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エピソード

252_01

日中戦争W(第2次国共合作、南京事件)
 ここでは1937年の日中関係を詳細に検討します。
 1937(昭和12)年6月4日、@34近衛文麿内閣が誕生しました。外相には広田弘毅、蔵相には賀屋興宣、陸相には杉山元、海相は米内光政、文相は安井英二らが就任しました。
 7月17日、蒋介石は、周恩来と会談し、共産党の根拠地だった陝甘寧辺区政府を承認し、対日抗戦準備を談話を発表しました。
 8月14日、多田駿中将は、参謀本部次長に就任しました。
 8月15日、蒋介石は、対日抗戦の総動員令を下しました。
 8月22日、中国共産党は中国西北の紅軍を華北を主力とする国民革命軍第8路軍に改編しました。第8路軍(八路軍)は、第1軍(軍長は朱徳、副軍長彭徳懐)・第115師(師長林彪)・第120師(師長賀龍)・第129師(師長劉伯承)で構成され、兵力は4万5000人でした。第8路軍(八路軍)は、国民政府軍の第18集団軍に属しました。
 日本軍の背後に出て遊撃戦を戦略としました。各地に住民を組織して根拠地を作り、持久戦も考慮に入れたゲリラ戦(人民戦争戦略)を採用していました。その後、兵力40万人に達し、支配人口は1億人を越えたといわれています。
 8月25日、中国共産党は、抗日救国10大綱領を発表しました。
 9月2日、近衛内閣は、閣議え、北支事変という呼称を支那事変と変更することを決定し、戦域を拡大しました。
 9月10日、臨時軍事費特別会計法が公布され、支那事変は、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦と同列視されました。
 9月11日、金沢の第9師団・仙台の第13師団・東京の第101師団を上海に追加動員しました。
 9月22日、蒋介石の国民党は、中国共産党の国共合作宣言書を公表しました。中国共産党は、精誠団結一致抗敵宣言を発表しました。
 9月23日、蒋介石は、中国共産党の合法的地位を承認しました。これを第二次国共合作の成立といいます。
 9月24日、林彪指揮の八路軍は、平型関で日本軍を包囲攻撃しました。
 9月25日、近衛内閣は、日華紛争に関する国際連盟諮問委員会の招請を拒絶しました。
 9月25日、皇道派の真崎甚三郎大将は、論告求刑では「反乱者を利する罪で禁錮13年」を求刑されましたが、最終的に真崎甚三郎大将は無罪判決が下りました。
 9月28日、13の婦人団体は、非常時局打開克服を目的に日本婦人団体連盟を結成しました。
 9月、東大教授の矢内原忠雄が『中央公論』に書いた「国家の理想」が全文削除されました。
 10月1日、首相・陸相・海相・外相は、支那事変対処要綱を決定しました。
 10月1日、近衛内閣は、小冊子「我々は何をなすべきか」を1300万部を全国各戸に配布しました。
 10月1日、近衛内閣は、朝鮮人に「皇国臣民の誓詞」を配布しました。
 10月5日、アメリカのルーズベルト大統領は、シカゴで、日独を侵略国家だと非難しました。これを隔離演説といいます。「反共を標榜すれば欧米列強との国交回復の調整が可能」という日本側の意図を簡単に見破られていたということです。
 10月6日、国際連盟総会は、日華紛争に関し、日本の行動は9カ国条約・不戦条約に違反との決議を採択しました。つまり、国際世論が、日本の行動を非難したことになります。
 10月7日、東京の仏教護国団は、日比谷で報告大会を開催しました。その他、新聞などマスコミ関係も軍部の行動を支持しました。
 10月20日、熊本の第6師団・久留米の第18師団・宇都宮の第114師団で第10軍を編成し、上海に追加動員しました。これを専門家は、戦略としては下の下の「兵力の逐次投入」といい、中国軍を過小評価した結果だと分析しています。
 10月22日、安井英二文相の後任に、木戸幸一が就任しました。
 10月27日、蒙古連盟自治政府が樹立し、主席に雲王、副主席に徳王が選出されました。
 10月28日、大場鎮を陥落させると、外相の広田弘毅は、外務次官の堀内謙介に、「駐日ドイツ大使のディルクセンに日中和平の仲介を依頼する」ように指示しました。
 これを積極的に推進したのが参謀本部次長の多田駿中将でした。多田中将は、蒋介石よりもソ連の脅威を重視しており、参謀本部作戦部長の石原莞爾少将・陸軍軍務課長の柴山兼四郎大佐らと共に、戦線不拡大を提唱していました。
 10月29日、インド国民会議派運営委員会がカルカッタで開かれ、日本の中国侵略を非難し、日本製品のボイコットを決議しました。
 11月2日、金沢の第9師団が蘇州河の渡河に成功しました。
 11月2日、外相の広田弘毅は、第1条件を駐日ドイツ大使のディルクセンに手渡しました。その内容は(1)満州国の事実上の承認(2)日華防共協定の締結(3)排日運動の規制などでした。
 11月5日、蒋介石は、外国に依存せずに、戦線を維持できると感じて、広田外相の第一条件を黙殺しました。
 11月5日、柳川平助中将が率いる第10軍が杭州湾に上陸しました。包囲を恐れたのか、作戦なのか中国軍は敗走しました。第10軍は、追走に追走を重ね、糧道が延びきってしまいました。
 11月6日、イタリアは、イギリス・フランスに対する枢軸体制を強化するため、日独防共協定に参加し、日独伊防共協定が成立しました。
 11月8日、新村猛真下真一らの世界文化グループが検挙されました。
 11月13日、京都の第16師団を率いる中島今朝吾中将は、白茆江に上陸して、退却中の中国軍を追撃しました。杭州湾から上陸した熊本の第6師団の谷寿夫中将は、第10軍の指揮下にありましたが、京都の第第16師団を率いる中島今朝吾中将との巧妙争いから、南京城一番乗りを目指しました。
 しかし、中国軍は、敗走すると見せかけて、焦土作戦を展開しました。
 11月20日、蒋介石の国民政府は、武漢より重慶への遷都を宣言しました。
 11月24日、東京帝大経済学部長の土方成美は、教授会で、矢内原忠雄の言論活動を非難しました。
 11月27日、日本軍は、指示を無視して戦線を拡大し、無錫を攻略しました。
 12月1日、大本営は、「中国の首都南京を攻略すれば、国民政府は降伏する」と考えて、南京攻略を命じました。しかし、蒋介石は既に、首都を重慶に移して、徹底抗戦を宣言していました。
 当時の構成を見ると、以下の通りです。35万の大軍となっています。
(1)中支那方面軍の軍司令官松井石根大将、參謀長塚田攻少将、參謀副長武藤章大佐、情報參謀長勇中佐らでした。
(2)上海派遣軍の軍司令官朝香宮鳩彦中将、參謀長飯沼守少将、第16師団京都師団長中島今朝吾中将らでした。
(3)第10軍の軍司令官柳川平助中将、參謀長田辺盛武少将、第6師団熊本師団長谷寿夫中将らでした。
 12月2日、日本軍の南京攻撃を前提として、蒋介石は、銭大鈞らを招集し意見を求めました。
 12月2日、蒋介石は、外相の広田弘毅が提案した第1条件を交渉の基礎として受け入れることを駐南京ドイツ大使トラウトマンに伝達しました。付帯条件は即時停戦と秘密外交でした。これをトラウトマン工作といいます。この工作がうまく成功しておれば、日中戦争は、別な展開をしていました。
 12月4日、矢内原忠雄は、帝大教授を退官しました。
 12月7日、内務省は、活動写真の興行時間を3時間以内に制限しました。
 12月7日、トラウトマンから連絡を受けたドイツ外務省は、日本側に蒋介石の返事を示しました。しかし広田弘毅外相は、「南京攻略目前の今は、以前の条件では難しい」と回答しました。
 12月10日、多田駿中将は、北支那方面軍司令官に就任しました。
 12月10日、日本軍は、南京攻撃を開始しました。
 12月11日、イタリアは、国際連盟を脱退しました。
 12月13日、松井石根大将が率いる日本軍は、旧首都の南京を占領しました。この時、虐殺事件をおこしました。これを南京事件といいます。
 12月15日、労働運動家の山川均・日本無産党委員長の加藤勘十・同党書記長の鈴木茂三郎大森義太郎ら労農派など400人は、反ファッショ人民戦線の結成を企図したとして、検挙されました。これを第一次人民戦線事件といいます。
 12月17日、日本軍は、南京で、入城式を挙行しました。
 12月21日、近衛内閣は、南京占領により第2条件を閣議決定しました。その内容は(1)河北特殊政権の承認(3)日本への賠償金の支払いというもので、とうてい、蒋介石が受諾できない内容でした。
 12月22日、外相の広田弘毅は、第2条件を駐日ドイツ大使のディルクセンに手渡し、1938年1月5日が回答期限と伝達しました。
 12月22日、日本無産党・日本労働組合全国評議会に結社禁止令が出されました。
 12月24日、近衛内閣は、支那事変対処要綱を決定しました。その内容は、次の通りです。
「事変勃発以来帝国政府ハ南京政府ニ於テ速ニ其ノ抗日容共政策ヲ棄テ帝国ト提携シテ東亜ノ安定ニ寄与センコトヲ切望シ居ルヲ以テ同政府ニ於テ反省スルニ於テハ之ト共ニ時局ノ収拾ヲ計ルヘキモ、同政府ニシテ猶長期ノ抵抗ヲ標榜シ毫モ反省ノ色ヲ示ササル場合ニ対処スル為ト他方我軍事行動ノ進展ニ伴ヒ帝国ノ占拠区域広汎トナリ至急之カ処理ヲ行フノ要アルニ至レルトニ鑑ミ今後ハ必スシモ南京政府トノ交渉成立ヲ期待セス之ト別個ニ時局ノ収拾ヲ計リツツ事態ノ進展ニ備ヘ軍事行動ト相俟チ南京政府ノ長期抵抗ニ対応スル為北支及中支方面ニ於テハ左記方針ニ依リ措置スルコトトス
右趣旨ハ適当ノ機会ニ之ヲ中外ニ闡明ス
  一、北支処理方針
北支ニ於テハ支那民衆ノ安寧福利ノ増進ヲ以テ政策ノ主眼トシ政治的ニハ防共親日満政権ノ成立、経済的ニハ日満支不可分関係ノ設定ヲ目途トシ之カ促進ヲ計リ漸次本政権ヲ拡大強化シ更生新支那ノ中心勢力タラシムル如ク指導ス
然レトモ中央政府トノ交渉成立ノ場合ハ右新政権ハ和平条件ニ従ヒ之ヲ調整スルモノトス」
 12月25日、中国共産党は、対時局宣言を発し、遊撃戦の展開・大衆動員を主張しました。
 12月26日、駐日ドイツ大使のディルクセンから連絡を受けた駐華ドイツ大使のトラウトマンは、行政院副院長の孔祥煕と蒋介石夫人の宋美齢に第2条件を手渡しました。日本との停戦協定を望んでいた蒋介石は、重臣と相談し、第1条件と第2条件の変化が大きいので、再度、その理由を問い合わせることになりました。
 12月26日、内閣情報局が募集した国民歌が5万7578編の応募から選ばれ、『愛国行進曲』が発売され、100万枚の大ヒットとなりました。
 12月、内務省警保局は、人民戦線派の執筆禁止を出版業者に通告しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
南京事件とゲリラ戦
 新しい歴史教科書をつくる会の藤岡信勝氏は、以前、「南京城内の人口は35万人なので、30万人も虐殺できるわけがない。たかが」とあちこちのTVで語っていました。
 藤岡氏は、数の問題でないという批判が出たので、外国特派員協会では、次のように述べています。
(1)「南京城内に15人からなる欧米人のコミュニティーが作られまして、…この中立ゾーンの、safety zoneの中に、安全区の中に20万人の中国市民がいるので、その食糧を調達して欲しいと要請しております」「占領してから一週間後にまた委員会が食糧を要求する。で、その時の数はやはり20万人であります」「一ヶ月後にはなんと安全区の中国人市民の数は25万人に増えております。したがいまして、何万とか何千とかいうオーダーの市民の殺害はありえません」とより具体的に説明しています。
(2)「好ましくない行為が全く無かつたとは言はないけれども、万単位の殺戮があつたといふのは虚構である」と、万単位を否定して、数千人の虐殺を認める従来の主張を繰り返しました。
(3)「万のオーダーの戦死者というのは、おそらく死屍累々とした状態であったと思いますので、これを見た人が何十万とか言ってもですね、それはそういう表現というのは解ります」
(4)「これはいわゆる不法な虐殺ではなくて、戦闘によって生じたことである」と発言して、殺害された民間人は「戦時法の非合法な戦闘行為をした者は殺害の対象となる」と虐殺の合理性を主張しました。
 1937年12月13日に発生した南京事件の虐殺数を調べると、以下のようでした。
(1)中国は、南京虐殺数を30万人と主張しています。
(2)東京裁判では、「紅卍字会」(4万3071人)・「崇善堂」(11万2266人)の埋葬記録を採用して、南京虐殺数を「20万人」と認定しました。
(3)秦郁彦は、南京虐殺数を約4万人と主張しています。藤岡氏は数千人ということになります。
 藤岡信勝氏でも否定できない虐殺を、数の問題でなく、行為そのものを問題にしたいと思います。
 南京事件の4カ月前8月15日に、国民党の蒋介石は、共産党の周恩来と会談し、対日徹底抗戦を表明し、中国国民は抗日救国運動を激化させました。ここで注目したいのが、この段階で、中国国民はゲリラ化したということです。
 ゲリラ戦とは、戦略的には自給自足・民兵化を図り、戦術的には地下壕戦・麻雀戦(小部隊が雀のようにちょこまか出没)を採用します。ゲリラ兵の最大時の人数は310万人で、正規兵90万人の3倍以上に達します。
 ベトナム戦争の時、世界最強の米軍50万人が世界最高の近代兵器を使用しても、ホー=チ=ミンのゲリラには勝てなかったのです。軍服同士の戦争でなく、ソンミ村虐殺事件を思い出すように、軍服を着ていないゲリラを相手にすると、皆殺しをしないと勝てないのです。
 陸軍第59師団の師団長である藤田茂中将は、八路軍との戦いを次のように記録しています。
 「日本軍に昔から苦しめられてきた住民にとっては八路軍はまるで後光がさしている軍隊に見えるわけだ。家を出てゆく時には、瓶に水を一杯くんで、全部掃除をし、塵ひとつ残さんようにしてゆく、昨晩の泊まり賃も置いてゆく、食物代もいくらいくらと精算してゆく、子供はいたわる、老人は大切にする。こんな軍隊を私は見たことがないわけだ。日本軍が行けば、銃剣で脅かして、米を出せ、麦を出せ、薪を出せ、出さぬと家に火をつける、女は強姦する、手がつけられない。当然、八路軍さまさまになってしまう」
 上記に紹介した学者の視点には、ゲリラが抜けています。上官から「首都南京が陥落するとこの戦争は終わる」と聞かされ、絶えに絶えて来た二等兵の話を聞いたことがあります。彼らは平服のゲリラの襲撃に終日悩まされ、やっと念願の南京を攻略しました。しかし、首都は重慶に移動していました。
 この落胆と恐怖が、民間人をゲリラと思い込み、虐殺に駆り立てたのです。
 相手がゲリラ戦を採用すれば、それ以上に住民の組織化に成功しなくてはいけません。日本軍と住民との信頼関係がなければ、勝ち目がありません。数の問題でなく、日本軍の統治が現地の住民の支持を受けていなかったことが問題なのです。
 次は、南京虐殺についてです。
(1)「午後二時頃概して掃討を終つて背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進和平門に至る。その後俘虜続々投降し来り数千に達す。激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば兵隊ならずとも「皆やってしまへ」と云い度くなる。白米は最早一粒もなく、城内には有るだらうが、俘虜に食はせるものの持ち合はせなんか我軍には無いはずだった」(第16師団歩兵第30旅団長佐々木到一少将の1937年12月13日付け日記)
(2)第16師団歩兵第30旅団歩兵33連隊で機関銃中隊長の島田勝巳大尉は、「多くの敗残兵を捕らえたが、 ”ヤッテシマエ” と襲いかかるケースが多かった」(秦郁彦『南京事件』)
(3)「十一時三十分入城、広場において我が小隊は敗残兵三百七十名、兵器多数監視、敗残兵を身体検査として後手とし道路に坐らす。 我は敗残兵よりジャケツ(ジャケット?)を取って着る。面白いことこのうへなし、自動車、オートバイ等も多数捕獲す。各自乗りまはせり、八時頃小銃中隊に申し送り、昨夜の宿に帰る。敗残兵は皆手榴弾にて一室に入れ殺す」(西田優上等兵の日記より)
(4)第16師団経理部の小原予備主計少尉は、「最前線の兵で凡そ三百十名の正規軍を捕虜にしてきたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取り上げ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は直ちに銃殺、間もなく一人づつ一丁ばかり離れた所へ引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す・・・・中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っ込む。外に二千名が逃げていると話していた。戦友の遺骨を胸にささげながら突き殺す兵がいた」(秦郁彦『南京事件』)
(5)第16師団歩兵38連隊副官の児玉義雄大尉は、「(師団副官の師団命令として)”支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ”と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックを受けた…参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず」(秦郁彦『南京事件』)
(6)第16師団の一般兵士の陣中日記には、「戦友が無残な死に方をしたので唯の殺し方では虫が納まらぬのだと云ってゐる。無理からぬこと。だが余りに感情的ではないだらうか。日本軍は正義の軍であり、同時に文化の軍でなければならない。同じ人を殺すにしてなるだけ苦しめずに一思いにバサリ殺ってやるのが、日本の武士道ではないだらうか」(『北山日記』)
(7)第16師団の一般兵士の陣中日記には、「正確な数は判りませんが一夜に500〜600名として3000名から4000名くらいの処分があったと想像されます」(偕行社『南京戦史資料集』)
(8)第16師団歩兵第33連隊の「戦闘詳報」(12月10日から14日)には、「俘虜(3082人)。俘虜ハ処断ス」(偕行社『南京戦史資料集』)
(9)第10軍第114師団歩兵66連隊第1大隊の「戦闘詳報」には、「(第1第3第4の)各中隊に等分に分配し監禁室より50名宛連れだし…刺殺せしむることとせり。各隊ともに午後5時準備終り刺殺を開始し概ね午後7時30分刺殺を終わり」(偕行社『南京戦史資料集』)
(10)第16師団師団長の中島今朝吾中将は、日記(12月13日付け)に「佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、太平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約千三百、其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千人あり尚続々投降し来る。此七八千人、之を片付くるのは相当大なる壕を要し、中々見当たらず、一案としては百二百に分割したる後、適当のヶ所に誘きて処理する予定なり」(偕行社『南京戦史資料集』)
(11)第16師団の一般兵士の陣中日記には、「道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見ずらい様子でのびていたのも可哀想である。…橋の付近に五、六個の支那軍の死体がやかれたり或いは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切りをやったそうである」(『牧原日記』)
(12)火野葦平の『麦と兵隊』には、「横になった途端に、眠くなった。少し寝た。寒さで目がさめて、表に出た。すると、先刻まで、電線で数珠つなぎにされていた捕虜に姿が見えない。どうしたのかと、そこに居た兵に訪ねると、皆殺ししましたと云った。見ると、散兵壕のなかに、支那兵の屍骸が投げ込まれている。壕は狭いので重なり合い、泥水のなかに半分は浸っていた。三十六人、皆殺ししたのだろうか」

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