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エピソード

251_03

日中戦争V(国体の本義、盧溝橋事件)
 ここでは、天皇機関説を排除して、国体という観念を洗脳し、思想統制を図っていった過程と、盧溝橋事件の経過を調べました。
 1934(昭和9)年7月、@31岡田啓介(陸軍大将)内閣が誕生しました。 
 1335(昭和10)年1月24日、民政党の斉藤隆夫は、衆議院で、陸軍パンフレットおよび軍事費偏重を攻撃しました。
 2月18日、菊池武夫男爵は、貴族院で、美濃部達吉の天皇機関説を攻撃しました。
 3月4日、岡田啓介首相は、議会で、天皇機関説反対を言明ました。
 3月8日、貴族院は、「国体の本義を明徴にすべし」という建議案を可決しました。
 3月23日、衆議院は、「国体明徴決議案」を満場一致で可決しました。
 8月3日、岡田啓介内閣は国体明徴に関する政府声明を発表しました。その内容は次の通りです。
「恭シク惟ミルニ我ガ国体ハ天孫(天ツ神ノ子孫)降臨ノ際下シ賜ヘル御神勅ニ依リ昭示セラルル所ニシテ万世一系ノ天皇国ヲ統治シ給ヒ…即チ大日本帝国統治ノ大権ハ儼トシテ天皇ニ属スルコト明ナリ、若シ夫レ統治権ガ天皇ニ存セスシテ天皇ハ之ヲ行使スル為ノ機関ナリト為スガゴトキハ是レ全ク万邦無比ナル我ガ国体ノ本義ヲ愆ルモノナリ」。
 要約すると、「日本の国体は、万世一系の天皇が統治する、これが日本の国体の本義であり」、「天皇は統治権を行使する機関ではない」ということです。
 9月18日、美濃部達吉が貴族議員を辞任しました。
 10月15日、岡田啓介内閣は、「天皇機関説は我国体に反する」との国体明徴に関する第2次政府声明を発表しました。
 1336(昭和11)年1月10日、天皇機関説論者として攻撃された法制局長官の金森徳次郎が辞任しました。
 2月26日、二・二六事件がおきました。
 3月9日、@32広田弘毅内閣(外交官)が誕生しました。
 3月13日、天皇機関説論者で、美濃部達吉の恩師である一木喜徳郎が枢密院議長を辞任しました。後任には平沼騏一郎が就任しました。
 6月8日、仮想敵国を米・ソとする帝国国防方針・用兵綱領の第三次改定が裁可されました。
 8月7日、国策の基準を決定し、大陸・南方への進出と軍備充実を決定しました。
 8月11日、広田内閣は、第二次北支処理要綱を決定し、華北五省の防共親日満地帯建設を企図しました。
 8月25日、中国共産党は、抗日民主国共合作・民主共和国の樹立を提唱しました。
 11月25日、日独防共協定がベルリンで調印されました。
 12月12日、張学良は、蒋介石を軟禁しました。これを西安事件といいます。
 1937(昭和12)年1月21日、政友会の浜田国松は、衆議院で、演説中に、陸相の寺内寿一と腹切り問答を行い、政党と軍部の対立が激化しました。この背景には、政党は軍備拡張による国際収支の悪化に不安を抱いており、軍部は国内改革が不徹底であることに不満を抱いていました。
 1月23日、解散を主張する寺内寿一陸相と、政党出身の閣僚が対立し、広田弘毅内閣は総辞職しました。
 1月25日、昭和天皇は、朝鮮総督の宇垣一成陸軍大将に組閣の大命を下しましたが、陸軍の反対で陸相を得られず、宇垣は辞退を申し出ました。これを宇垣流産内閣といいます。
 2月2日、@33林銑十郎内閣(陸軍大将)が誕生しました。外相・文相は林銑十郎が兼任、蔵相は財界の結城豊太郎中村孝太郎陸軍中将、海相は米内光政らが就任しました。これが軍財抱合です。
 2月8日、中村孝太郎陸相の後任に、杉山元陸軍大将が就任しました。
 3月22日、陸軍省は、陸軍軍人軍属著作規則を改正し、軍部内の言論統制を強化しました。
 3月31日、衆議院は、予算成立後、会期最終日に解散しました。これを食い逃げ解散といいます。
 4月16日、外相・蔵相・陸相・海相は、対支実行策・北支指導方策を決定しました。
 4月30日、@20総選挙が実施されました。その結果、民政党が179人、政友会が175人、社会大衆党が37人、昭和会が19人、国民同盟が11人、東方会が11人、日本無産党が1人、中立その他が33人の当選者を出しました。
 5月24日、望月圭介は、唯一の与党である昭和会の解党をつげ、林銑十郎首相に総辞職を進言しました。
 5月26日、政友会と民政党は、林銑十郎内閣の即時退陣を要求しました。
 5月31日、国体明徴運動を受けて、文部省は、『国体の本義』を発行して、戦時下の国民思想としてのテキストを提示しました。
 5月31日、林銑十郎内閣が総辞職しました。
 6月4日、@34近衛文麿内閣が誕生しました。外相には広田弘毅、蔵相には賀屋興宣、陸相には杉山元、海相は米内光政らが就任しました。政友会や民政党からも入閣しました。
 陸軍中央には、積極拡大派と現地解決不拡大派とがありました。
(1)積極拡大派は、陸軍省軍務局軍事課長の田中新一大佐・參謀本部第1部第3課長の武藤章大佐らがその代表でした。
(2)現地解決不拡大派は、陸軍省軍務局軍務課長の柴山兼四郎大佐・參謀本部第1部長の石原莞爾少將らがその代表でした。
(3)その後、宇垣一成流産内閣の時過激派であった石原莞爾がここで消極姿勢を見せると、陸軍内で一気に力を失い、積極拡大派の武藤章大佐が表舞台に登場します。
 6月下旬、北京の南西に位置する豊台に駐屯する日本軍第1連隊が演習を実施しました。
 7月6日、日本軍が北京(当時は北平)・豊台の西に位置する盧溝橋の通行を求めましたが、盧溝橋を守備する中国軍によって阻止されました。長時間にらみ合いの末、日本軍が退却しました。
 7月7日夜、中隊長の清水節郎大尉が率いる支那駐屯軍第3大隊第8中隊130人は、盧溝橋の中国側守備軍の哨戒所から数百メートルの所で、夜間演習を行ないました。蘆溝橋が架かる永定河の堤防では中国軍が塹壕を掘っていました。
(1)華北の支那駐屯軍は5800人で、その内北平城に700人、豊台に600人が配置されていました。
(2)蘆溝橋と蘆溝橋の東に位置する宛平県城を守護していたのが第29軍第37師団第219連隊第3営で、営長は金振中小校(日本の少佐クラス)でした。第29軍の兵力は10万人で、その内、馮治安が率いる第37師が最も抗日意識が強い軍隊と言われていました。
 7月7日22時30分、清水節郎大尉は、演習中止と集合を各小隊長と仮設敵に伝令を出しました。仮設敵は、その伝令を敵発見と思ったのか、内規通りに空砲射撃を始めました。その時、実弾を受けました。清水節郎大尉が点呼をとると、二等兵が1人いなくなっていました。清水大尉は、応戦の準備とともに豊台にいた大隊長の一木清直少佐に連絡しました。
 7月7日23時、行方不明の二等兵が無事に戻ってきたので、清水大尉は、宛平県城の北に位置する一文字山東の西五里店に移動しました。
 7月7日23時57分、中隊長の清水大尉の伝令が豊台の一木清直少佐にこの旨を報告しました。北平城にいた連隊長の牟田口廉也大佐は、一木清直少佐に対して、「軍人が敵に撃ち込まれてどうしましょうかと指示を俟つ奴があるか」と怒鳴りつけ、「第三大隊を率いて現場に急行して反撃せよ」と命じたといいます。
 7月8日2時、大隊長の一木清直少佐は、軍を率いて出動しましたが、一文字山東の西五里店で、中隊長の清水節郎大尉と出会い、兵が無事だったことを知りました。しかし、連隊長の牟田口廉也大佐の命により、一文字山に進軍しました。
 7月8日3時20分、大隊長の一木清直少佐は、一文字山を占拠しました。
 7月8日5時30分、第三大隊の援軍と合流した一木清直少佐は、宛平県城を攻撃しました。中国の第29軍第37師団第219連隊第3営が反撃しました。これが蘆溝橋事件で、日中戦争の発端です。
 7月8日、関東軍の軍司令官である植田謙吉大将と參謀長である東條英機中将は、2個旅団を出動させるよう軍部中央に打電しました。さらに、その決意を伝えるため參謀副長の今村均少将を天津の支那駐屯軍軍司令部に派遣しました。
 7月8日、関東軍軍司令部の辻正信大尉は、独断で蘆溝橋へ駆けつけ「徹底的に拡大して下さい。 關東軍が後押しします」と連隊長の牟田口廉也大佐を激励しました。
 7月9日、近衛内閣は、閣議で、事件の「不拡大方針」を確認しました。
 7月9日7時、停戦協定に関する命令が出されました。そこで、中国軍は、宛平県城に150人を残し、蘆溝橋が架かる永定河の西岸に撤退しました。日本軍は、第2大隊の一部を一文字山に残し、原駐屯地に撤退しました。
 7月11日、北平特務機関長の松井久太郎大佐と大使館付武官補佐官の今井武夫少佐は、第29軍の秦徳純副軍長との間で、盧溝橋事件現地協定という停戦協定を締結しました。
 7月11日、しかし、近衛内閣は、華北の治安維持のため、派兵を声明し、各界に挙国一致の協力を要請しました。
 7月21日、文部省思想局を拡充し、教学局を設置しました。
 7月26日、軍部中央は、支那駐屯軍に武力行使を指示しました。支那駐屯軍は、宋哲元に期限付きの最後通牒を渡しました。
 7月27日、近衛内閣は、北支事変に関し自衛行動をとると声明し、内地3個師団に華北派遣命令を出しました。しかし、参謀本部は、内地からの師団派遣を見合わせ、関東軍・朝鮮軍からの派兵を決定しました。この段階で、日本は、北支事変という呼称を使用しています。
 7月28日、関東軍・朝鮮軍と合流した日本軍は、華北の北平と天津周辺で総攻撃を開始しました。
 7月29日、近衛内閣は、第一次北支事変費予算案(9700万円)を閣議決定しました。
 7月31日、近衛内閣は、第二次北支事変費予算案(4億円)を閣議決定しました。
 8月9日、上海特別陸戰隊第一中隊長の大山勇夫海軍中尉ら日本人将兵2人が上海で殺害されました。
 8月11日、中国中央軍の精鋭である第87師団と第88師団は、上海郊外の包囲攻撃線に展開し、中国海軍も揚子江の江陰水域を閉鎖しました。
 8月12日夜、海相の米内光政は、近衛文麿首相と杉山元陸相に上海での事情を説明しました。
 8月13日9時、臨時閣議で、「自衛権の発動としての海軍の武力行使」が承認されました。
 8月13日夕刻、日本の海軍陸戦隊4000人は、上海で、中国軍3万人と交戦を開始しました。これを第2次上海事変といいます。
 8月13日、近衛内閣は、陸軍2個師団の上海追加派遣を閣議で決定しました。
 8月14日、長谷川清第三艦隊司令長官は、自衛権発動の声明を発表しました。
 8月14日、陸軍軍法会議は、二・二六事件民間関係者の北一輝・西田税に死刑判決を下しました。
 8月15日、近衛内閣は、「今や断乎たる措置をとる」という南京政府断固膺懲を声明しました。その結果、日中軍は全面戦争に突入しました。
 8月15日、海軍の第1連合航空隊に所属する竹中龍造大佐司令が指揮する木更津航空隊は大村飛行場から、石井芸江大佐司令が指揮する鹿屋航空隊は台北松山飛行場から、それぞれ出撃し、南京を渡洋爆撃しました。これは、人類史上初の渡洋爆撃でした。この結果、戦火は中支に拡大しました。
 8月15日、松井石根軍司令官に与えられた作戰任務は、「海軍ト協力シテ上海付近ノ敵ヲ掃滅シ上海並其北方地区ノ要線ヲ占領シ帝国臣民ヲ保護スヘシ」というものでした。
 8月15日、蒋介石は、廬山で周恩来と会談し、対日徹底抗戦を表明し、対日抗戦の総動員令を下しました。それに対応して、中国国民は、抗日救国運動を激化させました。
 8月17日、近衛内閣は、「不拡大方針」を放棄すると閣議で決定しました。
 8月19日、北一輝・西田税・村中孝次・磯部浅一が死刑を執行されました。
 8月21日、南京で、中ソ不可侵条約を調印しました。
 8月23日、日本軍の先遣隊は、呉淞・川沙鎭で、蒋介石直属の第19路軍60万人と交戦しましたが、陸軍省軍務局の田中新一軍事課長が舌を巻くほどの激しい抵抗をうけました。
 8月24日、閣議は、国民精神総動員実施要綱を決定しました。三大スロ−ガンとして、挙国一致・尽忠報国・堅忍持久をアピールしました。
 8月31日、寺内寿一大将を軍司令官に北支那方面軍・第1軍・第2軍の編成と華北派遣を命令しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
国体の本義、支那の呼称、盧溝橋事件は「小ぜり合い」?、南京虐殺事件
 国体の本義の内容は、次の通りです。
(1)緒言では、「当面する思想上・社会上の諸弊は個人主義を基調とする西洋近代思想によるものである。国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた。『国体の本義』を編纂して、国民の自覚と努力とを促す所以である」とあります。
(2)第一大日本国体では、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである」とあります。
(3)第二国史に於ける国体の顕現、「我が国民の国土愛は、神代よりの一体の関係に基づくものであつて、国土は国民と生命を同じうし、我が国の道に育まれて益豊かに万物を養ひ、共に大君に仕へ奉るのである」とあります。
(4)結語では、「国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。」とあります。
 国体とは、天皇制のことであり、明徴とは、はっきりと証明することです。つまり、美濃部達吉の天皇機関説を否定して、日本は統治権を持つ天皇によって、支配されているということを、日本人全体で確認するということです。
 『国体の本義』を我慢強く、全文読んで感じることは、私の忌み嫌う「美しく、空虚な言葉」の羅列、高等な作文であるということです。
 日本と中国との戦争は、通常は日中戦争といいます。
 1931(昭和6)年の柳条湖事件・満州事変から1945(昭和20)年の日本の敗戦までは、15年間を採用して15年戦争という呼称もあります。
 1937(昭和12)年盧溝橋事件から1945(昭和20)年の日本の敗戦までは、中国では、中国人民抗日戦争とか八年抗戦と呼称しています。日本では、初期は、那の部の北京周辺の戦争だったので、北支事変と呼称しています。戦線が拡大すると、近衛内閣は、支那事変を正式呼称とし、新聞などでは本と中民国との戦争という意味で日華事変という呼称を使用しています。
 1941(昭和16)年12月9日、日本が真珠湾を攻撃した翌日、中華民国は日本に宣戦布告しました。東条内閣は、「支那事変開時点始に遡って今回の戦争全体を大東亜戦争と称する」と決定しました。
 盧溝橋事件から4年後の1941年12月9日に、中華民国は宣戦布告しました。なぜ、日中双方が宣戦をしなかったのでしょうか。事変とは、「戦争状態ではあるが、宣戦布告していないので、公式には戦争ではない状態」のことです。なぜ、公式に戦争状態にしなかったかたいうと、戦時国際法という規定があったからだとされています。
 戦時国際法には、(1)戦闘行為を規律する交戦法規と(2)第三国が中立を守るという中立法規という2つの要素で構成されています。
 日中双方が拘ったのが、中立法規です。(1)援助をしないという回避の義務(2)自国の領土を利用させないという防止の義務(3)戦争によって不利益があっても抗議できないという黙認の義務らです。
 日本は満州・華北各自治政府を意識し、中国はアメリカ・イギリスを意識したと思われます。
 次に支那についての意見です。
 東京都知事の石原慎太郎氏は、「シナは英語のChinaから来ているのだから、シナと言っても不自然なことではない」とか「世界中では一般的に中国と称しているが、私はそれを支那と呼んでいる。聞いた話では支那と呼んではいけないそうだが…」と分かっていながら、政治的立場から支那発言を繰り返しています。
 歴史的見ると、江戸時代、日本では、支那という用語を使用していました。但し、石原知事と違って、江戸の日本人は、唐の国とか清国と同じ意味で使っていたのです。
 しかし、日清戦争で、師の中国・大国の中国と恐れ、尊敬してきた清国に勝利すると、「日本は大国に勝った」という自尊心や民族主義が沸いて来ました。そして、中国を見下すようになり、支那は侮辱的な呼称に変わっていきました。
 私が会った中国での戦争体験者は、「支那人は貧しい」とか「支那人はバカが多い」・「支那人は臆病者で、ずるい」と表現しました。
 私は、20年前程前に、中国に初めて行きました。その時、世話役が「歴史用語としての支那は使ってもいいが、中国や中国人を呼称する時に、支那とか支那人という言葉は使わないように」と釘をさされました。その時は、日中戦争が終わって40年しかたっていませんから、肉親を失った老人とも出会うこともありました。古傷に触ると、怒りが蘇ってくるようでした。それを必死で抑ええているのが分かりました。
 シナの呼称の続きです。
(1)以前、ビートたけしさんのTV番組に『ここが変だよ日本人』というのがありました。若者100人に聞くというテーマでした。1人がナチスの「鍵十字」の服を着ていました。過去、非常に冷静だったドイツ人の若者が「鍵十字」のマークを見て、感情的にその若者をなじりました。その若者は「何を着ても勝手だ。お前にとやかく言われる筋合いは無い」と反論しましたが、テリー伊藤さんは「”鍵十字”の服を着ることは自由だが、ドイツ人にそれを説明できるか」といわれ、その若者はシュンとなりました。ドイツ人の若者が鍵十字にそれほど敏感になる理由を考えてみました。多分、彼の知っている人が鍵十字に痛ましい体験をしたのでしょうね。ショックでした。
(2)これもTVでの体験です。日本の有名な大臣がアメリカで記者から、「“日本人をジャップと呼んでもいいか」と質問されて、その大臣は「別にかまわない」と答えました。その大臣は、翌日の在米日系新聞で厳しく非難されました。日系人は、アメリカ人から「ジャップ、ジャップ」侮蔑されてきましたが、一生懸命に努力を重ね、アメリカ人たちにジャップと言わせないだけの地位を築き上げてきた苦難の歴史があったのです。私も、「アメリカ人をヤンキーというように、日本人をJapanの略字のJapくらい愛嬌だ」と思っていました。ショックでした。
(3)相手が使わないで欲しいと言っていることを、どうしてわざわざ言うのでしょうか。昔から日本には「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」という諺があります。政治家には政治的な意図があります。それにふりまわされることなく、支那呼称問題は、理屈でなく感情の問題です。相手の立場に立たないと分からないということが良く理解できました。
 今から20年ほど前、マルコ=ポーロ橋と呼ばれた盧溝橋を訪れました。マルコ=ポーロが見たと思うぐらい古びた石の橋でした。橋の西側から、カメラで東西南北に向け撮影していたときです。カメラを橋の対岸、つまり東に向けた時、急に目の前に人民軍の兵が立ちはだかりました。後で、中国人の通訳が「良かったですね。普通ならフィルムを没収される所でした。橋の東側には造船所があるのです」と言われました。
 蘆溝橋の一発をめぐって、議論が盛んです。最近、中国共産党が「コミンテルンの指令を受けた劉少奇の指示により、第29軍に潜入していた共産党員とそれを支援する学生ゲリラが最初の発砲をした」と発表したと言われています。
 それを鬼の首でも取ったように、大騒ぎをする論調があります。日本が真珠湾を先制攻撃したように、戦争には戦略・戦術があります。
 コミンテルンは次のような指令を出し、その結果、社会主義革命に至らしめるというのです。
(1)局地解決を避け、日中の全面戦争に導く
(2)民衆工作によって、蒋介石の国民政府を戦争開始に導く
 別な表現をすると、ゲリラという泥沼に日本軍を誘い込む。そして、中国大陸から日本軍を一掃するということです。
 この作戦が悪いのか、この作戦に引っかかった日本が悪いのか。高度な政治的・軍事的判断が必要です。当時の日本の政治家や軍人には、敵をあなどり、そのような資質はありませんでした。むしろ、この責任こそ問うべきではないでしょうか。
 最近、次のような文章で出会いました。
(1)「日本側には最初から中国侵略等と言う野望は無かった訳です。その証拠に、廬溝橋事件発生後間もなくして、日本軍は、事件不拡大方針を表明し、事態の沈静・終息化を願っていました。早い話これは、日本側として、これ以上、国民党軍と事を構えたくは無い。支那との全面戦争等欲してはいない、と言う事だったのです」。
 この著者は、自分の都合のいい事実だけをつまみ食いしています。なるほど、事件後の7月9日、近衛内閣は閣議で事件の「不拡大方針」を確認しました。しかし、8月17日、近衛内閣は「不拡大方針」を放棄すると閣議で決定しました。
(2)京都大学教授の中西輝政氏は、新しい歴史教科書をつくる会の会報誌51号で、元ライシャワー駐日大使の発言を紹介し、持論を次のように書いています。
@「すぐれた歴史家の二つの視点が明確に示されていて参考となる。一つは、日本とあの戦争の関わりとして、満州事変と日中戦争とは明確に別の戦争として把え、いわゆる「十五年戦争」論と一線を画している点である」「前者においては日中間で実質的な講和(1933年塘沽停戦協定)が成立している」。
 ライシャワー氏は、塘沽停戦協定により、一連の戦争ではないとして、十五年戦争を否定しています。
A「もう一つは、盧溝橋事件など北支における一連の「小ぜり合い」は、中国大陸において何十年とくり返されてきた日常的局地紛争であって、これらと日中全面戦争の開始に至った経緯との間には、より明確な一線が引かれるべきだ、という視点である」「後者については、そもそも全面戦争とは、少くとも当事国のいずれか一方に明確な国家意思をもって大規模な近代戦を仕掛ける決定がなくてはならない」。
 ライシャワー氏は、盧溝橋事件は、停戦協定も結ばれており、小ぜり合いであって、全面戦争の入り口ではないと指摘しています。
B「中国側には西安事件(1936年)以来、抗日全面戦争への意志が明確だった。他方、日本側が一貫して不拡大方針を堅持していたことはよく知られている。それゆえ、条約上の権利の下に駐留していた僅か2500人の上海の日本軍に12万以上の兵力で中国軍の全面攻撃が開始された1937年8月13日が第二次世界大戦の始まりだった、とライシャワーは言うのである。けだし正鵠を射ている」。
 ライシャワー氏は、日本は不拡大方針を堅持してきたが、全面戦争を仕掛けてきたのは、中国軍であると指摘します。
 しかし、「自衛権の発動としての海軍の武力行使」(交戦前の8月13日9時の臨時閣議で承認)という事実を見落としています。
 また、ライシャワー氏は、8月13日、12万人の中国軍が合法的に駐留している2500人の日本軍を攻撃し、これが日中全面戦争の開始で、第二次世界大戦の始まりだとしています。
 これも明らかな間違いで、8月9日に日本人将兵2人が上海で殺害されました。それを口実に8月13日に海軍陸戦隊が中国軍と交戦を開始し、8月15日に日本の海軍機は、南京を渡洋爆撃しています。周到な用意が無ければ、不可能な作戦です。中国の罠に、あっさりと引っかかったのか、それ以上の戦術・戦略があったのでしょうか。
C「またそもそも盧溝橋などの「小ぜり合い」自体も、今日では中国共産党の謀略によって始められたことが明白となっている。国際関係はそれ特有の論理と枠組みで語られるべきであり、また誤った贖罪の感情や「○○主義」という抽象語で歴史を語るべきではないのだ」
 ライシャワー氏は、著名な学者でありますが、それ以前に、重要な時期の駐日大使でした。政治的意図を払拭できません。
 私たちは、大学の教授、それも京都大学の教授というと、その名前に圧倒されますが、肩書きでなく、何を発言し、どう行動したかで、評価したいと思います。まさに肩書きで歴史を語るべきではないのだ。

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