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エピソード

253_01

総力戦体制T(国民精神総動員、国家総動員法)
 ここでは、総力戦という美名の下で、全ての国民を戦争に動員して行ったかを調べました。
 逆に総力戦という美名は、国民に多大の犠牲を強いる政策を糊塗するために、使用されていたことが分かります。
 美しい花にはトゲがあり、美しい言葉には裏があります。心すべき名言です。
 1937(昭和12)年2月2日、@33林銑十郎内閣が誕生しました。
 2月19日、兵役法施行令を改正し、徴兵検査合格の身長基準を5センチ緩和しました。
 3月22日、陸軍省は、陸軍軍人軍属著作規則を改正し、軍部内の言論統制を強化しました。
 3月30日、林銑十郎内閣は、臨時租税増徴法・法人資本税法など増税新法を公布しました。
 5月1日、商工省に統制局設置を公布しました。
 5月29日、陸軍省は、重要産業5年計画要綱を決定しました。
 6月4日、@34近衛文麿内閣が誕生しました。外相には広田弘毅、蔵相には賀屋興宣、陸相には杉山元、海相は米内光政、文相は安井英二らが就任しました。
 6月29日、近衛内閣は、昭和13年度予算編成に関して、各省が物資需要調書を提出することを決定しました。これを物の予算といいます。
 7月7日、蘆溝橋で日中両軍が衝突しました。これが盧溝橋事件で、日中戦争の発端となりました。
 7月11日、盧溝橋事件現地協定が成立しました。
 7月11日、近衛内閣は、華北への派兵を声明し、各界に挙国一致の協力を要望しました。
 7月15日、文相の安井英二は、宗教・教化団体代表者に、挙国一致運動を要望しました。
 7月27日、近衛内閣は、北支事変に関し自衛行動と声明し、3個師団に華北派遣命令を出しました。
 7月28日、日本軍は、華北で総攻撃を開始しました。これを北支地域といいます。
 8月10日、陸軍は、上海派遣軍の編成を命令しました。
 8月13日、陸軍に先を越されないようにと、海軍陸戦隊は、上海で、中国軍と交戦しました。これを中支地域といいます。北支と中支にまで戦線が拡大したので、支那事変と呼称を変えます。
 8月15日、近衛内閣は、南京政府の断固膺懲を声明し、中国との全面戦争に突入しました。
 8月17日、宗教局長は、国民精神総動員につき、宗教家の奮起を促しました。
 8月24日、近衛内閣は、国民精神総動員実施要綱を決定しました。
 9月10日、臨時軍事費特別会計法が公布され、歳出予定総額は2221億円となりました。この結果支那事変は、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦と同列視されました。
 9月10日、米穀応急措置法を公布し、政府の米穀買入売買機能を拡大しました。
 9月10日、輸出入品等臨時措置法が公布され、不要不急の物資の輸入停止や重要産業物資の軍需産業への優先的投入が決められました。この結果軍部に経済への直接統制が可能となりました。
 9月10日、臨時資金調整法が公布され、軍需産業への資金の優先的投入が可能となりました。
 9月28日、13の婦人団体は、非常時局打開克服を目的に日本婦人団体連盟を結成しました。
 10月1日、近衛内閣は小冊子「我々は何をなすべきか」を1300万部を全国各戸に配布しました。
 10月1日、近衛内閣は、朝鮮人に「皇国臣民の誓詞」を配布しました。
 10月5日、アメリカのルーズベルト大統領は、シカゴで、日独を侵略国家だと非難しました。
 10月12日、国民精神総動員中央連盟が結成され、会長に有馬良橘海軍大将が就任しました。
 10月25日、軍需品を優先的確保する機関として、企画庁と資源局を統合する企画院官制が公布されました。この結果、総力戦に備え、軍部の恣意のまま、人的・物的資源を一元的に統制・運用する役所が出来ました。
 これはソ連やナチスの制度を学んで、統制・計画経済を立案しようとするものです。
 10月7日、東京の仏教護国団は、日比谷で報告大会を開催しました。その他、新聞などマスコミ関係も軍部の行動を支持しました。
 11月6日、イタリアは、イギリス・フランスに対する枢軸体制を強化するため、日独防共協定に参加し、日独伊防共協定が成立しました。
 12月2日、蒋介石は、日本の第1条件を交渉の基礎として受け入れることを伝達しました。これをトラウトマン工作といいます。
 12月7日、日本軍の入城を目前にした南京の中国軍は、市街地を破壊・放火して、武漢に退却しました。これを、日本人は、「中国軍は、敗色が濃くなると掠奪者に化けるのはいつもの事で、とても国民軍と呼べない状態であった。昔ながらの軍閥意識が抜けていないのである」と報告しています。これは、民族統一戦線のゲリラ戦を知らない報告といえます。ナポレオンのモスクワ進攻の時、ロシアのクトーゾフ将軍が行った戦略でもあります。
 12月11日17時、日本軍は、南京城光華門を占領しました。一番乗りは、福井県鯖江の第36連隊長脇坂次郎大佐で、脇坂大佐は「全軍に先んじて城門を占領せり」との感状を受けました。
 12月13日、松井石根大将が率いる日本軍は、旧首都の南京を占領しました。この時、日本軍も日本国民も蒋介石が降伏を申し出て、日中戦争は終わると思っていました。正確には、思わされていました。西洋列強のイギリスやフランスと同じように、日本も朝鮮・満州や中国の植民地の盟主になったと信じていました。日本中が「万歳」で揺れたといいます。
 12月13日、南京で、日本軍による虐殺事件がおきました。これを南京事件といいます。
 12月21日、南京占領により強気になった近衛内閣は、蒋介石が受諾できない第2条件を閣議決定しました。トラウトマン工作を日本政府自らご破算にしました。
 12月26日、内閣情報局が募集した国民歌が5万7578編の応募から選ばれ、『愛国行進曲』が発売され、100万枚の大ヒットとなりました。
 1938(昭和13)年1月11日には、御前会議で、「国民政府が講和を求めて来ない場合は、これを相手とせず」という支那事変処理根本方針を決定しました。
 1月16日、近衛文麿内閣は、トラウトマンを通じ、中国に和平交渉打ち切りを通告しました。これでトラウトマン工作が終了しました。
 1月16日、近衛内閣は、「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」との声明を発表しました。これを第一次近衛声明といいます。
 1月16日、近衛内閣は、昭和13年度物資動員計画を決定しました。
 2月12日、商工省は、繊維工業設備に関する件を公布し、繊維工業設備の新増設を許可制にしました。
 2月15日、警視庁は、盛り場でサボ学生狩りを実施し、3日間で3486人を検挙し、宮城遥拝後、釈放しました。
 3月1日、商工省は、綿糸配給統制規則を公布し、綿糸の割当票制度の実施しました。これを最初の切符制といいます。
 3月3日、陸軍省軍務課員の佐藤賢了中佐は、国家総動員法案委員会で説明員として答弁中、「黙れ!」と怒鳴り、議場が騒然となりました。これを黙れ事件といいます。
 3月7日、商工省は、揮発油・重油販売取締規則を公布し、揮発油・重油の配給切符制を実施しました。
 3月13日、ドイツは、オーストリアを併合しました。
 3月30日、文部省は、神道・儒教・仏教の代表と国民精神総動員などを協議しました。
 4月1日、近衛内閣は、戦争の長期化を予想して、国家総動員法が公布されました。その内容は、次の通りです。
(1)戦時において労務・物資・賃金・施設・事業・物価・出版など経済活動の全般について、政府が必要とする場合、帝国議会の審議をへることなく勅令等によって統制することが可能となる
(2)この法により、戦時経済体制が確立しました。しかし、財閥には不満が残りました。
 4月6日、電力管理法が公布され、電力国家管理が実現しました。その内容は、次の通りです。
(1)政府は、私企業への介入を強化できる
(2)その結果、既成財閥系大企業を国策に協力させることが可能となる
(3)中小企業を強制的に整理統合できる
 4月10日、内務省は、灯火管制規則を実施し、「空襲警報サイレンは6秒10回、警鐘は1点と4点連打」に統一しました。
 4月19日、近衛内閣は国民貯蓄奨励を申合せ、年間目標85億円の貯蓄運動を展開しました。
 4月、落語家や漫才師の戦線慰問団である「わらわし隊」の第1陣が出発しました。1941年8月までに395団が派遣されました。
 5月17日、戦車隊長の西住小次郎陸軍中尉は、徐州戦で、戦死しました。
 5月19日、日本軍が徐州を占領しました。
 5月26日、近衛内閣が内閣改造を行い、広田弘毅外相の後任に宇垣一成賀屋興宣蔵相の後任に三井の池田成彬、商工省も池田成彬が兼任、木戸幸一文相の後任に荒木貞夫が就任しました。
 6月3日、杉山元陸相の後任に板垣征四郎が就任しました。
 6月20日、商工省は、鉄鋼配給統制規則を公布しました。
 6月24日、本年中に戦争目的を達成するという「今後の支那事変指導方針」が決定されました。
 7月10日、日本労働組合会議は、産業報国運動への協力を声明しました。
10  7月11日、張鼓峰で国境紛争がおこりました。
 7月19日、日本労働組合会議は、産業報国連盟への一括加盟を決定しました。
 7月20日、企画院は、池貝鉄工所など5大企業の協力によりS型工作機械8機種の設計図を公開しました。これを産官提携といいます。
 7月30日、産業報国連盟は、産業報国精神の普及徹底・産業報国会の創設を勧奨しました。
 8月6日、張鼓峰事件が発生しました。
 8月10日、日ソ停戦協定が成立しました。
11  9月1日、商工省は、新聞用紙制限を命令しました。その結果、新聞の統制が可能となりました。
 9月19日、商工省は、石炭配給統制規則を公布し、切符制を実施しました。
 9月22日、北京で中華民国臨時政府が成立し、行政委員長に、親日派の王克敏が就任しました。
 9月29日、ミュンヘン協定で、ズデーテン地方のナチスドイツへの割譲を決定しました。
 10月21日、日本軍は、援蒋ルートを遮断するため、広東を占領しました。
 10月27日、日本軍は、武漢3鎮を占領しました。
12  11月3日、近衛文麿首相は、東亜新秩序建設を声明しました。これを第2次近衛声明といいます。その内容は、(1)欧米帝国主義の支配からのアジア解放(2)日満華3国連帯による東亜共同体論などです。
 11月21日、商工省は、鉄屑配給統制規則を公布し、切符制を導入しました。
 11月22日、商工省は、銅・鉛・錫配給統制規則を公布し、切符制を導入しました。
 12月6日、陸軍中央部は、進攻作戦の打ち切り・戦略持久への転移方針を決定しました。
 12月17日、陸軍報道部は、戦車隊長の西住小次郎陸軍中尉を支那事変初の軍神として称賛しました。
 12月22日、近衛首相は、国民政府からの同調者を期待して、日中国交調整の根本方針として善隣外交・協同防共・経済提携の近衛3原則を声明しました。これを第三次近衛声明といいます。
 12月30日、汪兆銘は、対日和平を声明しました。
13  印は、総力戦体制に関係がある項目です。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
「黙れ!」で通過した国家総動員法
 1937(昭和12)年12月26日、第73通常議会が開会されました。近衛文麿内閣は、戦時体制を強化するための国家総動員法案と電力国家管理法案を提出しました。この法案は、人的・物的資源を議会を通さず、勅令により動員できるという超法規的な内容でした。しかも、この総動員法案は、軍部と企画院が法案化したものでした。
 1938(昭和13)年3月3日、反対の質問に対して、塩野季彦法相と滝正雄法制局長官が答弁に立ちますが、相談を受けていないので、十分な返事が出来ません。
 そこで、板野友造議員が「誰でもいい。分かっている人が出て説明してくれ」と揶揄的に発言しました。すると、陸軍省軍務課員の佐藤賢了中佐が説明し始めました。佐藤中佐が30分ほど持説をとうとうと述べるので、それを聞いていた政友会の宮脇長吉議員が「委員長!いつまで答弁させるのか!」と抗議しました。
 佐藤中佐は、自席には戻りましたが、小川郷太郎委員長の指示で、再び法案の説明を始めました。そこで、宮脇長吉議員は、佐藤中佐の説明を野次り倒しました。むっとなった佐藤中佐は、ついに「黙れ!」と一喝してしまいました。議場は騒然とし、佐藤中佐は撤回しましたが、議場は収まりませんでした。
 3月4日、杉山元陸相が陳謝することで事態は沈静化しました。
 いくら抵抗しても、この頃には、翼賛的な風潮にありました。「会大衆党は既にその頃、階級闘争を通じて、資本主義を改革しようとする行き方を捨て、国家、民族の発展は、資本主義の改革をその中に含まねばならぬという方針をうち立てていた。…党の方針をバックにして、西尾末広君が、賛成討論に立ったのである」(片山哲『回顧と展望』)。
 あれほど共産主義を忌み嫌い、否定していた人々が、いとも簡単に計画的・統制的経済体制を導入しました。
 片山哲は、「この総動員法案が国家社会主義の立場から、資本主義の自由放任を制限し、国家の強い統制力を加えようとする法案である」と記録しています。
「  法律第五十五号 国家総動員法
 第一条 本法に於て国家総動員とは、戦時(戦争に準ずべき事変の場合を含む以下之に同じ)に際し国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様、人的及物的資源を統制運用するを謂ふ。
 第二条 本法に於て総動員物資とは左に掲くるものを謂ふ。
  一、兵器、艦艇、弾薬其の他の軍用物資
  二、国家総動員上必要なる被服、食糧、飲料及飼料
  三、国家総動員上必要なる医薬品、医療機械器具其の他の衛生用物資及家畜衛生用物資
  四、国家総動員上必要なる船舶、航空機、車輛、馬其の他の輸送用物資
  五、国家総動員上必要なる通信用物資
  六、国家総動員上必要なる土木建築用物資及照明用物資
  七、国家総動員上必要なる燃料及電力
  八、前各号の生産、修理、配給又は保存に要する原料、材料、機械器具、装置其の他の物資
  九、前各号に掲くるものを除くの外勅令を以て指定する国家総動員上必要なる物資
 第四条 政府は戦時に際し国家総動員上必要あるときは、勅令の定むる所に依り、帝国臣民を徴用して総動員業務に従事せしむることを得、但し兵役法の適用を妨げず。
 第六条 政府は戦時に際し国家総動員上必要あるときは勅令の定むる所に依 り従業者の使用雇入若は解雇又は賃銀其の他の労働条件に付必要なる命令を為すことを得
 第二十条 政府は戦時に際し国家総動員上必要あるときは、勅令の定むる所に依り、新聞紙其の他の出版物の掲載に付制限又は禁止を為すことを得」
 国家総動員法により、議会の承認なく、あらゆる法律が可能となりましあ。 
 1938(昭和13)年8月24日、学校卒業者使用制限令が勅令により出されました。その結果、大学院・学部工学部及工鉱業の専門学校等の卒業生を使用するには、事業主は、その使用員数について厚生大臣の認可を受けることを義務づけられました。
 8月24日、医療関係者職業能力申告令が勅令により出されました。その結果、歯科医・薬剤師・看護婦の登録が義務づけられました。

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