国民政府より独立する華北政権の樹立を声明しました。その内容は、次の通りです。
(1)反満抗日分子を華北から徹底的に駆逐する。
(2)華北経済圈を独立させる。
(3)華北5省と軍事協力し、赤化防止に務める。
 10月4日、陸軍大臣の川島義之は、華北自治奨励案を提出しました。閣議は、華北分離を日本の正式な政策と決定しました。
 10月、北京東南部の香河県城で暴動がおこり、中国人は自治を宣言しました。天津でも、中国人が国民党当局に自治を申請しました。後に、関東軍の特務機関が、中国人を買収して仕組んだことが分かりました。
 10月、西北剿匪副総司令に任命された張学良は、東北軍を率いて西安に司令部を置きました。西安は、蒋介石の安内攘外政策の対紅軍最前線でした。安内攘外とは、(共産党の紅軍)を泰して後に(日本軍)を(う)つという意味です。
 この頃、張学良らは、紅軍に逮捕されて紅軍より送り返された捕虜から、共産党の内戦停止・一致抗日という方針を聞かされました。
 故郷の満州を日本軍のために失った張学良が率いる東北軍は、抗日意識が強く、楊虎城が率いる西北軍と共に共産党が提案した国共合作を支持するようになっていました。国共合作とは、民党と産党が合作(協力)して、日本軍と戦うという意味です。
 10月、徳王らは、「蒋介石の国民政府に依存していては蒙古自治達成は不可能」と判断し、日本の援助により蒙古自治を達成することを決議しました。
 11月1日、欧米派に反対の親日派の汪兆銘が抗日派の新聞記者に狙撃され、行政院長を辞任しました。その結果、国民党内部の親日派が後退することになりました。
 11月11日、関東軍の特務機関長である土肥原賢二少将は、蒋介石に不満を持っていた宋哲元に対して、自治政権を樹立することを提案すると同時に、「11月20日まで自治を宣布しなければ、華北に日本軍を投入する」という最後通牒を出しました。
 11月12日、関東軍司令官南次郎は、宋哲元に圧力をかけるため、独立混成第一旅団を山海関に派遣しました。しかし、宋哲元は自治政権の樹立を拒否しました。
 11月23日、次に、土肥原賢二少将が目をつけたのが日本の早稲田大学を卒業した殷汝耕でした。殷女耕は、外貨獲得という目的のために、日本の企業とも友好関係にありました。
 11月25日、国民党の冀東行政督察専員である殷汝耕は、関東軍の命を受け通州で、長城以南の非武装地帯に冀東防共自治委員会を樹立しました。主席となった殷汝耕は、国民政府よりの離脱を宣言しました。冀東の冀は河北省の略ですから、冀東とは河北省東部ということです。河北省は、渤海湾に面し、黄に位置するです。
 11月、徳王らは、関東軍の南次郎司令官を訪問し、関東軍の蒙古援助を確認しました。徳王は、板垣参謀長より50万円を贈与されました。
 12月8日、日本軍と南京国民政府との協議により、北平に、河北・チャハル2省を管轄する冀察政務委員会を設置しました。これは、華北に成立した日中間の緩衝政権という性格と国民政府のもとで共同して防共にあたるという性格を持っていました。委員長には宋哲元を任命しました。冀察冀は河北省、冀察の察は察哈爾(チャハル)の略です。河北省・察哈爾省と北京市・天津市を支配しました。軍隊は第29軍が主力でした。
 12月16日、北京の学生3万人は、8・1宣言に呼応して、冀察政務委員会に反対して、内戦停止と一致抗日運動をおこしました。これを12・9運動といいます。
 12月25日、殷女耕は、冀東防共自治委員会を冀東防共自治政府と改称し、冀東22県を支配しました。日本とは、アヘンの輸出で繋がっていました。
 *この段階の中国は、共産党は抗日救国統一戦線のゲリラ戦を宣言し、学生がそれに呼応して一致抗日運動を提唱しましたが、国民党は共産党の掃討を図っていました。この状態が国共内戦です。
 他方、国民党は、日本の河北分離工作に協力的でした。
 1336(昭和11)年1月15日、ロンドン海軍軍縮会議よりの脱退を通告しました。
 1月、東北地方(当時の満州)の各抗日軍は、楊靖宇を統一総司令官として、東北抗日連軍に改編され、その兵力は30万人に達しました。
 2月26日、皇道派青年将校は、内相斉藤実らを殺害しました。これを二・二六事件といいます。
 3月9日、@32広田弘毅内閣が誕生しました。外相は外交官の有田八郎です。
 4月24日、徳王らは、蒙古建国会議を開きました。各旗より30人、関東軍の田中久機関長らが参加し、中華民国からの独立を企図して、蒙古建国を決議しました。これが蒙古軍政府です。
 5月5日、紅軍は、国民政府に対して、反蒋スローガンを放棄し、停戦講和抗日を通電しました。
 5月、蒙古軍政府は、徳化に移転し、吉思汗元を採用し、年号を成紀731年としました。
 6月1日、上海の全国各界救国連合会は、国民政府に対して、連共抗日を要求しました。
 6月8日、帝国国防方針・用兵綱領の第三次改定が裁可されました。
 6月、蒙古軍政府は、新京で、満州国政府と相互援助協定を締結しました。徳王は、宣統帝溥儀より武徳親王の称号を与えられました。
 8月7日、広田内閣は、国策の基準を決定し、大陸・南方への進出と軍備充実を決定しました。
 8月11日、広田内閣は、第二次北支処理要綱を決定し、華北五省の防共親日満地帯建設を企図しました。
 8月25日、中国共産党は、国民党に対して、抗日民主国共合作を提唱しました。
 10月11日、蒙古軍政府は、冀東防共自治政務委員会と防共通商協定を締結しました。
 11月14日、関東軍の田中隆吉参謀兼徳化特務機関長は、蒙古政府軍と王英大漢義軍に命じて、傅作義軍を攻撃させましたが、失敗しました。これを綏東事件といいます。
 11月23日、国民政府は、章乃器ら救国連合会の7領袖を逮捕し、抗日世論を弾圧しました。
 11月25日、日独防共協定がベルリンで調印されました。
 12月4日、蒋介石は、西安に飛び、張学良らに掃共継続を命令しました。
 12月9日、傅作義軍の急襲により陥落した百霊廟を奪回するために、田中隆吉参謀は、金甲山部隊を率いましたが、戦意がなくシラムレン廟に後退しました。そして、叱咤激励された金甲山部隊は逆襲して、日本人を29人殺害しました。これをシラムレン事件といいます。
 12月12日、張学良は、逆に蒋介石を軟禁しました。これを西安事件といいます。国民党副総裁であった汪兆銘は、蒋介石に「コミンテルンの謀略に乗った国共合作を断念するように」と懇願しました。
 12月15日、西安事件を知った徳王は、綏東事件紛争停止を蒋介石の国民政府と宋哲元の冀察政務委員会に通電し、田中隆吉参謀により派遣された王英の大漢義軍を解散しました。
 12月16日、共産党の周恩来は、西安に飛び、張学良と蒋介石と会談しました。
 12月21日、ワシントン海軍軍縮条約が失効しました。
 *この段階の中国は、全国各界救国連合会は連共抗日を要求し、共産党は国民党に抗日民主国共合作を提唱しましたが、国民党は抗日世論の弾圧を図りました。
 西安事件で、共産党の周恩来は、国民党の張学良と蒋介石と会談しました。これが国共会談です。
 1937(昭和12)年1月、武藤章大佐が徳化特務機関長となりました。
 7月7日、蘆溝橋事件により、日中は全面戦争に突入しました。
 7月31日、抗日を鮮明にした冀察政務委員会の第29軍は、日本軍と度々衝突しました。その結果、冀察政務委員会は解散に追い込まれました。
 8月16日、蒙古軍政府は、関東軍の徳化特務機関の指令により、徳化から多倫へ遷都しました。
 8月27日、関東軍は、多倫より張家口に入城しました。
 9月4日、内モンゴルに、日本が支援した察南自治政府成立が成立しました。
 10月5日、内モンゴルに、日本が支援した晋北自治政府が成立しました。
 10月14日、日本軍が綏遠に入城しました。
 10月15日、日本軍が包頭に入城しました。蒙古政府軍も、日本軍の進出に随行しし、綏遠省の各機関を接収しました。
 10月27日、徳王らは、張家口で、4つの盟と2つの特別市を領域とする蒙古連盟自治政府を樹立しました。主席に雲王、副主席に徳王、総司令官に李守信が選出されました。最高顧問には、関東軍の宇山兵士が就任しました。4つの盟長にはモンゴル人が選出されましたが、それぞれの顧問には日本人が就任しました。
 11月22日、張家口で、蒙彊連合委員会が成立しました。蒙古軍政府代表には卓特巴札布、察南自治政府代表には于品卿、晋北自治政府代表には夏恭が選出されました。最高顧問には金井章二が就任しました。
 *この段階の中国は、国共合作をつうじて、日本と全面戦争に突入しました。日本は、華北分離工作をより積極的に推進しました。
 1938(昭和13)年10月21日、蒙古連盟自治政府の徳王主席や李守信総司令官らが、金井章二最高顧問らに伴われて、昭和天皇に拝謁しました。その時、徳王は勲一等旭日章、李守信は勲二等瑞宝章を授与されました。
 1939(昭和14)年9月1日、蒙古軍政府・察南自治政府成立・晋北自治政府が連合して、蒙古連合自治政府が樹立されました。徳王は、主席に選出されました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
張学良・蒋介石と西安事件
 今から20年ほど前、日中教育交流懇話会の一員として、私は、個人旅行が殆ど認められなかった時代の中国へ渡りました。どうしても行きたかった1つが西安事件の現場です。
 上の年表で見てきたように、蒋介石は、資本主義という立場で、異民族の日本とは協調しても、同胞である毛沢東を共産主義者ということで許さなかったです。蒋介石の言動は、「共産主義を一番恐れているのは資本家である」、そのことを如実に示す見本です。
 その蒋介石が張作霖の子張学良によって監禁され、やっと毛沢東と手を結びました。これが第二次国共合作です。第一次は財閥打倒、第二次は抗日です。その場所が西安(昔の長安)だったのです。人民戦線(ゲリラ)を組織する共産党と中国の多くを支配する国民党の統合は、今までにない新しい展開を日本に迫ることになりました。しかし、中国人を侮っている日本人には、冷静にその重大さを認識することが出来ませんでした。
 私は、ゲリラを相手にするようになった場合、落とし所を考えるべきだと思っています。ベトナム戦争がそれを証明しています。
 それはともかく、西安事件は、楊貴妃の別荘である西安郊外の華清池でおきました。中国では温泉のことを池と表示します。20年ほど前は、楊貴妃の入った風呂も子供の遊び場化していて、私は靴とズボンのまま入りました。
 そこから100メートルほど上った小山の中腹に、「捉蒋亭」(今は「兵諫亭」)と書かれた小屋が建っていました。山に逃げ込んだ介石が捕された場所という意味です。当時は案内の看板も無かったので現地のガイドに聞いた確認したので、日本人として最初に訪れたのではないかと自負しています。
 西安事件を見てみましょう。
 1936年12月4日、蒋介石は、西安に飛んで、張学良らに掃共継続を命令しました。
 12月12日 張学良・揚虎城らは、孫銘九ら親衛隊を率いて、西安・華清池の五間庁に宿泊していた蒋介石を逮捕・監禁し、国民党の改組・内戦停止・政治犯の釈放など8項目を要求しました。これを兵諌の決行、または西安事件といいます。安内攘外に固執する蒋介石を殺害する過激派もいましたが、張学良は、このクーデターを中国共産党に連絡しました。
 12月13日、監禁された蒋介石は張学良らの要求を拒絶し、世論も張学良を批判を浴し始めました。
 12月16日、国民政府の中央部は、張学良討伐を決定しました。
 12月16日、延安より飛来した共産党の周恩来は、「抗日戦は、共産党のみでは戦えない。国民政府の力が必要である」と張学良を説得しました。共産党の周恩来は張学良・蒋介石との三者秘密会談に臨みました。この会談では、蒋介石は何一つ署名しなかったと言われますが、生命と交換に内戦停止・一致抗日を密約したと思われます。
 12月19日、共産党中央部は、蒋介石を含む和平会議の招集を提案しました。
 12月26日、蒋介石は、釈放されて南京に帰還しました。張学良も、南京に同行しましたが、そこで幽閉されました。張学良は、国家元首を監禁した罪により懲役10年の判決を受けました。楊虎城は蒋介石に暗殺されています。
 1937年2月10日、共産党中央部は、国民党に対し、紅軍の国民革命軍への改名などの国共合作を提議しました。
 2月15日、国民党は3中全会を開き、赤禍根絶案を採択しました。しかし、実際は国共合作に同調するものでした。この結果、抗日民族統一戦線が結成されました。
 国共合作・抗日民族統一戦線という重大な変化に対し、日本の情報機関は、「赤禍根絶」という言葉に幻惑されて、正確な対応が出来ませんでした。「敵を知らず」の重大な過ちを犯したのでした。
 1993年12月24日、蒋介石の息子で蒋経国が亡くなりました。その結果、張学良は、台湾での54年の軟禁状態を解かれました。
 2001年10月15日、張学良(100歳)は、ハワイの病院で亡くなりました。中華人民共和国では、張学良を「千古の功臣」・「民族の英雄」と評価しています。

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