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エピソード

252_03

日中戦争Y(ノモンハン事件)
 日本の精神主義的肉弾戦が近代的戦車・飛行機と交戦して、壊滅的敗北を喫したノモンハン事件を取り上げます。
 1937(昭和12)年6月4日、@34近衛文麿内閣が誕生しました。外相には広田弘毅、蔵相には賀屋興宣、陸相には杉山元、海相は米内光政、文相は安井英二らが就任しました。
 10月5日、アメリカのルーズベルト大統領は、シカゴで、日独を侵略国家だと非難しました。
 11月6日、イタリアは、イギリス・フランスに対する枢軸体制を強化するため、日独防共協定に参加し、日独伊防共協定が成立しました。
 12月13日、松井石根大将が率いる日本軍は、旧首都の南京を占領しました。この時、虐殺事件をおこしました。これを南京事件といいます。
 1938(昭和13)年1月16日、近衛内閣は、「帝国政府は爾後国民政府を対手とせす帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更正新支那の建設に協力せんとす」との対華声明を発表しました。これを第一次近衛声明といいます。
 2月、朝鮮人・台湾人が日本軍に志願するという陸軍志願兵制度が確立されました。
 4月1日、国家総動員法が公布されました。
 4月6日、電力管理法が公布され、電力国家管理が実現しました。
 7月30日、産業報国連盟が創立され、産業報国精神の普及徹底・産業報国会の創設を勧奨しました。
 8月6日、張鼓峰事件がおこりました。
 8月11日、モスクワで、日ソ両軍は現在地に留まるという張鼓峰停戦協定が成立しました。張鼓峰の守備は、朝鮮軍に代わって関東軍が配置されました。関東軍は、この停戦協定を、多くの犠牲を払いながらも、陸軍中央部の消極的性がソ連に屈したと考え、陸軍中央部に大きな不満をもっていました。
 9月29日、ミュンヘン協定で、ズデーテン地方のナチスドイツへの割譲を決定しました。
 10月27日、日本軍は、武漢3鎮を占領しました。
 11月3日、近衛文麿首相は、東亜新秩序建設を声明しました。これを第2次近衛声明といいます。その内容は、(1)欧米帝国主義の支配からのアジア解放(2)日満華3国連帯による東亜共同体論などです。
 12月15日、アメリカは、蒋介石の国民政府と、トラック・ガソリンと桐油とのバーター借款(2500万ドル)に調印しました。米中間の深い経済交流が始まりました。
 12月22日、近衛首相は、国民政府からの同調者を期待して、日中国交調整の根本方針として善隣外交・協同防共・経済提携の近衛3原則を声明しました。これを第三次近衛声明といいます。
 12月30日、汪兆銘は、対日和平を声明しました。
 1939(昭和14)年1月1日、蒋介石の国民党は、汪兆銘を永久除名に処しました。
 1月4日、近衛文麿内閣が総辞職しました。
 1月5日、@35平沼騏一郎内閣(司法官僚)が誕生しました。外相に有田八郎、内相に木戸幸一、陸相に板垣征四郎、海相に米内光政、文相に荒木貞夫、農相に桜内幸雄らが就任しました。
 1月6日、ドイツ外相のヨアヒム・ フォン・リッベントロップは、日独伊三国同盟案を正式に提案しました。
 1月19日、最高国策検討機関として5相(首相・陸相・海相・外相・蔵相)会議は、日独伊三国同盟案に関し、「相互武力援助はソ連のみを対象とし、第三国は状況により対象とする」との妥協方針を決定しました。
 1月、第23師団師団長の小松原道太郎中将と参謀長の大内孜大佐がノモンハン国境の守備をしていました。外蒙古軍の第7国境警備哨がノモンハンの満州側監視哨付近で巡察していたので、外蒙古軍の兵13人を捕虜しました。
 2月10日、日本軍は、海南島に上陸しました。
 3月8日、イギリスは、中国と法幣安定借款(1000万ポンド)協定に調印しました。
 3月、アメリカは、中国と軍用機・発動機購入用の1500万ドル借款契約に調印しました。
 4月2日、駐イタリア大使の白鳥敏夫は、イタリア外相のガレアッツォ・チャーノに対して、対英仏戦の場合も参戦と言明しました。
 4月3日、駐ドイツ大使の大島浩は、ドイツ外相のリッベントロップに対して、対英仏戦の場合も参戦と言明しました。
 4月25日、関東軍司令官の植田謙吉大将は、兵団長会同において「国境紛争に対する強硬方針」という満ソ国境紛争処理要綱を示達しました。その内容は、一撃作戦というもので、(1)侵さず侵さしめざることを満州防衛の根本とする(2)万一侵されたら機を失せず膺懲する。これがため一時ソ連領に進入するもやむを得ないというものでした。これは、関東軍第1課参謀の辻政信少佐の案といわれ、参謀総長にも報告しましたが、なんの意思もなかったので、黙認されたと解釈しました。
極東における日ソ両軍の近代化戦力の比較
  1933年 1936年 1938年
極東ソ連軍の師団数(A) 16 24
満州・朝鮮日本軍の師団数(B) 10
(B)/(A) 63% 31% 42%
極東ソ連軍の飛行機数(C) 350 1200 2000
満州・満鮮の日本軍の飛行機数(D) 130 230 340
(D)/(C) 37% 19% 17%
極東ソ連軍の戦車数(E) 1200
満州・朝鮮日本軍の戦車数(F) 600
(F)/(E) 50%
 5月11日、外蒙古軍は、ノモンハン付近の満州軍国境監視哨で、満州国軍と衝突しました。これがノモンハン事件の発端です。ノモンハンは満州国の北東の位置にあり、満州と外蒙古の国境にあって、すぐ近くがソ連領です。
 5月12日、外蒙軍がハルハ河東岸に越境したとの報告が入りました。
 5月13日、第23師団師団長の小松原道太郎中将は、師団捜索隊長の東八百蔵中佐が指揮する東支隊(歩兵2個中隊)と満州国軍を出動させました。
 5月15日、外蒙古軍は、ハルハ河西岸に撤退したので、小松原師団長も東八百蔵中佐が指揮する東支隊を撤退させました。
 5月15日、外蒙古軍総司令官のチョイバルサン元帥は、国境警備隊に対し、主力が到着までハルハ河で阻止するよう命じ、外蒙古軍第6騎兵師団を進出させました。
 5月20日、ソ連軍の第57狙撃軍団と合流した外蒙古軍は、ハルハ河東岸に進出して、陣地を構築しました。
 5月23日、関東軍司令官の植田謙吉大将は、「直ちに一撃を加える」という第23師団師団長の小松原道太郎中将の主張を認め、陸軍中央部へ報告しました。
 5月23日、小松原師団長は、歩兵第64連隊長の山縣武光大佐が指揮する山縣支隊(歩兵1個大隊・山砲4門・捜索隊)に出動を命令しました。
 5月28日、ソ連・外蒙古軍の戦車隊150人と後退してきた砲兵隊100人が、日本軍の捜索隊を包囲しました。
 5月29日、東八百蔵中佐が指揮する東支隊は、突撃して、玉砕しました。出動兵力220人の内105人が戦死、34人が負傷、つまり死傷者は63%に達しました。
 5月31日、小松原師団長は、歩兵第64連隊長の山縣武光大佐にハイラルに撤退を命じました。これを第一次ノモンハン事件といいます。
 5月31日、山縣武光大佐が指揮する山縣支隊が撤収した後も、ソ連軍は、ハルハ河東岸に橋頭堡を築きました。
 参謀長の大内孜大佐は戦死、歩兵団長の小林恒一少将は重傷、歩兵第64連隊長の山縣武光大佐は自決、歩兵第71連隊長の岡本徳三大佐は重傷、歩兵第72連隊長の酒井美喜雄大佐は自決、騎兵第23連隊長の東八百藏中佐は戰死、野砲兵第13連長の伊勢高秀大佐は戰死でした。ここに自決とあるのは、責任を負って自害したということです。
 責任とは、二度と失敗をしないように、自分のミスを総括することです。日本軍では、自害することでその責任が上層部に及ばない責任の取り方を採用しています。今に残る悪習です。
 5月31日、重慶を脱出した国民政府の汪兆銘は、東京で、平沼騏一郎首相と会談しました。
 6月2日、モスクワを出発した白ロシア軍管区司令官代理ジューコフ中将は、消極的とてして解任された第57狙撃軍団長のフェクレンコの後任として、軍団長に就任しました。自動車化狙撃師団1・狙撃師団2・自動車化旅団1。戦車旅団2・装甲車旅団3・砲兵連隊4・飛行旅団2・飛行連隊6という近代化された大部隊が動員されていました。
 6月6日、最高国策検討機関として5相(首相・陸相・海相・外相・蔵相)会議は、中国に新中央政府を樹立する方針を決定しました。
 6月13日、ソ連は、中国借款(1億5000万ドル)協定に調印しました。
 6月19日、ソ連の戦車部隊は、満州軍警備隊を駆逐し、さらに戦略要点であるカンジュル多数廟付近を攻撃してきました。第23師団師団長の小松原道太郎中将は、一撃作戦を関東軍に意見具申しました。そこで関東軍は、小松原中将の第23師団を中心に、儀峨徹二中将の第2飛行集団・安岡正臣中将の第1戦車団・須見新一郎大佐の第7師団歩兵第26連隊という虎の子の軍団を投入しました。そして、安岡正臣中将の第1戦車団にハルハ河東岸を攻撃させ、同時に師団主力にハルハ河西岸を渡河襲撃させ、ソ連軍を挟撃する作戦を立てました。この作戦は、満ソ国境紛争処理要綱を考えた作戦参謀の辻政信少佐のものといわれています。
 この作戦を実施直前に陸軍中央部へ報告しました。この作戦に対し、陸軍省軍事課長の岩畔豪雄大佐は、「事態が拡大した際、その収拾のための成算も実力もないのに、貴重な犠牲を生ぜしめる如き用兵には同意し難い」と反対しました。参謀本部第二課長の稲田正純大佐は、「国境紛争は段々と拡大しており、出鼻をくじくのも一案である」と賛成しました。最後に陸軍大臣の板垣征四郎中将が「一個師団位いちいちやかましく言わないで、現地に任せたらいいではないか」と言ったので、決着がつきました。
 6月23日、関東軍は、独断専行により、儀峨徹二中将の第2飛行集団にタムスク飛行場を急襲させました。この時ソ連軍の飛行機150機を撃破したと報告されています。極東ソ連軍1200機の内の150機にあたります。
 参謀本部第二課長の稲田正純大佐は、関東軍の独断専行によるタムスク飛行場の爆撃激しく非難しました。それに対し、作戦参謀の辻政信少佐は「決死の大戦果に対し、第一線の心理を無視し、感情を踏みにじって何の参謀本部か」とうそぶいたといいます。
 参謀次長の中島鉄蔵中将は、関東軍参謀総長の磯谷廉介中将に「極めて重大にして貴方限りに於いて決定せらるべき性質のものに非ず」と打電しました。関東軍軍司令官の植田謙吉大将は「北辺の些事は当軍に依頼して安心せられ度」と返電しました。現地の関東軍の独断専行を止められる状況にはありませんでした。
 6月30日、関東軍は、ソ連・外蒙古軍の退路を遮断して打撃を与えるには、ハルハ河西岸に渡河上陸が不可欠と考えました。そこで、次のような作戦を立てました。第23師団主力は、ハルハ河西岸のソ連・外蒙古軍を撃破し、その後東岸の敵陣地を背後から攻撃する。一方、戦車第3連隊・戦車第4連隊・歩兵第64連隊・独立野砲第1連隊などの安岡正臣中将の支隊は、師団主力の攻撃に呼応してハルハ河東岸を南進し、東岸の敵軍を一気に包囲殲滅する。
 他方、ソ連軍の作戦は、ハルハ河東岸の陣地を確保し、日本軍の包囲攻撃に対しては増援した機甲兵団による阻止・反撃するというものでした。さらに、航空部隊を縦深陣地から出撃させる準備もしていました。
 7月1日未明、第23師団主力は、将軍廟からフイ高地を占領し、ハルハ河に橋を架けました。
 7月2日夕、戦車団を主とする安岡正臣中将の支隊は、ホルステン河北側のソ連軍陣地を攻撃しましたが、低水準の日本軍戦車部隊は、優秀なソ連軍戦車のために多大の損害を受けました。戦車第3連隊長の吉丸清武大佐が戦死しました。
 7月3日、第23師団主力は、ハルハ河を渡河し、西岸のソ連陣地に突入という奇襲は成功しました。
 7月3日午後、ソ連の反撃が次第に組織的となると、戦況は不利となり、関東軍参謀副長の矢野音三郎少将は、小松原師団長に撤退を指示ました。撤退の混乱の中で第23師団参謀長の大内孜大佐は戦死しました。
 7月10日、第23師団主力は、ホルステン側北側を攻撃しましたが、失敗に終わり、その後は戦線が膠着状態となりました。
 7月23日、関東軍は、ハルハ河西岸の砲兵を殲滅すれば、東岸の陣地は奪取できると考え、砲兵主体の攻撃に作戦を変更しました。関東軍砲兵司令官の内山英太郎少将が率いる砲兵団が前進すると、それを予期していたように、ソ連軍の砲兵・重火器が一斉に火を噴きました。
 7月24日、内山英太郎少将の歩兵部隊は、ハルハ河東岸に夜襲をかけましたが、失敗しました。
 7月25日、関東軍は、持久防御に作戦を変更しました。
 7月26日、アメリカの国務長官は、日米通商航海条約および付属議定書の廃棄を通告しました。
 8月4日、関東軍は、ソ連の総攻撃を予想して、第6軍を繰り上げ編成しました。軍司令官は荻洲立兵中将、軍参謀長は藤本鉄熊少将が就任しました。第23師団の下に、第8国境守備隊・独立守備歩兵大隊・満州軍2個支隊などが配置されました。関東軍の作戦は、ソ連・外蒙古軍を日本軍陣地に誘い込んで、その間に攻撃部隊がソ連・外蒙古軍の側背を攻撃・殲滅するというものでした。
 8月上旬、ソ連軍は、蒙攻撃を秘匿し、密かに作戦を立てていました。それによると、日本軍の両翼を攻撃し、日本軍をハルハ河東岸の国境線内で包囲殲滅する。そのために、ソ連・外蒙古軍は、正面攻撃の中央集団と両翼攻撃の南北集団を編成し、8月20日を期して総攻撃を開始して日本軍を分断・包囲する。8月24日を期して日本軍の撃破・殲滅する、というものでした。
 8月8日、5相会議で、陸相の板垣征四郎は、留保なしの日独伊三国同盟締結を強硬に主張して、意見は不一致に終わりました。
10
兵力 火砲・迫撃砲 戦車 装甲車 飛行機
ソ連軍 5万7000人 542門 500輌 385輌 515機
日本軍 2万数千人 100門 0輌 - -
11  8月23日、モスクワで、独ソ不可侵条約が調印されました。ソ連は、極東への軍備増強が可能となりました。
 8月23日、軍司令官の荻洲立兵中将率いる第6軍は、戦闘司令所を戦場に移し、9個大隊の兵力で左翼方面から攻撃をすることにしました。
 8月24日、日本軍の9個大隊のうち5個大隊が敵陣に突入しましたが、戦車の逆襲に返り討ちに会いました。
 8月24日夜、ソ連・外蒙古軍は、予定通り、総攻撃をかけ、日本軍の右翼の拠点であるフイ高地を陥落させました。
 8月24日夕、ホルステン河東方の第一線に配備されいた小林恒一少将が率いる歩兵集団は、敵陣に突入しました。しかし、ソ連の新型戦車には肉弾攻撃は通用せず、壊滅的な打撃を受けて後退しました。その時、小林少将は、戦車の下敷きになって重傷を負いました。
 8月25日、平沼内閣は、閣議で、日独伊三国同盟交渉打ち切りを決定しました。
 8月28日、平沼内閣は、「欧州情勢複雑怪奇」と声明して、総辞職しました。
 8月29日、日本軍は、外蒙古軍が主張する国境線から撤退を余儀なくされました。
 8月29日、第23師団師団長の小松原道太郎中将は、師団司令部をホルステン河北方に移動しようとすると、占領されたフイ高地方面からの攻撃を受け、ソ連軍戦車隊に包囲されました。野砲兵第13連隊長の伊勢高秀大佐は脱出に失敗して、自決しました。この結果、日本軍は壊滅的な打撃を受けました。
 8月30日、大本営は、作戦終結に関する命令を出しましたが、表現が曖昧だったので、関東軍は参謀次長中島鉄蔵中将を派遣して、真意を確認しました。
 8月30日、@36阿部信行内閣(陸軍軍事参議官・予備役)が誕生しました。外相には阿部信行が兼務、陸相には畑俊六、海相には吉田善吾らが就任しました。
 9月1日、蒙古連合自治政府が成立しました。
 9月1日、ドイツ陸軍・空軍は、ポーランドに進撃しました。
 9月3日、イギリスとフランスは、ドイツに宣戦を布告しました。第二次世界大戦が始まりました。
 9月4日、阿部内閣は、欧州戦争に不介入を声明しました。
 9月6日、大本営は、改めてノモンハンにおける作戦中止を下達し、第二次ノモンハン事件は終了しました。
 9月7日、関東軍司令官の植田謙吉中将を解任し、後任に南京*2中将を任命しました。
 9月16日、東郷重徳駐ソ大使は、モロトフ外務人民委員とモスクワで会談し、外蒙古の主張する国境線で合意が成立して、ここにノモンハンの停戦協定が締結されました。
12
第二次ノモンハン事件の死傷者
  参加人員 戦死者 戦傷者 行方不明
第6軍合計 58925 7696 8647 1021
その他 5000 93 165
第1戦車団 1000 89 67 136
13  印は、蒋介石を支援する外国との関係を表示しています。
 日露戦争との違いが鮮明です。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
朝鮮人の志願兵、ノモンハン事件における日本的責任の取り方
 朝鮮人・台湾人が日本軍に志願するという陸軍志願兵制度が確立されました。強制か自主かという議論があります。1943年2月26日、帝国議会の貴族院での水野錬太郎の質問に答えて、政府委員の田中武雄は、「志願兵問題等に付きまして、官辺の強制と云ふやうなことに関してでございまするが、色々事実の真相を調べて見たのであります、必ずしも絶対にさう云ふことがなかったとは申し上げ兼ねまするのでありまして、一部遺憾な事例もあるやうであります」と答弁しています。
1938年 1939年 1940年 1941年 1942年 1943年
2496人 1万2528人 8万4443人 14万4743人 25万4273人 30万3294人
 ノモンハン事件当時の関東軍の人脈を調べてみました。
 関東軍の作戦参謀辻政信少佐は、1932(昭和7年)の第一次上海事変当時、第7連隊の中隊長としたが、その時の師団長が植田謙吉中将でした。
 辻政信少佐が歩兵第7連隊の連隊旗手だった時の連隊長が磯谷廉介大佐であり、矢野音三郎少将も第7連隊将校団の先輩でした。
日本的責任の取り方である自決した隊長
歩兵第64連隊長 山縣武光大佐 第8国境守備隊長 長谷部理叡大佐
歩兵第72連隊長 酒井美喜雄大佐 師団捜索隊長
野砲兵第13連隊長 伊勢高秀大佐 井置栄一中佐
 私は、ノモンハン事件が日本を破滅に追い込んだ第一歩と考えています。
(1)日本が得意とする肉弾戦は、正規軍同士の戦いでは有効でも、ゲリラ戦には向きません。
(2)日本が得意とする肉弾戦は、近代兵器である戦車や飛行機には向きません。
(3)ノモンハン事件の指導者は、集団戦争の敗戦の原因を分析せず、自決で個人解決を図りました。
(4)太平洋戦争でも、現在でも、この精神主義と個人的解決法は残存しています。

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