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エピソード

255_01

戦時体制化の文化(皇国史観、隣組、エロ・グロ・ナンセンス)
 戦時体制とは、総力戦を整えた時代の体制のことです。総力戦とは、軍事作戦による戦闘のみが戦争の勝敗を決める要因ではなく、経済力・工業力・労働力などの国力の全てを戦争に投入することをいいます。近代戦には不可欠の要素となりました。
 軍服を着た軍人同士の戦いだけではなく、軍需産業だけでなく、銃後の国民全てが戦争という目的に向かって一丸となる制度です。その結果、被害が膨大に膨らみ、戦略・戦術も高度に巧妙になりました。
 政治の世界では、クーデタによって軍部内閣が成立しました。
 経済的には、最初は新興財閥を保護することで、後にはバスに乗り遅れるなという心理で既存財閥が軍需産業になだれ込みました。その後は、国家総動員法によって、根こそぎ、産業を動員しました。
 最後の仕上げが、人的資源の動員です。最初は、共産主義・社会主義が弾圧されました。次は、自由主義が槍玉に挙げられました。美濃部達吉の天皇機関説・滝川事件に見るように、学問には素人の政治家によって、批判されました。
 法律的には、治安維持法により人間の心を処罰の対象とし、それを取り締まる特高警察が設置され、総力戦に批判的な者を徹底的に弾圧しました。
 学校教育では、軍事教練が実施され、軍人が教師や生徒を指導しました。
@地域では、隣組が組織され、昭和版五人組制度が横行しました。
 弾圧というムチを振るう一方で、国体明徴・国家主義・民族主知・皇国史観というアメも用意しました。
 歴史では、軍部の力を背景に、平泉澄氏を中心とする国粋主義的な皇国史観が流行しました。
 私の手元に、平泉澄氏が戦後20年経過した1970(昭和45)年に書いた『少年日本史』という本があります。平泉氏は、はしがきに「占領は足掛け8年にして解除せられた。然し歴史の学問は、占領下に大きく曲げられたままに、今日に至っている。従って皆さんが、此の少年日本史を読まれる時、それが一般に行われている書物と、大きく相違しているのに驚くであろう。世の中には、自分の欲の為に、事実を正しく視る事の出来ない人もあれば、世間の人々を恐れて、正しく事実を述べる勇気のない人も多い」
 本文の一部を紹介します。平泉澄氏は、第2次世界大戦をどう見ているのでしょうか。
(1)大束亜戦争は、大きな傷跡を後に残して終りました。之によって我が國が失った所は甚大であります。もともと満洲に於ける日本の権益が侵されたのを歎いて、日露戦争の戦果を守ろうとした所から出発したに拘らず、結局は、多くのものを失って了いました。殊に借しむべきは、有爲有能なる男子、二百藪十萬の戦死であります。
 *解説(日露戦争の戦果である満州の権益が侵されたことに対する自存自衛の戦争だったが、二百数十万人を戦死させてしまった→権益は、帝国主義の戦果でいずれ返すべき果実ですよ)
(2)然し不幸は、ひとり日本國に限らなかったのであります。ドイツは以前に支配していた土地を多く失った上に、本來のドイツが束西の二つに分れて、鋭く封立するという、非常にむつかしい状態に陥りました。イギリスは勝利を得ました、チヤーチル首相は、昂然として、「日本人の如きは、粉徹塵に打砕かれて、一世代の間、起上る事は出來ないであろう」と云いました。しかも其のイギリスは、是れまで「印度は大英帝國の心臓である」として、重く見て來た印度が独立してゆくのを、どうする事も出來なかったでしょう。一九四七年(昭和二十二年)印度とパキスタンと独立し、翌年ビルマとセイロンと独立し、独立の氣風は更にひろがって、マラヤに及び、アフリカ各地に及ぶでしょう。不沈と信ぜられたプリンス・オブ・ウェールスの撃沈、不落を誇ったシンガポールの階落が、是れほどまでに大きな影響を與えようとは、流石のチヤーチルも考え及ばなかったのでしょう。
 *解説(第二次大戦で不幸になったのは、日本だけではありません。ドイツは東西2つに分断されました。イギリスからは、インドやパキスタンやビルマなどが独立していき、大きな損失となりました→ドイツの不幸は、事実ですが、イギリスは独立したインドやパキスタンから、新植民地主義という新しい果実を得ていますよ)
(3)支那を見るに、中國は日本と和解し、手を取合って東亜の平和を維持しなければならぬとする汪兆衛に反封し、英米の援助によって日本を打倒しようとした蒋介石主席は、長い間重慶に在って苦戦した後、やがて勝利者として南京へ帰って來ました。しかもそこに在る事わずかに四年、やがて中共軍に取って代られたでしょう。
 *解説(中国は、日本と和解して東亜の平和を維持しようとする汪兆銘に反対し、英米の援助によって日本を打倒しようとした蒋介石は、苦戦して勝利して南京に帰ってきたが、中国共産党軍によって台湾に追放された→白人対非白人という図式でなく、ファシズム対資本主義という図式です。中国共産党が大陸の支配者になったのは、その時は、中国民衆が支持したからですよ)
(4)アメリカは、その日本と戦った直接の動機が、満洲や支那に日本の力の伸びるのを防ごうとする所に在ったに拘らず、戦争がすんで見れば、満洲も支那も、すべて共産党のものとなって了ったでしょう。それにくらべて最も良い収穫を得たものは、ソ連のように見えるでしょう。然し、そのソ連の指導者スターリンは、その陰険なる謀略が明かになって、ひろく世界の批判を受けたばかりで無くその國民によってまで憎まれて非常な恥辱を受けねばならなかったでしょう。
 *解説(アメリカの参戦は、日本の力が満州や支那に伸びるのを防ぐためだったが、戦後、満州も支那も中国共産党のものになった。得したのはソ連のように見えるが、スターリンの謀略が批判を受け、国民は世界から恥辱を受けている→何を言ってるのか、さっぱり分かりませんよ)
(5)して見れば此の大戦、どの國も眞の勝利を得たものは無く眞の幸福は、何処にも無かったと云って良いでしょう。
 *解説(第2次世界大戦は、勝利した国もなければ、幸福はどこにもなかった→何を言ってるのか、視点がずれていますよ)
(6)但し日本の志は、無にはなりませんでした。欧米諸國によるアジアの侵略を、最も早くより、又最も深く慨歎していた日本が、最後に日本自身その重圧を受けた時、敢然としてアジアの自由独立を取戻そうとして起上った大東亜戦争は、目本の大きな犠牲に於いて、アジアの独立を招來したでしょう。印度、パキスタン、ビルマ、インドネシア、マラヤの独立は、大東亜戦争なくして考えられない所です。しかも猶それに止まらず、やがてアフリカの植民地、陸続として独立し、今や独立國の数は、殆んど戦前に二倍するでしょう。
 *解説(欧米諸国から侵略という重圧を受けた日本が、アジアの自由・独立を取戻そうとして起上ったのが大東亜戦争だった。日本の大きな犠牲によってアジアの独立を招来したのです→アジアの自由・独立を取り戻そうとしたのでなく、大東亜共栄圏という美名のもとで、資源を獲得するのが目的だった。だから戦後、日本の植民地支配から自由・独立の気運が盛り上がったのですよ)
(7)もっと重要な事は、國民精稗の高揚に在ったでしょう。いよいよ開戦となって後、此の國難に封処した全國民の、忠勇義烈の精神は、曾て日清・日露の戦役に発揮せられたものに、少しも劣らぬ事を実証しました。もともと穏かで、むしろやさしいのが、日本人の性質です。それが、かように勇敢に戦うのは、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇蓮ヲ扶翼」したいと念願するが爲であります。
 *解説(開戦後、日本の忠勇義烈の精神は、日清・日露戦争の時と少しも劣らぬことを実証した。普段お温和な日本人が勇敢に戦うのは、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ…」を念願するからだ→平泉氏の本音がついに出ましたね。忠勇義烈の精神という美しくも空虚な言葉を使っていますが、国家総動員法によって日本人の精神を総力戦体制に洗脳した張本人の面目躍如たる部分です)
(8)ビルマ独立の志士に、オッタマという僧侶があって、昭和四年に日本を訪れた時「日本は滅びる」と豫言し、「何故か」との問に対して、「明治四十三年に初めて來た時には、日本の人情もこまやかであり、皇室に封する尊敬の念も、世界に見られない美しさがあったのに、今はそれがすっかりこわれてしまった」と答えたという事です。然るに大正より昭和の初めにかけて、自由主義、共産主義の流行の爲に、殆んど消えたかと想われた日本の道義が、その間にも根強く残り、いよいよ国難に遭遇しては、一度に爆発して来たのでした。
 *解説(ビルマの志士が「明治43年にあった物が昭和4年にはなかった」という。。それは、自由主義・共産主義の流行で消えていたからだ。失われたいた道義が、国難に遭遇して蘇った→自由主義・共産主義を白人の思想で悪だと決め付け、忠勇義烈の精神という皇国史観を善だと決め付ける)
 「はしがき」をもう一度見ると、「世の中には、自分の欲の為に、事実を正しく視る事の出来ない人もあれば、世間の人々を恐れて、正しく事実を述べる勇気のない人も多い」とあります。私は、全文読み終えて、この「はしがき」は、戦前の自分がやってきたことを謙虚に反省して、平泉氏のことを皮肉っぽく書いているだと思ってしまいました。
 次に、隣組の話です。
 私の手元に、中沢啓治氏の『はだしのゲン』という本があります。これは中沢氏の体験を元に書かれた漫画です。隣組・町内会がよく表現されています。
 舞台は広島です。町内会長が「本土決戦にそなえてにっくき鬼畜米英をやっつけるために竹ヤリ訓練をおこなう」と召集をかけます。これに参加しなかったものは、誰でも非国民とされます。ゲンの父親は「機関銃のアメリカ兵に竹ヤリでは勝てない」と参加しません。そして、危険思想の持ち主として警察に通報され、逮捕されます。そこで、非国民というレッテルを張られ、子供は「非国民の子」としていじめられます。母は「非国民と妻」として、店からは何も売ってもらえません。姉は物がなくなると「非国民の子」として真っ先に疑われます。兄は非国民のレッテルを取り除くために、志願兵となって戦地に赴きます。
 次は、隣組の歌です。子供たちが可愛く歌っています。(作詞者は画家岡本太郎氏の父岡本一平氏)
「とんとんとんからりと隣組 格子を開ければ 顔なじみ 廻して頂戴 回覧版 知らせられたり知らせたり
とんとんとんからりと隣組 あれこれ面倒 味噌醤油 ご飯の炊き方 垣根越し 教えられたり教えたり
とんとんとんからりと隣組 地震やかみなり 火事どろぼう 互に役立つ 用心棒 助けられたり助けたり
とんとんとんからりと隣組 何軒あろうと 一所帯 心は一つの 屋根の月 纏められたり纏めたり」
 これは現代版隣組です。
 20歳過ぎまでここで暮らしていたので、ご近所に引っ越の挨拶くらいはしようと思い、両隣りと祖母の家の3軒にしようと思っていた。が、そのことを母に言うと、「隣組には挨拶せんといかん!」と言われた。あと「XXさんには世話になっている。」 とか近くの親戚まで入れて20軒くらい回る羽目になってしまった。
ここで出てきた『隣組』とは何かと言うと、多分町内会のようなものだろうと思われる。うちの組は10世帯で1つの組で組長なんかも1年交代でやっている。江戸時代の五人組制度のなごりなのではなかろうかと思う?
 ここで、隣組を調べてみました。
 1938(昭和13)年4月1日、国家総動員法が公布されました。
 5月14日、東京市長の小橋一太は、国家総動員法により「東京市町会規約準則」を制定しました。その中に次のような規定があります。
「東京市町会規約準則第七章
 隣組第三一条
 概ネ左ノ標準ニ依リ隣組ヲ設ク」として(1)隣接スル五世帯及至二十世帯(2)五世帯以上ヲ収容スルアパートを指定しています。
 その目的は、江戸時代の五人組制度を念頭に、都市の住民を根こそぎ戦争に参加させる儀式・意識という意味がありました。
 1939(昭和14)年3月、東京市は、隣組三綱領九則を発表し、具代案を示しました。
(1)交隣団体としての隣組として、常会を通じて、相互に相識り、和親を厚くする
(2)町会の細胞組織としての隣組として、町会の通諜を滞りなく、全組員に徹底せしむる
(3)自衛団体としての隣組として、各部門の活動を分担出来るように常に組内の係を決めておく
10  1940(昭和15)年9月11日、内務省は、部落会・町内会等整備要領を訓令しました。
「第一 目的
一 隣保団結ノ精神ニ基キ…地方共同ノ任務ヲ遂行セシムルコト
二 国民ノ道徳的錬成ト精神的団結ヲ図ルノ基礎組織タラシムルコト
三 国策ヲ汎クく国民ニ透徹セシメ国政万般ノ円滑ナル運用ニ資セシムルコト
四 地域的統制単位トシテ統制経済ノ運用ト国民生活ノ安定上必要ナル機能ヲ発揮セシムルコト」
第二 組織
一 部落会及町内会
(一)市町村ノ区域を分チ村落ニハ部落会、市街地ニハ町内会ヲ組織スルコト
(三)部落会及町内会ハ区域内全戸ヲ以テ組織スルコト
(四)住民ヲ基礎トスル地域的組織タルト共ニ市町村ノ補助的下部組織トスルコト
(十)部落会及町内会ニハ左ノ容量ニ依ル常会ヲ設クルコト
(イ)部落常会及町内常会ハ会長ノ招集ニ依リ全戸集会スルコト
(ロ)第一ノ目的ヲ達成スル爲物心両面ニ亘リ…協議シ住民相互ノ教化向上ヲ図ルコト
二 隣保班
(一)部落会及町内会ノ下ニ十戸内外ノ戸数ヨリ成ル隣保班(名称適宜)ヲ組織スルコト
(二)隣保班ノ組織ニ当リテハ五人組、十人組等ノ旧慣中存重スベキモノハ成ルベク之ヲ採リ入ルルコト
三 市町村常会
(一)市町村ニ市町村常会ヲ設置スルコト
(二)市町村常会ハ市町村長ヲ中心トシ部落会長、町内会長ヲ以テ組織スルコト
(三)各種行政ノ総合的運営ヲ図リ其ノ他第一ノ目的ヲ達成スル為必要ナル各般ノ事項ヲ協議スルコト
(四)市町村ニ於ケル各種委員会等ハ成ルベク市町村常会ニ統合スルコト
 1943(昭和18)年、この段階で、町内会は6万5000、部落会は14万5000、隣組は120万で、上意下達組織が全国に張り巡らされました。
11 (1)1940年に東京市役所が出した『隣組常会の栞』というのがあり、そこには、二宮尊徳の「芋こぢ」が紹介されています。桶に入れた里芋を棒でかき回すと、里芋は皮がむけてきれいになります。
 それと同じように、町内会の常会に参加して多くの人と交流すると、心の皮がむけて、自己本位の心がきれいになり、互助精神が発揮されるというのです。
(2)杉山元参謀総長は、防空演習の時、夜中の1時から3時まで、自分が所属する隣組の見張番をしました。
 都市のインテリを動員するために、現役の陸軍大将も隣組に参加していることをPRしました。
(3)隣組の常会では、御真影・国旗の前で拝礼し、国歌を斉唱して、協議に入りました。
 これは、知らず知らずのうちに、一種の思想統制、マインドコントロールの役目がありました。協調しない人や協調できない人を非国民とレッテルを張ることで、一定の方向に人間の心を導いて行くのです。
(4)隣組の仕事は、出征兵士の歓送迎・防空演習・防諜・住民登録・国債の消化・貯蓄奨励・供出・政策伝達など日常生活の多岐にわたっています。
 隣組に参加しないと、毎日の生活が出来ない制度になっています。
(5)「とんとんとんからりと隣組 何軒あろうと 一所帯 心は一つの 屋根の月 纏められたり纏めたり」という隣組の歌があります。
 「心を一つに」を合言葉に、相互監視と相互牽制によって、反体制・非体制の密告・抑圧に効果を発揮しました。監視・密告が奨励され、服装が派手であったり、供出に非協力的な場合、非国民とのレッテルが張られました。
(6)衣食住関係が切符制になると、その配給が隣組を単位に行われました。
 隣組に批判的・非協力的な家には、配給されないこともありました。
12  「隣は何をする人ぞ」といわれるように都会では個人主義が確立していました。それを似非一家に仕立てる理由はどこにあったのでしょうか。
 1939(昭和14)年4月、陸軍省は『支那事変の真意義』と題するパンフレットを発行しました。そこには、「今次の事変は他国の侵略戦争にありがちな領土や賠償金を本来目的とする戦とは全然異なる特質をもつものである。真の正義人道の見地に立ち、東亜積年の禍根を一掃してその安定を図り、八紘一宇の大精神に則って皇道を宣布し、東亜諸民族更生の実を挙げ、其の存続発展を確保し、以て皇国の国是を実現し、世界人類の平和と文化と福祉とに貢献せんとする真の聖戦であり」とあります。
 1940(昭和15)年7月、近衛文麿内閣は、陸軍省のパンフレットを受けて、閣議で、基本国策要綱を決定し、「皇国の国是は八紘一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とする」と規定し、「皇道の大精神に則りまづ日満支をその一環とする大東亜共栄圈の確立をはかる」と主張しました。
 紘の八は「四方と四隅」のことで、とは「張りわたしたつな」ことで、八紘とは大地にはりわたした四方と四隅のつな、つまり世界を意味します。一宇の宇の「于は大きく曲がるさま」、宇の「宀」はやねと音符「ウ」のことで、「大きくてまるい屋根」を意味します。つまり一宇は一家となります。要するに、天皇をピラミッドの頂点とする家族国家主義という意味です。
 つまり、天皇をピラミッドの頂点とする家族国家主義をまず国内で実践し、それを大東亜に拡大しようという意図があったのです。
 この頃の教科書には、「日本ヨイ国 キヨイ国。世界ニ一ツノ 神ノ国。日本ヨイ国 ツヨイ国。世界ニ輝ク エライ国」という記述があります。
13  このような監視・密告社会では窒息してしまいます。
 救いを求めて民衆はエロ・グロ・ナンセンスに走りました。
(1)エロは、エロチシズムの略で、愛欲主義・好色主義・官能的な愛・性愛と訳されています。
(2)グロは、グロテスクの略で、不気味なようす・異様なようす・奇怪なようすと訳されています。
(3)ナンセンスは、nonsenseの日本語で、センスがないこと・意味をなさないこと・ばかげたこと・くだらないことと訳されています。
 佐野真一著『巨怪伝ー正力松太郎と影武者たち』には、「正力は社会面に早くもヌード写真を載せ、江湖の読者の度肝を抜いた。当時正力は、『新聞の生命はグロチックとエロテスクとセセーションだ』と胸をそらして語り、心ある人々から『正力という男は英語の使い方も知らないのか』と失笑を買った」とありました。グロチックとエロテスクとセセーションとは、アメリカ帰りの小野瀬不二人のイエロー・ジャーナリズムの口調をまねして、グロテスクとエロチックとセンセーションと言うべきを、間違ったのか、わざと間違えたのか、語ったというのです。エロチックの代表です。
 元読売新聞記者の宮本太郎は、『あるジャーナリストの人生』という本に「敵兵を斬って血しぶきのあがった写真が紙面に出たことがあります。前線へ出て、危険な場所に行かなければ、そういう写真は撮れない」と書いています。グロテスクの代表です。
 戦前のナンセンスは分かりませんが、デコレーションケーキを投げ合うTV番組がありました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
歴史的仮名遣、正義は危ない、日米映画合戦
 平泉澄氏は、原稿を「歴史的仮名遣で書いた。それが正しいと信ずるからだ。…時事通信社は、皆さんの読みやすいように現代仮名遣に改めたいと希望した。私は他日、日本が正しい日本にかえる時、必ず歴史的仮名遣にかえるに違いないと信じつつ、しばらくその申し入れを容認した」と予言しています。
 歴史的仮名遣とは、語源主義の立場に立ち、果実をくわじつ、状態をじやうたい、学級をがくきふ、思うをおもふ、帰るをかへるなどと書きます。語源は平安前期に求められ、日本語の伝統として、一部のこの立場に固守する人もいます。『そのやうな硝子製品の作り方を知つてゐる者が他にゐるのか
 現在私たちが使っているのは、現代仮名遣といい、表音主義の立場に立っています。明治以来の言文一致体を採用しています。『そのようなガラス製品の作り方を知っている者が他にいるのか
 平泉澄氏の主張は、自分の趣味を、明治以来定着している国語にまで及ぼそうというのです。平泉氏の立場はここでも破綻しています。
 隣組を調べたり、平泉澄氏の皇国史観を調べるうちに、扶桑社の「つくる会」の主張とが非常に酷似していることに気がつきました。酷似部分は、別な項で紹介します。
 ここでは、TV番組とかある評論家はという表現にとどめてきましたが、それではいけないと思うTV番組がありました。よみうりテレビ(関西では10チャンネル)の『そこまでいって委員会』という番組です。
 自民党の国会議員10人と民主党の国会議員10人が色々なテーマで議論していました。最後に、日中関係・日韓関係のテーマになり、かなり感情的に反中・反韓の立場での議論が続いた中で、突如評論家の三宅久之氏が「扶桑社の教科書を採用するのに、皆んな賛成か。あれは0点何%しか採用がない」と発言すると、コラムニストの勝谷誠彦氏が続けて「市民団体が暴力的に押しかけてくる。地方の教育委員会に任せていたら可哀想だ」と感情的に発言します。弁護士の橋本徹氏は「あの教科書は戦争は美化していないですよ。全部読めば分かるんです」と賛同する。民主党のある国会議員は「中身読めばけっこうまともな書いてあるが、嫌韓という表紙がミスっている」と発言する。
 この番組に問題があることを指摘します。
(1)自分が愛飲しているサントリービールのシェアが少ないからといって、公共のTV番組で、皆に同調を求めるなんてことはああるかということです。多分、裏金が動いているのでしょうね。
(2)有名な政治評論家、感情むき出しのコラムニスト、人気のある弁護士であっても、歴史には素人です。扶桑社の歴史教科書の問題点も理解できない人間が教科書内容に口を出すということは、美濃部達吉の天皇機関説を批判した法律に無知な政治家の言論弾圧を思い出します。
(3)扶桑社の教科書を取り上げる場合、両方の意見が聞いたいのが人情です。田嶋陽子氏が何かヒステリックに大声で叫んでいるだけで、意見を言える場を設けていませんでした。
(4)最後に、まとめを依頼された自民党の国会議員で、元東大助教授であった桝添要一氏が「韓国でも中国でも、日本といい関係をつくりたい人はたくさんいます。感情的にナショナリズムを煽るのよくないですよ」と締めくくったのが、せめてもの良心かと感じました。
 最近、東京では、卒業式のとき、国旗に拝礼し、国家を斉唱しない先生・生徒を、教育委員会から派遣された人物がチェックするそうです。そのチェックに基づいて、処分があるそうです。チェックする人の心理を考えると、私なら、仕事や金の為に、人を売ったり、魂を捨てる道をとりたくない。退職します。
 戦前もこうして、思想統制して、物言わぬ人間を増やして行ったのでしょうか。
 1999年の11月2日号の『週刊プレイボーイ』で、西村真悟氏議員は対談の中で「日本も核武装したほうがええかもわからんということも国会で検討せなアカンな」「大東亜共栄圏、八紘一宇を地球に広げる」「征服とは、その国の男を排除し、征服した国の女を強姦し、自分の子供をうませるということです」と発言しました。
 対談相手の大川氏が「社民党がまたいつかきた道って言うんじゃないですか?」と尋ねると、西村氏は「まあ、アホですわ、あんなもん。何を言うとんねんと。だからボク、社民党の(集団的自衛権に反対を唱える)女性議員に言うてやった。『お前が強姦されとってもオレは絶対に救ったらんぞ』と」返答しました。
 その結果、西村真悟氏は防衛政務次官を辞任しました。社民党からも辞任要求が出されました。
 TV番組の西村氏は、過激で、空虚な発言をする胡散臭い人物だと思っていました。
 1997年、西村氏は、中国と係争中の尖閣諸島の小島に上陸しました。その時移した写真が扶桑社の政治経済の教科書に載っていました。
 2003年、西村氏は、銃撃事件をおこした「刀剣友の会」の最高顧問をしていたことが発覚して、内定していた衆院災害対策特別委員長の就任を辞退しました。218万円の献金を受けていたことがわかると、「思想信条で共鳴しあう仲」と開き直りの会見をしました。
 2004年、西村氏は、自民・民主の議連である「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す。お国のために命をささげた人があって、祖国があるということを子どもたちに教える。これに尽きる」「お国のために命を投げ出すことをいとわない機構、つまり国民の軍隊が明確に意識されなければならない」と挨拶しました。
 2005年7月、西村氏は「英霊にこたえる会」で、「靖国に参拝することによって、今度戦争をする時は断じて負けないという誓いを新たにしないといけない」と述べました。
 2005年9月、西村氏は総選挙後の民主党両院議員総会で「マネーゲームの世界に国民をなだれこませているのが小泉なのです。あれは、狙撃されてもいい男だ」と発言しました。
 11月、西村氏は、弁護士法違反の疑いで、大阪地検特捜部と大阪府警に逮捕されました。西村氏は自分の法律事務所で働いていた元職員に弁護士印を使わせるなどして無資格で交渉させ、多額の報酬を受領していたとされています。西村氏は、名義貸しについて「否定しがたい」とみずからの関与を認めながら、議員辞職は拒否しています。
 2006年3月、民主党を除籍された西村氏は、衆院本会議で、辞職勧告決議案が起立採決の結果、賛成が圧倒的多数で可決されました。しかし、西村氏は自らの進退について「そう簡単に議席を放棄するわけにはいかない」と述べ、辞職する考えがないことを明言しました。自民党の片山虎之助参院幹事長も「本人を除く国会の意思として『辞めてくれ』ということだ」と強調しました。
 要するに、他人には「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す」と厳しく、自分には「そう簡単に議席を放棄するわけにはいかない」と甘いということです。このような人物が弁護士と国会議員であることの方が自虐的ではないでしょうか。
 次は、日米映画合戦です。印は私が観た映画です。圧倒的にアメリカ映画です。戦前の映画で、戦後鑑賞に耐え得る日本映画が少ないということでしょうか。
 1938年、日本映画は『阿部一族』、『路傍の石』、『愛染かつら』でした。外国映画は『モダンタイムス』『汚れた顔の天使』、『ロビンフッドの冒険』、『赤ちゃん教育』、『黒蘭の女』でした。
 1939年、日本映画は『上海陸戦隊』、『土と兵隊』、『残菊物語』、『暖流』でした。外国映画は『風と共に去りぬ』、『望郷』、『オズの魔法使』、『シャーロック・ホームズの冒険』、『嵐が丘』、『テンプルちゃんの小公女』、『愛の勝利』でした。
 1940年、日本映画は『支那の夜』、『燃ゆる大空』、『風の又三郎』、『西住戦車長伝』でした。外国映画は『駅馬車』、『哀愁』、『「レベッカ』、『ピノキオ』、『怒りの葡萄』、『快傑ゾロ』、『フィラデルフィア物語』、『ヒズ・ガール・フライデー』、『チャップリンの独裁者』、『街角』でした。
 1941年9月、情報局は、劇映画製作10社を松竹・東宝・大映の3社に統合させました。
 12月、アメリカ映画8支社に閉鎖命令を出しました。その結果、ガリバー旅行記・アリゾナが密封されました。この年の日本映画は『みかへりの塔』、『馬』、『江戸最後の日』でした。外国映画は『ジェロニモ』、『スミス都へ行く』、『わが谷は緑なりき』、『マルタの鷹』、『ヨーク軍曹』、『市民ケーン』、『教授と美女』、『スミス夫妻』、『サリヴァンの旅』、『レディ・イヴ』でした。
 1942年9月、陸海軍省・情報局は、日映に海外局を設置しました。
 12月、この年の日本映画は『ハワイ・マレー沖海戦』、『マレー戦記』、『空の神兵』、『ビルマ戦記』でした。外国映画は『ジャングル・ブック』、『絶海の嵐』、『ミニヴァー夫人』、『打撃王』、『情熱の航路』、『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』、『スイング・ホテル』、『ストーミー・ウェザー』、『バンビ』、『モロッコへの道』、『女性No.1』、『心の旅路』でした。
 1943年、日本映画は長編漫画の『桃太郎の海鷲』、『姿三四郎』、『無法松の一生』でした。外国映画は『カサブランカ』、『誰がために鐘はなる』、『名犬ラッシー』でした。
 1944年4月、映画の興行時間は1時間40分と制限されました。
 12月、生フィルム欠乏により731の映画館(全国の40%)が配給を休止しました。この年の日本映画は『加藤隼戦闘隊』、『轟沈』、『雷撃隊出動』、『陸軍』です。外国映画は、『我が道を往く』、『深夜の告白』、『ローラ殺人事件』、『ガス燈』、『脱出』、『若草の頃』、『カバーガール』、『ジェーン・エア』、『飾窓の女』、『君去りし後』、『毒薬と老嬢』でした。
 戦後の日本の映画です。印は私が観た映画です。弾圧・統制しなければ、立派な映画が出来るのです。これを誇りにしたいものです。
 1946年、命ある限り、監督:今井正
 1947年、戦争と平和、監督:今井正
 1948年、手をつなぐ子等、監督:稲垣浩
 1949年、青い山脈(監督今井正)、晩春(監督小津安二郎)、野良犬(監督黒澤明)
 1950年、羅生門、監督:黒澤明、原作/芥川竜之介『薮の中』、出演/三船敏郎・京マチ子
 1951年、カルメン故郷に帰る、監督:木下恵介、出演/高峰秀子・笠智衆、日本初のカラー映画
 1954年、二十四の瞳 監督:木下恵介原作:壷井 栄出演:高峰秀子
 1954年、七人の待、監督:黒澤明、脚本/黒澤明・橋本忍、出演/三船敏郎・志村喬

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