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エピソード

254_01

総力戦体制U(軍事教練、国民徴用令、隣組、ぜいたくは敵だ)
 総力戦とは、人的資源を肉体的・精神的に動員し、物資も動員するというものです。
 人間の内面にまで、どのようにして統制していったのかを調べてみました。
 1937(昭和12)年6月4日、@34近衛文麿内閣が誕生しました。
 7月7日、蘆溝橋で日中両軍が衝突しました。これが盧溝橋事件で、日中戦争の発端となりました。
 10月25日、軍需品を優先的確保する機関として、企画院官制が公布されました。
 11月6日、日独伊防共協定が成立しました。
 12月13日、南京で、日本軍による虐殺事件がおきました。これを南京事件といいます。
 1938(昭和13)年1月11日には、御前会議で、「国民政府が講和を求めて来ない場合は、これを相手とせず」という支那事変処理根本方針を決定しました。
 1月16日、近衛内閣は、和平交渉打ち切りを通告しました。これでトラウトマン工作が終了しました。
 1月16日、近衛内閣は、「爾後国民政府を対手とせず」との第一次近衛声明を発表しました。
 4月1日、近衛内閣は、戦争の長期化を予想して、国家総動員法が公布されました。
 8月6日、張鼓峰事件が発生しました。
 10月21日、日本軍は、援蒋ルートを遮断するため、広東を占領しました。
 11月3日、近衛文麿首相は、東亜新秩序建設を声明しました。これを第2次近衛声明といいます。
 12月22日、近衛首相は、国民政府からの同調者を期待して、第三次近衛声明を発表しました。
 1939(昭和14)年1月5日、@35平沼騏一郎内閣(司法官僚)が誕生しました。
 1月6日、ドイツ外相のリッベントロップは、日独伊三国同盟案を正式に提案しました。
 1月7日、国民職業能力申告令が勅令により出されました。その結果、旋盤工など軍需産業や用兵上必要と認められた134種の技術を有する者は職業紹介所に登録することが義務づけられました。
 1月13日、船員職業能力申告令が勅令により出されました。船員の登録が義務づけられました。
 1月18日、内務省は、1市町村に1基の忠霊塔の建設を許可しました。
 1月28日、東京帝大総長の平賀譲は、経済学部の河合栄治郎教授・土方成美教授の休職処分を文相の荒木貞夫に上申しました。これを平賀粛学といいます。
 1月30日、平賀粛学に反対の帝大13教授が辞表を提出しました。その後、高等文官分限委員会が開かれ、河合・土方教授の休職処分が決定しました。
 2月4日、獣医師職業能力申告令が勅令により出され、獣医師の登録が義務づけられました。
 2月9日、平沼内閣は、国民精神総動員強化方策を決定しました。
 2月16日、商工省は、ポスト・ベンチ・広告塔など15品目を指定して、鉄製不急品の回収を開始しました。
 3月9日、兵役法改正を公布し、兵役期間の延長・短期現役制の廃止が決められました。
 3月15日、各地の招魂社を護国神社と改称し、神饌幣帛供進の制を定めました。
 3月30日、大学でも軍事教練が必修となりました。
 3月31日、従業者雇入制限令・業種別初任給を公定する賃金統制令工場就業時間制限令が勅令により公布されました。
 4月5日、映画法が公布されました。その結果、脚本が事前に検閲され、外国映画の上映が制限され、ニュース映画が強制的に上映されるようになりました。
 4月7日、愛馬の日が制定され、『愛馬進軍歌』が流行しました。
 4月12日、米穀配給統制法が公布され、米穀商の許可制などが 決められました。
 5月11日、ノモンハン事件が発生しました。
 5月15日、帝大・官立の医学部に対して、臨時付属医学専門部を設置し、軍医の需要を対応させました。
 5月22日、全国1800校の学生生徒代表3万2500人は執銃・帯剣・巻ゲートルで天皇親閲式後、市内を大行進しました。
 5月29日、文部省は、小学校6・6年と高等科の男児に武道(柔道・剣道)を必修としました。
 6月7日、満蒙開拓青少年義勇軍2500人の壮行会を挙行し、市内を大行進しました。
 6月10日、警視庁は、待合・料理屋などに「午前0時限り閉店」を通牒しました。
 6月16日、国民精神総動員委員会は、遊興営業時間の短縮・ネオン全廃・学生の長髪禁止・パーマネント廃止など生活刷新案を決定しました。
 7月8日、国家総動員法に基づき、国民徴用令が勅令により公布されました。最初は登録者が対象でしたが、後には、全てが徴用の対象となりました。その結果、厚生大臣は、白紙の出頭要求書を送付して、必要な国民を必要な数だけ、強制的に職場を転換させることが出来るようになりました。
 7月26日、アメリカ国務長官は、日米通商航海条約の廃棄を通告しました。
 8月1日、国民徴用令による初の出頭要求書が建築技術者に発送されました。これを白紙の召集令状といいます。
 8月15日、東京市は、隣組回覧板10万枚を配布しました。
 8月16日、文部省は、学生の運動競技を休日・土曜午後以外禁止と通牒しました。
 8月23日、モスクワで、独ソ不可侵条約が調印されました。
 8月25日、農林省は米価抑制のた米穀配給統制法第4条を発動し最高1石38円と公定しました。
 8月28日、平沼内閣は、「欧州情勢複雑怪奇」と声明して、総辞職しました。
 8月30日、@36阿部信行内閣(陸軍軍事参議官・予備役)が誕生しました。
 8月、渇水と石炭不足のため、電力の供給を制限しました。
 9月1日、興亜奉公日を毎月1日を戦意高揚の日と決定し、初めて実施しました。その結果、待合・バー・料理屋など酒不売で殆どが休業し、ネオンも消灯しました。
 9月3日、第二次世界大戦が始まりました。
 9月23日、商工省は、石油配給統制規則を公布し、石油の統制を本格化しました。
 9月25日、阿部信行兼務外相の後任に、野村吉三郎(軍事参議官で予備役)が就任しました。
 10月1日、厚生省は、初年度体力章検定を実施しました。その内容は、15〜25歳男子に義務化し、初・中・上級を判定しました。
 10月18日、価格等統制令・地代家賃統制令・賃金臨時措置令・会社職員給与臨時措置令を公布して、9月18日の価格に釘付けすることを決定しました。これを9・18ストップ令といいます。
 11月4日、野村吉三郎外相は駐日米大使のグルー日米国交調整につき会談を開始しました。
 11月6日、農林省は米穀配給統制応急措置令を公布し、米穀の強制買上制を実施しました。その背景には、労働力や生産資材の不足により、食糧生産が低下し、食糧難が深刻化していたことがあります。
 11月11日、兵役法施行令を改正し、徴兵合格に第3乙種を設定しました。
 11月30日、野村外相は駐日仏大使のアンリに、仏印経由の中国援助の停止を申し入れました。
 12月6日、小作料統制令が勅令により公布され、9月18日の価格に釘付けされました。
 12月20日、陸軍は、地上65個師団・航空160個中隊を整備するという4ヵ年計画を策定しました。
 12月25日、木炭は、配給統制を実施しました。
 12月26日、朝鮮総督府は、朝鮮人の氏名に関する件を公布し、創氏改名を強制しました。
 12月29日、土地工作物管理使用収用令工場事業物使用収用令を公布し、個人の土地や工場を軍事目的で自由に収用できるようになりました。
 1940(昭和15)年1月16日、@37米内光政内閣(海軍大将)が誕生しました。
 2月1日、青少年雇入制限令が勅令により出されました。その結果、青少年を戦争遂行のための重要産業に労働力として編入する目的で、一般青少年(12〜30歳の男子、12〜20歳の女子)の不急産業への雇用を規制しました。
 2月2日、民政党の斉藤隆夫は、衆議院で戦争政策を批判しました。
 2月10日、逓信省は、電力調整令を発動し、制限率を関東30%・関西35%と決定しました。
 3月7日、衆議院は、斉藤隆夫の除名を可決しました。
 3月7日、アメリカは、蒋介石の重慶政府と錫借款(2000万ドル)協定を締結しました。
 3月9日、社会大衆党は、斉藤隆夫の除名に反対した片山哲らを除名しました。
 3月9日、衆議院は、聖戦貫徹決議案を可決しました。
 3月28日、内務省は、ミス=ワカナディック=ミネ藤原釜足ら16人に改名を指示しました。
 3月30日、汪兆銘は、国民政府の南京遷都を宣言しました。これを南京政府といいます。
10  4月24日、陸軍志願兵令が公布されました。
 4月24日、価格形成中央委員会は、米・みそ・醤油・塩・マッチ・木炭・砂糖など10品目に切符制採用を決定しました。
 5月1日、ナチスの優生断種法を見本に、国民優生法を公布しました。その結果、遺伝性疾患をもつ人に限って、優生学的理由による不妊手術を行うことを認めました。しかし、本人の同意なしに不妊手術ができる条文があったものの実施されなかったそうです。
 5月17日、米内内閣は、内閣に新聞雑誌用紙統制委員会の設置を閣議で決定しました。新聞雑誌への行政上の統制が強化されました。
 6月14日、ドイツ軍は、パリに無血入城しました。
 6月24日、近衛文麿は、枢密院議長を辞任し、新体制運動推進の決意を表明しました。
11  7月6日、社会大衆党が解党しました。
 7月6日、商工省・農林省は奢侈品等製造販売制限規則を公布し、これが七・七禁令です。
 7月22日、@38第2次近衛文麿内閣が誕生しました。
 7月26日、近衛内閣は、閣議で、「基本国策要綱」を決定しました。その内容は、(1)大東亜新秩序の建設(2)国防国家の建設などでした。
 7月26日、アメリカ大統領のルーズベルトは、石油・くず鉄を輸出許可制としました。
 7月27日、大本営政府連絡会議は、武力行使を含む南進政策を決議しました。
 7月31日、ルーズベルトアメリカ大統領は西半球以外への航空用ガソリンの輸出を禁止しました。
12  8月1日、国民精神総動員本部は、東京市内に「贅沢品は敵だ!」の立看板1500本を配置しました。そして、このスロ−ガンの下に生活の切りつめを強要し、国民服もんぺを奨励しました。
 8月8日、農林省は、小麦粉等配給統制規則を公布しました。
 8月8日、解党した諸会派は、新体制促進同志会を結成しました。これは、ナチスやファシスタの国民組織を模倣し、全国民を戦争協力の総力戦体制に導く制度でした。
 8月15日、民政党が解党しました。
 8月30日、文部省は学生生徒の映画・演劇観覧を土曜・休日に限る旨を学校長に厳達しました。
 9月11日、内務省は、部落会・町内会・隣保班・市町村常会整備要綱を府県に通達しました。
 9月13日、講談落語協会は、艶笑物・博徒物・毒婦物・白浪物の口演を禁止しました。
 9月19日、御前会議は、日独伊三国同盟締結を決定しました。
 9月23日、日本軍は、北部仏印に進駐しました。
 9月27日、ベルリンで、日独伊三国同盟が調印されました。
13  10月1日、人口調査をしました。その結果、内地は7311万人、外地は3211万人でした。
 10月4日、商工省は、砂糖・マッチ配給統制規則を公布し、切符制を実施しました。
 10月12日、大政翼賛会が発会式を行い、総裁に近衛文麿首相を選出しました。
 10月30日、東京のダンスホールが閉鎖されました。
 10月31日、英語使用について、たばこのバットを金鵄に、チェリーを桜に改名しました。
 11月2日、大日本帝国国民服令が勅令により公布されました。
 11月3日、厚生省は、10人以上の子を持つ親1万336人を優良多子家庭として表彰しました。
 11月10日、紀元2600年祝賀行事が行われました。
 11月23日、大日本産業報国会が創立されました。
 11月30日、御前会議は、日華基本条約案を決定し、汪兆銘の南京政府と調印しました。
 12月10日、イギリスは、蒋介石の重慶政府に1000万ポンドの借款を供与しました。
14  印は、蒋介石を支援する外国との関係を表示しています。
 日露戦争との違いが鮮明です。
 印は、総力戦体制に関係がある項目です。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
総力戦体制と日常生活、国民優生法
 私は、納得すれば、いやなことでも取り組みますが、強制的に人から命令されたり、拘束されたりするのはいやです。それは、私だけではないかもしれませんね。
 私は、剣道をしていたこともあって、いつも短髪です。男子高校生の長髪は、不潔で、毎日洗髪することを無駄だと説得して、短く刈らしています。しかし、強制的に、一方的に「学生の長髪禁止」には反発を感じます。
 私は、退職直前まで、体育クラブを指導していたこともあって、ジャージーを着ることが多いです。通夜でも、仕事着で参列します。しかし、進路指導部にいると、湿気の強く暑いにも関わらず、大学や企業の訪問者はスーツにネクタイ姿です。私も礼を失しないように、スーツとネクタイ姿で応対します。でも、上司から、「ネクタイしなさい」と言われると、絶対従いません。国民服を強制されたら、一体私はどう対応したでしょうね。
 有り余る商品に恵まれている現在、米や醤油・砂糖が切符制になったらどうなるでしょう。
 オール電化の冬に、停電になったことを想像できますか。
 「贅沢品は敵だ!」とワンフレーズを押し付けられたら、どうでしょうか。
 1940(昭和15)年7月7日の朝日新聞によると、『七・七禁令』を次のように紹介しています。
(1)「贅沢品さやうなら、あすから閉じる”虚栄の門”贅沢品よ左様ならー七月七日支那事変勃発三周年の日を期して、商工・農林両省で総動員法に基く『不急不用品、奢侈贅沢品、規格外品の製造加工並に販売禁止』が全国に行はれることとなった」。
(2)「この省令の目的は戦時下の資財労力を真に戦時国民生活に必要な物資の増産、供給の確保に転換させ、購買力を抑制して余剰購買力を貯蓄強化、公債消化に転じ、公定価格品の規格と価格の維持を図る等であるが、之によって戦時国民生活の刷新が強力に企図されてゐる」。
(3)「虚飾を棄てて今こそ新しき時代の簡素にして健康なる美の創造へーだが同時に業者への犠牲も決して少くはない」。
(4)「値段に拘らす製造、販売を禁止するもの(戦時生活になくともいいもの)ー銀座あたりの女性の服装には痛棒だが指環、腕環、首飾、耳飾、ネクタイからダイヤ、ルビー、サファイア、翡翠、エメラルド、瑪瑙等の貴石は一切御法度、銀製品も象牙製品も駄目」。
(5)「一定値以上の値段による販売を禁止するもの(生活上必要なものでも一定値段以上中古物を含めて販売禁止)ー注文の背広は冬物・合物百三十円、夏物百円、既成品になると八十円、六十円となってゐる。婦人服は注文品百円、既成品は六十円。毛皮襟巻は二百五十円、一匹千円の銀狐もスッ飛んで了ったわけ。童心の世界にも及んで玩具は十円まで、百匁二円を越すメロン、苺も食膳から追放となって中流の健全な家庭生活線への急降下を描いてゐる」。
(6)「既に所有してゐる物品の使用までも禁止してはゐない。これ見よがしに贅沢品を使用する輩が無いとも限らないので、この点へ精動の一斉射撃が行はれる。贅沢品全廃運動委員会を設けることとした」
 上記史料を分かりやすく解説すると、次のようになります。
(1)支那事変勃発以来3年を記念して不急不要な品や贅沢品の製造や販売を禁止することになった。
(2)その目的は、戦時下の資材労力を節約して、耐乏生活(戦時国民生活)に仕向ける。
(3)虚飾を捨て健康なる美を創造する。
(4)耐乏生活に不必要な指輪・ネクタイなどは製造・販売を禁止する。
(5)耐乏生活に必要でも高価な背広・婦人服・メロン・イチゴなどは販売を禁止する。
(6)新規購入は禁止だが、既に購入している贅沢品を自慢する者を摘発するために委員会を設置する
 国民をここまで信頼せずして、戦争は継続できるのでしょうか。すでに、精神的に崩壊していますネ。
 1961年に制作された『ニュールンベルグ裁判』は、何度も見ました。主演のスペンサー・トレイシーの渋い演技が印象に残りました。
 裁判の中で、モンゴメリー・クリフトが演ずるルドルフ・ペーターゼンは、「精神障害の家系と認定されて去勢(断種)手術を受けた」と証言する場面がありました。
 そこで、ヒトラーが支配するドイツに去勢(断種)を可能にする法律があるのかを調べてみました。
 1933年、ヒトラーは優生断種法を制定して、遺伝疾患をもつ子孫を避けるために、去勢(断種)を可能としました。遺伝的障害をもつすべての国民が対象とされ、その中には、精神薄弱者・精神分裂病患者・薬物やアルコールの強度依存者・身体障害者が含まれていました。
 1936年までには、断種された人数は22万5000人に達したといいます。
 1936年、ヒムラーは、優生策として「生命の泉」という制度をつくりました。これは、生物学的に健全な夫婦には、政府から貸与金を与えて、多くの子供を産ませるという制度です。また選ばれた女子には親衛隊員の子供を産ませ、国家の手で育てるという計画もありました。
 1940年までには、40万人が不妊手術を受けさせられたといいます。
 1940年、障害者の安楽死作戦が実行されました。
 1941年までには、7万人の障害者がガス室などで、安楽死させられたといいます。
 実は、日本でも、ヒトラーの優生断種法を見本として、1940(昭和15)年に、国民優生法が公布されました。その内容は、次の通りです。
「国民優生法
第一条 本法ハ悪質ナル遺伝性疾患ノ素質ヲ有スル者ノ増加ヲ防遏スルト共ニ健全ナル素質ヲ有ス ル者ノ増加ヲ図リ以テ国民素質ノ向上ヲ期スルコトヲ目的トス
第二条 本法ニ於テ優生手術ト称スルハ生殖ヲ不能ナラシムル手術又ハ処置ニシテ命令ヲ以テ定ムル モノヲ謂フ
第三条 左ノ各号ノ一ニ該当スル疾患ニ罹レル者ハ其ノ子又ハ孫医学的経験上同一ノ疾患ニ罹ル虞特ニ著シキトキハ本法ニ依リ優生手術ヲ受クルコトヲ得但シ其ノ者特ニ優秀ナル素質ヲ併セ有スト認メラルルトキハ此ノ限ニ在ラズ
 一 遺伝性精神病
 二 遺伝性精神薄弱
 三 強度且悪質ナル遺伝性病的性格
 四 強度且悪質ナル遺伝性身体疾患
 五 強度ナル遺伝性畸形
2 四親等以内ノ血族中ニ前項各号ノ一ニ該当スル疾患ニ罹レル者ヲ各自有シ又ハ有シタル者ハ相互ニ婚姻シタル場合(届出ヲ為サザルモ事実上婚姻関係ト同様ノ事情ニ在ル場合ヲ含ム)ニ於テ将来出生スベキ子医学的経験上同一ノ疾患ニ罹ル虞特ニ著シキトキ亦前項ニ同ジ」
「国民優生法施行規則
第一条 優生手術ノ術式ハ左ニ掲グルモノトス
 一 精管切除結紮法(精管ヲ約二糎以上切除シ各断端ヲ結紮ス)
 二 精管切離変泣法(精管ヲ切離シ其ノ断端ヲ結紮シテ変位固定ス)
 三 卵管圧挫結紮法(卵管ヲ凡ソ中央部ニ於テ係蹄トナシ其ノ両脚ヲ圧挫鉗子ヲ以テ圧挫シ其ノ部ニ結紮ヲ施ス)
 四 卵管間質部楔状切除法(卵管峡ヲ結紮切断シタル後子宮角ニ楔状切開ヲ施シテ間質部ヲ除去シ原則トシテ残存ノ卵管断端ヲ広靭帯内ニ埋没ス)
 五 卵管全剔除法(予宮角ニ近接スル部位ニ於テ卵管ヲ結紮シ其ノ外方ヲ全剔除シ残存ノ卵管断端ヲ原則トシテ腹膜ニテ被覆ス)」
(1)優生法の目的を「悪質ナル遺伝性疾患ノ素質ヲ有スル者ノ増加ヲ防」ぐとともに「健全ナル素質ヲ有ス ル者ノ増加ヲ図」るとしています。
(2)増加を防ぐ対象者は、生殖を不能とする手術をするとあります。
(3)優生法の施行規則には、断種・不妊手術の方法が事細かに記されています。
 このような方法があったことすら、知りませんでした。ネット時代は、知る権利の時代でもあります。

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