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エピソード

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戦局の転換(ミッドウェー海戦)
 日本海軍が真珠湾奇襲攻撃に成功した時、国民は「勝った勝った、これで戦争は終わった!」と提灯行列をしたそうです。
 それから半年後、ミッドウェー海戦で、国民を裏切る結果となりました。しかし、皇軍の指導者たちは、その事実をひた隠しして、戦争に突き進んで行きました。
 情報の隠蔽と知る権利は、人権の歴史の教訓です。
 1941(昭和16)年12月25日、アメリカ太平洋艦隊指令長官のキンメル大将の後任にニミッツ大将が就任しました。ニミッツ大将が最も信頼していたのが情報参謀のレイトン中佐でした。レイトン中佐は、解読班のロシュフォート中佐を推薦しました。
 ニミッツは、空母を太平洋に遊弋(ゆうよく。艦船が海上を往復して待機すること)させて拠点とし、延び切っている日本軍の基地に打撃を与えるという戦略を練りました。
 1942(昭和17)年2月、大本営政府連絡会議は、「爾後の戦争指導構想」と連合艦隊・大本営の「海軍第2段作戦構想」とを並行して討議しました。
(1)陸軍は、「占領地域を固め長期不敗態勢を造りつつイギリス軍・蒋介石の国民政府の脱落を促進する」と主張しました。
(2)海軍は、「長期戦は不利であるので攻勢をあくまで続行する」と主張しました。
 @軍令部は、「前方要域を占領し長期持久のための邀撃(迎撃)態勢の確立」を主張しました。具体的にはアリューシャン列島(アッツ島・キスカ島)とミッドウエー島とフィジー・サモア島を哨戒の最前線として確保し、長期戦を戦うために、アメリカが出てきたところを迎撃するというものです。ニミッツの戦略に対応した考えといえます。
 A連合艦隊は、「米軍艦隊を誘出し連続的な決戦」を主張しました。特に連合艦隊司令長官の山本五十六大将は、アメリカの戦力を熟知しており、軍令部の邀撃(迎撃)作戦には疑問を持っていました。山本長官は、米軍艦隊を誘出して連続的な決戦を迫り、各個撃破によって米軍を守勢に追いこみ、遊弋出来ないようにすると考えていました。
 2月1日、アメリカ空母部隊は、日本の委任統治領のマーシャル諸島を空爆しました。
 2月22日、アメリカ空母部隊は、ラバウルを空爆しました。
 2月24日、アメリカ空母部隊は、ウェーク島を空爆しました。
 3月4日、アメリカ空母部隊は、南鳥島を空爆しました。山本五十六長官は、アメリカ空母部隊の日本本土空襲を恐れるようになりました。
 4月18日6時50分、釧路に帰投中の監視艇第23日東丸は、サンフランシスコから出港したジェームス=ドゥリットル陸軍中佐が率いる空母ホーネットと空母エンタープライズを日本本土から700カイリの地点で発見しました。
 発見を日本本土から500カイリと想定していたドゥリットル中佐は、早すぎる発見に躊躇しました。この地点での発艦は着陸地点まで燃料が維持できるかという問題でした。
 日本軍は、米軍空母発見の情報に対して、空母からの往復攻撃の場合、250マイル以内と考え、「本土来襲は19日早朝」と判断し、それに備えるよう指示を出しました。
 4月18日7時25分、ハルゼー中将は、日本本土から670マイルの地点でB25を16機を発艦させました。
 4月18日12時30分、ドゥリットル中佐の一番機は、海面すれすれから侵入し、東京上空で400メートルまで上昇させて、東京を初空襲しましたした。13機は東京・川崎・横浜・横須賀を空襲し、1機は名古屋、1機は四日市、1機は神戸を空襲しました。死者45人・負傷者153人でした。
 B25の16機は、本土を横断して、中国本土に飛び去りました。陸海軍の防空戦闘機や高射砲部隊は低空で本土に侵入したので、不意をつかれ、反撃出来ませんでした。これがドゥリットル空襲です。
 これまで「かくかくたる戦果」を信じていた日本国民に与えた心理的恐怖心は、絶大な効果をもたらしました。
 ドゥリットル中佐の日本本土空襲は、日本軍に大きな衝撃を与えました。これはニミッツ大将の戦略の1つで、日本に軍事的圧力を示そうというものでした。
 戦争指導者は、「やがて国民に非戦・反戦の気運が起こるのでは」という不安を持ちました。当時の新聞は、日本人の恐怖心を払拭するねらいで、「ヤケクソのアメリカの爆撃」(苦し紛れの反撃)と報道しました。
 そこで、山本五十六長官は、本土防衛のためにも「ミッドウエー作戦」を主張し、陸軍も同意しました。
 「天皇に大変申し訳ない」と思った山本長官は、この時、「自分の案が受け入れられない時は、辞職する」と脅迫したといいます。
山本長官の作戦は、ミッドウエー島を占領して、次にパルミラ島・ジョンストン島を前進基地とし、ハワイを占領することでした。アメリカ太平洋艦隊の根拠地であるハワイを占領すれば、軍令部が心配する北東海域からのアメリカ機動部隊の侵入はなくなり、アメリカの反攻ルートはオーストラリアラインだけとなるというのです。
 しかし、軍令部は、ミッドウエー・アッツ・キスカラインを哨戒の最前線にすることを主張しました。その結果、ミッドウエーとアリューシャンを同時に攻略しようということになりました。
 5月5日、機密連合艦隊命令として「連合艦隊第2段作戦計画」が出されました。ミッドウエー作戦要領は「機動部隊を以って上陸前ミッドウエー島を空襲し、兵力と防御施設を壊滅し、攻略部隊を以って一挙に攻略するとともに 出撃し来る米軍艦隊を補足撃滅する」というものでした。
 目的は、「米機動部隊を誘い出し撃滅するともに、東京空襲を防ぐためミッドウエー島に哨戒線を前進させる」というものでした。
 作戦内容は、「陸軍と協力しAFおよびAO西部要地を攻略すべし」です。AFとはミッドウエー、AOはアリューシャン列島の地名暗号でした。米軍は、AFを過去に傍受した通信文のAFからミッドウエーである可能性を突き止めました。そこで、解読班の責任者であるロシュフォート中佐は「ミッドウエーでは蒸留装置の故障で真水が不足している」と平文で発信しました。これを傍受したウェーク島の日本軍は、「AFは現在、真水が欠乏している」と東京に打電しました。その結果、米軍はAFがミッドウエーであることを確認しました。さらに、攻撃開始日から機動部隊の編成までを解読しました。
 アメリカ太平洋艦隊指令長官のチェスター=ニミッツ大将は、珊瑚海で損傷した空母ヨークタウンの修理を3日間の突貫工事で行い、エンタープライズ・ホーネットの大型空母3隻を日本潜水艦が哨戒線につく前に配置しました。またミッドウエー島の防備も強化し、海兵隊2438人、海軍基地隊1494人、飛行機120機を配置しました。スプルーアンス少将が空母エンタープライズ・ホーネットを指揮し、フレチャー少将がヨークタウンを指揮しました。
 5月26日、ミッドウエー作戦の北方からの牽制作戦として、アリューシャン作戦部隊、角田覚治中将の第2機動部隊が大湊を出撃しました。
 5月27日、南雲忠一中将率いる第1航空艦隊は広島湾を出撃しました。旗艦赤城を筆頭に艦艇150隻、航空機1000機、参加将兵は10万人でした。
 5月29日、近藤信竹中将率いる攻略部隊主隊が出撃しました。その後、山本五十六長官直率の主力部隊と高須四郎中将の指揮する警戒部隊が出撃しました。厳重な無線封鎖を行ったので、山本長官は各部隊の状況を掴むことはできませんでした。
 6月5日1時30分、南雲長官は、旗艦赤城より第1次攻撃指揮官の友永丈市大尉に命じて零式艦上戦闘機9機・九九式艦上爆撃機18機など108機をミッドウェイ島空襲に発進させました。これがミッドウエー海戦の始まりです。
 6月5日1時30分、米軍の機動部隊は、索敵機を発進させ、日本空母群の位置を確認し、攻撃隊を発艦させました。
 6月5日2時、重巡洋艦利根の4号索敵機が遅れて発進しました。
 6月5日2時20分、南雲忠一長官は、第2次攻撃をミッドウエー島に向けると予令し、各空母に残った艦攻には800キロの魚雷、艦爆には250キロの爆弾を装着させ、第2次攻撃隊103機として待機させました。
 6月5日2時32分、米軍飛行艇と接触を開始しました。
 6月5日2時55分、利根4号索米軍機は、「米軍機向う」の通信を受信し、ミッドウエー島からの陸上機が来襲すると判断しました。
 6月5日3時34分、友永丈市太尉の第1次攻撃部隊は、ミッドウエー上空に達したとき、基地には飛行機の影はなかったが、ミッドウエー島飛行場・地上施設を空爆しました。
 6月5日4時、ミッドウエー島の第1次攻撃指揮官である友永丈市大尉は、基地に飛行機がいないことが気になり、「攻撃は概ね成功なるも効果不十分、第2次攻撃の要ありと認む」と赤城に打電しました。
 6月5日4時5分、ミッドウエー島からの米軍機が攻撃を開始しました。防空のため第2次攻撃用戦闘機を発進し、来襲した米機の大半を撃墜しました。
 6月5日4時15分、索米軍機は、予定索米軍線に到達しましたが、アメリカ艦隊を発見できませんでした。そこで、南雲長官は、米軍艦隊が付近に存在しないと判断して、友永丈市大尉から「ミッドウエー島への第2次攻撃の要あり」との打電を受けていたので、ミッドウエー島に対し第2次攻撃を決意し、魚雷から爆弾に積みなおすという陸上攻撃用兵装の転換を命じました。
 しかし、この装転換作業は防空戦闘中だったのでなかなかはかどりませんでした。
 空母蒼龍も、攻撃隊の九七式艦攻18機・零式艦戦9機を発艦させた後、艦爆隊を待機させるが、ミッドウエー再爆撃のため、魚雷を陸上用の爆弾に転換命令が出て、陸用爆弾に転換しました。
 6月5日4時28分、装転換作業中に、利根4号機は、「米軍らしきもの10隻を発見、ミッドウエー10度240カイリ」と打電しました。1カイリ=1852メートルです。
 6月5日4時45分、利根4号機から付近の天候報告が打電されてきました。南雲長官は、米軍の水上部隊の存在が確実と判断し、空母を含むと推定しました。そして、攻撃を決意し、各空母の兵装転換中の攻撃機に対して、陸攻用爆弾から艦船攻撃兵装つまり魚雷に再転換を命じました。その時は、米軍空母との距離は、攻撃可能な210カイリ=38万8920メートルに接近していました。
 空母蒼龍も、今度は空母攻撃の命令出たので再度兵器転換を行いました。
 6月5日4時50分、ミッドウエー島第1次攻撃隊は、零戦の優秀さを披露して、母艦に帰投を開始しました。
 6月5日5時9分、利根4号機は、米軍の巡洋艦5隻・駆逐艦5隻と打電しました。
 6月5日5時9分、空母エンタープライズ・空母ホーネットを率いるスプールアンス少将は、日本軍偵察機に発見されると、即座に戦闘機を発艦させました。
 6月5日5時20分、利根4号機は、「米軍は空母らしきもの1隻伴う」と打電しました。空母飛龍にいた第2航空戦隊司令官の山口多聞少将は、一刻を争う戦況と判断して、「現装備の陸用爆弾のままでもいいから、攻撃隊を直ちに発信させて機先を制すべきである」と厳しい調子の発光信号を南雲長官に送りました。
 参謀長の草鹿龍之介少将は、山口少将の進言のように、艦爆隊なら即発進させることができました。しかし、戦闘機を伴わないミッドウエー島からの米軍機が、次々と撃墜されているのを目前で見て、戦闘機をつけずに出す決心がつかなかったのです。戦闘機は母艦直衛のためすべて上空にあり、攻撃隊につけてやる分はありませんでした。
 そこで、南雲長官は、ミッドウエー島攻撃隊と上空直衛機を急速に収容し、十分な護衛戦闘機をつけた強力な攻撃隊を編成して、正攻法で米軍空母部隊を撃滅する方針を採用しました。運命の分かれ道となる決定でした。
 6月5日5時40分、ミッドウエーからの米軍機の攻撃が収束したので、日本軍の攻撃隊の収容を開始しました。
 6月5日6時18分、米軍の艦載機が来襲しましたが、ゼロ戦などの防空戦闘により米軍の来襲機の大半を撃墜しました。撃墜されましたが、米軍機の断続的な攻撃が、最後に効果を発揮しました。
 6月5日6時30分、南雲長官は昼戦の企図信号を命じました。
 6月5日7時20分、第2次攻撃隊の発艦準備が整いました。その時です。米軍の空母から発進した急降下爆撃機27機が日本を空母を襲撃しました。
 6月5日7時23分、空母加賀は、来襲した米軍雷撃機を回避中に、突然急降下する急降下爆撃機ドーントレス9機を発見し、直ちに右に転舵して防空砲火で反撃しました。米軍の第1〜第3弾は何とか避けましたが、第4弾は右舷後部、第7弾・第8弾は前部昇降機付近、第9弾は飛行甲板中央に命中しました。
 第8弾の爆発により空母加賀艦長の岡田次作大佐ら艦橋にあった者ほとんど全員が戦死し、第9弾は格納庫内で爆発、大火災となった。飛行長の天谷孝久中佐が先任者として指揮をとり全力で消火に努めたが、火勢が強く炭酸ガス消火装置発動が間に合わず消火ポンプも破壊されていた。
 6月5日7時25分、空母蒼龍は、南雲司令官の命令で、陣容が整うのを待っていました。その時き、空母蒼龍は、米軍の急降下爆撃機12機の奇襲を受け、直ちに対空砲火で応戦しましたが、間に合わず、連続して被弾し、大火災となりました。これによって格納庫内飛行機、爆弾、魚雷はもちろん高角砲弾、対空機銃弾も誘爆を起こし、見る間に火災は広がりました。
 6月5日7時26分、魚雷兵装への転換が終了した時、空母赤城の信号兵は、空母エンタープライズから発艦した米軍雷撃機14機のうち、ドーントレス艦上爆撃機3機を発見しましたが、奇襲のため対空機銃も間に合いませんでした。米軍1番機の爆弾は至近弾、2番機の爆弾は飛行甲板中央から格納庫内で爆発、3番機の爆弾は左舷後部に命中しました。
 甲板上では戦闘機が発艦準備を整え、格納庫内には艦攻・艦爆全機が揃って、次期攻撃のため全機燃料を満載、魚雷・爆弾も装備中でした。そのため、格納庫内で爆発した第2弾により大火災となり、魚雷や爆弾の誘爆が始まった。
 旗艦赤城が大火災となり、次席指揮官の第8戦隊司令官の阿部弘毅少将が第1機動部隊の指揮を一時継承しました。
 当時米軍空母は2隻と判断されており、米軍の技量からみて飛龍1艦でこれを圧倒できると、軽く信じていました。
 第2航空戦隊の旗艦飛龍の司令官である山口多聞少将は、司令官の阿部弘毅中将の命を待たず即座に攻撃を決意し、どんどん進撃していきました。部隊指揮官の阿部司令官がこれを追随する形になりました。
10  6月5日7時30分、米軍の空襲が終了しました。
 6月5日7時45分、空母蒼龍の艦長である柳本柳作大佐は、主機械は全部停止したので、空母蒼龍を放棄することを決意し、総員退去を命じました。柳本艦長は、火傷を負っていたが、艦橋右舷の信号台に立ち全艦の指揮を執りました。
 6月5日7時46分、赤城の司令部首脳は、駆逐艦の野分に移乗し、その後、軽巡洋艦長良に将旗を移しました。
 6月5日7時58分、山口多聞少将は、飛龍から小林道雄大尉を指揮官とする第1次攻撃隊の九九式艦上爆撃機18機・艦上攻撃機6機として発進させました。さらに、山口少将は、第2次攻撃の準備に入りました。
 6月5日8時10分、二式艦偵は、米軍の空母部隊を索米軍し、報告しましたが、指揮官には届きませんでした。
 6月5日8時20分、赤城艦長の青木泰二郎大佐は、艦橋から飛行甲板前部に移りました。
 6月5日8時53分、南雲長官は、飛龍攻撃に策応し、昼間水上戦闘を下令しました。
 6月5日9時10分、空母飛龍の小林大尉を指揮官とする第1次攻撃隊は、米軍の空母ヨークタウンを強襲し、爆弾4発を命中させ一時航行不能にさせました。しかし、ダメージコントロールが優れていたため、10ノット前後で航行可能となり、飛行甲板も応急修理され、直援機に燃料補給ができるまでに回復していました。
 飛龍攻撃隊の被害も艦爆13機・艦戦3機を失いました。
 6月5日10時、第4駆逐隊司令は、米軍の捕虜情報として空母3隻の基幹を報告しましたが、上級司令部が了解したのは1時間以上後でした。南雲長官は、飛龍第2次攻撃の成果を待ってから突入を決意しました。
11  6月5日10時31分、飛龍は、友永丈市大尉率いる第2次攻撃隊の九七式艦攻隊10機・零戦艦戦6機を発進させました。その後、小林道雄大尉率いる第1次攻撃隊を収容しました。
 6月5日11時、山口司令官は、空母を3隻発見と打電しました。
 6月5日11時45分、友永大尉率いる第2次攻撃隊は、空母に魚雷2発命中と報告しました。炎上していなかったので、ヨークタウンとは別の空母だと報告しました。日本軍は、3分の2の米空母を戦闘不能と判断しました。しかし、友永太尉が撃破したのは、小林太尉が撃破したヨークタウンだったのです。修理して運航していたのです。この結果、空母ヨークタウンは撃沈します。
 日本側の被害は艦攻5機・艦戦2機を失いました。
 6月5日12時20分、山口司令官は、搭乗員の疲労が激しく、損傷機の修理で参加機数が増える可能性もあり、第3次攻撃を薄暮に延期しました。
 6月5日12時31分、第3次攻撃計画を検討しました。その結果、残存の艦爆5・艦攻4・艦戦10を動員して、薄暮に攻撃することに決定しました。
 6月5日12時45分、飛龍は、友永大尉率いる第2次攻撃隊を収容しました。
 6月5日13時15分、山口司令官は、米軍空母3隻中2隻を撃破し、残存は1隻との間違った判断を報告しました。残りの空母は1隻と判断し緊張感が緩みました。
 米軍の接触機を発見したという情報が入りました。
12  6月5日13時30分、山口司令官は、米軍空襲近しと判断して、甲板待機の上空警戒機13機を発進させ、米軍攻撃機を警戒しました。
 6月5日14時、空母加賀の飛行長である天谷中佐は、鎮火の見込みが立たないので、総員退去を命じました。
 6月5日14時、米軍の艦上攻撃機、続いてミッドウエー島からの米軍陸上機が来襲して、防空戦闘が開始されました。
 6月5日14時3分、空母飛龍は、米軍急降下艦爆機24機が太陽を背に急降下してきたので、最初の3弾は外しましたが、第4弾から続けて被弾しました。4弾が命中して格納庫内で爆破しました。機関科員の努力により一時は28ノットの高速航行を回復しましたが、やがれ戦闘不能となりました。
 6月5日14時55分、二度被弾したヨークタウンは、航行不能となり、背後に退きました。
 6月5日15時30分、米軍の空襲が修了しました。飛龍以外は被害が軽微でした。
 6月5日16時20分、水中で大爆発をおこし、空母の蒼龍が沈没しました。この時、艦長の柳本大佐は、部下が再三、「安全な区域に移るよう」に懇願しましたが、これを受け入れず、万歳を連呼しながら壮烈なる死を遂げました。定員は1103人で、戦死は准士官以上35人・下士官兵683人でした。
 6月5日16時25分、赤城艦長の長谷川大佐は、消火の見込みが少ないと判断したので、総員退去を命令しました。
 6月5日16時25分、空母の加賀は、前部ガソリン庫に引火して大爆発2回を起こしました。
 6月5日16時26分、空母の加賀が沈没しました。定員は1708人で、戦死は艦長の岡田次作大佐ら800人でした。
13  6月5日17時、索敵機と上空警戒機の搭乗員を収容し、筑摩2号索米軍機により「米軍の健在空母は4隻と推定する」と打電されました。
 6月5日20時58分、空母飛龍は、再び爆発を起こしました。
 6月5日23時30分、空母飛龍の艦長である加来止男大佐は、山口司令官の許可を得て、総員退去準備を命じました。
 6月6日0時15分、空母飛龍の艦長である加来大佐は、総員退去を命じました。
 6月6日1時30分、空母飛龍の負傷者・搭乗員が風雲・巻雲に移乗しました。全員が移乗すると、山口司令官と加来艦長は、訣別の帽子を振って部下を見送り、「いい月だな。一緒に月でも見ようか」といって艦橋を昇って行き、やがて姿を消したといいます。
 6月6日1時50分、山本長官は、空母赤城を魚雷によって処分するよう命令しました。
 6月6日2時、赤城が自沈しました。定員は1630人・司令部64人で、戦死は准士官以上8人・下士官兵213人でした。
 6月6日2時10分、駆逐艦巻雲が九三式魚雷2本を発射し、1本が命中しました。これを飛龍の雷撃処分といいます。定員は1103名人・二航戦司令部23人で、戦死は准士官以上29人下士官兵387人でした。
 6月6日、ミッドウェー海戦で日本軍は空母4隻を失い、戦局の転機となりました。
14  6月7日、日本軍は、キスカ島に上陸しました。
 6月8日、日本軍は、アッツ島に上陸しました。
 6月11日、ワシントンで、米ソ相互援助条約を調印しました。
 6月28日、ドイツ軍は、東部戦線の夏季攻勢を開始しました。
 7月11日、大本営は、ミッドウェーの敗戦の結果、南太平洋侵攻作戦の中止を決定し、ニューギニアのポートモレスビーに対する陸路進攻作成を命令しました。
 この項は、『近代日本総合年表』・保阪正康氏の著作などを参考にしました。
山本五十六とミッドウエー海戦
 連合艦隊司令長官の山本五十六大将の戦略は、日本とアメリカの機動部隊がまともに戦えば、戦力の差で勝てないと理解していました。そこで、アメリカが戦備を整える前に、しかも早い時期に、空母をおびき出しておいて徹底的に叩いて、太平洋艦隊が機能しない状況を作る。その有利な立場を利用して、外交的な決着を考えていたのです。
 山本長官は、「自分の案が受け入れられない時は、辞職する」と脅迫して、ミッドウエー海戦を実行しました。後に、軍令部の作戦課長だった富岡定俊は「ミッドウエーについては、連合艦隊の作戦に従ったのは失敗だった」と書いています。
 最近の本では、山本五十六を冷静に見ようとする傾向があります。私の子供のころは、大人は「山本五十六がもう少し長生きしていたら、戦争はもっと違ったものになっていただろう」と軍神扱いでした。
 ミッドウエー海戦を詳細に見てきました。詳細ゆえにかえって分かりにくい部分もあります。そこで、要点のみを追ってみました。
(1)アメリカ軍は、日本のミッドウエー作戦(M1作戦)を暗号解読で熟知していました。@暗号を解読されていたのが敗因です。
(2)ミッドウエー海戦に参加したパイロットは若いアメリカ人が多かったが、「リメンバーパールハーバー」という戦争目的が明確でした。日本のパイロットには、真珠湾の成功もあり「敵さん、いつでもお出で。叩き落してやる」というおごりがありました。
(3)日本の空母は6隻の予定が、珊瑚海海戦の結果、翔鶴・瑞鶴が不参加となり、4隻になりました。
(4)南雲機動部隊には、ミッドウエー島の占領とアメリカ太平洋艦隊の空母を殲滅するという任務があったので、 半分をミッドウエー島攻撃に発進させ、残りに空母用の魚雷を装備させて、甲板に待機させました。
(5)ミッドウエー島攻撃に第2次が必要と言われて、アメリカの空母についての情報も入っていなかったので、南雲忠一は、空母用の飛行機に魚雷を外し、陸上用の爆弾を付けさせる換装作業を命じました。Aアメリカの空母を発見できなかったのが敗因です。日本の索敵は1重で一度見過ごすと、大失敗につながります。他方、アメリカの索敵は4重で、念には念を入れる方針でした。
(6)突如、アメリカの空母発見の情報に、山口多聞は爆弾のままでも発艦すべきだと進言しましたが、南雲忠一は、爆弾を外し、魚雷を付ける換装作業を再度命じました。B再度の換装作業が敗因です。
(7)二度の換装作業と第1次攻撃隊の着艦作業で、甲板上は大混乱をきたし、爆弾は格納庫に山積みされました。アメリカの急降下爆撃で、格納庫に山積みされた爆弾が誘爆して、空母が炎上・沈没しました。
(8)空母を守る陣形でなく、対空砲火や護衛戦闘機の防空網が弱く、レーダーもなかった。逆にアメリカの空母には、全て備わっていた。C空母中心の戦闘体制でなかったのが敗因です。
(9)珊瑚海海戦では空母防御の必要性を学んだはずだし、セイロン沖海戦では爆弾・魚雷の兵装作業による所要時間も学んだはずなのに、ミッドウエー海戦では活かすことが出来ませんでした。D過去の教訓から学ばずが敗因です。
 魚雷を爆弾に替えたり、爆弾を魚雷にかえることを兵装転換といいます。平時にその所要時間を計ったデータがあります。
(1)魚雷を800キロ爆弾と替える場合、所要時間は90分かかっています。
(2)800キロ爆弾を魚雷と替える場合、所要時間は1200分かかっています。
 ミッドウエー海戦に投入された日本の零戦とアメリカのダグラスSBDドーントレスを比較しました。
最大速度 最大航続距離 爆弾 航続距離・速度ではゼロ戦の
方が上回っていた。
ドーントレスは急降下に威力を
発揮した。
ゼロ戦 533.3km/h 3.502km 最大120kg
ドーントレス 402.0km/h 2.540km 最大450kg
ミッドウエー海戦における日米両軍の損害
  沈没 大破 中破 航空機 戦死
空母 その他
日本軍 赤城・加賀・蒼龍・飛龍 重巡洋艦三隅 重巡洋艦最上 駆逐艦1隻 320機 2500人
米軍 ヨークタウン 駆逐艦1隻     130機 300人
 民間のパイロットになる場合でも、相当の搭乗経験がなければ、なれません。ましてや、戦闘機
のパイロットには、かなりの熟練が必要です。ミッドウエー海戦では、空母のみならず、貴重なパ
イロットを200人も失ってしまったのです。世界最高といわれたレベルが大幅にダウンしました。
 彼らは、中国の奥地戦や真珠湾攻撃に参加した歴戦のベテランでした。
 私が一番恐れているのは、当時の日本人の体質です。
 ノモンハン事件で、白兵戦を得意とする日本軍が近代化された戦車軍団のソ連軍に大敗しました。精神力では近代化された物量相手には勝てないという教訓が、指導者の自決で、継承されませんでした。
 ミッドウエー海戦で、日本海軍が大敗したため、その事実が徹底して隠蔽されました。上記に記した教訓が、隠蔽のために、継承されませんでした。

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