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エピソード

252_04

日中戦争Z(汪兆銘南京政府)
 同胞の蒋介石を裏切った汪兆銘が、なぜ、日本と同盟を結んだのか、不思議でした。日本では、この汪兆銘の和平建国を高く評価している人がいます。
 例えば、アメリカと戦っている日本から、裏切る者が出て、アメリカと同盟した場合、その人を日本人はどう評価するでしょうか。
 それらが知りたくて、かなり詳細に年表などを調べました。
 1937(昭和12)年6月4日、@34近衛文麿内閣が誕生しました。外相には広田弘毅、蔵相には賀屋興宣、陸相には杉山元、海相は米内光政、文相は安井英二らが就任しました。
 10月5日、アメリカのルーズベルト大統領は、シカゴで、日独を侵略国家だと非難しました。
 1938(昭和13)年1月16日、近衛内閣は、「帝国政府は爾後国民政府を対手とせす帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更正新支那の建設に協力せんとす」との対華声明を発表しました。これを第一次近衛声明といいます。
 10月27日、日本軍は、武漢3鎮を占領しました。
 11月3日、近衛文麿首相は、東亜新秩序建設を声明しました。これを第2次近衛声明といいます。その内容は、(1)欧米帝国主義の支配からのアジア解放(2)日満華3国連帯による東亜共同体論などです。
 12月15日、アメリカは、蒋介石の国民政府と、トラック・ガソリンと桐油とのバーター借款(2500万ドル)に調印しました。米中間の深い経済交流が始まりました。
 12月22日、近衛首相は、国民政府からの同調者を期待して、日中国交調整の根本方針として善隣外交・協同防共・経済提携の近衛3原則を声明しました。これを第三次近衛声明といいます。
 12月30日、汪兆銘は、対日和平を声明しました。
 1939(昭和14)年1月1日、蒋介石の国民党は、汪兆銘を永久除名に処しました。
 1月4日、近衛文麿内閣が総辞職しました。
 1月5日、@35平沼騏一郎内閣(司法官僚)が誕生しました。
 1月6日、ドイツ外相のリッベントロップは、日独伊三国同盟案を正式に提案しました。
 1月19日、5相会議は、日独伊三国同盟案に関し、「相互武力援助はソ連のみを対象とし、第三国は状況により対象とする」との妥協方針を決定しました。
 3月8日、イギリスは、中国と法幣安定借款(1000万ポンド)協定に調印しました。
 3月、アメリカは、中国と軍用機・発動機購入用の1500万ドル借款契約に調印しました。
 5月11日、ノモンハン事件が発生しました。
 6月13日、ソ連は、中国借款(1億5000万ドル)協定に調印しました。
 7月26日、アメリカの国務長官は、日米通商航海条約および付属議定書の廃棄を通告しました。
 8月23日、モスクワで、独ソ不可侵条約が調印されました。
 8月28日、平沼内閣は、「欧州情勢複雑怪奇」と声明して、総辞職しました。
 8月30日、@36阿部信行内閣(陸軍軍事参議官・予備役)が誕生しました。
 9月1日、ドイツ陸軍・空軍は、ポーランドに進撃しました。
 9月3日、イギリスとフランスは、ドイツに宣戦を布告しました。第二次世界大戦が始まりました。
 9月18日、駐独大使の大島浩は、ドイツに対して、独ソ不可侵条約は、日独伊三国防共協定に違反と抗議しました。
 9月19日、南京で、汪兆銘・臨時政府首班の王克敏・維新政府首班の梁鴻志が3者会談を開き、汪兆銘中心の新中央政権樹立で合意しました。
 9月23日、大本営は、支那派遣軍総司令部設置を命令し、総司令官に西尾寿造大将、総参謀長に板垣征四郎中将を任命しました。
 9月25日、阿部信行兼務外相の後任に、野村吉三郎(軍事参議官で予備役)が就任しました。
 11月4日、野村吉三郎外相は、駐日アメリカ大使のグルー日米国交調整につき会談を開始しました。
 11月30日、野村吉三郎外相は、駐日フランス大使のアンリに、仏印経由の中国援助の停止を申し入れました。
 12月20日、陸軍は、1943年までに地上65個師団・航空160個中隊を整備するという軍備充実4ヵ年計画を策定し、陸相・参謀総長が昭和天皇に上奏しました。
 12月22日、駐日アメリカ大使のグルーは、日米新通商航海条約または暫定取り決めの締結を拒否しました。
 12月28日、外相の野村吉三郎・陸相の畑俊六・海相の吉田善吾は、欧州戦争不介入の阿部信行首相抜きで、対外施策要綱を決定しました。
 1940(昭和15)年1月14日、陸海軍の支持を失った阿部信行内閣が総辞職しました。
 1月16日、@37米内光政内閣(海軍大将)が誕生しました。外相は有田八郎、陸相は畑俊六、海相は吉田善吾らが就任しました。
 2月2日、民政党の斉藤隆夫は、衆議院で戦争政策を批判しました。
 3月7日、衆議院は、斉藤隆夫の除名を可決しました。
 3月7日、アメリカは、蒋介石の重慶政府と錫借款(2000万ドル)協定を締結しました。
 3月9日、社会大衆党は、斉藤隆夫の除名に反対した片山哲らを除名しました。
 3月12日、汪兆銘は、上海で和平建国宣言を発表しました。
 3月30日、汪兆銘は、国民政府の南京遷都を宣言し、新中央政府を樹立しました。主席に汪兆銘が就任しました。これを汪兆銘の南京政府といいます。
 4月9日、ドイツ軍は、ノルウェー・デンマークを占領しました。
 4月17日、アメリカ国務長官のハルは、蘭印の現状維持に関して対日警告を声明しました。
 4月24日、陸軍志願令が公布されました。
 5月17日、ドイツ軍は、ベルギーの首都ブリュッセルを占領しました。
 6月1日、木戸幸一を内大臣に任命しました。
 6月10日、イタリアは、イギリス・フランスに宣戦を布告しました。
 6月14日、ドイツ軍は、パリに無血入城しました。
 6月24日、外務次官は、駐日イギリス大使にビルマルートおよび香港経由の援蒋物資輸送停止を申し入れました。
 6月24日、近衛文麿は、枢密院議長を辞任し、新体制運動推進の決意を表明しました。
 6月29日、大本営は、仏印の援蒋物資輸送禁絶監視員を陸・海・外3省より40人を派遣すると発表し、その団長として西原一策少将がハノイに着任しました。
 7月4日、陸軍首脳部は、海軍出の米内内閣を打倒するため、陸相の畑俊六に単独辞職を勧告しました。
 7月16日、陸相の畑俊六が単独辞職を提出したので、米内内閣は総辞職しました。
 7月19日、近衛文麿は、松岡洋右・東条英機・吉田善吾の首相・外相・陸相・海相候補と会合し、国策を協議しました。これを荻窪会談といいます。
 7月22日、@38第2次近衛文麿内閣が誕生しました。外相は松岡洋右、陸相は東条英機、海相は吉田善吾らが就任しました。
 7月26日、近衛内閣は、閣議で、「基本国策要綱」を決定しました。その内容は、(1)大東亜新秩序の建設(2)国防国家の建設などでした。
 7月26日、アメリカ大統領のフランクリン・デラノ・ルーズベルトは、石油・くず鉄を輸出許可制適用品目中に追加しました。
 7月27日、大本営政府連絡会議は、世界情勢の推移に伴う時局処理要項を決定し、武力行使を含む南進政策を決議しました。
 7月31日、アメリカ大統領のルーズベルトは、西半球以外への航空用ガソリンの輸出を禁止しました。
 8月1日、外相の松岡洋右は、本国をドイツに占領された駐日フランス大使のアンリに対して、「日本軍来の仏印通過及び仏印内飛行場の使用など」を要求しました。
 8月2日、八路軍40万人は、華北で大規模な遊撃戦を展開しました。これを百団大戦といいます。
 8月15日、民政党が解党しました。
 9月19日、ドイツの進撃を見た御前会議は、日独伊三国同盟締結を決定しました。
 9月23日、日本軍は、北部仏印に進駐しました。
 9月25日、アメリカは、蒋介石の重慶政府に2500万ドルの借款を供与しました。
 9月27日、ベルリンで、日独伊三国同盟が調印されました。外相の松岡洋右は、駐日ドイツ大使のオットと秘密交換公文を取り交わしました。
 10月3日、参謀総長の閑院宮載仁親王の後任に、杉山元大将が就任しました。
 10月12日、大政翼賛会の発会式が行われ、総裁に近衛文麿首相が就任されました。
 11月5日、アメリカ大統領戦で、ルーズベルトが共和党のウィルキーを破り、三選されました。
 11月27日、駐米大使に野村吉三郎(海軍大将)を任命しました。
 11月30日、御前会議は、不平等条約である日華基本条約案を決定し、汪兆銘の南京政府と調印しました。その結果、日本は汪兆銘の南京政府を承認しました。
 11月30日、アメリカ大統領のルーズベルトは、蒋介石の重慶政府に5000万ドル追加借款を発表しました。
 12月10日、イギリスは、蒋介石の重慶政府に1000万ポンドの借款を供与しました。
10  印は、蒋介石を支援する外国との関係を表示しています。
 日露戦争との違いが鮮明です。
 年表を丹念に辿って見ると、日本政府や日本軍の戦略が大体分かりました。
(1)民族統一戦線を組んだ蒋介石は相手にできない。そこで、アメリカ・イギリス・フランスの協力で兵糧攻めにしようとしましたが、いずれも拒否されて、成功しませんでした。
(2)蒋介石に反感を持つ親日派の汪兆銘を担ぎ出し、分裂支配を図りましたが、軍事力や民衆の支持のない汪兆銘の南京政府は名前だけの存在で、役に立ちませんでした。
(3)ドイツの脅威を利用して、対ソ謀略に出て、蒋介石を北から封じ込めようとしましたが、独ソ不可侵条約で、これも破綻しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
汪兆銘とは?
  汪兆銘は、号を精衛といいます。現代の中国では、売国奴、漢奸として悪名高き人物です。1883年に生まれ、
 18歳(1901年)の時に科挙に合格するほどの秀才です。21歳の時、国費留学生として法政大学を卒業しています。
 22歳(1905年)の時、汪兆銘は、孫文らの中国同盟会に参加しました。
 27歳(1910年)の時、汪兆銘は、清朝皇帝溥儀の父である摂政醇親王の暗殺を企て、死刑を宣告されました。
 28歳(1911年)の時、汪兆銘は、辛亥革命の成功で釈放され、袁世凱と孫文の提携を図りました。
 29歳(1912年)の時、孫文は、南京で臨時大総統に就任しました。汪兆銘が起草した「中華民国成立の宣言」が発表されました。
 30歳(1913年)の時、第2革命失敗後、汪兆銘はフランスに亡命しました。
 33歳(1916年)の時、フランスから帰国した汪兆銘は、フランスの影響を受け、急進的民族主義者として国民党左派の指導者になりました。
 41歳(1924年)の時、第一次国交合作が成立しました。
 42歳(1925年)の時、孫文の死(3月)後、汪兆銘は、広東政府の常務委員会と軍事委員会の主席に就任します。中国共産党との連携を図る汪兆銘は、浙江財閥・軍事力を背景に反共政策を図る蒋介石と対立します。
 43歳(1926年)の時、国民党2全大会で、汪兆銘らの国民党左派が実権を握りました。国民党右派の蒋介石は、共産党員で中山艦長の李之竜が黄埔に中山艦を回航したことを反乱行為と弾劾して、李之竜らを逮捕しました。その後、蒋介石は、汪兆銘ら左派を監禁し、周恩来ら共産党員を第1軍より排除して、国民政府の最高権力を掌握しました。これを中山艦事件といいます。汪兆銘は亡命します。
 44歳(1927年)の時、国民党左派と共産党は、武漢に国民政府を樹立しました。これを武漢政府といいます。汪兆銘は武漢政府に参加します。武漢政府は、蒋介石が南京に樹立した南京の国民政府(南京政府)と対立しました。
 国民党左派の汪兆銘は、共産党との連合政権を経験して、親日派に転向したという人がいます。その根拠を、汪兆銘は、「中国共産党は、コミンテルンの命令を受け、階級闘争のスローガンに代わるものとして抗日を打ち出していたのです。コミンテルンが中国の民族意識を利用して、中日戦争を扇動しているの私は読みとりました。謀略にひっかかってはなりません」と書いているというのです。
 後に、武漢政府の国民党左派は、蒋介石の南京政府に合流しました。
 49歳(1932年)の時、満州事変の後、汪兆銘は、蒋介石と妥協して、行政院長(首相)兼外交部長(外相)に就任しましたが、汪兆銘の対日平和政策は蒋介石から強く反対されました。汪兆銘の転向の兆しが見えます。
 52歳(1935年)の時、抗日運動が激化する中、汪兆銘は親日派に転向します。その結果、汪兆銘は抗日派の新聞記者から狙撃され、行政院長を辞任します。弾丸の摘出手術をしたのが、名古屋大学の付属病院でした。
 54歳(1937年)の時、西安事件により第二次国共合作が成立すると、親日派の汪兆銘は、蒋介石と対立しました。
 55歳(1938年)の時、日中国交調整という第三次近衛声明を受けて、汪兆銘は「反共和平救国」という声明を出しました。
 第二次国共合作により、中国の抗日民族統一戦線が結成されたのに、親日政策を打ち出すことは、中国民族への裏切り行為です。しかし、秀才の汪兆銘は、その道を選択したのです。汪兆銘は「一面抵抗、一面平和」という哲学を持っていた。汪兆銘が和平交渉を進めるには、武力による抵抗が必要不可欠で、蒋介石の抗戦がそれにあたるというのです。
 汪兆銘の「一面抵抗、一面平和」を物語るエピソードがあります。汪兆銘は、17歳の娘である汪文琳に「今、父が計画していることが成功すれば、中国の国民に幸せが訪れる。しかし失敗すれば、家族全体が末代までも人々から批判されるかもしれない。お前はそれでもいいか」と問いかけたと言うのです。
 57歳(1940年)の時、日本からの働きかけで、重慶を脱出した汪兆銘は、南京国民政府を樹立しました。汪兆銘は「和平建国」を党是として採用しました。清廉高潔と噂の高い汪兆銘でした。しかし、汪兆銘と通じていたはずの将軍たちで、続いて脱出する者は誰もいませんでした。
 日本政府は、蒋介石の重慶政府を国民政府と認めず、汪兆銘の南京政府を国民政府と認め、日中戦争の解決を図ろうとしました。しかし、汪兆銘の南京政府を承認したのは、満州国・ドイツ・イタリアだけという寂しいものでした。
 58歳(1941年)の時、来日した汪兆銘は、昭和天皇の「真の提携を願っている」という言葉に触れ、孫文の「日中戦うべからず」を思い出したといいます。
 60歳(1943年)の時の1月、汪兆銘の南京政府は、日本軍の要請を受けて、アメリカとイギリスに宣戦布告しました。この時の事情を汪兆銘は、「この戦争は間違いです。日本はアメリカと組んでソビエトと戦わねばならないのです。真の敵はアメリカではありません。しかし、こうして開戦した以上わが国民政府はお国に協力します。同生共死ということです」と言ったというのです。
 11月、汪兆銘は、中国代表として、東京の大東亜会議に参加しました。
 61歳(1944年)の時、汪兆銘は、癌の治療のために来日して、そのまま名古屋大学付属病院で亡くなりました。
 日本が敗北すると、日本と戦った蒋介石と日本と同盟を結んだ汪兆銘ということで、評価に雲泥の差が出ました。汪兆銘には、裏切り者(漢奸)というレッテルが定着しました。
 汪兆銘は、孫文から寵愛されていたことは理解できます。孫文は、汪兆銘が起草した「中華民国成立の宣言」を発表しました。孫文の遺言を代筆したのも汪兆銘と言われています。その遺書には、「余は国民革命に力を致すことおよそ四十年、その目的は中国の自由平等を求むるに在り…現在革命未だ成功せず」と書かれていました。
(1)そんな関係で、「汪兆銘は国父孫文の大アジア主義を継承して、日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道であると確信し、中国共産党や蒋介石とは異なる独自の道を目指した」という人もいます。
(2)またある人は、「汪兆銘はは蒋介石の徹底抗日路線により国土が破壊し多くの人命が失われることを憂い、日本と妥協することによって国土を修復する道を選んだ」という人もいます。
(3)上坂冬子氏は、汪兆銘の長男である汪文嬰の「政治は結果であり、自分としては何も為しえなかった父親を讃えたりしないけれど、父親が愛国者であったことだけは人々の間に浸透するよう祈りたい」という言葉を紹介して、「息子という立場を越えて見事な客観性のもとに汪兆銘の和平工作の核心を突き、南京国民政府をめぐる諸問題を総括した」と感想を書いています。
 私の見解です。
 汪兆銘は、確かに秀才で、エリートです。蒋介石の台頭以来、蒋介石を中心に汪兆銘の動きが転変します。蒋介石とはライバルといえ、小者のライバルです。
 汪兆銘は大言壮語していますが、蒋介石との異質性を証明したかったのではないでしょうか。
 蒋介石が国共合作を採用して、抗日民族戦線と結成すると、汪兆銘は、日本と和平建国を党是に南京政府を樹立し、日本と国交を結びます。しかし、政権を承認した国が日本の傀儡国家である満州国とファシズム同盟のドイツとイタリアだけでした。
 汪兆銘と縁のある将軍も南京政府に駆けつけませんでした。日本からは信頼されても、同胞からは見放されていたと言えます。
 和平建国とモットーに同盟を結んだ日本が、アメリカと戦争を始めました。そこで、同生共死という意味不明のモットーに転変します。日本に大義を与え、戦争を長期化させた張本人だと思います。
1925 広州*1                
1926   武漢*1            
1927   南京*2            
1928    ┗ 南京*2            
1931     広州*1          
1932       新南京*3        
1937     ┗━ ━━━ ━━━ 武漢*2      
1938            ┗ 重慶*2    
1940             南京*1  
1950             ┗━ ━━ 台湾*2
(1)国民政府の変遷表です。孫文の死亡後、汪兆銘と蒋介石の対立が鮮明です。
(2)*1は汪兆銘、*2は蒋介石、*3は林森です。

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