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エピソード

258_01

太平洋戦争T(独ソ不可侵条約、北部仏印進駐、中ソ中立条約)
 時々、本を読んだり、TV番組で戦争体験した人の話を聞くと、アメリカの罠にやられたという表現に出会うことがあります。しかし、歴史的に日米関係を見ると、外交問題は、他方が善くて、他方が悪いという単純なものでないことが分かります。
 日本に都合のいい資料を選んでみました。
(1)アメリカが通商航海条約を廃棄し、石油やガソリンの輸出を禁止したので北部仏印に踏み切った。
(2)アメリカが在米日本資産を凍結したので、南部仏印に進駐した。
(3)アメリカが石油を全面的に停止したので、日本はアメリカと戦争せざるを得なかった。そう仕向けたのはアメリカの罠だった。
 歴史修正主義とは特定の主義・主張に沿って、歴史的事実に独自の修正を加える立場をいいます。自分に都合のいい資料のみをつまみ食いする立場も、歴史修正主義といいます。実証主義史観とは縁も縁もない、イデオロギー史観かも知れませんね。
 ここからは、冷静に、都合のいい資料・悪い資料をすべて提示して、実証的に、太平洋戦争に至る道を辿ってみることにしました。
 1933(昭和8)年3月、日本は、国際連盟からの脱退を通告しました。
 1934(昭和9)年12月、日本は、アメリカに、ワシントン条約単独廃棄を通告しました。
 1936(昭和11)年1月、日本は、ロンドン軍縮条約からの脱退を通告しました。
 12月、ワシントン海軍軍縮条約が失効しました。
 1938(昭和13)年1月、ドイツは、日独防共協定を軍事同盟への改定を提案しましたが、海軍の反対で、日本はこれを拒絶しました。 拒絶した理由は、以下の通りです。
(1)ドイツとの同盟は、英米との戦争になる可能性がある。
(2)日本の輸入総額の3分の1はアメリカで、石油75%、機械53%、鉄49%がアメリカ頼みである。
(3)戦艦・空母・飛行機に必要な石油の生産高を見ても、一番接近した時でも485倍の差がある。
主要物資生産高比較(日本の生産高を1とした場合のアメリカの指数)
石炭 石油 鉄鉱石 銑鉄 鉄鋼 計(平均)
1929年 16.1 501.2 416.8 38.9 25.0 12.4 208.0 166.6
1938年 7.2 485.9 37.5 7.3 4.5 5.3 31.3 60.5
1941年 9.3 527.9 74.0 11.9 12.1 10.7 27.4 77.9
1944年 13.8 956.3 26.5 15.9 13.8 11.3 11.6 118.3
 1939(昭和14)年1月6日、ドイツ外相は、日独伊三国同盟案を正式に提案しました。
 1月19日、平沼内閣は、条件付で三国同盟案に賛成しました。
 5月12日、ノモンハン事件がおこりました。
 5月22日、ドイツは、イタリアと独伊軍事同盟を締結し、ベルリン=ローマ枢軸が完成しました。
 7月、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告しました。
 8月、独ソ不可侵条約が締結されました。
 9月1日、ドイツ軍は、ポーランドに進駐し、第二次世界大戦が始まりました。
 9月5日、アメリカは、@欧州戦争に中立を宣言しました。
 1940(昭和15)年1月16日、@37米内光政内閣が誕生し、欧州大戦には不介入の方針です。
 1月26日、日米通商航海条約が失効しました。
 4月9日、ドイツ軍は、ノルウェーを急襲しました。
 4月9日、ドイツ軍は、デンマークを無血占領しました。
 5月10日、ドイツ軍は、中立国のベルギーを奇襲攻撃しました。
 5月10日、ドイツ軍は、中立国のルクセンブルクを奇襲攻撃しました。
 5月10日、チャーチルの連合内閣が樹立しました。外相にイーデンが就任しました。
 5月10日、ドイツ軍は、電撃作戦により@オランダを制圧しました。
 6月10日、イタリアは、イギリス・フランスに宣戦を布告しました。
 6月14日、ドイツ軍は、Aパリに無血入城しました。
 7月16日、欧州大戦不介入の米内内閣を打倒するため、陸相の畑俊六が単独辞職しました。
 7月19日、近衛文麿松岡洋右東条英機吉田善吾が荻窪で国策を協議しました。
 7月22日、@38第2次近衛文麿内閣が誕生しました。外相は松岡洋右、陸相は東条英機、海相は吉田善吾らが就任しました。
 7月22日、外相の松岡洋右は、駐ソ大使の東郷茂徳を解任して後任に陸軍の建川美次を任命、駐独大使の来栖三郎を解任して陸軍の大島浩を任命しました、
 7月26日、近衛内閣は、大東亜新秩序の建設という「基本国策要綱」を決定しました。ここでは大東亜を日満支3国ととらえています。強力な軍事力、つまり国防国家体制で、蒋介石の国民政府の打倒を第一にあげています。
 7月26日、米大統領のルーズベルトは、石油・くず鉄を輸出許可制適用品目中に追加しました。
 7月27日、大本営政府連絡会議は、「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」を決定しました。
 7月31日、米大統領のルーズベルトは、西半球以外への航空用ガソリンの輸出を禁止しました。
 8月22日、外相の松岡洋右は、駐米大使の堀内謙介を解任して海軍の野村吉三郎を任命しました。
 9月3日、米英防衛協定が調印され、アメリカは駆逐艦50隻よ供与する代わりに、英領諸島の海空軍基地を租借しました。この結果、中立を表明していたAアメリカがイギリス支援を声明しました。
 9月5日、軍事同盟の調整で病に倒れた吉田善吾海相の後任に及川古志郎大将が就任しました。
 9月7日、ドイツ軍は、B65日間、ロンドンを猛爆撃しました。
 9月12日、松岡洋右外相は、「日独伊ソの連携は、支那事変処理にも有効であり、かつ対英米戦をも回避できる」と主張し、三国同盟案を了承しましたが、及川古志郎海相は留保しました。
 9月13日、イタリア軍は、リビアからエジプトに侵入しました。
 9月14日、及川古志郎海相は、「軍事上、アメリカを相手に戦う自信はない。この上は三国同盟による軍事上の援助義務が発生しないよう、外交上の手段によって防止されたい」と条件付で、賛成しました。
 9月16日、アメリカは、選抜徴兵法を公布しました。
 9月19日、ドイツ・イタリアの進撃を見た御前会議は、日独伊三国同盟締結を決定しました。
 9月23日、日本軍は、北部仏領インドシナ部(北部仏印)に進駐しました。
 9月27日、ベルリンで、日独伊三国同盟が調印されました。
 11月20日、ハンガリー・ルーマニア・スロバキアが日独伊三国同盟に加入しました。
 12月18日、ヒトラーは1941年5月までに対ソ戦を考量したバルバロッサ作戦準備を命令しました。
 12月29日、アメリカ大統領のルーズベルトは、アメリカが民主主義国の兵器廠となる旨の炉辺談話を発表しました。
 1941(昭和16)年1月29日、ワシントンで、米英参謀本部の秘密戦略会議が始まりました。その内容は、(1)アメリカが宣戦した場合の共同作戦をどうするか(2)対独戦争を優先するでした。
 2月3日、対独伊ソ交渉案要綱を決定し、日ソ国交の調整に入りました。
2月、アメリカは、中国に、P-40B戦闘機100機を援助することを決定しました。
 3月1日、国民学校令が勅令により公布されました。小学校を国民学校と改称し、教科を国民科・理数科・体練科・芸能科に統合しました。
 3月11日、ルーズベルト大統領は、武器貸与法に署名しました。その内容は「「米国大統領がそれを防衛することが合衆国の防衛に不可欠と考える国の政府に、船舶・航空機・武器その他の物資を譲渡・貸与・支給する権限を大統領に与える」というものでした。その結果、アメリカの防衛に不可欠な国であるイギリスには310億ドル・ソ連には110億ドルなど合計500億ドルが貸与されました。
 3月12日、外相の松岡洋右は、ソ連経由で独伊訪問に出発しました。
 4月13日、対米強硬派の松岡洋右外相は、ソ連のモロトフ外相と日ソ中立条約を締結しました。松岡洋右外相の構想はで、先の日独伊三国同盟と今回の日ソ中立条約によって、日独伊ソ四国同盟が成立しました。これにより、対米強硬交渉は有利に展開するはずでした。
 4月16日、アメリカ国務長官のハル(71歳)は、駐米大使の野村吉三郎(65歳)に、神父のドラウトが作成した民間私案である日米諒解案を交渉の基礎として提議しました。この結果、日米交渉が正式に始まりました。その内容は、以下の通りです。
(1)日本国政府は枢軸同盟に基く軍事上の義務は該同盟締約国独逸か現に欧州戦争に参入し居らさる国に依り積極的に攻撃せられたる場合に於てのみ発動するものなることを声明す
 *解説(日本は、三国同盟の義務は、大戦に参加していない国によりドイツが攻撃された場合にのみ発動されます。つまり、アメリカが参戦しなければ、どうこういう問題ではありません)
(2)米国政府は戦争を嫌悪することに於て牢固たるものあり、其の欧州戦争に対する態度は現在及将来に亙り専ら自国の福祉と安全とを防衛するの考慮に依りてのみ決せらるへきものなることを声明す
 *解説(アメリカは戦争を嫌悪し、欧州戦争も自国の福祉と安全が脅かされるときのみ参戦する→つまり、アメリカは自衛のためにのみ参戦する)
(3)米国大統領か左記条件を容認し且日本国政府か之を保証したるときは米国大統領は之に依り蒋政権に対し和平の勧告を為すへし
 *解説(アメリカ大統領が次の条件を容認し、日本政府がこれを保証したときは、アメリカ大統領は蒋介石の重慶政府に和平を勧告する)
 @支那の独立A日支間に成立すへき協定に基く日本国軍隊の支那領土撤退B蒋政権と汪政府との合流C満州国の承認
 *解説(つまり、日本の軍隊が万里の長城に北に撤退したら、満州国を認めるというものでした。→この諒解案が真実ならば、日本にとってこの段階で、和平への道が確保されたことになります。実際、近衛首相は、日本の生命線として戦って犠牲者となった日本軍人を、どういう名目で撤退させるかを具体的に指示したといいます
10  4月22日、帰国した松岡洋右は、日米交渉に反対しました。
 4月、シンガポールで、アメリカ・イギリス・オランダは、連合作戦会議を開き、日本の南進を阻止する戦略を討議しました。この結果、日本は既に戦争中の中国を含め、ABCD四国に包囲されたと喧伝されました。AはAmerica、Bは Britain、CはChina、DはDutch という意味です。これがABCD包囲陣です。
 軍部は、これを口実に、「戦争に訴える以外に包囲陣をはねかえせない」と危機感を強調しました。
 4月、アメリカは、中国に、アメリカ空軍パイロット259人を派遣しました。
 5月9日、正式にタイ・仏印間平和条約が締結された。
 5月11日、野村吉三郎大使は、ハル国務長官に松岡洋右外相の修正案を提出しました。その内容は以下の通りです。
(1)日本は、日独伊三国同盟を堅持する
(2)アメリカは、ヨーロッパの戦争に参加しない
(3)アメリカは、中華民国への支援を打ち切り、日本と和平を結ぶよう中華民国に勧告する
 5月31日、ハル国務長官は、野村吉三郎大使に@アメリカの修正案を提出しました。
 5月、アメリカは、中国に、トラック300台と5000万ドルの軍事供与を決定しました。
 6月6日、大本営は対南方施策要綱を決定し、仏印・タイに軍事基地を建設することを決めました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
軍事も政治の1つの手段、ABCD包囲陣
 ドイツは、日独防共協定に違反して独ソ不可侵条約を締結しました。
 ドイツは、独ソ不可侵条約に違反して、電撃的にソ連を攻撃しました。これが独ソ戦です。日独伊三国同盟を結んでいる日本は、当然参戦すべき義務を負っていました。同盟国の日本にその知らせが入ったのは、同盟通信からでした。しかし、日本は、同時にソ連とは日ソ中立侵条約を締結していました。
 日本には、三国同盟・日ソ中立条約を締結していても、北進論と南進論の考えがあり、両論併用という考えもありました。ドイツがソ連を叩いている間に、日本は日ソ不可侵条約に違反して、シベリアに進出するというのです。
 もともと三国同盟の前身である日独防共協定は、名前の如く共産主義の防止を名目にしていました。 日独防共協定から三国軍事同盟に発展すると、英米を視野に入れて、独ソ不可侵条約・日ソ中立条約によりソ連を引き入れ、日独伊ソの四ヶ国同盟を企図しました。他方、日独伊に枢軸対して、ソ連は英米の連合国にも加盟していました。
 ソ連は、日ソ中立条約があるにもかかわらず、日本に宣戦を布告し、満州と朝鮮北部に攻め込みました。日本人は、だからロシア人は信用できないといいます。しかし、ソ連からすると、ヤルタ協定の秘密条項で、ドイツ降伏後3ヶ月したら、「アメリカやイギリスが南樺太・千島列島を与えるという条件をだしたので、いやいや参戦した」というでしょう。
 まさに、軍事も政治の1つの手段だったのです。善悪で判断できる状況でなく、マキャベリズムの様相を呈していたのです。
 色々な本やネットで見たABCD包囲陣の記事です。
(1)元内閣官房内閣安全保障室長の佐々淳行氏は「日本が、太平洋戦争を始めた時、ABCD包囲陣というものに囲まれていました。Aはアメリカ(米国)、Bはブリティッシュ(英国)、Cはチャイナ(中国)、Dはダッチ(オランダ)のことを指しています。ABCDの各国が手を組み、石油をやくず鉄の輸出を止めて、経済封鎖が起き、日本はやむを得ず戦うということになったわけです」
 *解説(浅間山荘事件などで指揮をとったことがあり、安全問題ではTV出演も多い佐々淳行氏の発言です。ここでは、ABCD包囲陣を歴史的背景にはまったく触れず、経済封鎖を追い込まれた日本が仕方なく戦争を仕掛けたとも言わず、『やむを得ず戦うということになった』と述べています。)
(2)次の文章は、ある視点に立った側の全てが端的に表現されています。
@アメリカは1939年に通商航海条約の破棄を通告した。イギリスやオランダも2年後これに続いた。日本は、羊毛、綿、マニラ麻から始まって、鉄、錫、アルミニウム、ゴムなど近代産業の柱になる物資を決定的に欠いているうえに、更に致命的な事に石油がなかった。気が付くと日本は、ABCD包囲網に取り囲まれて、石油をはじめとする戦略物資が、まったく入ってこなくなっていた。
 *解説(なぜ、米英蘭が経済封鎖をしたかの過程を示さず、いきなり、物資がない日本が、ABCD包囲網に取り囲まれて、石油などが入ってこなくなった。佐々淳行氏と同じ手法です)
A最近の研究によると、この包囲陣を画策したのは、どうやらイギリスのチャーチル首相のようである。アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が相談し、オランダに言う事を聞かせれば、イラン、アラブ諸国、マレー半島、北ボルネオ(ブルネイ)はイギリスの支配下にあり、インドネシアはオランダの植民地だった。何せ、石油までが止められているのだ。そのままでいれば、艦船一隻も動かせなくなるのは目に見えていた。
 *解説(米英が蘭に相談して、イラン・アラブ諸国・マレー半島・ブルネイ・インドネシアの石油を止めてしまったのである。そうなれば艦船の1隻も発動できない)
Bこれでは、国を守るという最低限のことすらも不可能になってしまう。どの国からも輸入できないのであれば、日本は日本なりの生き残り戦術を行うしかない。そこで大東亜共栄圏というアイデアが作られた。これは、東アジア全体を欧米の支配から切り離しても、やっていける経済圏にするという意味であった。
 *解説(これでは自衛できない。生き残るためのアイデアが大東亜共栄圏であった。つまり東アジアを欧米の支配から切り離してもやっていける経済圏構想である)
C石油の備蓄半年分ぐらいのところで、手持ちの石油のあるうちに、戦わねばならないというのが、日本海軍の宿命だったのである。このような事情であるから、先の戦争は、侵略と言うよりも、寧ろ自衛のための戦いと言った方が現実を反映している。あのマッカーサーですら認めた事なのである。
 *解説(手持ちの石油がなくなる前に、止むに止まれず戦争した。先の戦争は自衛のための戦争であった。マッカーサーも認めていることである)
Dしかも、東南アジアに於いて、日本はその地を侵略したわけでなく、白人に支配されている状況から解放しようとした。その意味では、白人支配からの解放であった。
 *解説(日本がやったことは、侵略でなく、白人支配からの解放であった→この文章は、まず、ABCD包囲網という経済封鎖があって、日本が生き残るために、大東亜共栄圏をつくる必要があった。日本が生き残るために、アジアを白人から解放するというのである。これはあきらかに自己矛盾である。石油がなければ、ABCD諸国と仲良くすればいいのである)
(3)次もある視点に立った人に共通に見られる意見です。
@ヒトラーは、ユダヤ人をスケープゴートにすることにより、資本家と労働者との階級的対立を解消した。おかげで、ドイツ民族は一致団結して、国家のために奉仕労働を行い、ドイツの生産力は飛躍的に増大した。多くの反対派議員を抱えて、ニューディール政策に行き詰まっていたルーズベルトも、国外にスケープゴートを見つけ、それを叩くことでアメリカ国民を一致団結させ、無制限な財政支出を可能にしようとした。そして、選ばれたスケープゴートが、日本人だった。
 *解説(ヒトラーは、ユダヤ人をスケープゴート=生贄にすることで、ドイツ民族は一致団結して、生産力を飛躍的に伸ばした。ルーズベルトはそのスケープゴートに日本人を選んだ→ヒトラーは国内のユダヤ人を選んだのに、ルーズベルトは国外の日本人を選んだのか、その理由がわからない。つまり結果論から書いた為にする文章である)
Aルーズベルトが日本との戦争を決断したのは、1940年の9月、日本が、北部仏印へ進駐し、日独伊三国同盟を締結した時のようだ。しかし、アメリカは民主主義の国であるから、大統領が戦争を決断したからといって、すぐに実行できるわけではない。第1次世界大戦の時にアメリカはヨーロッパの戦争に介入したが、犠牲が大きかった割には、得た利益は少なかった。その時の反省から、アメリカ国民の圧倒的多数は、外国の戦争に介入することには反対だった。そして議員のほとんども、伝統的な孤立主義者だった。このため、ルーズベルトは、国民に、アメリカが直接攻撃されることがない限り戦争はしないと約束せざるを得なかった。
 *解説(ルーズベルトが日本との戦争を決断したのは、日本の北部仏印・三国同盟の時である。第一次世界大戦に参加したアメリカは、犠牲に割には得たものが少なかった。この指摘は間違っている。アメリカはこの戦争で膨大な負債を一気に解決して、世界の指導者に躍進したのです。アメリカはモンロー宣言に見られるように、「他国に干渉せず他国からも干渉されず」の方針です。ルーズベルトは、攻撃を受けた場合自衛のために戦争すると約束しています)
B知日派の海軍情報部極東課長アーサー・マッカラム少佐が、日本を挑発してアメリカへの攻撃を余儀なくさせる策略を練った。ABCD包囲陣と呼ばれる経済封鎖により、戦争以外に選択肢がない窮地へと日本を追い込み、かつ軍事的に挑発する作戦である。日本はまだ日米開戦を避けようと努力していた。ところが、アメリカ側は、こうした機密文書の暗号を傍受・解読し、日本側が絶対に受け入れることができないハル・ノートを提出した。これは、アメリカが日本に突きつけた事実上の宣戦布告だった。
 *解説(ルーズベルトは、日本に攻撃させる作戦を立てました。それがABCD包囲陣という経済封鎖です。日本は日米開戦を避けようとしているのに、日本の暗号を解読して、アメリカは宣戦布告ともいうべきハル=ノートを提出した)
C真珠湾攻撃の計画も、立案の時点で直ちにアメリカ側に漏れたが、ルーズベルトは、本当に日本がアメリカを攻撃してくれるかどうか心配していた。もし、日本がマライ半島やインドネシアといったイギリスやオランダの植民地だけを攻撃したなら、宣戦布告の大義名分を失うからだ。そこで、ルーズベルトは、日本のスパイにハワイで調査を自由にさせ、ハワイに駐在するアメリカ太平洋艦隊に日本軍の奇襲攻撃計画の情報を送らなかったばかりか、奇襲攻撃が事前に太平洋艦隊に悟られないように、太平洋艦隊を含めた連合国側の船舶の北太平洋地域での航行を禁止した。ルーズベルトのこうした至れり尽くせりの配慮が実って、12月8日の真珠湾攻撃は大成功となった。
 *解説(真珠湾攻撃の計画も暗号解読されてアメリカに漏れていました。日本がイギリスやオランダの植民地だけを攻撃したら、宣戦布告の大義名分を失うことを心配していた。これも妙な表現です。真珠湾攻撃という場所を指定した暗号を解読していて、心配することもないでしょう。しかし、心配したルーズベルトは、日本のスパイを泳がせたり、ハワイの太平洋艦隊に奇襲攻撃計画を知らせなかった→暗号解読したのはどこに所属する誰でしょうか)
 (3)の話が事実としましょう。軍事も政治の1つの手段です。日本海軍もハワイ奇襲攻撃の直前に、宣戦布告すれば、奇襲でなかったのです。
 江戸末期、榎本武揚が戊辰戦争のときに使ったアボルダージという作戦があります。宮古入港の時には、外国旗を掲揚し、開戦に当って急ぎ日章旗に改め、敵艦を捕獲するという奇襲戦法です。奇襲ですが、国際的には合法でした。
 アメリカも罠を仕掛けるに、日本も罠を仕掛けるのです。それが戦争です。アメリカの罠にはまった日本が悪いのか、アメリカの罠に気がつかなかったのが悪いのか。
 罠と知りつつ、はまった振りして有利に展開する作戦もあります。私は女子のソフトボールを指導していました。走者がが2・3塁の時、捕手に2塁に牽制球を投げさせます。3塁走者は悠々と本塁に達します。そこで、強肩の捕手の場合、「セカン」と大声を出させて2塁に投げさせます。その大声につられて3塁走者が本塁に向かいます。しかし、2塁手は猛烈に前に進んで、送球をカットすると、本塁寸前で3塁走者をタッチアウトします。準決勝とか決勝で、試合が競っている時に唯一使用します。
 次に、教科書(山川出版社の『日本史B』)の記述を見てみましょう。
 「三国同盟の締結は、アメリカの対日姿勢をいっそう硬化させることになった。第2次近衛内閣では、日米衝突を回避するため日米交渉を開始した。
 一方、時を同じくして三国同盟の提携強化のためにドイツ・イタリアを訪問していた松岡洋右外相は、帰途モスクワで日ソ中立条約を結んだ。これは南進政策を進めるためには、北方での平和を確保するばかりでなく、悪化しつつあったアメリカとの関係を日ソ提携の力で調整しようとするねらいもあった。
 ドイツが突如ソ連に侵攻して独ソ戦争がはじまった。これに対応するためにひらかれた7月2日の御前会議は、軍部の強い主張によって、対米英戦覚悟の南方進出と、情勢有利の場合の対ソ戦(北進)とを決定した。
 第3次近衛内閣成立直後の7月末、すでに決定されていた南部仏印進駐が実行され、これに対してアメリカは在米日本資産を凍結し、対日石油輸出の禁止を決定した。アメリカは、日本の南進と「東亜新秩序」建設を阻止する意思を明確に示し、イギリス・オランダも同調した。日本の軍部はさらに危機感をつのらせ、*A「ABCD包囲陣」の圧迫をはね返すには戦争以外に道はないと主張した。
 *A軍部は、この時結ばれたA=アメリカ(America)、B=イギリス(Britain)、C=中国(China)、D=オランダ(Dutch)の4カ国の対日経済封鎖を中心とする包囲網を「ABCD包囲陣」とよび、日本を不当に圧迫していると国民に訴えた」
 扶桑社の教科書(『新しい歴史教科書』)の記述を見てみましょう。
 「日本は石油の輸入先を求めて、インドネシアを領有するオランダと交渉したが断られた。こうして、米・英・中・蘭の4国が日本を経済的に追いつめる状況が生まれ、ABCD包囲網とよばれた。
 1941年4月、悪化した日米関係を打開するための日米交渉がワシントンで始まったが、交渉はまとまらなかった。7月、日本の陸海軍はサイゴンに入った。これを南部仏印進駐という。サイゴンは、日本の南進の拠点となる軍事上の重要地点だったので、危機をつのらせたアメリカは、すぐに在米日本資産の凍結と対日石油輸出の全面禁止で報復した」
 *解説(扶桑社の教科書でも、ABCD包囲網の後で、南部仏印に進駐したのが、日米の全面対決となった書いています)
 次のような反論もネット上にありました。
(1)ABCD包囲陣はイギリスが仕組んだというのは、非常に目新しい斬新な主張です。交戦相手国である中国が敵対的なのは当たり前ですし、戦争をしているドイツと軍事同盟を結べば、交戦相手であるイギリス、*@オランダや、更にイギリスを支援しているアメリカとの関係が悪化するのも当たり前の話で、そんな当たり前の事態が生じたことを、大問題が生じたかのように騒ぎ立てるということは、逆に言えば、まるで先が読めないということになります。
 *@オランダは祖国をドイツに占領されましたが、ドイツ女王らはイギリスに亡命して、亡命政権を樹立していました。
(2)日本による新秩序形成が失敗したのは、アメリカの国力がまさっていただけではなく、他のアジア諸国がそれを歓迎しなかったことも大きい。日本による西洋帝国主義国からの解放に大きな期待をかけていたアジアの国もあった。しかし、日本の侵略行為は、西洋帝国主義国よりも過酷な植民地支配によって、それらの国々の期待は裏切られた。国際秩序を構成する国々の容認や支持がないかぎり、新秩序の形成や維持は不可能だ。

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