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エピソード

261_01

戦局の転換(マレー半島上陸、シンガポール攻略、マニラ占領、蘭印占領)
 日本軍の南方作戦の最終目的は蘭印(オランダ領東インド)の石油獲得です。マレー半島上陸・シンガポール攻略・マニラ占領は、蘭印を獲得するための前哨戦でした。蘭印とは、ボルネオ島・ジャワ島・スマトラ島で構成されており、現在はインドネシアと言われています。
 蘭印の石油生産は1000万トンで、日本の需要量300万トンを3倍以上も上回っていました。
 これが大東亜共栄圏の構想であり、大東亜戦争の実態です。何をもって大東亜戦争は正義の戦いなのか、検証してみました。
 1941(昭和16)年10月18日、@40東条英機内閣が誕生しました。
 10月24日、ドイツ軍は、ソ連のハリコフを占領しました。
 11月10日、陸海軍は、連合艦隊と南方軍との協定覚書を締結し、ハワイ攻撃を絶対優先すべきことを陸海軍双方が確認しました。それを基に、陸軍は密かに次のような攻略予定を決定しました。オランダ領インドネシア(蘭印)には石油資源があり、日米開戦に突入するには絶対に確保すべき地域とされました。蘭印を確保する前提としてイギリス領マレー半島のシンガポールを占領する必要があったのです。
(1)紀元節の2月11日にシンガポール占領する
(2)陸軍記念日の3月10日にスマトラ占領する
(3)天長節の4月29日にオランダ領インドシナ(今のインドネシア)を占領する
 11月16日、ドイツ軍は、ソ連のセバストポリ要塞を包囲しました。
 12月2日、香港攻略命令が発令されました。
 12月2日、イギリス首相のチャーチルが派遣した最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウエールズと巡洋戦艦レパルスがシンガポールに到着しました。
 12月3日、中国の海南島に待機していた陸軍部隊は、「海戦は2月8日に決す」という暗号電報を受信しました。
 12月4日、海南島に待機していた陸軍部隊は、17隻の輸送船団で、マレー半島に向かいました。
 12月8日、ヒトラーは、モスクワ攻撃放棄を指令しました。
 12月8日2時15分、第18師団の歩兵第23旅団長である侘美浩少将率いる先遣部隊は、英領のマレー半島東北部コタバルに上陸を開始しました。守備するイギリス軍の歩兵第8旅団6000人と激戦し、死者700人を出しましたが、コタバル市と飛行場を占領しました。これをマレー半島の上陸といいます。アジア・太平洋戦争の開始はこの時といわれます。
 12月8日3時25分、日本の機動部隊はハワイの真珠湾を空襲し、米戦艦の主力を撃破しました。
 12月8日、アメリカ・イギリスに宣戦の詔書が出されました。
 12月8日4時、第25軍司令部司令官の山下奉文中将と第5師団の主力2万5000人は、タイ領のシンゴラに上陸しました。
 12月8日4時、第5師団の一部がタイ領のパタニに上陸しました。
 12月8日13時30分、南部台湾に集結した陸海航空隊500機と在フィリピンの空軍200機は、フィリピンのクラークフィールド基地とイバ基地を攻撃して、100機を炎上させました。
 12月8日19時、サー・トーマス・フィリップ中将が率いるイギリス海軍東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウエールズ・巡洋戦艦レパルス・駆逐艦4隻が、日本軍がコタバル・シンゴラに上陸したと聞き、日本軍のマレー半島上陸を阻止するため、シンガポールを出港しました。
 陸軍のマレー上陸支援にあたったのは、司令長官小沢治三郎中将率いる南遣艦隊でしたが、寄せ集め艦隊でした。
 12月8日、アメリカ・イギリスは、対日宣戦を布告しました。日米の開戦です。
 12月9日10時30分、第23軍軍司令官の酒井隆中将は、九竜半島攻略の準備を命令しました。
 12月9日夕、第38師団の佐野忠義中将は、歩兵228連隊の先遣隊である若林東一中尉が指揮する第11中隊に九竜半島の標高255高地の偵察を命じました。所が、若林東一中尉は、兵力配備の欠陥と警戒の欠如に乗じて、独断で255高地を奪取しました。
 12月9日、イギリス東洋艦隊は、日本軍がクワンタン(コタバルとシンガポールの中間地点)に上陸したという情報が入ったので、北方に転進しました。これをクワンタン沖で哨戒中の日本軍の潜水艦に発見されました。小沢治三郎中将は「敵レパルス型戦艦2隻見ゆ」との電報を受け、重巡洋艦5隻・軽巡洋艦4隻を集合させ、夜襲に備えました。
 12月9日、松永貞市少将は、第1航空部隊・海軍22航空戦隊の航空機をサイゴンから元山航空隊26機・美幌航空隊33機・鹿屋航空隊26機を発信させました。しかし、スコールのため、イギリス艦隊を発見できませんでした。
 12月9日、蒋介石の国民政府は、対日・独・伊宣戦を布告しました。
 12月10日11時45分、サイゴンから発信した索敵機がクワンタン沖で「英戦艦2隻、駆逐艦3隻発見」と打電してきました。
 12月10日12時45分、松永貞市少将のサイゴンの陸上攻撃機85機は、上空で待機していたので、イギリス東洋艦隊に波状攻撃を行いました。イギリス艦隊には、護衛の戦闘機が付けておらず、無防備の状態で、爆弾と魚雷を受けました。
 12月10日14時、魚雷13本・爆弾1発を受けて、レパルスが沈没しました。
 12月10日14時50分、魚雷7本・爆弾2発を受けて、プリンス・オブ・ウエールズが沈没しました。両戦艦の乗員2921人のうち2081人が救助されましたが、司令長官のフィリップ大将とウェールズ艦長のリーチ大佐は戦艦と運命を共にしたということです。日本軍の犠牲は21人でした。これをマレー沖海戦といいます。
 日本の陸上攻撃機は、戦艦2隻の沈没を見届けた後、翼を振って英軍将兵の健闘を讃えながら去り、翌日には2機が飛来し、日・英両軍の死者の霊を弔うために2つの花束を海中に投じたといいます。
 まだ、このように余裕のある時代は、敵を敬う人情が残っていたのですね。
(1)航行中の戦艦を飛行機だけで撃沈したという教訓は、決戦による航空機の優位性という戦術を示したことを意味します。
(2)イギリス東洋艦隊派壊滅し、日本軍は南シナ海の制海権を確保し、マレー上陸作戦の海上からの妨害を排除しました。
 12月10日、日本軍は、グアム島を占領しました。
 12月10日、日本軍の先遣部隊は、フィリピン北部に上陸しました。
 12月11日、独・伊は、対米宣戦を布告しました。
 12月12日、東条内閣は、閣議で、戦争の呼称を、支那事変を含めて大東亜戦争とすることに決定しました。
 12月12日、38師団の佐野忠義中将は、イギリスの東アジアの拠点である九竜半島の防御線の突破に成功しました。イギリス軍は、香港島に撤退しました。
 12月13日、佐伯語作中佐が率いる挺身隊600人は、英印軍6000人が守備するタイとマレーとの国境に近いジットラ・ラインを突破しました。ジットラ・ラインは、インド第11師団の第6・第15旅団の守備する有力なる防御線でした。英印軍の死者は1000人、捕虜は1000人でした。日本軍の死者は27人、負傷者は83人と記録されています。
 12月18日、第1砲兵隊司令官の北島騏子雄中将率いる重砲隊は、香港島北角付近と東北部の2カ所から渡海し、香港島東北部を占領しました。
 12月24日、第14軍司令官の本間雅晴中将率いる主力がリンガエン湾に上陸したのに続いて、第16師団主力がラモン湾に上陸を開始しました。米比軍司令長官のマッカーサー大将は、日本軍を過大評価して、マニラから米比軍の主力8万人をバターン半島に後退させました。マッカーサーは、バターンに日本軍を引き込んで戦う拠点としました。
 12月25日、香港のイギリス軍は降伏しました。これを香港攻略といいます。イギリス側の戦死1555人・捕虜9495人、日本側の戦死633人・負傷1413人でした。
 12月、第16軍軍司令官の今村均中将指揮下の第2師団師団長丸山政男中将は、歩兵第55旅団 旅団長の 川口清健少将率いる川口支隊にイギリス領北部ボルネオ要地を占領させました。
 1942(昭和17)年1月1日、連合国の26カ国は、ワシントンで連合国共同宣言に調印し、日独との単独不講和・大西洋憲章の原則を承認しました。
 1月2日、本間雅晴中将は、マニラを無血占領しました。軍司令部は、マッカーサーの米比軍を「戦わずにジャングルに逃げ込んだ弱将と弱兵」と侮り、その数も3万人と誤算をしていました。日本の大本営や南方軍はマニラ占領で目的を達したとして、第48師団を蘭印作戦に投入し、第5飛行集団もタイ方面に転進させました。
 1月2日、ジットラから南下した日本軍第5師団の主力は、カンバルを攻略しました。
 1月3日、蘭印に、米英蘭豪(ABDA)連合司令部を設置し、司令官にイギリスのウェイベル将軍が就任しました。
 1月7日、カンバルから南下した日本軍第5師団の主力は、スリムを攻略しました。
 1月9日、第14軍司令官の本間雅晴中将は、マッカーサーを侮り、軽装備の治安警備部隊である第65旅団7000人にバターン攻撃を命じました。しかし、標高1000メートルのナチブ山で猛烈な砲撃を受けました。治安警備部隊には戦闘用の大砲もなく、小銃だけで突進しました。その結果2000人が死傷しました。
 1月10日、第16軍司令官の今村均中将率いる混成第56歩兵団の坂口静夫少将の支隊5000人がボルネオ島北部から上陸しました。
 1月11日、スリムから南下した日本軍第5師団の主力は、クアラルンプールを攻略しました。
 1月18日、ベルリンで、日独伊軍事協定に調印し、東経70度から米国西沿岸を日本、東経70度から米国東沿岸を独伊の作戦地域と決定しました。
 1月25日、タイは、対米英宣戦を布告しました。
 1月30日、クアラルンプールから南下した日本軍第5師団の主力はジョホールバルに到着しました。ジャングルを切り開き、200の河川に架橋しての進軍でした。英米蘭豪連合地域最高指揮官のウェーベル大将は、シンガポール島に撤退を開始しました。イギリス側の被害は、戦死1535人・負傷2257人・捕虜7800人に達しました。
 2月3日、コタバルから南下した侘美浩少将率いる先遣部隊もジョホールバルに到着しました。第18師団もジョホールバルに到着し、日本軍は6万人に達しました。
 2月4日、第21航空戦隊の陸攻機が米・英・蘭・濠連合海軍とジャワ島で海戦しました。これをジャワ島沖海戦といいます。
 2月8日、第14軍司令官の本間雅晴中将は、バターン攻略を、増援到着を待ち攻撃再開することにしました。
 2月9日、日本軍は、ジョホールバルから20万発の砲撃をしながら、シンガポール島に架かる橋の修復作業を行いました。右翼に牟田口廉也中将率いる第18師団、中央に第5師団、左翼に近衛師団と三手に分かれて、上陸しました。英印軍13万人と激戦となりました。
 2月10日、坂口静夫少将の支隊5000人がボルネオ島の拠点バリクパパンを占領しました。しかし、油田地帯はオランダ軍によって破壊されていました。
 2月11日、紀元節のこの日にシンガポールを陥落させるとあせる日本軍は、標高180メートルのブキテマ高地に突入しました。イギリス軍は、杉浦英吉少将率いる第5師団第31旅団と第18師団に砲撃を集中し、猛反撃を行いました。日本軍の被害は甚大となりました。
 2月14日11時26分、第1挺身団団長の久米精一大佐が率いる空挺部隊430人は、スマトラ島のパレンバン油田付近にパラシュートで降下しました。これを空の神兵といいます。ともかく、イギリス軍が油田と精油所破壊する前に、油田地帯を確保するには、シンガポールを陥落させる以前に、パレンバンを占領する必要がありました。
 2月14日21時、久米精一大佐が率いる空挺部隊は、飛行場を占領しました。その後パレンバンを占領しました。
 2月15日、日本軍の砲弾が底をつき、戦闘を一時中断する直前に、英印軍は給水と食事の備蓄が24時間分だったので、英軍参謀長のニュービギン少将・インド第3軍団参謀のワイルド少佐らは停戦を申し入れました。第25軍は、情報参謀の杉田一次中佐らを現地に派遣し、降伏条件を提示しました。
 2月15日19時15分、司令官の山下奉文中将は、英印軍総司令官のパーシバル中将と会見し、英印軍は正式に降伏しました。これをシンガポールのイギリス軍が降伏といいます。この時山下奉文は、停戦を申し入れるパーシバルに「日本の夜襲の時刻も迫っているが、降伏するのかどうか?”イエスかノー”で返事せよ」とテーブルをドンと叩いて迫ったという話が残っていますが、これはフィクションと言われています。イギリス側の被害は、戦死1713人・負傷3378人・捕虜10万人でした。これがシンガポール陥落です。
 2月20日、第38軍の主力は、スマトラ島の主要精油所を占領しました。
 2月20日、日本の駆逐艦2隻がドールマン少将率いる連合海軍の巡洋艦3隻・駆逐7隻とバリ島で海戦し、蘭駆逐艦ピートハインを沈没、軽巡トランプを中破させました。これをバリ島沖海戦といいます。
 2月27日、スラバヤ沖海戦で連合海軍はほぼ壊滅しました。これをスラバヤ沖海戦といいます。
10  3月1日、アメリカの重巡洋艦ヒューストンとオランダの軽巡洋艦パースは、バタビヤ(今のジャカルタ)沖で、日本の輸送船団を攻撃しましたが、逆に、日本の重巡洋艦三隈・最上らが所属する第7戦隊に撃沈されました。これをバタビヤ沖海戦といいます。この結果、ジャワ島付近の制海権は、日本海軍が握りました。
 3月1日、第16軍軍司令官今村均中将は、ジャワ島のクラガン岬に上陸しました。
 3月8日、今村均中将は、第16軍の第3飛行集団長である遠藤三郎少将に援護させ、第38師団第230連隊基幹の東海林俊成大佐率いる支隊に対して、蘭印守備軍3万人が守るバンドン要塞を攻撃させました。バンドンはジャワ島の首都バタビアの直ぐ南にあります。その結果、バンドン防衛司令官のベスマン少将が降伏を申し出ました。
 3月8日、第48師団も、ジャワ島東部のスラバヤを占領しました。イギリス側の被害は戦死は不明・捕虜8万2618人、日本側の被害は戦死255人・負傷702人でした。日本軍は、蘭印のジャワ島を占領したことで、年産1000万トンの油田地帯を確保したことになります。
 3月12日、米比軍司令官のマッカーサー大将は、ルーズベルト大統領の命令で妻子を連れてコレヒドール島からオーストラリアに脱出しました。この時、後任にウェーンライト中将を指名しました。マッカーサーは、フィリピンを去るときに、「アイ・シャル・リターン」という有名な言葉を残しました。
 3月、フィリピンでフクバラハップという抗日人民軍が結成されました。
11  4月3日、マッカーサーは、バターンで、「シンガポールは落ちたがコレヒドールは健在である」と宣伝して、米比軍の士気を鼓舞しました。増援軍を得た第14軍司令官の本間雅晴中将は、バターンに対して第2次攻撃を開始しました。
 4月9日夜、第4師団と第16師団は、バターン南端のマリベレスに突入し、米比軍指揮官のキング少将は降伏しました。
 4月9日、本間雅晴中将は、コレヒドール要塞を攻撃するため、降伏した捕虜8万人を、バターンからサンフェルナンドまでの88キロを、護衛付で18日間かかって移送しました。炎天下で、食糧の用意も不十分だったので、1万7200人が死亡しました。これをバターン半島死の行進といいます。
 4月14日、第14軍司令官の本間雅晴中将は、砲兵隊に対して、バターン南端よりコレヒドール要塞を砲撃させました。コレヒドール要塞には、沿岸砲台23、要塞守備隊13000人が守備していました。
 4月18日、空母発進の米軍機16機は、東京・神戸などを初空襲し、華中の基地に着陸しました。
 4月19日、マッカーサーは、西南太平洋連合軍司令官に就任しました。
 5月7日、コレヒドール要塞を守備するウェーンライト中将ら米比軍が降伏しました。マニラ放送を通じて全米比軍に投降を呼びかけました。米比軍の被害は戦死は不明・捕虜8万3631人で、日本側の被害は戦死4230人・負傷6808人でした。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
「イエス ノー」問答、バターン死の行進、捕虜の扱い
 マッカーサーがこれはコレヒドール島から、家族や幕僚30人を連れて、オーストラリアのダーウィン空港に脱出しました。この時、マッカーサーは「私がオーストラリアに送られたのは、攻勢のため新たな部隊を編成するためであり、その主要目的はフィリピンの解放である。私は必ず帰る(アイ・シャル・リターン)」と言ったという有名な話があります。
 この時、見捨てられた米兵は、「便所に言ってくるぞ、アイ・シャル・リターン」などと使い、マッカーサーを皮肉ったという話もあります。 
 私が不思議に思うのは、約束を守って、マッカーサーが再びフィリピンに帰ってきたとき、フィリピンの原住民ゲリラがマッカーサーに協力したことです。原住民ゲリラを味方にするか、敵にするかで、戦局は180度も違ってきます。日本軍の統治に問題があったしか考えられません。
 色々調べてみると、抗日フィリピンゲリラの話によると、マッカーサーの「I shall return」はとても励みになったという記録がありました。
 次に有名な話が「マレーの虎」と恐れられた山下奉文中将が、イギリス軍のパーシバル中将と会見しました。その時の会話が残っています。
 山下奉文中将が「貴軍は降伏するつもりか」と問うと、パーシバル中将が「停戦したい」と答えたので、再度山下中将は「貴軍は降伏するのかどうか、”イエス”か”ノー”で返答せよ」とテーブルを叩いて迫りました。そこで、パーシバル中将は「イエス」と答えました。
 宮本三朗が描いた『山下奉文大将とパーシバル大将のブキテマ高地における歴史的な城下の誓い』という有名な絵があります。軍刀をステッキ代わりにしているのか、太って不遜な山下中将という雰囲気です。手前にはやせ細ったイギリス将校が描かれています。この絵を見て、「まぶしいばかりの光景」と感じたり、日本の威光に涙を流した婦人もいたということです。私は、自分が逆の立場にもなる可能性もあるので、不愉快な気分になりました。
 後に、情報参謀の杉田一次中佐の証言によると、以下のようになっています。 
 パーシバル中将は、自分の意見を言った上で、降伏文書に署名する考えでしたが、山下中将は、「こまかい話合いは後回しだ、無条件降伏するのか、しないのかをまず決めよ」という態度でした。このような雰囲気を新聞記者が「山下将軍激怒す」 と誇張して報道したのが、原因だろうと・・・。
 1945年12月7日、山下奉文は、裁判の結果、「ルソン島における日本軍の残虐行為」の責任により死刑の判決を受け、絞首刑に処せられました。
 次のバターン死の行進です。防衛庁防衛研修所戦史室の『比島攻略作戦』には次のように記録されています。
 「降伏時バタアン半島の米比軍と流民の状況は、士気は全く衰え、食料の不足とマラリアの流行とのため極度に衰弱していたが、コレヒドール攻略戦を目前に控えた軍としては、その準備や防諜上の観点、および米比軍の砲爆撃によって傷つけないためにも、これらの捕虜や住民を原位置に留めておくことはできなかった。・・・比較的食糧などを補給しやすい地域に、徒歩で移動させなければならない事情にあった。・・・彼らはトラックで移動することを常とし、徒歩行軍に馴れていなかったことである」
 *解説(@コレヒドール攻略のために、食糧が補給しやすい場所に移送させる必要があったA栄養失調とマラリアでバタバタ倒れたB捕虜はトラック移動に慣れており、徒歩行軍には慣れていなかった)
 死の行進について、色々な意見があります。
(1)マラリアにかかった捕虜を、トラックにも乗せないで5日も歩かせれば倒れて死ぬ者が出るのは当然でありますが、日本軍としては捕虜を虐待する意図はなかったのでしょうが、結果として虐待ということになってしまいました。
(2)日本軍の進撃に度肝を抜かれ、圧倒的優勢なはずの比島兵・米軍があっけなく降伏をしたために、突出して進軍していた日本兵がその捕虜達を後方に護送して行く時に、起こった悲劇である。日本軍も食糧なく疲労困ぱいの時に捕虜である敵兵をどうして優遇できようか。バターン死の行軍というのは、卑怯にも敵が戦わずして投降したための自業自得という他はない。本間雅晴中将が処刑されたのは、勝者の復讐というしかない。戦略とはいえ、この時、部下を残して敵前逃亡したのがマッカサーである。
(3)移送手段は「徒歩」によるものが一般的な日本軍と、「車両」によるのが一般的な米軍の認識の相違で、当時の日本では常識的な対応だったのである。糧食の不足やマラリア等で敵捕虜の多くが既に体力を消耗しており、このことをもって日本軍の「残虐行為」などとするのは不当と言わざるを得ない。この「事件」の戦後の裁判は、敗将マッカーサーの本間中将への復讐劇でもあった。
(4)捕虜を合法的(?)に始末しようとしたのではないでしょうか。
 死の行進については、私にはわからない点がたくさんあります。
(1)護衛の日本軍に死者はいたのでしょうか。特に記録がないので、死者はゼロだった可能性があります。懐に飛び込んできた敵は匿うという日本精神はどうなったのでしょうか。
(2)一番大きな疑問は、捕虜に対する考えだと思います。マレーの虎と言われた軍人でもトップ級の山下奉文中将が、敵将のパーシバル中将に対してとった態度が、悲しいかな当時の軍人の現実だったのでしょうか。
(3)日本軍は水筒1個に食糧も少々だったといいます。そんな状況で、炎天下、80キロ5日間、徒歩で移送する必要があったのでしょうか。人権に配慮し、コレヒドール攻略に邪魔しない場所がなかったのでしょうか。
 捕虜の無謀な死の行進を仕方がなかったという残酷な精神を何時ごろから日本人は身に着けたのでしょうか。平泉澄氏は、この頃日本精神は輝いていたといいますが、どの部分を指しているのでしょうか。
 規定で1位のアメリカのコーエン選手がフリーで2度転倒し、規定で3位の荒川選手がフリーでは完璧で魅力的な演技をしました。最後に規定で2位のロシアのスルツカヤ選手がフリーで転倒しました。惨敗の日本選手の中で唯一のメダル、しかも金メダルを荒川選手が獲得したので、おのずと焦点は荒川選手に集まりました。
 2006年2月28日、小坂憲次文相がトリノの冬季オリンピックで金メダルを獲得した荒川静香選手と懇談しました。その時、ロシアのスルツカヤ選手がフリーで転倒したことを「喜んだ」と発言しました。この発言に対して、「政治の世界はここまでフェアプレーというものと縁が遠くなったのか」とがっかりした人もいました。このような人物が説く愛国心とはどんなものでしょうか。他人の不幸をなんとも思わない死の行進と似た愛国心でしょうか。
 捕虜の取り扱いについては、1907(明治40)年にハーグ平和会議で成立したハーグ陸戦条約があります。日本は1912(大正元)年に批准しました。その内容は、以下の通りです。
(1)捕虜となった者への人道的取り扱い(第4条)
@捕虜は、敵対政府の管轄下におかれ、捕まえた個人(部隊)の自由にはできない。
A捕虜は人道をもって取り扱わなければならない。
B捕虜の持ち物は武器、馬、軍用書類以外は取り上げられない。
(2)捕虜は安全の為も含めて拘留される(第5条)。
(3)戦争に関係のない、過度ではない労働をさせられる。その時は代価を支払う事(第6条)。
(4)敵政府によって食料や寝具の配給を受ける(第7条)。
(5)交戦国は捕虜情報局を設置して捕虜の情報を提供、保存する(第14条)。
(6)宗教の自由は認める(第18条)。
(7)平和回復の後は、成るべく早く捕虜を返還する(第20条)。
 私の記憶には、姫路のお寺(妙行寺)に日露戦争時の捕虜の写真がありました。「天気のいい日には、ロシア人が市川河原まで散歩に出かけて運動したり、畑を作る者もいた。それを、珍しくて見物したものだ」という地元の人の話が残っています。これは明治38(1905)年頃の話です。
 日露戦争の捕虜は、1899年に制定されたハーグ条約(俘虜の人道的扱いの権利として明記)によって扱われたのです。愛媛県の松山では、捕虜の扱いが特によいので、「マツヤマ」と言って降伏するロシア兵がいたという話が残っています。
 鳴門市にドイツ館があります。第一次世界大戦中に、板東俘虜収容所には、中国の青島で捕虜となったドイツ人1000人がやってきました。松江豊寿所長は、「ドイツ兵も国のために戦ったのだから…」と考え、捕虜の文化活動にも理解を示しました。それが日本で最初のベートーヴェンの「交響曲第九番」演奏につながったのです。指揮者をした人の名まで残っています。ヘルマン・ハンゼンという人です。
 第一次世界大戦の捕虜は、1907年に制定された第2ハーグ条約(食事・衣服などはその国の軍隊と同等にする、将校にはその国の将校と同じ俸給を支給する)によって扱われたのです。
 私の記憶と死の行進との間に相当のギャップがあります。そこで、調べてみました。
 1941(昭和16)年1月、陸相の東条英機が『戦陣訓』を作りました。それには「生きて虜囚の辱をうけず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」と書かれていました。戦争体験者から捕虜の話を聞くと、「白人を臆病もんが多い。わしらは、捕虜になるぐらいやったら、死んだ方がましやと思とった」と言います。
 この話の中に全てがこめられています。皇軍という極端な人権無視の日本人優位の精神主義です。
 捕虜にならないためには、突撃か自害しかありません。
 ハーグ陸戦条約には「捕虜は人道をもって取り扱わなければならない」と規定されています。日本にはこの規定を批准しながら、『戦陣訓』ではまったく逆のことが教えられていたのです。
 第二次世界大戦の捕虜は、1929年に制定されたジュネーブ条約(俘虜は人格及び名誉を尊重される権利をもち、暴行・侮辱・報復を禁止する)によって扱われました。日本とドイツは調印はしましたが批准はしませんでした。しかし、極東裁判の戦犯は、1929年に制定されたジュネーブ条約の精神によって裁かれたのです。

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