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エピソード

252_02

日中戦争X(スターリンの大粛清、トラウトマン工作、張鼓峰事件)
 今回、日本史では余り取り上げないスターリンの大粛清を調べてみました。ソ連は、崩壊すべき宿命を持っていたことが分かりました。各地に社共共闘による革新知事が誕生しました。そういう背景もあったのか、長いこと秘密にされていました。歴史は、立場でなく、有利なことも不利なことも、実証的にすべきものです。
 次に、トラウトマン工作も詳しく調べました。私が教えた山川出版社の教科書には載っていませんでした。「日本史教科書B」11冊のうち取り上げたのは2冊だけでした。「日本史B用語集」も固有名詞の紹介だけでした。しかし、ものすごい教訓がありました。
 1924(大正144)年1月、レーニン(53歳)が亡くなりました。スターリン一国社会主義を唱えて、ジノヴィエフカメネフと組んで、トロツキーを除名しました。
 1927(昭和2)年12月、スターリンは、ブハーリンルイコフトムスキーと組んで、ジノヴィエフ・カメネフを除名しました。
 1929(昭和4)年1月、スターリンは、トロツキーを国外に追放し、トロツキー派数百人を逮捕しました。
 4月、スターリンの強引な集団化に反対するブハーリンに対して、スターリンはジノビエフ・カーメネフを再入党させ、ブハーリンを失脚させました。
 11月、世界恐慌がはじまりました。
 1934(昭和9)年1月、スターリンは、ソ連共産党第17回大会で、第2次五ヵ年計画に関する決議を採択しました。
 10月、ソ連は、外蒙古と相互軍事援助条約を締結しました。その結果、ソ連は、満州国の軍事鉄道と平行して、シベリア鉄道の複線化工事進めてシベリア開発に着手しました。ソ連の極東軍は、この頃には在満日本軍の4倍に達していました。
 12月、共産党幹部で、スターリンに諫言できるキーロフがピストルで暗殺されました。スターリンは、キーロフ暗殺の容疑者として、スターリンが追放したジノヴィエフやカーメネフら元共産党幹部を逮捕しました。それをきっかけに、スターリンは、多数の古参党員を粛清しました。
 1935(昭和10)年6月、日本と同盟している満州国は、ソ連と同盟している外蒙と、国境線を巡って、満州里会議が開催しました。
 6月、日本軍の斥候11人は、満州国の東部国境を巡察中に、ソ連国境警備兵6人と交戦し、ソ連兵1人を射殺しました。これを楊木林事件といい、国境で日ソ軍が交戦した最初です。
 1936(昭和11)年1月、満州国国境警備隊108人は、東部国境の密山県で、国境警備隊の日本人指揮官3人を射殺し、ソ連領内に逃走しました。これを金廠溝事件といいます。
 2月、満州軍北警備隊は、貝爾湖南西のジャミンホドックで、外蒙古軍と交戦しました。そこで、騎兵集団長の笠井平十郎中将は、杉本泰雄中佐の騎兵1中隊と機関銃・装甲車ら1個小隊を派遣しました。外蒙古軍を撃退しましたが、日本軍は12人の死傷者を出しました。これをオラホドガ事件といいます。
 3月、日本軍の斥候9人は、琿春の国境線を巡察中に、ソ連国境警備隊と交戦しました。これを長嶺子事件といいます。
 4月、機械化旅団の渋谷安秋大佐から連絡を受けた騎兵集団長の笠井平十郎中将は、野砲小隊と航空部隊2中隊を満蒙国境のハルハ河付近に派遣しました。外蒙古軍も機甲・航空部隊を派遣し、小競り合いがありました。この結果、日本軍は13人の死者を出しました。この近代戦をタラワン事件といいます。
 6月19日、ソ連国境警備隊20人は、黒龍江上の中洲にある乾岔子島に上陸し、愛琿条約により、満州国の役人や採金労務者らを強制的に退去させました。関東軍司令官は、参謀本部の指示に基づき第1師団の一部を黒龍江の河岸付近に派遣しました。
 6月29日、黒龍江対岸には、ソ連軍は3個師団を配置していました。参謀本部は、武力行使を中止して、外交交渉を採用しました。その結果、ソ連軍は引揚げに同意しました。
 6月30日、ところが、ソ連砲艦3隻が、突然、日満軍部隊を砲撃したので、日満軍が反撃して砲艦1隻を撃沈しました。その後、駐ソ大使の重光葵が厳重なる抗議して、ソ連軍は撤兵を完了しました。これを乾岔子島事件といいます。この結果、関東軍内部には、スターリン大粛清というソ連側の大混乱状態を考慮せず、外交交渉より武力の方が効果的という考えを植えつけました。
 6月、関東軍測量隊員がホルステン河付近で測量中に、外蒙古兵は哈爾哈(ハルハ)河を越境し、日本人測量手らを連行しました。これをホルステン河事件といいます。
 8月、第1次モスクワ裁判で、ジノヴィエフ・カーメネフら全員が有罪となり、銃殺に処せられました。
 11月、日独防共協定が調印されました。その結果、満州里会議も不調に終わりました。
 12月、西安事件がおこりました。
 1937(昭和12)年6月4日、@34近衛文麿内閣が誕生しました。外相には広田弘毅、蔵相には賀屋興宣、陸相には杉山元、海相は米内光政、文相は安井英二らが就任しました。
 6月11日、スターリンは、ソ連の英雄であるトハチェフスキー元帥ら赤軍最高幹部8人をナチスのスパイ容疑で逮捕し、秘密軍法会議で有罪とし銃殺しました。これが大粛清のはじまりです。元帥5人のうち3人、軍管区司令官15人のうち13人、軍団長85人のうち62人、師団長195人のうち110人、旅団長406人のうち220人が粛清されたといわれています。その結果、赤軍の指揮系統はずたずたになりました。
 10月5日、アメリカのルーズベルト大統領は、シカゴで、日独を侵略国家だと非難しました。
 11月2日、外相の広田弘毅は、第1条件を駐日ドイツ大使のディルクセンに手渡しました。その内容は(1)満州国の事実上の承認(2)日華防共協定の締結(3)排日運動の規制などでした。
 11月6日、イタリアは、イギリス・フランスに対する枢軸体制を強化するため、日独防共協定に参加し、日独伊防共協定が成立しました。
 12月2日、蒋介石は、外相の広田弘毅が提案した第1条件を交渉の基礎として受け入れることを駐南京ドイツ大使トラウトマンに伝達しました。付帯条件は即時停戦と秘密外交でした。これをトラウトマン工作といいます。この工作がうまく成功しておれば、日中戦争は、別な展開をしていました。
 12月13日、松井石根大将が率いる日本軍は、旧首都の南京を占領しました。この時、虐殺事件をおこしました。これを南京事件といいます。
 12月21日、近衛内閣は、南京占領により第2条件を閣議決定しました。その内容は(1)河北特殊政権の承認(3)日本への賠償金の支払いというもので、とうてい、蒋介石が受諾できない内容でした。
 12月22日、外相の広田弘毅は、第2条件を駐日ドイツ大使のディルクセンに手渡し、1938年1月5日が回答期限と伝達しました。
 1938(昭和13)年1月10日、中国共産党は、五台山地区を中心に晋察冀辺区(解放区)を樹立しました。
 1月11日には、大本営・政府首脳による御前会議が開かれ、近衛文麿首相・広田弘毅外相・杉山元陸相・米内光政海相らは、支那事変処理根本方針を決定しました。その内容は、国民政府が講和を求めて来ない場合は、これを相手とせず、新政権成立を助長とするというものでした。
 1月15日、参謀本部は、大本営連絡会議の開催を要求しました。
 1月15日9時30分、参謀本部次長の多田駿中将は、蒋介石との和平交渉継続を主張して、大本営と政府の連絡会議で政府の和平交渉の打ち切り案に反対しました。この結果、参謀本部と広田弘毅外相との対立が深刻化しました。
 1月15日19時30分、近衛文麿首相は、御前会議の決定を覆すことはしませんでした。参謀本部は、政変(クーデタ)になることを恐れて、打ち切り案を受諾しました。
 1月16日、近衛文麿内閣は、駐華ドイツ大使のトラウトマンを通じ、中国に和平交渉打ち切りを通告しました。その結果、32個師団32万人が中国に釘付けの状態になりました。
 1月16日、近衛内閣は、「帝国政府は爾後国民政府を対手とせす帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更正新支那の建設に協力せんとす」との対華声明を発表しました。これを第一次近衛声明といいます。
 2月7日、中ソ軍事航空協定が調印され、ソ連は、中国に軍用機・技術者・操縦士の提供を約束しました。
 3月3日、陸軍省軍務課員の佐藤賢了中佐は、衆議院国家総動員法案委員会で説明員として答弁中、宮脇長吉議員らの野次に対して、佐藤中佐が「黙れ!」と怒鳴り、議場が騒然となりました。
 3月4日、陸相の杉山元が遺憾の意を表明して、事態は沈静化しましたが、佐藤賢了中佐には何のお咎めもありませんでした。
 3月13日、ドイツは、オーストリアを併合しました。
 3月29日、漢口で国民党臨時全国代表大会を開き、党総裁に蒋介石、副総裁に汪兆銘が選出されました。
 4月1日、国家総動員法が公布されました。
 4月6日、電力管理法が公布され、電力国家管理が実現しました。
 5月12日、独満修好条約が調印されて、ドイツが満州国を正式に承認しました。
 5月14日、国際連盟理事会は、日本の毒ガス使用に関し、非難決議案を採択しました。
 5月19日、日本軍が徐州を占領しました。日野葦平の『麦と兵隊』や石川達三の『生きている兵隊』などが小説に描きました。
 5月26日、毛沢東は、延安の抗日戦争研究会で講演し、持久戦論を発表しました。
 5月26日、近衛内閣が内閣改造を行い、広田弘毅外相の後任に宇垣一成賀屋興宣蔵相の後任に池田成彬、木戸幸一文相の後任に荒木貞夫が就任しました。
 6月3日、杉山元陸相の後任に板垣征四郎が就任しました。
 6月10日、近衛内閣は、閣議で、最高国策検討機関として5相(首相・陸相・海相・外相・蔵相)会議の設置を決定しました。
 6月13日、ソ連人民委員部極東部長官のリュシコフ政治大将が、スターリンの手を逃れて、満州国琿春県に亡命しました。
 6月15日、大本営は、御前会議で武漢作戦・広東作戦実施を決定しました。
 6月24日、5相会議で、本年中に戦争目的を達成するという「今後の支那事変指導方針」を決定しました。
 7月6日、武漢で国民参政会第1次大会が開かれ、毛沢東らが参議員となりました。
 7月9日、リュシコフ政治大将の亡命をきっかけに、多数のソ連兵が張鼓峰頂上に配置されました。
 7月10日、日本労働組合会議は、産業報国運動への協力を声明しました。
 7月11日、張鼓峰で国境紛争がおこりました。張鼓峰は朝鮮半島の極北東の位置にあり、朝鮮と満州とソ連の国境にあります。
 7月13日、第19師団長の尾高亀蔵中将から「ソ連兵40人が張鼓峰に陣地構築中である」という報告を受けた朝鮮軍司令官の小磯国昭大将は、多田駿参謀本部次長・東條英機陸軍次官・磯谷廉介関東軍参謀長あてに通電しました。
 7月16日、通電を受けた参謀本部は、朝鮮軍司令官の小磯国昭大将に対して、「張鼓峰付近に於けるソ軍の不法越境に対し、所要に応じ在鮮の隷下部隊を国境近く集中することを得。但し実力の行使は命令に依る」と指令しました。参謀本部作戦課の本音は、張鼓峰上のソ連兵を撃退し、その上で外交折衝に持ち込むという考えでした。
 7月17日、朝鮮軍司令官の小磯国昭大将は、第19師団長の尾高亀蔵中将に応急派兵の準備を命じました。
 7月19日、5相会議は、防共協定強化問題に関し、ドイツと対ソ軍事同盟締結の方針を決定しました。
 7月20日、閑院宮参謀総長が武力行使について上奏裁可を仰ぐ段になって、昭和天皇から「支那事変拡大中の我が国力・経済力について心配されている。そういう時に対ソ戦が起きた場合、どう処置をとるつもりか」というような話があり、武力行使は取り止めとなりました。
 7月29日、ソ連軍が張鼓峰北方2kmの沙草峰南方の国境を越えて陣地の構築を開始したことを確認した第19師団長の尾高亀蔵中将は、これをソ連の進攻と判断して、2個小隊で攻撃し、すぐさま後方に退き、外交交渉に持ち込もうとしました。これを一撃作戦といいます。
 しかし、意に反して、ソ連増援部隊が沙草峰一帯を占領しました。さらにブリュッヘル司令官の命令により第40狙撃師団主力が前進し、第39狙撃軍団と沿海集団飛行隊が戦闘態勢に入りました。尾高亀蔵中将の一撃作戦により、事態は急変しました。
 7月30日、産業報国連盟が創立され、産業報国精神の普及徹底・産業報国会の創設を勧奨しました。
 7月31日、第19師団の2個大隊は、沙草峰及び沙草峰方面のソ連軍に夜襲をかけ、一帯を占領しました。
 7月31日、ソ連国防人民委員ヴォロシロフは、シュテルン大将を軍団長に任命し、3個狙撃師団と1個機械化旅団に出動を命じました。
 8月6日、ソ連軍は、大規模な反撃を行い、日本軍の死傷者は1440人に達しました。この一連の流れを張鼓峰事件といいます。
 8月11日、モスクワで、日ソ両軍は現在地に留まるという張鼓峰停戦協定が成立しました。
兵力と死傷者と教訓
戦闘兵力 動員兵力 火砲 戦車 航空支援 戦死 戦傷
日本軍 6814人 8862人 37門 526人 914人
ソ連軍 15000人 32000人 237門 285両 250機 792人 2752人
教訓(1)日本軍として始めて経験した近代兵器による戦争・対ソ連軍戦闘
教訓(2)尾高亀蔵中将の独断攻撃不問・停戦後の現場放棄責任不問
教訓(3)以上(1)(2)の教訓が、討議されず未処置
10  8月10日、日ソ停戦協定が成立しました。
 9月29日、ミュンヘン協定で、ズデーテン地方のナチスドイツへの割譲を決定しました。
 9月30日、宇垣一成外相の後任に近衛文麿首相が兼任しました。
 10月21日、日本軍は、広東を占領しました。
 10月27日、日本軍は、武漢3鎮を占領しました。武漢3鎮武漢とは、湖北省の省都です。市街は武昌漢陽漢口三鎮(町)からなっている。長江と漢水はここで交差して流れています。
 10月29日、近衛文麿兼任外相の後任に有田八郎が就任しました。
 11月3日、近衛文麿首相は、東亜新秩序建設を声明しました。これを第2次近衛声明といいます。その内容は、(1)欧米帝国主義の支配からのアジア解放(2)日満華3国連帯による東亜共同体論などです。
 11月30日、御前会議は、華北・揚子江下流地域等を特殊地域とするなどの日支新関係調整方針を決定しました。
 11月、ビルマ鉄道より雲南の昆明に至る援蒋ルートが完成しました。これを■緬公路といいます。
 12月6日、陸軍中央部は、進攻作戦の打ち切り・戦略持久への転移方針を決定しました。
 12月15日、米・中間にトラック・ガソリンと桐油のバーター借款(2500万ドル)が調印されました。
 12月20日、中国国民党の副総裁である汪兆銘は、重慶を脱出してハノイに到着しました。
 12月22日、近衛首相は、国民政府からの同調者を期待して、日中国交調整の根本方針として善隣外交・協同防共・経済提携の近衛3原則を声明しました。これを第三次近衛声明といいます。
 12月30日、汪兆銘は、対日和平を声明しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
トラウトマン工作って聞いたことありますか?、師団・旅団という軍隊の単位
 参謀本部は、大本営連絡会議の開催を要求し、多田駿参謀本部次長が出席しました。
 この表現で理解できる人は、高校生には、余りいないでしょう。
(1)そこで、参謀本部を調べました。参謀本部は、「参謀本部軍令・統帥に関する陸軍中央統轄機関」であり、「天皇の統帥大権を補佐する機関」とありました。その長官が参謀総長です。参謀総長は、陸軍大将・中将から任命されます。参謀次長は中将、総務部部長は中将・少将、総務課課長は大佐・中佐、庶務班班長は中佐・少佐が任命されます。
 参謀本部は陸軍に所属して、軍政をつかさどります。軍令部は海軍に属して、軍令をつかさどります。今の自衛隊の組織では、統合幕僚会議・陸上幕僚監部・海上幕僚監部・航空幕僚監部です。
(2)「戦時中・事変中に設置される大日本帝国の最高統帥機関」が大本営です。この時は、参謀本部は大本営陸軍部となります。
 大本営会議は、天皇・参謀総長(陸軍)・軍令部総長・次長・軍令部第1部長・陸軍大臣・海軍大臣によって構成されています。内閣総理大臣・外務大臣など文官は構成員ではありません。いわゆる文民統制(シビリアンコントロール)にはなっていませんでした。
 天皇の命令を大本営命令として発令する最高司令部としての機能も持っています。
 上記の文章を解釈すると、「天皇の統帥大権を補佐する陸軍の参謀本部は、日中戦争中に設置された大本営連絡会議の開催を要求し、参謀総長は閑院宮載仁親王でしたが、参謀本部次長の多田駿中将が出席しました」となります。
 では、どうして、多田駿参謀次長が出席したのでしょうか。南京占領という日本軍が有利な状況にあっても、駐華ドイツ大使のトラウトマンに働きかけ、蒋介石と休戦協定を締結することを主張したのです。その理由は、張鼓峰事件の前であるのに、ソ連の脅威を感じ取っていたのです。蒋介石と戦い、ソ連と戦う余力はないと、現実的な判断をしていたのです。
 しかし、近衛首相は聞き入れません。米内光政海相は、「閣議で決定したことを覆せば、内閣は総辞職するしかない」と発言しました。
 1937年11月2日、外相の広田弘毅は、第1条件を駐日ドイツ大使のディルクセンに手渡しました。その内容は(1)満州国の事実上の承認(2)日華防共協定の締結(3)排日運動の規制などでした。
 12月2日、蒋介石は、外相の広田弘毅が提案した第1条件を交渉の基礎として受け入れることを駐華ドイツ大使トラウトマンに伝達しました。
 12月13日、松井石根大将が率いる日本軍は、旧首都の南京を占領しました。
 12月21日、近衛内閣は、南京占領により第2条件を閣議決定しました。その内容は(1)河北特殊政権の承認(3)日本への賠償金の支払いというものでした。末次信正内相はこれを見て、「かかる条件で国民政府が納得するかネ」と発言したといいます。米内光政海相も「ぼくは、和平成立の公算はゼロだと思う」と言ったといいます。とうてい、蒋介石が受諾できない内容を押し付けたのです。
 1938年1月15日、現地の状況も知らない指導者によって、蒋介石を戦争に駆り立てるやり方に憤激した多田駿中将が激怒したのです。その甲斐も無く、32個師団32万人の日本軍が中国大陸に釘付けとなったのです。
 先日、自由主義史観研究会が編集した『教科書が教えない歴史』を読みました。そこにトラウトマン工作のことが書かれている項目がありました。
 「日本政府はこの戦争を手段にこれまでの日中間の問題を一気に解決しようと考えました。日本軍は、上海を占領し、早くも十二月には国民党政府の首都・南京攻撃の布陣を敷いていました。この武力を背景に、トラウトマン駐華ドイツ大使の仲介で、国民党政府に和平を迫りました。武力は政治の一手段ですから、戦勝している日本としては当然の態度でした。しかも、この時日本が示した和平条件は、これまで日本軍が軍事的に抑えていた華北に国民党政権の行政ができるようにする、協力して中国の共産化を防ぐ、など緩やかなものでした。蒋介石は、和平を討議する基礎としてこの案を受け入れると連絡してきました。しかし、日本側では、軍事と政治の連絡・調整がうまくいかず、軍が南京を占領してしまい、交渉は進展しませんでした。その後、戦火は徐州、広東、武漢などの全中国に拡大していきました」。
 この文章を読んであっと驚いたのは、自分勝手で、矛盾に満ちた論の進め方でした。
(1)日本政府は、戦争を手段に日中間の問題を一気に解決しようとした。武力は政治の一手段だから当然だ。著者は、別なところでは、日中戦争はコミンテルンが仕掛けたとして、非難しています。コミンテルンも、武力を政治の一手段と考えていたとしたら、何としますか?
(2)蒋介石は、「日本の和平提案を受け入れたのに、日本側では軍事と政治の連絡・調整がうまくいかず、軍が南京を占領し…戦火は全中国に拡大…」と書いています。日中戦争は、コミンテルンが仕掛けたはずだのに、ここでは、日本軍が仕掛けたことになっています。
 著者を見ると、安藤豊氏でした。どんな人かと調べると、北海道教育大学の教授でした。歴史を実証主義史観でなく、ある立場の史観で見ると、このような歴史記述になるんだなーと実感しました。
 こんな歴史なら、教科書が教えなかってよかったです。本当に…。 
 ここで軍隊の単位の話をしておきましょう。
(1)複数の班(team)で分隊(squad)が構成されます。10人の規模です。分隊長は、伍長か軍曹が任命されます。
(2)複数の分隊(squad)で小隊(platoon)が構成されます。30人の規模です。小隊長は、少尉が任命されます。
(3)複数の小隊(platoon)で中隊(company、 battery、 squardron)が構成されます。200人の規模です。中隊長は、中尉か大尉が任命されます。
(4)複数の中隊(company、 battery、 squardron)で大隊(battalion)が構成されます。大隊長は、少佐が任命されます。
(5)複数の大隊(battalion)で連隊(regiment)が構成されます。1000人規模です。連隊長は、中佐か大佐が任命されます。
(6)複数の連隊(regiment)で旅団(brigade)が構成されます。旅団長は、少将が任命されます。
(7)複数の旅団(brigade)で師団(division)が構成されます。1万人の規模です。師団長は、中将が任命されます。
(8)複数の師団(division)で軍(army)が構成されます。
(9)複数の軍(army)で方面軍(area army)が構成されます。
(10)複数の方面軍(area army)で総軍(general army)が構成されます。

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