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エピソード

257_02

近衛新体制U(大政翼賛会、国民学校、翼賛選挙)
 大政翼賛会・国民学校は、ナチス・ヒトラーの総力戦態勢を真似た制度です。ヒトラーの快進撃を、日本も見習おうとして、一党独裁のファシズム態勢にどっぷり移行することになりました。
 1940(昭和15)年10月12日、ルーズヴェルト大統領は、「脅迫や威嚇には屈しない」と演説を行ないました。
 10月12日、ドイツ式の一党独裁をめざし大政翼賛会が誕生し、総裁に近衛首相を選出しました。  11月10日、紀元2600年(皇紀2600年)祝賀行事が行われました。
 11月20日、ハンガリー・ルーマニア・スロバキアが日独伊三国同盟に加入しました。
 11月23日、労働組合に代わって、労資協調の大日本産業報国会が創立されました。
 11月30日、アメリカは、5000万ドルの追加借款を発表しました。
 12月10日、イギリスは中国に1000万ポンドの借款を給与しました。ビルマ援蒋ルート再開です。
 12月29日、ルーズベルトは、アメリカが民主主義国の兵器廠となる旨の炉辺談話を発表しました。
 12月、アメリカ議会は、中国に1億ドル借款案を可決しました。
 1941(昭和16)年2月、アメリカは、中国に、P-40B戦闘機100機を援助することを決定しました。
 3月1日、国民学校令が勅令により公布されました。小学校を国民学校と改称し、教科を国民科・理数科・体練科・芸能科に統合しました。
 4月13日、日ソ中立条約が締結されました。松岡洋右外相の構想で、先の日独伊三国同盟と今回の日ソ中立条約によって、日独伊ソ四国同盟が成立しました。これにより、対米交渉は有利に展開するはずでした。
 4月、アメリカは、中国に、アメリカ空軍パイロット259人を派遣しました。
 5月9日、正式にタイ・仏印間平和条約が締結された。
 5月、アメリカは、中国に、トラック300台と5000万ドルの軍事供与を決定しました。
 6月22日、ドイツ軍300万人は、突如、ソ連を攻撃しました。独ソ戦が開始されたのです。日本はドイツを当てにして、ドイツに裏切られました。そして、松岡洋右の構想が崩壊してしまいました。日本の外国の情報収集・分析の甘さが露呈したという感じです。
 6月25日、連絡会議は南方施策促進に関する件を決定しました。これを南部仏印進駐といいます。
 7月12日、英・ソ相互援助協定が調印され、対独共同行動・単独不講和を約束しました。
 7月25日、重慶で米英中の軍事合作協議が開かれ、ビルマルート防衛などの協定が成立しました。
 7月25日、アメリカは、在米日本資産を凍結しました。
 7月27日、蘭印も在蘭印日本資産を凍結しました。
 7月28日、日本軍は、南部仏印に進駐しました。
 7月28日、蘭印は、日蘭石油民間協定を停止しました。
 7月、アメリカは、中国に、軍事顧問団の派遣とB17戦闘機500機の援助を決定しました。
 8月1日、アメリカは、日本を目標に発動機燃料・航空機用潤滑油の輸出を禁止しました。その結果、アメリカの日本に対する石油輸出は全く停止しました。これを対日石油全面禁輸といいます。
 8月12日、ルーズベルト大統領・チャーチル首相は、米英共同宣言を発表しました。これを大西洋憲章といいます。
 9月6日、御前会議は、「帝国国策遂行要領」を決定し、10月下旬を目途として対米・蘭戦争準備を完成することを決めました。
 9月12日、産業報国会は、働け運動を展開しました。
 9月24日、スターリンのソ連とド=ゴールの自由フランスら15国は、大西洋憲章に参加しました。この結果、ソ連は、三国同盟の1つであるドイツと戦い、もう1つの日本とは中立条約を結び、三国同盟でドイツと戦っているイギリスと同盟し、中立国のアメリカとも同盟するという不思議な立場になりました。
 9月27日、アメリカのハル国務長官は、「三国同盟によって米国政策が変更されることはない」と声明しました。
 駐日アメリカ大使のグルーは「極東の問題はヒトラーの世界制覇の企図によって発生した世界危機の一要素となった」と語りました。
 9月、満州に70万の兵力を集中して、関東軍特別演習(関特演)を行いました。
 10月12日、近衛首相は、荻外荘に陸相・海相・外相および企画院総裁を招集して和戦を会議しました。東条英機陸相は、中国よりの撤兵に反対しました。
 10月15日、国際スパイの嫌疑で、尾崎秀実が検挙されました。これをゾルゲ事件といいます。
 10月16日、近衛文麿内閣が総辞職しました。
 10月18日、@40東条英機内閣が誕生しました。外相に東郷茂徳、内相に東条英機が兼務、蔵相に賀屋興宣、陸相に東条英機が兼務、海相に嶋田繁太郎、商工相に岸信介らが就任しました。
 11月5日、御前会議は、対米交渉の甲案乙案と「帝国国策遂行要領」を決定し、12月初旬武力発動を決意しました。来栖三郎大使をアメリカに派遣しました。
 11月15日、兵役法施行令改正が公布され、丙種合格も召集することになりました。
 11月22日、国民勤労報国協力令が勅令により出されました。
 11月26日、ハワイ作戦機動部隊は、南千島のヒトカップワンを出港しました。
 11月26日、ハル国務長官は、強硬な新提案を提議しました。これをハル=ノートといいます。
 12月1日、御前会議は、対米英蘭開戦を決定しました。
 12月8日2時、日本軍は、マレー半島に上陸しました。
 12月8日3時、日本の機動部隊はハワイの真珠湾を空襲し、アメリカ戦艦の主力を撃破しました。
 12月8日、労務調整令が勅令により出されました。
 12月10日、マレー沖海戦で、日本海軍は、イギリスの戦艦2隻を撃沈しました。
 12月10日、日本軍は、グアム島を占領し、フィリピン北部に上陸しました。
 12月12日、東条内閣は、戦争の呼称を、支那事変を含めて大東亜戦争とすることに決定しました。
 1942(昭和17)年2月23日、翼賛政治体制協議会が成立し、会長に阿部信行が就任しました。
 3月1日、日本軍は、ジャワ島に上陸しました。
 3月8日、日本軍は、ラングーンを占領しました。
 4月6日、この日までに翼賛政治体制協議会は、推薦候補者467人を決定しました。
 4月30日、@21総選挙が行われました。これを翼賛選挙といいます。東条内閣は、推薦候補を当選させるために、新聞・ラジオなどを総動員し、内務省を使って徹底した選挙干渉を行いました。その結果は、立候補1079人のうち、翼賛政治体制協議会推薦の当選者は381人(82%)、非推薦当選者は85人(18%)でした。
 5月15日、東条内閣は、閣議で、大政翼賛会改組を決定し、各種国民運動を傘下に入れ、町内会・部落会などの指導を強化しました。
 6月5日、ミッドウェー海戦で、日本軍は空母4隻を失い、戦局の転機となりました。
 5月20日、翼賛議員連盟は解散し、翼賛政治会が結成され、会長に阿部信行が就任しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
大政翼賛会、皇紀2600年祭、国民学校、翼賛選挙と小泉郵政選挙
 大政翼賛会の内容は、以下のとおりです。
「今や世界の歴史的転換期に直面し、八絋一宇の顕現を国是とする皇国は、一億一心、全能力をあげて天皇に帰一し奉り、物心一如の国家体制を確立し、以て光輝ある世界の道義的指導者たらんとす。茲に本会は互助相戒皇国臣民たるの自覚を徹し、率先して国民の推進力となり、常に政府と表裏一体の関係にたち、上意下達、下情上通を図り、以て高度国防国家の実現に務む」
 *解説(今は世界の歴史的転換期に直面している。八絋一宇の実現を国の方針にしている日本は、1億人が心を1つにして、すべてを天皇にお返しし、物的心的に1つの国家体制を確立して、栄光ある日本は世界の道義的指導者にならんとしている。ここに大政翼賛会は、臣民であることを自覚して、常に政府と表裏一体の関係に立ち、上意下達、下情上通を図り、高度国防国家を実現します→空虚で美しい言葉に彩られていますが、物的・心的に一丸となって、アメリカと戦える高度国防国家を作るということです)
(1)総裁は総理大臣、役員は官僚・軍部・政党などの幹部、道府県支部長は知事が兼任する。
(2)「バスに乗りおくれるな」を合言葉に、社会大衆党・政友会・民政党が解党して傘下に入る。
(3)翼賛壮年団・大日本産業報国会・大日本婦人会・町内会・部落会・隣組・隣保班などを傘下に収めて、国民生活のすべてを、内務官僚や警察が指導・統制する。
 1940年に皇紀2600年祭が行われました。その時の勅語です。
その内容は、以下のとおりです。
「茲ニ紀元二千六百年ニ膺リ百僚(官僚)衆庶(庶民)相会シ之レカ慶祝ノ典ヲ挙ケ以テ肇国(建国)ノ精神ヲ昂揚セントスルハ朕深ク焉レヲ嘉尚ス
今ヤ世局ノ激変ハ実ニ国運隆替ノ由リテ以テ判カルル所ナリ爾臣民其レ克ク嚮ニ降タシシ宣諭ノ趣旨ヲ体シ我カ惟神ノ大道ヲ中外ニ顕揚(顕彰)シ以テ人類ノ福祉ト万邦ノ協和トニ寄与スルアランコトヲ期セヨ」
 *解説(紀元2600年を官民が一同に会してお祝いし、建国の精神を高揚することは私=昭和天皇は褒め称えたい。今の世界は国運が盛衰している。お前たち臣民は、建国の趣旨を身につけ、神としての大道を内外に顕彰して、人類の福祉と世界の平和に寄与せよ→空虚で美しい言葉で修飾されていますが、要するに、日本は今、世界に冠する紀元2600年である。世界に誇れる神の国である)
(1)1940年が何故皇紀2600年かというと、明治政府は、天皇の祖である神武天皇が樫原神宮で即位したのが紀元前660年と設定したからです。
(2)神武天皇の即位を、キリストの誕生より660年も前にした理由は、お釈迦さんの誕生(紀元前565年頃)や孔子の誕生(紀元前551年頃)より早くもっていきたかったからです。日本民族は、ヨーロッパ・インド・中国より優れていることを言いたかったのです。
(3)世界で最も優秀な民族の祭典が盛大に行われ、ナショナリズムをくすぐりました。
(4)津田左右吉の実証的な『神代史の新しい研究』は発売禁止になりましたが、後漢の班固が書いた『漢書』地理志に初めて「紀元前1世紀の倭人」の記録が登場します。4世紀頃、渡来人によって文字が伝えられ、渡来人が記録を担当します。日本で、最古の漢字使用が認められるのは、369年の石上神宮の七支刀です。とても紀元前660年前の記録が伝えられたとは思えません。大言壮語する裏には、何かに頼っていなければならないほど、当時に指導者はあせっていたと言えます。
 次の皇紀2600年を祝ったときの歌です。
一 金鵄輝く日本の 榮ある光身にうけて いまこそ祝へこの朝 紀元は二千六百年
  あゝ 一億の胸はなる
二 歡喜あふるるこの土を しつかと我等ふみしめて はるかに仰ぐ大御言 紀元は二千六百年
  あゝ肇國の雲青し
五 正義凛たる旗の下 明朗アジヤうち建てん 力と意氣を示せ今 紀元は二千六百年
  あゝ彌榮の日はのぼる
 *解説(金鵄とは、金色のトビのことです。神武天皇の危機を救ったという伝説の鳥です。そんな日本の紀元2600年に生まれて光栄だ。八絋一宇をアジアにうち建てよう。国威発揚の代表的な歌です)
 次は1941(昭和16)年3月14日に公布された国民学校令施行規則です。
(1)教育ニ関スル勅語ノ趣旨ヲ奉戴シテ教育ノ全般ニ互リ皇国ノ道ヲ修練セシメ、特ニ国体ニ対スル信念ヲ深カラシムベシ。
 *解説(教育勅語の趣旨を謹んでつつしんで身につけ、天皇が支配する日本の道を修練させる。特に天皇が日本を支配しているということを深く理解させるべし。教育勅語の本質がよく表現されています)
(2)国民科ハ我ガ国ノ道徳、言語、歴史、国土国勢等ニ付テ習得セシメ、特ニ国体ノ精華ヲ明ニシテ国民精神ヲ涵養シ、皇国ノ使命ヲ自覚セシムルヲ以テ要旨トス。
 *解説(国民科は日本の道徳・歴史などを習得させ、特に、天皇が支配する日本のきわだってすぐれていることを明らかにして、国民精神を徐々に養い育て、皇国の使命を自覚させる→どこが、どう優れていることは不問で、紀元2600年とか八絋一宇で、使命を自覚させるというのである)
(3)我ガ国ノ歴史、国土ガ優秀ナル国民性ヲ育成シタル所以ヲ知ラシムルト共ニ、我ガ国文化ノ特質ヲ明ニシテ、・・皇国ノ歴史的使命ヲ自覚セシムルモノトス。
 *解説(日本の歴史や国土が優秀な国民性を育成しているということを知らせる。同時に日本の文化の特質を明らかにして、皇国の歴史的使命を自覚させる→ナショナリズムをくすぐり、世界に冠する日本民族の使命を自覚させる)
(4)初等科ニ於テハ肇国ノ広遠(広く大きいこと)、皇統(天皇の血統)ノ無窮(きわまりの無いこと)、歴代天皇ノ鴻業(大業)、忠良賢哲ノ事蹟、挙国奉公ノ史実等ニ即シテ皇国発展ノ跡ヲ知ラシムベシ。
 *解説(初等科では、日本建国の広くて大きかったこと、天皇の血統は永遠であること、歴代天皇は大きな仕事をしてきたこと、忠義で善良で賢明で道理に通じている事柄、国を挙げて奉公した歴史的事実などを使って広告の発展の歴史をしらせるべし→小学生には、天皇のしてきたこと、天皇に忠節を尽くした人物を教えることで、ナショナリズムを高揚させようというのです)
 次は、1942(昭和17)年2月18日に閣議で決定された衆議院議員総選挙対策翼賛選挙貫徹運動基本要綱です。
(1)大東亜戦争ノ完遂ヲ目標トシテ清新強力ナル翼賛議会ノ確立ヲ期スル為衆議院議員総選挙ノ施行セラルルニ際シ一大挙国的国民運動ヲ展開シ以テ重大時局ニ対処スベキ翼賛選挙ノ実現ヲ期セントス
(2)大東亜戦争完遂ノ大目的ニ副ヒ真ニ大政翼賛ノ重責ニ任ズベキ最適ノ人材ヲ議会ニ動員スルノ気運ヲ汎ク醸成セシム
(3)本運動ハ右ノ基本方針ニ則リ大東亜戦争ノ完遂、翼賛議会ノ確立、翼賛選挙ノ実現ヲ目標トスル一大啓蒙運動トシテ部落会、町内会、隣保班等ノ市町村下部組織ハ勿論各種団体其ノ他有ユル組織ヲ動員シ活溌ナル展開ヲ期スルモノトス
(4)翼賛選挙実現ノ啓蒙運動トシテ最適候補者推薦ノ気運ヲ積極的ニ醸成セシム
大政翼賛会からは推薦されずに自力で当選し、戦後活躍した人
氏  名 戦後の役職 氏  名 戦後の役職 氏  名 戦後の役職
木村武雄 自治大臣 河野密 社会党副委員長 犬養健 法務大臣
川島正次郎 自民党副総裁 鳩山一郎 内閣総理大臣 三木武夫 内閣総理大臣
赤尾敏 大日本愛国党総裁 河野一郎 建設大臣 三木武吉 自民党総裁代理
尾崎行雄 国会議員 芦田均 内閣総理大臣 斎藤隆夫 国務大臣
西尾末広 民主社会党委員長 笹川良一 日本船舶振興会会長 楢橋渡 運輸大臣
 以前、ヒトラーの手法と小泉純一郎首相の手法とがよく似ていることを指摘しました。
 最近、昨年度(2005年9月)に行われた衆議院選挙で、小泉首相率いる自民党は、絶対安定多数の269人を大きく上回る296人の圧勝となりました。連立与党の公明党の31人を加えると327人となります。これは憲法改正の発議ができる総議員の3分の2以上になります。投票率は前回が59.86%でしたが、今回は67.52%と大幅に上昇しました。
 小泉自民党の圧勝を、評論家の森田実氏は今回の「第44回総選挙は、63年前の1942(昭和17)年4月30日に行われた第21回総選挙(いわゆる翼賛選挙)に酷似した総選挙だった」と書いています。その理由として森田氏は「東條内閣は推薦候補を有利に導くため全マスメディアを支配し」「今回の総選挙においては、テレビ・新聞などのマスメディアが全面的に小泉内閣の側に立った。・・マスメディアを支配したことが、小泉内閣の最大の勝因である。自民党は、メディアの協力を得て、郵政民営化法案に反対した民主党と自民党反対派に反改革派のレッテルを貼ることに成功し、圧倒した」と分析しています。
 選挙に一度も欠席したことはありません。2005年9月の衆議院選挙は以上でした。刺客・ホリエモンが出演し、日本列島は小泉劇場で超満員でした。私の投票所でも、選挙には見たこともない男女の若者で、熱気がムンムンしていました。
 私は、一党が政権に長くいると腐敗すると思っているので、政権交代の期待をこめて民主党に投票しましたが、見事に裏切られました。選挙で裏切られ、永田メールで裏切られました。自民党が野に下ったら、自民党に投票しますが、それはいつの日でしょうか。

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