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エピソード

257_01

近衛新体制T(援蒋ルート、大東亜共栄圏、日独伊三国同盟)
 大東亜共栄圏とか新体制という空虚で美しい言葉で表現されていますが、史料を丹念に読むと、その実態がわかります。
 日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦は、常に日本が勝者の側に与していました。その結果、朝鮮を植民地化し、満州国や華北(万里の長城南部)の樹立することに成功しました。成功した背景には、軍閥の割拠や、中国国民党と中国共産党との国共内戦があったり、中国側の分裂状況がありました。
 その分析をしないまま、日本軍とそれを追認する日本政府は、拡大路線に突っ走りました。首都南京を陥落させると、蒋介石は屈服すると信じてきました。しかし、国共合作により、中国が民族統一戦線を組織すると、日本の攻勢は、一転して、点と線のみのを支配しながら、ゲリラに襲撃をうけるという泥沼化にはまってしまいました。
 そこで、中国を屈服させるには、蒋介石を軍事援助する援蒋ルートの遮断に戦術を変更しました。これが大東亜共栄圏構想であったり、日独伊三国同盟だったのです。
 1938(昭和13)年4月、フランスは、仏印のハノイ〜中国南部の南寧間の鉄道を延長するための借款1億5000万フランを供与しました。これを援蒋ルートへの支援といいます。
 12月、アメリカは中国に対してトラック・ガソリンと桐油のバーター借款2500万ドルを供与しました。
 1939(昭和14)年1月、ドイツ外相は、日独伊三国同盟案を正式に提案しました。
 3月、イギリスは、中国の財政支援のため1000万ポンドの借款を供与しました。
 5月12日、ノモンハン事件がおこりました。
 5月22日、ドイツは、先にイタリアと独伊軍事同盟を締結しました。
 6月、ソ連は、中国に対して総額1億5000万ドルを援助しました。
 8月、独ソ不可侵条約が締結されました。
 9月1日、ドイツ軍は、ポーランドに進駐し、第二次世界大戦が始まりました。
 9月5日、アメリカは、@欧州戦争に中立を宣言しました。
 12月、フランスは、ハイフォン〜ラオカイ間の新自動車道を建設のための借款1600万フランを供与すると発表しました。これを援蒋ルートへの支援といいます。
 1940(昭和15)年1月16日、@37米内光政内閣(海軍大将)が誕生しました。欧州大戦には不介入という方針を確認しました。
 4月9日、ドイツ軍は、ノルウェーを急襲しました。
 4月9日、ドイツ軍は、デンマークを無血占領しました。
 5月10日、ドイツ軍は、電撃作戦により@オランダを制圧しました。石油の産地の蘭領東インド(インドネシア)の宗主国はオランダでした。
 6月10日、イタリアは、イギリス・フランスに宣戦を布告しました。
 6月14日、ドイツ軍は、Aパリに無血入城しました。援蒋ルートがある仏領インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)の宗主国はフランスでした。仏印総督は、フランス領インドシナ経由の援蒋ルートの遮断を日本側に申し入れました。
 6月24日、近衛文麿は、枢密院議長を辞任し、新体制運動推進の決意を表明しました。
 7月6日、社会大衆党が解党しました。
 7月16日、欧州大戦不介入の米内内閣を打倒するため、陸相の畑俊六が単独辞職しました。
 7月19日、近衛文麿松岡洋右東条英機吉田善吾が国策を協議しました。これを荻窪会談といいます。その内容は、以下のとおりです。
(1)欧州大戦への不介入方針を転換する
(2)独伊と提携を強化して、南進策・北進論の両面作戦を準備する
 7月22日、@38第2次近衛文麿内閣が誕生しました。外相は松岡洋右、陸相は東条英機、海相は吉田善吾らが就任しました。
 7月22日、外相の松岡洋右は、駐ソ大使の東郷茂徳を解任して後任に陸軍の建川美次を任命、駐独大使の来栖三郎を解任して陸軍の大島浩を任命しました、
 7月26日、近衛内閣は、大東亜新秩序の建設という「基本国策要綱」を決定しました。「基本国策要綱」の内容は、以下のとおりです。ここでは大東亜を日満支3国ととらえています。強力な軍事力、つまり国防国家体制で、蒋介石の国民政府の打倒を第一にあげています。
 7月26日、米大統領のルーズベルトは、石油・くず鉄を輸出許可制適用品目中に追加しました。
 7月27日、大本営政府連絡会議は、「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」を決定しました。
 7月31日、米大統領のルーズベルトは、西半球以外への航空用ガソリンの輸出を禁止しました。
 7月、イギリスは、ビルマ〜中国南部の雲南省間の援蒋ルート(ビルマルート)の3ヶ月間遮断を日本側に申し入れました。
 7月、アメリカのハル国務長官は、「閉鎖行為をなせば、それは世界の商業に対する妨害である」と仏英の援蒋ルート遮断を批判しました。
 8月8日、解党した諸会派は、新体制促進同志会を結成しました。これは、ナチスやファシスタの国民組織を模倣し、全国民を戦争協力の総力戦体制に導く制度でした。
 8月15日、新体制運動に反対だった民政党が解党しました。
 8月22日、外相の松岡洋右は、駐米大使の堀内謙介を解任して海軍の野村吉三郎を任命しました。
 8月30日、松岡洋右外相は、駐日フランス大使のアンリに、北部仏印進駐に関し公文書を交換しました。
 9月3日、米英防衛協定が調印され、米は駆逐艦50隻を供与し、英はイギリス領諸島の空軍基地を貸与することを約束しました。中立を表明していたAアメリカがイギリス支援を声明しました。
 9月4日、西原一策少将は、フランス司令官のカトルー仏印総督との間に北部仏印進駐および飛行場使用などに関する現地協定に署名しました。その目的は、平和的に、四川省に通じる援蒋ルートの遮断でした。
 9月5日、第五師団の森本宅二中佐が指揮する大隊が許可なく北部仏印に越境する事件がおこりました。これを独断越境事件といいます。このため、フランス本国ののヴィシー政府は、カトルーを罷免して、新総督にドクー中将を任命した。ドクー総督は本国の意向に沿って、細目協定を延期しました。
 9月5日、軍事同盟をめぐる調整で倒れた吉田善吾海相の後任に及川古志郎大将が就任しました。
 9月7日、ドイツ軍は、B65日間、ロンドンを猛爆撃しました。ゴムの産地であるマレーシア・シンガポールの宗主国はイギリスでした。
 9月11日、内務省は、部落会・町内会等整備要領を訓令しました。
 9月13日、イタリア軍は、リビアからエジプトに侵入しました。
 9月13日、蘭領インド特派大使の小林一三商工相・三井物産の向井忠晴会長らは、バタビアで、日蘭経済交渉を開始しました。日本は315万トンを要求しましたが、交渉は難航し、130万トンしか確保できませんでした。通商局長のホーフフトラーティンは「オランダと戦争しているドイツの同盟国日本に輸出できる限度だ」と言ったといいます。
 9月19日、ドイツ・イタリアの進撃を見た御前会議は、日独伊三国同盟締結を決定しました。
 9月22日、援蒋ルート遮断を監視する日仏軍事細目協定が成立しました。
 9月23日、日本軍は、協定に基づいて、北部仏領インドシナ部(北部仏印)に進駐しました。日本はフランスのビシー政権を承認しました。
 9月25日、アメリカは重慶政府に2500万ドルの借款を供与しました。これが為替援助です。
 9月26日、南支方面軍司令官の安東利吉中将は、独断越境事件の責任で更迭されました。
 9月27日、ベルリンで、アメリカを牽制するための日独伊三国同盟が調印されました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
援蒋ルート、大東亜共栄圏、日独伊三国同盟
 蒋介石が南京から重慶に遷都して、かくも抵抗するのは、介石を軍事助する外国のルート、つまり援蒋ルートがあるからだと分析した日本政府は、そのルートの遮断に全力を注ぐことにしました。
 援蒋ルートには、アメリカ・イギリスのような借款や軍需物資・武器を提供するルートと、それらを運送するルートがあります。
 運送ルートには3本あります。
(1)仏印ルートはベトナム経由で、ガソリン・鉄材・トラック・弾薬を月に1万1000トン運んだといいます。
(2)ビルマルートは、ビルマ経由で武器弾薬・火薬・工作機械などを月に4000トン運んだといいます。
(3)南支那ルートは、雲南を通過して、ガソリンや武器弾薬などを月に9000トン運んだといいます。
 日本は北部仏印や南部仏印進駐を、アメリカのせいにしています。本当はどうなのでしょうか。
 1940(昭和15)年10日、ドイツ軍は、電撃作戦により@オランダを制圧しました。石油の産地の蘭領東インド(インドネシア)の宗主国はオランダでした。
 6月14日、ドイツ軍は、Aパリに無血入城しました。援蒋ルートがある仏領インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)の宗主国はフランスでした。
 7月19日、次期大臣候補の近衛文麿・松岡洋右・東条英機・吉田善吾が荻窪で会談しました。
(1)日満支の東亜の範囲に、宗主国が占領・空爆中の英・仏・蘭の植民地を加えて、円ブロックの勢力圏に取り入れる。
(2)アメリカとは極力衝突を避けるが、アメリカと交戦する覚悟で東亜新秩序を建設する。
 *解説(東亜新秩序は美しい言葉だが、本心は英仏蘭植民地、つまり南進策のことです)
 7月26日、近衛内閣は閣議で基本国策要綱を決定しました。
(1)八絋一宇とする建国の大精神の基づき、日・満・支を根幹とする大東亜の新秩序を建設する。
(2)国家の総力を発揮できる国防国家体制を基底として、国の基本方針を遂行する。
 *解説(八絋一宇という美しい言葉で大東亜の新秩序建設を合理化し、その仕上げに国防国家という総力戦の必要を説いています)
 7月27日、大本営政府連絡会議は「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を決定しました。
(1)支那事変の処理に関しては、あらゆる手段を使って速やかに蒋介石の重慶政府を屈服させる。
(2)仏印の援蒋行為を遮断するが、場合によっては武力も行使して日本の必要な資源の獲得する。
(3)日独伊ソ軍事同盟を結び、アメリカが参戦することを牽制する。対米戦覚悟で南進する。
(4)ドイツ的国防国家を完成する。総動員法を発動しり、国民精神を高揚させて、一本化する。
 *解説(日本の頭痛の種は蒋介石の重慶政府です。屈服させるためには、アメリカと戦争にならないように日独伊ソ四国軍事同盟を結び、総力戦で、あらゆる手段をとるということです)
 9月7日、ドイツ軍は、B65日間、ロンドンを猛爆撃しました。ゴムの産地であるマレーシア・シンガポールの宗主国はイギリスでした。
 9月13日、イタリア軍は、Cリビアからエジプトに侵入しました。
 *解説(@ABCの結果、北部仏印に進駐しています)
 9月27日、ベルリンで、仮想敵国をアメリカとするD日独伊三国同盟が調印されました。
 *解説(Dの結果、南部仏印に進駐しています)
 1940年9月27日に締結された日独伊三国同盟は、日米関係に重要な側面を持っています。その内容は、以下のとおりです。
(1)・・大東亜及欧州の地域に於て各其の地域に於ける当該民族の共存共栄の実を挙けるに足るへき新秩序を建設し且之を維持せんことを根本義と為し・・依て左の通協定せり
 *解説(大東亜および欧州の地域で、共存共栄の実を挙げるために新秩序の建設・維持することが根本である)
(2)第三条 三締約国中何れか一国か、現に欧州戦争又は日支紛争に参入し居らさる一国に依て攻撃せられたるときは、三国は有らゆる政治的、経済的及軍事的方法に依り相互に援助すへきことを約す」
 *解説(日独伊のどこかの国が、欧州戦争又は日中戦争に参加していない一国アメリカに攻撃を受けたときは、日独伊の三国は総動員して相互に援助する→三国軍事同盟の威力で、アメリカの参戦を回避させようとしました。しかし、この三国の暴力は、アメリカには逆効果となりました)
 1941年4月13日、日ソ中立条約が締結されました。松岡洋右外相の構想で、先の日独伊三国同盟と今回の日ソ中立条約によって、日独伊ソ四国同盟が成立しました。これにより、対米交渉は有利に展開するはずでした。
 6月22日、ドイツ軍300万人は、突如、ソ連を攻撃しました。独ソ戦が開始されたのです。日本はドイツを当てにして、ドイツに裏切られました。そして、松岡洋右の構想が崩壊してしまいました。日本の外国の情報収集・分析の甘さが露呈したという感じです。
 7月12日、英・ソ相互援助協定が調印され、対独共同行動・単独不講和を約束しました。
 7月25日、重慶で、米英中の軍事合作協議が開かれ、ビルマルート防衛などの協定が成立しました。
 8月12日、ルーズベルト大統領・チャーチル首相は、米英共同宣言を発表しました。これを大西洋憲章といいます。
 9月24日、スターリンのソ連とド=ゴールの自由フランスら15国は、大西洋憲章に参加しました。この結果、ソ連は、三国同盟の1つであるドイツと戦い、もう1つの日本とは中立条約を結び、三国同盟でドイツと戦っているイギリスと同盟し、中立国のアメリカとも同盟するという不思議な立場になりました。
 9月27日、アメリカのハル国務長官は、「三国同盟によって米国政策が変更されることはない」と声明しました。
 駐日アメリカ大使のグルーは「極東の問題はヒトラーの世界制覇の企図によって発生した世界危機の一要素となった」と語りました。

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