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エピソード

258_02

太平洋戦争U(独ソ戦、南部仏印進駐、関特演)
 1941(昭和16)年6月21日、ハル国務長官は、野村吉三郎大使と会談し、@アメリカが提出した5・31修正案の訂正案および松岡外相を非難するオーラルステートメントを野村大使に手交しました。
 オーラルステートメントの内容は、以下の通りです。
「三国同盟の下に於ける日本の誓約及意図を強調せる最近の公式声明(複数)の論調は、看過し得さる或る態度を例証し居れり、斯かる指導者達か公の地位に於て斯かる態度を維持し且公然と日本の與論を上述の方向に動かさんと努むる限り現在考究中の如き提案の採択か希望せらるる方向に沿ひ実質的結果を収むるための基礎を提供すへしと期待するは幻滅を感せしむることなるに非すや」
 *解説(三国同盟を締結した日本の意図を強調する論調は見逃すことができない。このような指導者が公の地位で公然と日本の世論を上述の方向に仕向けている限りは、現在話し合っている提案が希望する方向に進むと期待することに幻滅を感ずる→つまり松岡洋右のような対米強硬派が外相では、まとまる話もまとまらないということです)
 これを知った松岡洋右外務大臣は強く反発し、日米交渉は暗礁に乗り上げました。
 6月22日、ドイツ軍300万人は、電撃的、ソ連を攻撃しました。独ソ戦が開始されたのです。日本はドイツを当てにして、ドイツに裏切られました。そして、松岡洋右の構想が崩壊してしまいました。日本の外国の情報収集・分析の甘さが露呈したという感じです。
 海軍は、対ソ戦には絶対反対の立場でした。
 陸軍省は、独ソ戦を楽観せず、熟柿の落ちるのを待つ熟柿主義の立場でした。
 陸軍参謀本部は、渋柿なら叩き落そうという強硬主知の立場で、ソ連をドイツと挟撃する機会が来たと喜んだといいます。
 6月25日、連絡会議は南方施策促進に関する件を決定しました。これを南部仏印進駐といいます。
 6月、陸軍参謀本部作戦部長の田中新一少将は、独ソ戦を利用し、大動員をかけて関東軍の兵力を34個師団に増強し、日ソ中立条約を破棄して、東西からソ連挟撃しようと考えました。
 7月2日、御前会議は、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を決定しました。
 その内容は、以下の通りです。
(1)ソ連がドイツに圧倒的に不利な場合の対ソ戦を準備して、関東軍特別演習を行う。略して関特演といいます。これを北進論といいます。
 対ソ戦の目途として次の2点を挙げています@ドイツ軍のモスクワ進攻が希望的観測通り進捗することA極東配備のソ連軍がヨーロソパに還送されて、兵士が2分の1・戦車・飛行機が3分の1に減員のこと
 関特演の実施は、9月初頭から2ヶ月とされました。
(2)南方進出のため対英米戦をも辞せずというものでした。これを大東亜共栄圏の建設とか、南進論といいます。
 7月7日、陸軍参謀本部作戦部長の田中新一は、関特演のための動員令が極秘に下されました。目的は独ソ戦最中に、在満州兵力を25万人から120万人に増やし、ソ連を牽制することにありました。しかし実際に動員できたのは、兵士120万人の内70万人、馬30万頭の内14万頭でした。
 ソ連軍は300個師団900万人の兵力を持っていました。日本軍の5倍になります。極東配備のソ連軍は100万人だったので、動員70万人では太刀打ち出来ません。
 7月12日、英・ソ相互援助協定が調印され、対独共同行動・単独不講和を約束しました。
 7月16日、関特演のための動員令が中止され、兵力は南方に振り分けられました。
 7月16日、第二次近衛内閣が総辞職しました。
 7月18日、対米強硬派の松岡洋右外相を罷免し、その後任に豊田貞次郎を任命して、@39第3次近衛文麿内閣が誕生しました。陸相は東条英機、海相は及川古志郎、企画院総裁は鈴木貞一らが就任しました。近衛内閣は、日米交渉の継続方針を決定しました。
(1)アメリカの要求は、@満州を除く中国からの日本軍の全面撤退A日独伊三国同盟の事実上の死文化でした。
(2)日本の要求は、@アメリカの日中戦争への不介入A日本の物資獲得に協力でした。
 7月23日、日・仏印間に南部仏印進駐細目の話し合いが成立しました。
 7月25日、重慶で米英中の軍事合作協議が開かれ、ビルマルート防衛などの協定が成立しました。
 7月24日、野村吉三郎大使は、療養中のハル米国務長官に代わってウェルズ米国務長官代理と会談し、「7月28日に予定の南部仏領インドシナ進駐は日本として止むを得ない措置である」旨を説明します。これに対しウェルズ長官代理は、日米関係の悪化を警告し、日米交渉が中断しました。
 7月25日、アメリカは、(A)在米日本資産を凍結しました。
 7月26日、イギリスは、日英通商条約の廃棄を通告し、(B)在英日本資産を凍結しました。
 7月27日、蘭印も(D)在蘭印日本資産を凍結しました。
 7月28日、日本軍は石油・ゴム・アルミ資源など軍需物資の調達のために南部仏印に進駐しました。
 7月28日、蘭印は、日蘭石油民間協定を停止しました。
 7月31、昭和天皇は、参謀総長の杉山元大将に「南部仏印進駐が米国の対日硬化を誘発したのではないか。関特演などを続けるうちに日本の立場は次第に悪くなり、極東ソ連軍の西送もかえって鈍るのではないか」と質すと、杉山参謀総長は「関特演のねらいは不測の変に応じるためです」と返事したといいます。
 7月、アメリカは、中国に、軍事顧問団の派遣とB17戦闘機500機の援助を決定しました。
 8月1日、アメリカは、ウェルズ長官代理の警告に従い、日本を目標に発動機燃料・航空機用潤滑油の輸出を禁止しました。その結果、アメリカの(A)日本に対する石油輸出は全く停止しました。これを対日石油全面禁輸といいます。ABCD包囲陣の経済封鎖が強化されました。
(1)2年後には日本海軍の石油備蓄は底をつきます。1年以内には、重要産業の機能は停止します。これをジリ貧と表現しました。逆にアメリカの軍備は増強され、戦力の差は拡大するばかりです。
(2)軍部は、「死中に活を求める」とか「ジリ貧・経済的屈服よりは、戦うのは今しかない」という論法で、武力で包囲陣を撃ち破ろうと主張するようになりました。
 8月2日、アメリカは、対ソ経済援助を開始しました。
 8月7日、豊田貞次郎外相は、近衛首相とルーズベルト大統領との会談提議を野村吉三郎大使に訓令しました。豊田貞次郎外相は、日米関係の悪化を受け、日米首脳の直接会談が事態を打開すると考えたのです。その結果、日米交渉が再開されました。
 8月9日、ソ連軍の猛反撃で、ドイツ軍の対ソ進撃は停滞しました。そこで、大本営は、年内における北進策を断念し、南進策に一極化しました。
 8月12日、ルーズベルト・チャーチルは、米英共同宣言を発表しました。これが大西洋憲章です。その内容は、(1)日独伊三国同盟諸国の侵略行為を非難する(2)この戦いはファシズムに対する民主主義防衛の戦争であると宣言する(3)戦後社会を構築する、というものでした。
 この時、ルーズベルト大統領は「3ヶ月間日本をあやすこと(to baby)ができる」とチャーチル首相に語ったといいます。つまり、日米交渉は、アメリカが軍備を整えるまでの時間稼ぎと言ったというのです。
 8月16日、陸軍からの要請を受けた海軍は、「帝国国策遂行方針」を提示しました。
 その内容は、以下の通りです。
(1)10月下旬を目途として戦争準備と外交を併進させる
(2)外交が妥結しない場合は武力を発動する
 それに対して、陸軍は、「戦争の決意なくして、外交はない」と反対しました。
 8月17日、野村大使は、ルーズベルト米大統領と第4回目の会談を行ないました。ルーズベルトは、日本側が提案した日米首脳会談を成立させるには、日本の武力進出について「必要に迫られた場合、アメリカは必要と認めるあらゆる措置を執る」と警告し、「7月に中断した非公式会談を再開するには、首脳会談実現の前提として日本が態度を改めることが肝要である」と回答しました。
 8月28日、野村吉三郎大使は、ハル米国務長官と会談します。ルーズベルトの8月17日付け要望に応えるために、ハル長官を通じて、近衛メッセージをルーズベルト大統領に手交しました。
 9月3日、ルーズベルト大統領は、ハル4原則について合意に達した上でなければ会談には応じられないと回答しました。
 9月3日、大本営政府連絡会議が開かれ、「戦争を辞せざる決意のもとに戦争準備と外交を併進させる」という陸海軍の妥協案が生まれました。アメリカとの交渉を継続する近衛首相と即時開戦を主張する東条英機陸相が衝突しました。しかし、海軍が陸軍に同調しました。
 9月6日、御前会議は、「帝国国策遂行要領」を決定し、10月下旬を目途として対米・英・蘭戦争準備を完成することを決めました。その内容は、以下の通りです。
(1)帝国は現下の急迫せる情勢特に米英蘭等各国の執れる対日攻勢ソ聯の情勢及帝国国力の弾撥性等に鑑み『情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱』中南方に対する施策を左記に依り遂行す。
(2)帝国は自存自衛を全ふする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す
(3)帝国は右に竝行して米、英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む
(4)外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す
(5)対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最少限度の要求事項
 @米英は帝国の支那事変処理に容喙し又は之を妨害せざること
 A米英は帝国の所要物資獲得に協力すること
 9月6日、「帝国国策遂行要領」が決定されると、昭和天皇は「四方の海 みなはらからと 思う世に など波風の 立ち騒ぐらむ」という明治天皇の歌を読み上げ、外交に和平への道を示唆しました。
 9月12日、産業報国会は、働け運動を展開しました。
 9月24日、スターリンのソ連とド=ゴールの自由フランスら15国は、大西洋憲章に参加しました。この結果、ソ連は、三国同盟の1つであるドイツと戦い、もう1つの日本とは中立条約を結び、三国同盟でドイツと戦っているイギリスと同盟し、中立国のアメリカとも同盟するという不思議な立場になりました。
 9月27日、アメリカのハル国務長官は、「三国同盟によって米国政策が変更されることはない」と声明しました。
 駐日アメリカ大使のグルーは「極東の問題はヒトラーの世界制覇の企図によって発生した世界危機の一要素となった」と語りました。
 9月、満州に70万の兵力を集中して、関東軍特別演習(関特演)を行いました。
 9月、ソ連の諜報員であるゾルゲより「日本の北進論断念」を知ったソ連は、極東配備のソ連軍をヨーロッパ戦線に投入しました。これが独ソ戦の転換点になったといいます。
10
兵員 師団 戦車師団 戦車旅団 混成旅団 戦車 飛行機
1942年 関東軍 65万人 14
極東ソ連軍 145万人 27 20
1945年 関東軍 75万人 24 200両 200機
極東ソ連軍 174万人 70 40 5300両 5200機
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
軍事も政治の1つの手段、アメリカの罠?、関特演
 日本はアメリカの罠にはまったという意見がありますが、両方の資料で歴史を見てみました。
(1)1933(昭和8)年3月、日本は国際連盟からの脱退を通告しました。
(2)1934(昭和9)年12月、日本はアメリカに、ワシントン条約単独廃棄を通告した結果、ワシントン海軍軍縮条約が失効しました。
(3)1936(昭和11)年1月、日本はロンドン軍縮条約からの脱退を通告しました。
(4)1939(昭和14)年1月6日、ドイツ外相は日独伊三国同盟案を正式に提案し、日本が受け入れを表明した結果、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告しました。
(5)1940(昭和15)年1月、日米通商航海条約が失効した結果、アメリカは石油・くず鉄を輸出許可制にしたり、航空用ガソリンの輸出を禁止するなどの経済政策を実施しました。
(6)1940(昭和15)年9月、日本軍は北部仏印に進駐しました。
 @北部仏印進駐の理由をアメリカの経済制裁のせいにする人がいます。
 A日独伊三国同盟を牽制するするために、アメリカは経済制裁をしたという人がいます。
 9月27日、ベルリンで、仮想敵国をアメリカとする日独伊三国同盟が調印されました。
(7)1941(昭和16)年7月、アメリカは在米日本資産を凍結し、蘭印も在蘭印日本資産を凍結しました。その後、日本軍は南部仏印に進駐しました。
 @日本が日独伊三国同盟に調印したので、アメリカや蘭印は日本資産を凍結したという人がいます。
 Aアメリカや蘭印が日本資産を凍結したので、日本軍は南部仏印に進駐したという人がいます。
(8)1941(昭和16)年8月、アメリカは日本に対する石油輸出は全て停止しました。9月、御前会議は10月下旬を目途として対米・蘭戦争準備を完成することを決めました。
 @アメリカが石油禁輸をしたので、日本は自存自衛のために戦争に突入したという人がいます。
 A自存自衛は日本が戦争を仕掛けた口実であるという人がいます。
(9)次に、日本に対する戦争挑発計画を指摘する人がいます。その人の説を紹介します。
 1940(昭和15)年10月7日、ワシントンの海軍情報部極東課長であるアーサー・マッカラムは、「太平洋における状況の概要と合衆国が取るべき行動の勧告」を立案しました。
 黄禍(Yellow Peril)の中心である日本の勢力拡大を阻止し、アジア・太平洋地域における米国の覇権獲得及び白人によるアジアの植民地支配体制の維持を図る。
 第二次大戦においてドイツ軍が勝利を収めれば、米国の安全保障に脅威を与える事態になる。現実に、ドイツはフランスを占領しており、イギリスを支援するために、アメリカは早急にヨーロッパに参戦する必要があった。
 しかし、1941年1月に実施されたギャラップ社の世論調査によれば、アメリカ国民の88%はヨーロッパ戦争の介入に反対でした。そこで日本に対する戦争挑発計画を実施することにより、日本に最初の弾丸 ( First Shot )を発射させ、アメリカの世論を参戦に向かわせる。日本と戦争になれば、日独伊三国同盟により、アメリカはヨーロッパ戦争にも参戦できるというものでした。
 1941年7月、アメリカは、マッカラムの戦争挑発計画に従い、イギリス・オランダと共謀して、日本資産1億3000万ドルを凍結し、貿易・金融関係を全て断絶する経済封鎖を実施しました。まさに開戦を意図した挑発行為そのものでした。
 1941年8月、アメリカの大統領ルーズベルトは、イギリス・オランダと協力して石油など戦略物資の対日輸出禁止の追い打ちを掛けました。当時の日本の石油自給率は僅か5%であり、95%を対日経済凍結地域からの輸入に頼っていたため、日本経済の窒息はもとより、国家としての存亡の危機に見舞われました。これこそルーズベルトが日本をして先制攻撃をさせる為に仕組んだ筋書きでした。
 ロンドンにある王立公文書館の資料の中に、1941年8月10日にルーズベルトがチャーチルに「如何にしたら日本が先に、米国に攻撃を仕掛けるかを検討中である」と述べた旨の記録がありました。
 日本が真珠湾を攻撃したニュースを聞いたチャーチルは、これでドイツとの戦争に勝てると大喜びしたと伝えられています。
 次に関特演の話です。
 関特演を計画した作戦部長の田中新一は、佐藤賢了陸軍省軍務局長とつかみ合いの喧嘩をやったり、総理官邸で「バカヤロー」といったりする人物だったそうです。
 また、極東裁判で「作戦部長は上にいわれて計画を作るだけだ」と言い訳して、罪を武藤軍務局長にかぶせた人物だったそうです。
 このような人物が戦争の指導者だった、否、このような人物をチェックできなかったことに、戦前の軍隊制度の問題点を見て取れます。

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