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エピソード

254_04

総力戦体制X(空襲、強制連行、ひめゆり部隊)
 ここでは、1945年9月のミズーリ号上での降伏調印までを扱います。
 外交面では、2月にルーズベルト・チャーチル・スターリンが会談して、南樺太・千島列島をソ連に譲渡するという条件で、「ドイツ降伏の3ヵ月後にソ連が対日参戦に踏み切る」という内容が極秘に約束されていました。5月にドイツが降伏すると、日本の同盟国は日本だけのなりました。そこで、中立条約を結んでいたソ連に和平を仲介を依頼します。ソ連としては、ヤルタの秘密協定が実行される3ヶ月まで目前です。そんなことを知らない日本政府は、ソ連に一本化して、無意味な、おねだりを必死にします。
 ドイツの降伏直後、アメリカの大統領は、日本に無条件降伏を勧告しています。それw無視して、一億玉砕を唱えたため、沖縄の悲劇が誕生しました。
 ポツダム宣言を黙殺した結果、広島・長崎に原爆が投下され、ソ連の参戦を招きます。
 1944(昭和19)年7月22日、@41小磯国昭内閣が誕生しました。
 1945(昭和20)年1月9日、アメリカ軍は、ルソン島に上陸しました。
 2月4日、ルーズベルトチャーチルスターリンは、ヤルタ会談を開き、対独戦後処理を決定しました。秘密協定でソ連の対日参戦が決定しました。これをヤルタ協定といいます。
 2月16日、アメリカの機動部隊は、艦載機1200機をもって関東各地を攻撃しました。
 2月19日、アメリカ軍は、硫黄島に上陸しました。
 3月6日、国民勤労動員令が勅令により公布されました。その結果、国民徴用令・国民勤労協力令・女子挺身勤労令・労務調整令・学校卒業者使用制限令の5勅令を廃止・統合しました。女子挺身隊も国民義勇隊に再編成されました。
 3月9日、B29は、東京を大空襲しました。江東地区23万戸焼失し、死傷者は12万人に達しました。
 3月10日、空襲により、明治座・浅草国際劇場などが焼失しました。
 3月13日、空襲により、中座・角座・文楽座が焼失しました。
 3月14日、B29は、大阪を空襲し、13万戸が焼失しました。
 3月17日、硫黄島の日本守備隊2万3000人が全滅しました。
 3月18日、アメリカの機動部隊は、艦載機1200機をもって九州各地を攻撃しました。
 3月18日、小磯内閣は、閣議で、決戦教育措置要綱を決定しました。その内容は、国民学校初等科以外の授業を4月から1年間停止するというものです。
 3月28日、アメリカの機動部隊は、艦載機1200機をもって九州各地を攻撃しました。
 3月、連行朝鮮人労働者は、全国炭鉱労働者数の33%を占めました。1939年から1945年までの連行朝鮮人72万5000人、うち逃亡数は22万人でした。
 4月1日、アメリカ軍は、沖縄本島に上陸しました。
 4月5日、繆斌工作が失敗に終わり、小磯国昭内閣が総辞職しました。
 4月5日、ソ連外相のモロトフは、駐ソ大使の佐藤尚武に、日ソ中立条約不延長を通告しました。
 4月7日、@42鈴木貫太郎内閣が誕生しました。
 5月6日、ドイツ軍は、連合国に無条件降伏をしました。
 5月8日、トルーマン大統領は、日本に無条件降伏を勧告しました。
 5月9日、鈴木内閣は、ドイツの降伏にかかわらず日本の戦争遂行決意は不変と声明しました。
 5月24日、B29の空襲で、宮城が全焼したり、東京都区内の大半が焼失しました。
 5月25日、空襲で、歌舞伎座・新橋演舞場などが焼失し、映画館も合計513館炎上しました。
 6月6日、天皇臨席の最高戦争指導会議は、「本土決戦方針」を決定しました。
 6月13日、大政翼賛会および傘下諸団体は解散し、国民義勇戦闘隊を結成しました。
 6月18日、沖縄島南端の前線で負傷兵看護に従事の師範女子部・第一高女の生徒49人が集団戦死しました。これをひめゆり部隊といいます。
 6月22日、戦時緊急措置法を公布し、内閣に独裁権限を付与しました。
 6月23日、沖縄の日本守備軍9万人が戦死し、一般国民の死者は10万人に達しました。
 6月23日、師範女子部・第一高女の生徒多数が自害しました。これをひめゆり部隊といいます。
 6月23日、義勇兵役法を公布し、15〜60歳以下の男子・17〜40歳以下の女子を国民義勇戦闘隊に編成しました。
 6月30日、秋田県花岡鉱山で、強制労働中の連行中国人850人が蜂起し、収容所を脱走ました。そして、出動した軍隊と数日間戦闘し、中国人420人が虐殺されました。これが花岡鉱山事件です。
 戦時中に連行された中国人は3万8939人で、うち死亡が6872人と記録されています。
 6月下旬、マリアナ基地のB29・沖縄基地のB24・硫黄島のP51は、中小都市の焼夷弾攻撃・交通破壊攻撃を激化させました。
 7月10日、アメリカの機動部隊は、関東各地を空襲しました。
 7月11日、主食の配給が2合1勺となりました。
 7月17日、トルーマン・チャーチル・スターリンは、ポツダム会談を開きました。
 7月26日、トルーマン・チャーチル・スターリンは、対日ポツダム宣言を発表しました。
 7月28日、鈴木首相は、記者団に対しポツダム宣言黙殺・戦争邁進と談話しました。
 8月6日、B29は、広島に原子爆弾を投下しました。死者は20数万人といわれます。
 8月7日、豊川市の海軍工廠が爆撃され、女子挺身隊員・小学生ら2400人が即死しました。
 8月8日、ソ連は、日本に宣戦を布告し、北満州・朝鮮・樺太に進攻を開始しました。
 8月9日、B29は、長崎に原子爆弾を投下しました。
 8月10日2時30分、御前会議は、国体維持を条件にポツダム宣言受諾を決定しました。
 8月14日、御前会議は、ポツダム宣言受諾を決定しました。中立国のスウェーデン・スイスを通じて、連合国へ申し入れました。
 8月14日、昭和天皇は、戦争終結の詔書を録音しました。
 8月15日、日本は、無条件降伏・ポツダム宣言受諾を発表し、第2次世界大戦が終了しました。推定死者は1683人、負傷者は2670人に達しました。
 8月15日、陸軍の一部将校は終戦阻止の反乱をおこして、録音盤奪取を図ったが鎮圧されました。
 8月15日12時、終戦終結の詔書が放送されました。政府の発表によると、太平洋戦争の戦没者は陸海軍人155万5308人、一般国民29万9485人となります。実際の戦没者は合計で300万人と推定されます。
 8月15日、この日までに戦災による文化財の被害は、名古屋城・徳川家康廟など国宝293件、史蹟名勝天然記念物44件、重要美術品134件に上りました。
 8月15日、鈴木貫太郎内閣が総辞職しました。
 8月17日、@43東久邇宮稔彦内閣が誕生しました。外務は重光葵、陸相は東久邇宮が兼任、海相は米内光政、内務は山崎巌、大蔵は津島寿一、司法は岩田宙造、文部は松村謙三、農商は千石興太郎、軍需は中島知久平、運輸は小日山直登、大東亜は重光葵、厚生は松村謙三、国務は近衛文麿・緒方竹虎が就任しました。
 8月17日、昭和天皇は、陸海軍人に「国家永年の礎を遺さむことを期せよ」と勅語しました。
 8月18日、松村謙三文部の後任に前田多門が就任しました。
 8月18日、内務省は、地方長官に占領軍向け性的慰安施設設置を指令しました。
 8月19日、近衛文麿・緒方竹虎国務の後任に小畑敏四郎が就任しました。
 8月22日、樺太からの引揚船3隻が国籍不明の潜水艦により撃沈し、1708人が死亡しました。
 8月22日、右翼の尊攘同志会12人が愛宕山で集団自爆しました。その後、右翼関係者の自害が続きました。
 8月23日、東久邇宮陸相の後任に下村定が就任しました。
 8月24日、松江の降伏反対の皇国義勇軍48人が県庁・新聞社・放送局などを襲撃しました。
 8月24日、埼玉県朝霞に野営中の陸軍将校ら67人が放送所などを占拠しました。
 8月26日、大東亜省・軍需省が廃止され、農商省が農林省、軍需省が商工省と改称されました。
 8月26日、農商相の千石興太郎が農林相の千石興太郎、軍需相の中島知久平が商工相の中島知久平となりました。重光葵は大東亜相を辞任しました。後任はいません。
 8月28日、連合軍先遣隊が厚木飛行場に到着しました。
 8月28日、東久邇宮内閣は、閣議で、言論出版集会結社等臨時取締法の廃止および治安警察法の精神にのっとる取締方針を決定しました。
 8月28日、東久邇宮首相は、初の記者会見で、国体護持全国民総懺悔を強調しました。
 8月28日、連合国総司令部GHQ)が横浜に設置されました。
 8月30日、連合軍最高司令官SCAPマッカーサーが厚木飛行場に到着しました。
 8月下旬、米軍進駐をひかえ、横浜方面の人心が動揺し、婦女子の疎開したり、女学校では休校が指示されました。
10  9月1日、東京劇場・大阪歌舞伎座・京都南座などが開場しました。
 9月2日、日本全権の重光葵・梅津美治郎は、米艦ミズーリ号上で降伏文書に調印しました。
 9月6日、藤原義江らの明朗音楽会が日比谷公会堂で開かれました。
 9月8日、米軍がジープで進駐を開始しました。
 9月9日、NHKは、歌謡曲と軽音楽を戦後初放送しました。
 9月10日、GHQは、言論及び新聞の自由に関する覚書を発表し、進駐軍・連合国に関する報道制限など、検閲を開始しました。
 9月11日、隣組の回覧板では、「婦人は進駐軍には笑顔を見せる」などの警告が出回りました。
 9月15日、GHQの本部が東京日比谷の第一生命相互ビルに設置されました。
 9月15日、日米会話手帳』(誠文堂新光社)が360万部の大ベストセラーになりました。
 9月15日、文部省は、「新日本建設の教育方針」を発表し、国体護持・平和国家建設・科学的思考力の養成を強調しました。
 9月17日、重光葵外相の後任に吉田茂が就任しました。
 9月20日、文部省は、中等学校以下の教科書より戦時教材を省略削除するよう通牒しました。
 9月27日、GHQは、映画に対する従来の一切の統制を撤廃すると発表しました。
11  印は総力戦関係の内容です。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
繆斌工作と永田メール、戦前の教育の成果?、希望を与えたのは誰?
 永田寿康氏のメール騒動を新聞で読んでいると、小磯国昭首相の繆斌工作を思い出しました。
 永田議員は、1969年生まれですから、2006年の今は37歳で、衆議院3回当選の中堅議員ということになります。東大工学部から大蔵省に入り、カリフォルニア大学ロサンゼルス校でMBA資格を入手するという異色の政治家です。
 2000年11月には、松浪健四郎氏から国会壇上で水をかけられた原因が永田氏らしい。
 2005年7月には、永田氏は、「公明党の支持団体の住民票が東京都に移されている疑念がある」と発言しました。公明党の東順治国対委員長が「今回の都議選について、選挙時登録時の異議申し立てはあったか?」という質問に対して、総務省の久保選挙部長「異議の申し出は1件もなされていない」と答弁しました。創価学会は、永田氏を名誉棄損罪で刑事告訴しました。
 永田氏は、初当選以来受けた懲罰動議は4回という猛者(?)でもあります。
00年 公職選挙法改正案をめぐり、議院運営委員会の開会を妨害しようと暴力的な行為を行った
02年 衆院本会議で登壇した保守党の議員を侮辱するきたないヤジを飛ばした
04年 金改革法案の採決をめぐって参院議長が参院本会議場に入るのを阻止しようとした
05年 公明党の支持団体が東京都議選で住民票移動を行ったかのような事実無根の発言をした
 2006年2月16日、そんな前歴のある永田議員が、再び登場しました。永田氏は、衆議院で、証券取引法違反で起訴された堀江貴文被告が社内メールで、「武部勤自民党幹事長の次男に対し、コンサルタント費用として3000万円の振込みを指示した」と指摘し、声を大にして「これこそお金で魂を売っている証拠ではないか」と追求しました。民主党の前原誠司代表は、「メールの問題も含め様々な情報から資金提供が武部幹事長の次男を通じてなされたのじゃないかと確証をもっている」と永田氏を擁護しました。他方、小泉純一郎首相は、早々に「ガセネタで、個人を公の場で批判、非難、中傷した。国会議員の品性の問題だ。きわめて遺憾だ」とメールを偽物と決め付け、疑惑を否定しました。
 これが事実なら、大疑獄事件に発展する可能性がありました。
 3月24日、永田氏は、衆院懲罰委員会で、メールを持ち込んだ仲介者を西沢孝氏(32歳)と明かし、偽メールだったことを証言しました。
 新聞によると、永田氏が信頼した西沢孝氏は、フリーの記者として複数の週刊誌に記事や情報を提供していたが、誤りが多く、トラブルが絶えなかったので、大手出版社などは「出入り禁止」状態になっているといいます。西沢氏を知る関係者は、「面白いネタを持ち込んでくるが、その多くは『裏』が取れない。相手(巨人の清原和博選手ら)に訴えられて都合が悪くなると、連絡がとれなくなってしまう」と話している(神戸新聞2006年3月25日付け)。
 私のような素人でも、メールをコピーを見ると、偽物だとすぐに判断できます。堀江被告からメールを受信した場合、受信マーク(>)が付いています。これは本物でなく、加工していることが分かります。
 「本物を見せると、殺される」と言って、本物を見せなかったといいます。信頼した人に、国会で取り上げてもらおうという大事を、恐怖心で、それすら出来ないということ事態おかしい。
 そのことを見抜けなかった永田氏、永田氏を信頼する前原代表、何を考えているのでしょうか。
 1946年、繆斌は、裁判にかけられ、死刑を宣告され、処刑されました。
 2006年、永田寿康議員は議員を辞職し、民主党の前原誠司代表は代表を辞任しました。
 根拠を示さず、戦前の教育勅語は良かっただの、大東亜戦争は正義の戦いであっただのいう人が最近増えてきました。
 ここでは、戦前の教育の成果を述べたいと思います。
(1)陸軍の一部将校は終戦阻止の反乱をおこし、終戦の詔勅の録音盤を奪取しようとしました。
(2)松江の降伏反対の皇国義勇軍48人が県庁・新聞社・放送局などを襲撃しました。
(3)米軍進駐をひかえ、婦女子が疎開したり、女学校では休校が指示されました。
(1)(2)は、原爆が投下されても、神国日本の不敗神話を信じている人々がいました。
(3)は、鬼畜米英と教えられた日本人の狼狽する様が浮かんできます。
 敗戦日本に勇気を与えてくれたのは、次のようなことです。
(1)9月1日、東京劇場・大阪歌舞伎座・京都南座などが開場しました。
(2)9月6日、藤原義江らの明朗音楽会が日比谷公会堂で開かれました。
(3)9月9日、NHKは、歌謡曲と軽音楽を戦後初放送しました。
(4)9月27日、GHQは、映画に対する従来の一切の統制を撤廃すると発表しました。
(1)(2)(3)は、終戦の詔勅の2〜3週間後に、庶民の楽しみ復活しました。庶民のエネルギーや逞しさを感じます。芸を愛する人々を誇りに思います。
 特に世界的なオペラ歌手であった藤原義江は、「大東亜戦争」中は、敵国のイギリス人を父としていた関係で、軍隊や警察にマークされていました。そこで、軍歌『討匪行』を作詞し、独唱しています(昭和17年12月)。
「一、どこまで続く泥濘ぞ 三日二夜を食もなく 雨降りしぶく鉄兜 雨降りしぶく鉄兜
五、さもあらばあれ日の本の 我はつわものかねてより 草生す屍悔ゆるなし 草生す屍悔ゆるなし
十五、亜細亜に国す吾日本 王師一度ゆくところ 満蒙の闇晴れ渡る 満蒙の闇晴れ渡る」
(4)鬼や畜生と教えられたアメリカ人が、統制に統制を重ねた映画に、自由の息吹を吹き込みました。

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