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エピソード

254_02

総力戦体制V(国民学校令、衣料の切符制、梵鐘の供出)
 日本軍は、真珠湾を奇襲攻撃しました。大成功の報道に、国民は提灯行列をして、「戦争の終了」を祝ったということです。
 しかし、現実は、増税に次ぐ増税と、物的な統制は当然として、肉体的・精神的な統制がますます強化されました。ここでは、1941年から1942年までを扱います。
 1940(昭和15)年7月22日、@38第2次近衛文麿内閣が誕生しました。
 1941(昭和16)年1月8日、陸相の東条英機は、戦陣訓を示達しました。
 1月11日、勅令により新聞紙等掲載制限令を公布しました。
 2月3日、大本営連絡会議は、対独伊ソ交渉案要綱を決定し、日ソ国交の調整に入りました。
 2月26日、情報局は、各総合雑誌に出筆禁止者の名簿を内示しました。名指しされたのは、矢内原忠雄馬場恒吾清沢列田中耕太郎横田喜三郎水野広徳らでした。
 3月1日、国民学校令が勅令により公布されました。小学校を国民学校と改称し、教科を国民科・理数科・体練科・芸能科に統合しました。
 3月10日、改正治安維持法を公布し、予防拘禁制を追加しました。
 3月26日、台湾教育令が勅令により公布され、小学校・公学校を廃止して、国民学校に一本化されました。
 3月31日、朝鮮総督府は、国民学校規定を公布し、朝鮮語の学習を廃止しました。 
 4月1日、6大都市で、米穀配給通帳制外食券制を実施しました。1日2合3勺が割り当てられました。
 4月4日、近衛内閣は、閣議で、文部省の管轄下に植民地・占領地への教員の大量派遣を決定しました。
 4月上旬、中等学校の新入生の征服が制定され、男子は国民服(乙号)に戦闘帽、女子はセーラー服を廃し、襟を右前・ヘチマ型となりました。
 4月13日、モスクワで、日ソ中立条約を調印しました。
 5月8日、初の肉なし日が制定されました。以後毎月2回が肉なし日となりました。
 5月中旬、東京で、たばこ1人1個売りが厳守されました。
 6月25日、大本営連絡会議は、南方施策促進に関する件を決定しました。これを南部仏印進駐といいます。
 7月1日、全国の隣組は、いっせいに常会を開きました。放送番組「常会の時間」を通じて、内務省が指導しました。
 7月2日、御前会議は、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を決定しました。これを大東亜共栄圏の建設といいます。
 7月18日、松岡洋右外相の後任に豊田貞次郎を任命して、@39第3次近衛文麿内閣が誕生しました。陸相は東条英機、海相は及川古志郎、企画院総裁は鈴木貞一らが就任しました。
 7月23日、日・仏印間に南部仏印進駐細目の話し合いが成立しました。
 7月25日、アメリカは、在米日本資産を凍結しました。
 7月27日、蘭印も在蘭印日本資産を凍結しました。
 7月28日、日本軍は、南部仏印に進駐しました。
 7月28日、蘭印は、日蘭石油民間協定を停止しました。
 8月1日、アメリカは、日本に対する石油輸出を全て停止しました。
 9月6日、御前会議は、「帝国国策遂行要領」を決定し、10月下旬を目途として対米・蘭戦争準備を完成することを決めました。
 9月12日、産業報国会は、勤労秩序確立・勤労総動員・生産力増強のスローガンを掲げ、働け運動を展開しました。
 9月、満州に70万の兵力を集中して、関東軍特別演習(関特演)を行いました。
 10月1日、乗用自動車のガソリン使用が、全面的に禁止となりました。
 10月4日、臨時郵便物取締令が勅令で公布され、外国郵便物の開封検閲が可能になりました。
 10月18日、@40東条英機内閣が誕生しました。外相に東郷茂徳、内相に東条英機が兼務、蔵相に賀屋興宣、陸相に東条英機が兼務、海相に嶋田繁太郎、商工相に岸信介らが就任しました。
 11月5日、御前会議は、対米交渉の甲案乙案と「帝国国策遂行要領」を決定し、12月初旬武力発動を決意しました。来栖三郎大使をアメリカに派遣しました。
 11月15日、兵役法施行令改正が公布され、丙種合格も召集することになりました。
 11月22日、国民勤労報国協力令が勅令により出されました。その結果、男子14〜40歳、未婚女子14〜25歳に勤労奉仕を義務化し、学校単位で勤労報国隊が結成され、軍需工場への動員が可能となりました。
 11月26日、ハワイ作戦機動部隊は、南千島のヒトカップワンを出港しました。
 11月26日、ハル国務長官は、強硬な新提案を提議しました。これをハル=ノートといいます。
 11月27日、大本営連絡会議は、ハル=ノートを日本に対する最後通牒と結論付けました。
 12月8日3時、日本の機動部隊はハワイの真珠湾を空襲し、アメリカ戦艦の主力を撃破しました。
 12月8日4時、野村・来栖大使は、ハル国務長官に最後通牒を手交しました。
 12月8日、労務調整令が勅令により出されました。その結果、労働者の移動および雇用等を全般的に調整して、有効適切な動員により必要な軍需生産に割り当てようとするものです。
 12月10日、マレー沖海戦で、日本海軍は、イギリスの戦艦2隻を撃沈しました。
 12月10日、日本軍は、グアム島を占領しました。
 12月10日、日本軍は、フィリピン北部に上陸しました。
 12月12日、東条内閣は、戦争の呼称を、支那事変を含めて大東亜戦争とすることに決定しました。
 12月16日、物資統制令が勅令により公布されました。
 12月19日、言論出版集会結社等臨時取締法が公布されました。
 12月25日、NHKは全国を軍管区に従い5群に分け、各群毎に同一周波数放送を実施しました。
 1942(昭和17)年1月1日、塩の通帳制配給が実施されました。
 1月2日、日本軍は、マニラを占領しました。
 1月2日、東条内閣は、閣議で、興亜奉公日を廃止して、毎月8日を大詔奉戴日とすることを決定しました。
 1月24日、文部省に国民練成所を勅令により設置し、中等学校の教員に学寮制で練成を行いました。
 2月1日、味噌醤油切符制配給が実施されました。
 2月1日、衣料に点数切符制が実施されました。その結果、1人1年に都市部は100点、郡部は80点を持点として、背広50点、袷48点、ワイシャツ12点、手拭3点と衣料が点数化されました。
 2月15日、シンガポールのイギリス軍が降伏しました。
 2月23日、翼賛政治体制協議会が成立し、会長に阿部信行が就任しました。
 2月23日、所得税法・法人税法などを改正し、大幅増税が決定しました。
 2月、時局非協力で、町内会より除名され、配給切符等差し押さえられた町民が町長・隣組長を告訴し、大問題に発展しました。
 3月6日、海軍省は、特殊潜航艇で真珠湾に進攻して、戦死した9軍神を発表しました。
 3月7日、大本営・政府連絡会議は、「今後執るべき戦争指導の大綱」を決定し、侵攻作戦一段落後の方針を決定しました。
 3月10日、東条内閣は閣議で、中小商工業者の整理統合および職業転換促進を決定しました。
 3月、陸海軍は、戦争記録画製作のため藤田嗣冶小磯良平安田靫彦川端竜子らを南方各地に派遣することを決定しました。
 3月、日本ポリドールは大東亜コロンビアは日蓄工業キングは富士音盤ビクターは日本音響と改称させられました。
 4月1日、配電統制令に基づく9配電会社(北海道・東北・関東・中部・北陸・関西・中国・四国・九州)が開業しました。
 4月18日、航空母艦発進のアメリカ陸軍機16機は、東京・名古屋・神戸などを初空襲し、華中の基地に着陸しました。
 4月30日、@21総選挙が行われました。これを翼賛選挙といいます。立候補1079人のうち、翼賛政治体制協議会推薦の当選者は381人、非推薦当選者は85人でした。
 4月、翼賛選挙演説会が不入りのため、隣組を通じて棄権者を調査してその名前を配布しました。
10  5月1日、日本軍は、ビルマのマンダレーを占領し、南方侵攻作戦は一段落しました。
 5月7日、珊瑚海海戦が行われ、日・米機動部隊の初の航空戦となりました。その結果、日米双方は空母1隻を損失しました。日本のポートモレスビー攻略作戦は一時延期となりました。
 5月9日、金属回収令により寺院の仏具・梵鐘などが強制供出を命じられました。
 5月15日、東条内閣は、閣議で、大政翼賛会改組を決定し、各種国民運動を傘下に入れ、町内会・部落会などの指導を強化しました。
 5月20日、水産統制令が勅令により公布されました。
 5月20日、翼賛議員連盟は解散し、翼賛政治会が結成され、会長に阿部信行が就任しました。
 5月21日、津田左右吉事件公判第1審判決があり、津田左右吉は禁固3ヶ月、出版元の岩波茂雄は禁固2ヶ月、いずれも執行猶予2年でした。
 5月22日、陸軍省は、空の軍神加藤建夫隼戦闘隊長の戦死を発表しました。
 5月23日、全国金融統制会が設立され、会長に結城豊太郎日銀総裁が就任しました。
 5月26日、文芸家協会を解散し、日本文学報国会を創立し、会長に徳富蘇峰が就任しました。
11  6月5日、ミッドウェー海戦で、日本軍は空母4隻を失い、戦局の転機となりました。
 7月8日、文部省は、高等女学校の英語を随意科目とし、週3時間以内とすると通牒しました。
 7月12日、朝日新聞社は、全国中等学校野球大会中止を発表し、その経緯に付き当局を非難しました。
 8月4日、東条内閣は、閣議で、重要産業指定規則改正を公布し、重要産業団体令を適用すべき産業として10事業を追加してしました。
 8月7日、アメリカの海兵1個師団は、ソロモン群島のツラギおよびガダルカナル島に上陸しました。
 8月31日、播磨造船所の徴用工7210人中、1517人が欠勤して、問題化しました。
 8月、情報局は、細川嘉六の『世界史の動向と日本』(改造9月号)を共産主義の宣伝であると指摘し、発禁処分となりました。その後、細川嘉六も検挙されました。
12  9月1日、東条内閣は、閣議で、大東亜省の設置を決定しましたが、外相の東郷茂徳はこれに反対して辞職しました。後任に谷正之が就任しました。
 9月15日、警視庁は、不良少年の一斉検挙を開始し、2万2000人を取り調べ、1857人を送致しました。
 9月16日、日本に滞留の宣教使を抑留所に強制収用しました。
 9月、軽金属・羊毛・皮革・麻・綿・スフ・油脂・化学工業・ゴムの各統制会が設立されました。
 10月1日、朝鮮総督府は、朝鮮青年特別練成令を制定しました。
 11月1日、大東亜省官制が勅令により公布されました。
 11月17日、東条内閣は閣議で各省庁の権限を大幅に各統制会に委譲することを決定しました。
 12月3日、第一回大東亜戦争美術展が開かれ、藤田嗣冶の『十二月の真珠湾』・宮本三郎の『山下・パーシバル両司令官会見図』などが出品されました。
 12月5日、船舶徴用問題で参謀本部と陸軍省が衝突しました。
13  印は、総力戦体制に関係のある項目です。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
日清戦争から大東亜戦争の口実は?、その結果は?
 誰も戦争を欲していないはずだのに、残念ながら、戦争はいつも起きています。
 その場合、自分が仕掛けてとは言いません。必ず、口実を設けます。今回は、日清戦争から大東亜戦争の口実を調べ、その結果、国民の生活はどうなったのか調べてみました。
 1890(明治23)年12月、山県有朋は、「国家独立自衛の道二つあり。一に日く主権線を守禦し他人の侵害を容れず、二に日く利益線を防護す自己の形勝を失はず。何をか主権線と謂ふ、彊土是なり。何をか利益線と謂ふ、隣国接触の勢我が主権線の安危と緊しく相関係するの区域是なり。…我邦利益線の焦点は実に朝鮮に在り」と主張しています。つまり、主権線は日本のことであり、利益線はここでは朝鮮を指しています。
 日清戦争では、脱亜論が口実に使われました。
 日露戦争では、臥薪嘗胆が口実に使われました。
 日清戦争・日露戦争後は、日本の主権線は日本と朝鮮であり、利益線は満州に拡大しました。
 1931(昭和6)年1月、政友会の松岡洋右は、衆議院で、政府の日本外交を批判し、「満蒙問題は、私は是は我が国の存亡に係る問題である、我が国民の生命線であると考えておる。国防上にもまた経済的にもさように考えておるのであります」と発言しています。
 この段階では、利益線が生命線という表現に拡大しました。
 1938(昭和13)年11月、近衛首相は、中国との戦争の目的を日・満・華三国連帯による東亜新秩序建設にあることを声明しました。
 「今や、陛下の御稜威に依り、帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して、支那の要城を勘定したり。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまでは、帝国は断じて矛を収むることなし。帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に在す。
 この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。
帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。帝国は支那国民が能く我が真意を理解し、以て帝国の協力に応へむことを期待す」
 東亜新秩序建設とは、「日・満・支三国が相携へて、経済結合の実現である。蒋介石の国民政府もこれに協力してもらいたい」ということです。
 1943(昭和18)年11月、日本の影響下にあるアジア諸国の国政最高責任者は、東京で開かれた大東亜会議に出席しました。この席で、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜宣言が採択されました。
「抑々世界各國ガ各其ノ所ヲ得相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ
然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス
 大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス
一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス
一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス
一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス
一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ攝iス
一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス」
 大東亜共栄圏構想とは、「大東亜各国が提携して、大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の束縛より解放してその国の自存自衛を全うし、大東亜を建設して世界平和の確立に寄与する」ということです。
 最近、次のような大東亜戦争を正義の戦いとする文章に出会いました。
 「大東亜地城における資源は、ひとり鉄鉱、石炭等の鉱物資源ばかりでなく、農、林、畜、水産等の各種資源に亙つて極めて豊富であり、それらが欧米人の搾取から解放されて、大東亜諸国家、諸民族のために開発利用されるならば、大東亜地域は完全にして、かつ極めて強靱なる自給経済を営み得るのである。それが日本民族の民族世界観である。この儼然たる民族世界観に立つて、大東亜共栄圏確立のための戦を戦ふ。この意味において大東亜戦争は正義の戦である」。
 豊富な資源を欧米人の搾取から解放して、大東亜諸国家のために開発利用するならば、大東亜共栄圏といえるかも知れない。
 参加したアジア諸国の国政最高責任者にはどんな人がいるのでしょうか。
 日本からは内閣総理大臣の東条英機、中国からは南京国民政府の汪兆銘行政院長、満州国からは国務総理大臣の張景恵、フィリピンからは大統領のホセ・ラウレル、ビルマからは内閣総理大臣バー・モウでした。
 タイの総理大臣ピブーンソンクラームは、満州国・南京政府・フィリピン・ビルマと同列視されることを拒否し、タイ国王の孫であるワンワイタヤーコーンを代理で参加させました。
 インドからは、ガンジーやネルーは、中国侵略を非難して出席を拒否したので、自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボースが参加しました。
 インドネシアのスカルノは参加を希望しましたが、日本は、インドネシアを日本の領土としていたので、参加が認められませんでした。朝鮮・台湾も日本の領土として、参加を認めませんでした。
 つまり、大東亜諸国家のためでなく、日本にとっても共栄圏になっていることが分かります。
 大東亜宣言は、ルーズベルトとチャーチルが提唱した大西洋憲章のアジア版として、普遍的理想を高唱したという人もいます。しかし、アメリカやイギリスは、大西洋憲章を具現化するために、ダンバートン=オークス会議などを開き、国際連合など第二次世界大戦後の枠組みを構築していきました。
 他方、日本は、大東亜宣言の高邁な理想である「欧米人の搾取から解放されて、極めて強靱なる自給経済を営み得る」を具体化するために何をしたのでしょうか。空虚で美しい言葉に踊ってはいけません。
 以上見たような空虚で美しい口実に惑わされて、日本国民は、塗炭の苦しみを味わいました。同時に大東亜の人々をも苦しめることになりました。
 1941(昭和16)年3月10日、改正治安維持法を公布し、予防拘禁制を追加しました。
 4月1日、。1日2合3勺が割り当てられました。
 5月8日、初の肉なし日が制定されました。以後毎月2回が肉なし日となりました。
 5月中旬、東京で、たばこ1人1個売りが厳守されました。
 10月4日、臨時郵便物取締令が勅令で公布され、郵便物の開封検閲が可能になりました。
 11月22日、国民勤労報国協力令により、14歳からの男女の勤労奉仕を義務化しました。
 1942(昭和17)年1月24日、中等学校の教員に学寮制で練成を行いました。
 2月1日、味噌醤油切符制配給が実施されました。
 2月1日、衣料に点数切符制が実施されました。
 2月23日、所得税法・法人税法などを改正し、大幅増税が決定しました。
 2月、時局非協力で、町内会より除名され、配給切符等差し押さえられました。
 4月、翼賛選挙演説会が不入りのため、隣組を通じて棄権者を調査してその名前を配布しました。
 食べ物に関しては、ある程度我慢できますが、気に入らないからといって、隣組や町内会から非国民扱いされます。判定する人の恣意で、判別されるのですから、たまったものではありません。
 そんな筈ではなかった筈です。

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