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エピソード

261_03

戦局の転換(ガダルカナル攻防戦、ソロモン海戦)
 太平洋戦争の中で、真珠湾攻撃は太平洋戦争の勃発、ミッドウエー海戦は戦局の転換という意味で、授業でもかなり扱いました。ガダルカナル攻防戦は、最初の陸上での日米両軍の戦争という意味でも重要だったので、かなり説明してきました。
 最近、日本人の体質を考えるとき、ガダルカナル攻防戦は避けて通れないので、かなり勉強しました。「知らしむべからず頼らしむべし」(隠蔽工作)とか「過去から何ものも学ばず」(無責任)とか精神主義などです。日本軍の人の命の軽さも知りました。
 戦争体験者の多くは、「日本は戦争に負けてよかった」という意味も分かりました。
 1941年11月、日本軍が策定した作戦計画によると、ハワイのアメリカ太平洋艦隊を撃滅してその脅威を取り除き、東南アジアの重要資源地帯を占領する。そのための政略目標は、香港・マレー・ビルマ・フィリピン・ジャワなど東南アジアのほぼ全域、グアム・ウエーキなど太平洋、最南端のニューブリテン島ラバウルでした。
 1942年2月、ハワイ奇襲攻撃に成功し、東南アジア侵攻も予想外に順調に進んだことを受けて、日本軍は第二段作戦計画を立てました。ここで、陸軍と海軍が対立しました。
(1)100万人の大軍を中国に投入している陸軍は、資源を確保して、主に中国大陸での戦争を継続する考えでしたから、南方ではこれ以上戦線を拡大せずに、占領地の確保を第一とする長期持久戦の態勢を構築することを主張しました。
(2)太平洋を戦場としている海軍は、石油備蓄・日米の国力の違いを考えると長期持久戦は不利であり、緒戦の勝利を持続して早期決戦に持ち込むためにも、さらなる太平洋での戦線を拡大するよう主張しました。その戦略は、米英などの連合軍の反攻拠点であるオーストラリアの攻略であり、ミッドウェー島攻略によるアメリカ艦隊を引き寄せて撃滅するというものでした。
 日本陸軍は、当初、大陸での作戦を重視していましたが、海軍の活躍により、オーストラリアの孤立化作戦では、海軍と一致しました。その戦略は、米豪遮断作戦というもので、ニューギニア島東南岸のポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)とニューカレドニア・フィジー・サモアの攻略作戦(FS作戦)というものでした。FS作戦を実行するには、ラバウルとニューカレドニア・フィジー・サモア諸島の中間に位置するガダルカナル島に飛行場を建設する必要がありました。
 ミッドウエー海戦で空母4隻を失った海軍は、FS作戦を実施するには陸上の前進航空基地が新たに必要となり、ガダルカナル島に飛行場を建設することになりました。これが悲劇の始まりでした。
 アメリカ側の戦略は、ドイツとの戦争を優先させ、ドイツを降伏させれば日本に簡単に敗北するというものでした。ミッドウエー海戦の勝利により、アメリカの方針は、海軍作戦部長のキング大将が主張する太平洋での日本反撃に転換しました。キング大将は、ウォッチタワー作戦を提案しました。
 ウォッチタワー作戦とは、航空母艦の支援をさせ、海兵隊をソロモン諸島の日本軍基地に奇襲上陸させて、飛行場を建設し、そのまま北上してニューブリテン島ラバウルを落とし、日本に対する反抗作戦の第一歩とするというものです。
 1942(昭和17)年3月30日、ニューブリテン島ラバウルの海軍第8根拠地隊は、ブーゲンビル島のショートランド泊地などを占領して、ソロモン諸島のツラギ方面への中継基地を確保しました。
 4月8日、「5月3日ツラギ上陸、5月10日ポートモレスビー上陸」というMO作戦が発動されました。
 4月中旬、アメリカ軍は、日本海軍暗号の解読などでMO作戦を察知し、空母2隻の第17機動部隊を編成するなど迎撃準備を開始しました。
 5月3日、ツラギ攻略部隊の呉鎮守府第3特別陸戦隊は、ツラギに上陸しました。
 5月4日、ツラギ攻略部隊は、アメリカ軍第17機動部隊の攻撃を受けました。そこで、空母2隻の機動部隊が迎撃に向かいました。これが珊瑚海海戦の発端となりました。
 5月8日、珊瑚海海戦で、日本軍の機動部隊航空部隊は、甚大な損害を受けました。これを珊瑚海海戦の終わりといいます。
 7月2日、米軍は、ウォッチタワー作戦を発令しました。
 7月上旬、海軍設営隊2600人と島を守備する海軍陸戦隊250人は、飛行場建設のためにガダルカナル島に上陸しました。これをルンガ飛行場といいます。日本軍は「米軍の太平洋方面での反攻は1943年以降であろう」と想定していたので、陸戦部隊は280人・遠藤幸雄大尉率いる第84警備隊派遣隊は150人でした。つまり、飛行場を守備する兵力は、陸軍の430人と合わせて、690人でした。
 ラバウルからガダルカナル島は1000キロあり、航続距離の最も長い零戦でも、15分ほど上空を旋回して、往復するのがギリギリの距離でした。ガダルカナル島防御に、航空機の応援は期待できません。
 7月4日、オーストラリア情報部隊・偵察機は、日本軍がガダルカナル島に飛行場を建設している事を確認しました。そこで、ソロモン諸島への攻略は、急遽ガダルカナル島を攻略することになりました。
 7月10日、アメリカ軍は、ツラギ攻略・ガダルカナル島攻略というウォッチタワー作戦を発動しました。
 7月14日、日本海軍は、ラバウル・東部ニューギニア・ソロモンなどの南東方面の作戦部隊として、巡洋艦8隻基幹の第8艦隊を編成しました。
 7月下旬、アメリカ軍は、現地人のコーストウオッチャーから「日本軍はがツラギ島に1850人、ガダルカナル島に5000人いる」との情報を得ました。
 7月26日、第1海兵師団長のアレクサンダー=バンデグリフト少将は、精鋭部隊の海兵師団1万9000人と空母3隻・艦船90隻を率いてフィジー沖合いに集結しました。バンデグリフト少将は、ツラギ島・ガダルカナル島の日本兵が5000人という情報により、4倍近い1万9000人を動員しました。
 7月下旬、アメリカ軍は、ツラギの海軍根拠地やガダルカナル島のルンガ飛行場などを空襲しました。
 7月、フィジー・サモア・ニューカレドニア諸島攻略というFS作戦を中止しました。その結果、第17軍の任務は、ラバウルを空襲する拠点であるニューギニアのポートモレスビー攻略となりました。同時に、第17軍は、ガダルカナル奪回をも担当することになりました。
 しかし、二正面作戦を任された第17軍司令官の百武晴吉中将と参謀長の二見秋三郎少将率いる兵隊は1万人でした。
 8月5日、ルンガ飛行場の第1期工事が完成しました。長さは800メートル、幅は60メートルです。飛行場を空にしておくことは、戦略上まずいので、設営隊は、ラバウルの第8艦隊司令部に戦闘機の早期派遣を要請していました。しかし、この段階での航空隊は編成されませんでした。
 8月7日早朝、アメリカ軍の攻略部隊である輸送船団30隻と護衛艦隊60隻は、ソロモン諸島のツラギ島とガタルカナル島へ艦砲射撃を開始しました。
 8月7日6時3分、アメリカ軍8000人は、ソロモン諸島のツラギ島に上陸し、日本軍も必死に抵抗しました。第84警備隊250人が玉砕しました。
 8月7日6時3分、バンデグリフト少将率いる1万1000人は、艦砲射撃と航空機に援護されながら、ソロモン諸島のガダルカナル島に無血上陸しました。上陸地点はルンガ飛行場の北へ5キロのルンガ岬でした。日本軍の第13設営隊長の岡村徳長少佐と第11設営隊長の門前鼎大佐は、アメリカ軍の物量攻撃に圧倒されて、ジャングルに逃げ込みました。米軍は、日本軍が苦労して完成した簡単にルンガ飛行場を手にいれ、ヘンダーソン飛行場と名づけました。現在のホニアラ国際空港です。
 8月7日7時30分、ラバウルの第25航空船隊司令官の山田定義少将と重巡洋艦部隊の第8艦隊司令官である三川軍一中将は、ガダルカナル島の対岸にあるツラギの海軍航空隊から「米軍上陸」の緊急電報を受け取りました。山田少将は、零戦17機・一式陸攻27機・九九式艦爆9機を出撃させました。しかし、上陸した米軍の撃退は出来ませんでした。
 8月7日14時30分、三川中将率いる第8艦隊は、がダルカナルに出撃しました。
 8月7日午後、海軍ラバウル航空隊の第11航空艦隊の第25航空戦隊は、ガダルカナル方面の米軍部隊と激しい空戦を展開しました。
 8月7日、大本営陸軍部は、海軍部より、ガダルカナルに進撃したアメリカ軍空母1隻・戦艦1隻・巡洋艦6隻・駆逐艦22隻・輸送船27隻の情報を知らされました。しかし、陸軍部の参謀は、ガダルカナル島の名前や位置も知らず、島々の攻防戦という構想を持っておらず、洋上の艦隊決戦なら海軍の担当だと考えていました。そのため、増援体制もとりませんでした。
 8月8日夜、アメリカ機動部隊の司令官であるフレッチャー中将は、空母を失うことを恐れ、空母を引き上げました。
 8月8日22時、三川軍一中将率いる重巡洋艦鳥海を先頭に第6船隊の重巡洋艦4隻と第18船隊の軽巡洋艦である天龍・夕張、駆逐艦夕凪は、速力30ノット(時速56キロ)でガダルカナル島とツルギの間の狭い水道に突入しました。
 8月8日11時38分、三川軍一中将は、ガダルカナル島西北にあるサボ島近海で、アメリカ艦隊を奇襲しました。この戦闘は、闇夜の砲撃戦となりましたが、アメリカ軍艦の位置を的確につかんでいた三川艦隊の一方的な勝利でした。この結果、アメリカ艦隊のクインシー・ビンセント・アストリアが沈没・シカゴが大破、オーストラリアの重巡洋艦キャンベラが沈没しました。日本軍は、旗艦鳥海が砲弾を2発受けただけでした。これを第1次ソロモン海戦といいます。
 しかし、アメリカの機動艦隊の出撃を恐れた三川艦隊は、ガダルカナル沿岸に停泊していたアメリカの輸送船団を攻撃することなく、引き上げました。
 8月9日、アメリカ艦隊は、機動部隊が去って護衛が手薄になったので、ツラギ島・ガダルカナル島から引き上げました。バンデグリフト率いる将兵1万9000人の食糧・弾薬は、補充がきつくなりました。
 8月9日、ツラギ島の日本軍多数が戦死しました。
ツラギ島での日米の被害状況
  総兵力 戦死 負傷 捕虜
日本軍 1480 1367   23
アメリカ軍 6000 144 194  
 8月10日、海軍情報部は、様々な情報を整理して、ガダルカナルに上陸したアメリカ兵を1万5000人と断定しました。実際のガダルカナル島のアメリカ兵は1万1000人でした。
 8月11日、大本営陸軍部は、アメリカ軍がガダルカナル島に上陸した段階においても、重慶の蒋介石政権を打倒するために100万の動員計画を発表しました。
 8月12日、大本営陸軍部は、第17軍に対して、「ソロモン方面にはなお残敵存しあるが如きを以て・・・戦機を重視し成し得れば一木支隊と海軍陸戦隊のみを以て速やかに奪回するを可とせざるや」と打電し、作戦指導を行いました。
 8月12日、参謀総長の二見秋三郎少将は、アメリカ兵を8000人と見積もり、空母2隻の援護の下で一木支隊と歩兵第35連隊(後の川口支隊)を合わせて、奪回すべきだと主張しました。
 他の参謀は、アメリカ軍は第一次ソロモン海戦で打撃を受けており、飛行場を使用する前に、一刻も早く出撃する方がいいと主張しました。
 8月13日、ラバウルの第17軍司令部の百武晴吉中将は、大本営陸軍部に対して、「上陸せる敵兵力は5000内外と推定せらるるも確実なる情報なお不明」と打電しました。最終的には、ガダルカナル島のアメリカ軍は2000人と判断しました。
 8月13日、それを受けて大本営は、第17軍に対して、「中央としては、第35旅団および青葉支隊などをも使用し得る如く配船を考慮しあるも、現状においては寧ろ戦機を重視し、成し得れば一木支隊と海軍陸戦隊のみを以て速やかに奪回するを可とせざるやと考えあり」と打電しました。
 二見参謀は、大本営の電報と「敵は活気に乏しい」という海軍の情報から、早期決戦に賛成しました。
 8月13日、第17軍は、一木支隊に対して、「先遣隊900人を編成し、とりあえず、駆逐艦6隻に分乗して直路ガダルカナル島に向い前進すべし」という内容の作戦命令を出しました。
 一木支隊は、第7師団歩兵第28連隊長の一木清直大佐が率いる2416人の部隊で、本来ミッドウエー島攻略作戦に参加が予定されていた部隊でした。一木大佐は、支那事変の発端となった盧溝橋事件当時の大隊長で、夜襲白兵突撃に精通した指揮官でした。一木支隊の兵士も白兵戦に熟練した精鋭部隊でした。一木大佐は、「隣の島のツラギまでうちの部隊で取ってよいか」(ガダルカナルを奪回した後は、ツラギも奪回してよいか)と聞いたといいます。将兵も、陸軍の伝統的白兵夜襲を採用すれば、ガダルカナル島奪還は簡単である信じていました。
 横須賀第5特別海軍陸戦隊は、司令の安田義道大佐が率いる616人の部隊で、第8艦隊に所属していました。
10  8月16日、一木支隊の916人は、駆逐艦に分乗して、先遣隊・第1悌団として、トラック島を出港しました。駆逐艦は戦闘用で、スピードは速いが、輸送量に限界があります。歩兵砲2・重機関銃8・軽機関銃36・擲弾筒24、それに各人は三八式歩兵銃の銃身を短くした九九式歩兵銃を持参していました。しかし、重火器は歩兵砲2・重機関銃8だけで、三八式歩兵銃は明治38年に開発された銃でした。
 日本兵は、夜襲に銃を使うと敵に察知されるということで、銃剣だけをつかった敵陣に飛び込んでいく白兵戦を採用するよう訓練・命令されていました。
 本隊の第2悌団1500人は、横須賀第5特別海軍陸戦隊616人と共に、出港しました。
 8月17日夜、海軍の第5特別陸戦隊の一部は、タサファロングに上陸して、ルンガ飛行場西側のクルツ岬付近にいた残存海軍部隊との連絡に成功しました。
11  8月18日23時、一木先遣隊916人は、ルンガ飛行場の東側のタイボ岬に上陸しました。一木支隊は本隊の第2悌団1500人・横須賀第5特別海軍陸戦隊616人の到着も待たず、敵情視察を無視して、島の北の海岸線沿い西進し、飛行場から1キロのジャングル内で大休止をとりました。
 しかし、バンデグリフト少将は、通信傍受により、一木支隊の上陸地点が飛行場に東であることを察知していました。コーストウオッチャー下の原住民からも、飛行場に向って西進しているという情報を得ました。そこで、バンデグリフト少将は、ヘンダーソン飛行場(ルンガ飛行場)の防御を最優先に考え、航空部隊30機を配置し、イル川西岸の陣地を強化しました。
 バンデグリフト少将が準備したものは、榴弾砲50・迫撃砲90・重機関銃350・軽機関銃1500・擲弾筒300でした。
 8月19日、第17軍は、ガダルカナル島上陸部隊の戦力を増強させるため、「川口支隊を28日にガダルカナル島に上陸させる」という事を決定しました。
 8月20日、一木支隊長は、「8月20日夜半から行動即捜索即戦闘により一挙に飛行場を奪取する」という計画を立てました。大隊長蔵本信夫少佐・隊長一木清直大佐らが実行しました。
 8月20日22時30分、一木支隊の渋谷清春大尉ら情報所要員と将校斥候34人は、突然イル川西岸から射撃されました。アメリカ軍の前哨(前線の様子を探る小部隊)陣地と勘違いして突撃し、31人が壮絶な死を遂げました。
12  8月21日1時18分、一木支隊長は、一部が海岸線を西へ進行して、正面から牽制し、主力は正面隊の南を迂回して左翼方面から砂州を超えて攻撃するよう配置しました。
 8月21日3時10分、夜襲白兵戦に自信のある一木支隊主力916人は、アメリカ軍を2000人と思い込み、「22日到着の本隊」を待たずに、重火器なしで、突入しました。飛行場の東北に位置するイル川を渡河している時、アメリカ軍は照明弾を打ち上げ、昼のように明るくして、機関銃の十字砲火を浴びて、多数の戦死者を出しました。「どれだけ撃たれても黙って這って前進するんです」。
 8月21日夜明け、生き残った一木支隊は、砲撃にたえられず、後方のジャングルまで後退しました。
 8月21日午後、アメリカ軍は、軽戦車5両で一木支隊の背後から砲撃し、上空からはグラマン戦闘機が攻撃しました。日本軍は、イル川とテナル川の間の海岸線に追い詰められ、壊滅しました。「私たちが近づくと、数十人の日本兵が自爆しました」。
 留守部隊を除くと、800人のうち777人が戦死したことになります。死亡率は97%、全滅です。米軍の死者は34人・負傷者は75人でした。米軍の砲撃の凄まじさを初めて体験した日本軍、日本軍の死を恐れず銃剣で突撃・自爆を初めて体験したアメリカ軍でした。共に息を呑んだといいます。
 8月21日15時、一木清直大佐は、軍旗を奉焼し自決しました。生き残った先遣隊128人は、本隊を待つことにしました。
総兵力 戦死 戦傷 捕虜
日本軍 916 777 30 15
アメリカ軍 10900 34 75  
13  8月24日、ガダルカナル島飛行場に進出した米軍航空隊とアメリカ軍艦隊とは、上陸輸送支援のため出動した日本軍の連合艦隊との間で、海戦が行われました。この海戦で、日本側は、軽空母龍■(りゅうじょう)1隻沈没・空母翔鶴損傷、艦載機60機が破壊されました。アメリカ側は、空母エンタープライズが損傷しました。これを第2次ソロモン海戦といいます。
 8月25日、精鋭とされる一木支隊の惨敗が第17軍司令部で確認されました。
 8月25日、第2次ソロモン海戦などにより、一木支隊本隊・第5特別陸戦隊の輸送船団の上陸は中止となりました。
 8月26日、大本営陸軍部は、一木支隊全滅の情報を知りました。しかし、重慶100万人動員計画やインパール作戦などの準備指示に忙殺され、一木支隊全滅には余り関心が向けられませんでした。
 8月26日、第35旅団長の支隊長である川口清健少将の川口支隊(青葉支隊の一部・一木支隊本隊)のガダルカナル島への上陸作戦が開始されました。
 8月28日、ガダルカナル島への川口支隊の輸送は、昼間の目立つ輸送船をあきらめ、夜間の駆逐艦によってが行われました。これをねずみ輸送といいます。ねずみ輸送では、重火器の輸送は不可能でした。
 8月28日、第1回目のねずみ輸送は、第124連隊の第2大隊1000人のうち、アメリカ軍の飛行機の空襲によって3分の2が戦死し、第2大隊長の鷹松悦雄少佐も戦死するという結果で、失敗しました。第17軍司令官の百武晴吉中将は、ガダルカナル放棄を考えましたが、第2回目のねずみ輸送が成功したので、放棄論は現実化しませんでした。
 8月29日、第35旅団をガダルカナル島に投入し、ジャワの第2師団を第17軍の指揮下に入れ、東部ニューギニア攻略を担当させました。第2師団の師団長が丸山政男中将でした。
14  9月5日、第17軍が掌握していたガダルカナル島のアメリカ軍は5000人でした。しかし、実際には1万8000人でした。攻撃側は守備側の3倍が常識という点からすると、日本軍は6250人ですから、逆に3分の1の兵力でした。
 9月6日、川口清健少将は、攻撃構想を第17軍司令部へ報告しました。それは、「9月12日20時を期してジャングルを迂回した主力をはじめ、飛行場東から熊部隊、西から岡部隊がいっせいに突撃する。13日払暁までに全陣地を蹂躙する」(一木支隊は、飛行場を東から攻撃して全滅したので、今度はジャングルを迂回して南方からアメリカ軍の背後を奇襲する)というものでした。
 9月7日、この日までに川口支隊がガダルカナル島に陸揚げした主要兵器は、野砲4・速射砲14・山砲6・高射砲2・重機関銃60でした
 9月7日、駆逐艦で輸送された川口少将率いる川口支隊主力4000人は、ガダルカナル島東側のタイボ岬周辺に上陸しました。しかし、小さな舟艇48隻で輸送された岡明之助大佐率いる歩兵第124連隊第2大隊1200人は、途中で米軍機の空襲を受け、ガダルカナル島西側のエスペランス岬周辺に上陸できたのは550人でした。
 9月8日、エドソン中佐率いる第1突撃隊大隊は、日本軍の上陸地点付近のタシンボコに威力偵察を行いました。威力偵察とは、斥候による偵察が困難な場合、ある程度大きな部隊で攻撃を仕掛け、それに対する応戦で兵力などを探る方法です。その結果、多数の物資を捕獲し、その中の文書から、日本軍の兵力は6000人、指揮官は川口、4つの大隊が飛行場の南に向かっていることを解読しました。
 9月10日、アメリカ軍は、飛行場の南側の丘の尾根伝いに塹壕をほり、布陣しました。
 9月11日、青葉支隊主力1700人は、川口支隊を支援するために、ガダルカナル島西端のカミンボに上陸しました。
 9月11日夜、川口支隊は、初期の作戦によってジャングルに分け入りました。しかし、持参の地図には大まかな山や川しか描かれておらず、役立ちませんでした。しかも、蔦や潅木が茂っており、2時間に1キロの前進でした。
 9月12日20時、川口支隊本部は、川口支隊を始め、他の部隊の存在する把握出来ませんでした。そこで、攻撃地点に到達した一部の部隊が、散発的にアメリカ軍の陣地を攻撃しました。他の部隊は、ジャングルの中にあって、右往左往していました。
15  9月13日、アメリカ軍は、日本軍の攻撃を察知して、対岸のツラギから支援を請い、ヘンダーソン飛行場周辺の迎撃体制を強化しました。さらに、強力な重火器で準備を整えました。
 9月13日20時、川口支隊は、総攻撃をかけました。鉄条網を越え、エドソン大佐の2個大隊が守備するムカデ高地の上の陣地に向かって銃剣突撃が繰り返されました。猛烈な砲撃と機関銃の十字砲火を浴びて多数の死傷者を出しました。ムカデ高地は、日本軍の死体が折り重なっていたことから、「血染めの丘」と呼ばれました。
 アメリカの兵士は、この時の体験を「撃っても撃っても日本兵はまっしぐらにやって来る。まるで自殺でもするようにひたすら機関銃の銃口に向かって突き進んできました。同じ戦術を繰り返す指揮官はバカではないかと思いました」と語っています。
 9月13日夜、川口支隊の第1大隊は、ルンガ川沿いからムカデ高地の西斜面に向かって突撃していき、アメリカ軍の第一線を突破しました。
 9月13日22時、その他の部隊もムカデ高地の上の第一線陣地を崩し、第二線陣地に突入しました。突撃するたびに日本軍の部隊は半減しました。
 9月13日24時、アメリカ軍はコックまで動員して、集中砲撃しました。日本軍の突撃はなくなりました。
 9月14日11時5分、隊長の川口少将は、ジャングル内で、各部隊の状況の把握に努めていましたが、攻撃が失敗したことを確認すると、後退命令を出しました。再びジャングルに入り、上陸地点の反対側のマタニカウ川に集結することになりました。これは太平洋戦争以来、日本陸軍の敗戦による退却の始めでした。食糧は、攻撃日の9月12日までしか支給されず、後はアメリカ軍から調達することになっていました。これをルーズベルト給与といいます。
総兵力 戦死 戦傷 不明
日本軍 6200 633 505 75
アメリカ軍 10900 31 103
16  9月14日、ガダルカナル島で、川口清健少将が率いる支隊が飢えと病気で殆ど全滅しました。
 9月15日、ラバウルの第17軍に派遣されていた大本営参謀の井本熊男中佐は、大本営の田中新一作戦部長に対し、「我が肉弾敵夜襲と対蹠的に物的組織相当のせいびせられありし。…今後の攻勢は敵情に鑑み、これを簡単に考うるはときは三度蹉跌の苦杯をなむる虞あり」と打電しました。さらに井本中佐は「作戦部長か作戦課長が現地に来て今の状況を把握するように」と依頼の電報を送りました。
 それに対して、田中新一中将は、「全般の状況は決して悲観視するをを要せざるものと判断せらる。…米国側の放送其の他を総合判断するに、彼等戦況を楽観しあらず」(アメリカ側は楽観していないので、日本側も悲観することはない)と返電しました。
 9月18日、大本営はガダルカナル島奪回を東部ニューギニア攻略より優先させる事を決定しました。そこで、第17軍は、第2師団をガダルカナル島に上陸させ、第38師団をソロモン方面の第2線部隊として配備する事を決定しました。
 他方、アメリカ軍は、ヘンダーソン飛行場守備部隊として海兵1個連隊を増派しました。
 9月21日、大本営陸軍部は、重慶侵攻作戦の無期限延期の方針を打ち出し、「攻撃に当たり敵情捜索せず機関銃鉄条網に対する処置を講ぜずして攻撃するは不可。一般に近代戦に関する観念不足の感あり」という田沼盛武参謀次長の注意を発表しました。
 9月23日、ガダルカナルの川口支隊の残存部隊に対する食糧は、定量の15%という惨状で、将兵の多くは1週間分の食糧しかない状態でした。ガダルカナル島が飢、「餓島」といわれる所以です。
17  9月下旬、二度のガダルカナル島敗戦により、日本帝国陸軍の不敗神話は、アメリカ軍によって破られました。そこで、大本営は「ガダルカナルは日米決戦場ゆえ、如何なることをもやる決意なり」と表明して、師団規模のガダルカナル島投入が決定されました。また、第17軍の参謀3人が、大本営派遣参謀の辻政信中佐らを加え、11人に増員されました。
 作戦課長の服部卓四郎は作戦班長の辻政信中佐に対して、「今回の攻撃は各種火力を発揮する堂々の戦闘として雌雄を決すべく、いわゆる迂回奇襲による奇道を以てしては到底成功の見込みなし」と教示しました。作戦の神様である辻中佐は「大兵のジャングル通過不能」につき、正面突破で飛行場を奪取する作戦を立て、他の参謀も意見が一致しました。
 しかし、二見秋三郎少将は、司令官の百武晴吉中将司令官にガダルカナル島の戦況について聞かれたので、輸送の問題から生ずる飢え・疲労やアメリカ軍の戦力強大さなどを説明をしました。その説明が悲観的認識というので、二見少将は罷免され、後任に宮崎周一少将が任命されました。
18  10月1日、連合艦隊が支援体制をとり、第2師団長の丸山政男中将率いる第2師団主力・第38師団の一部と、第17軍司令官の百武晴吉中将率いる第17軍司令部は、ガダルカナル島西側のタサファロング周辺に上陸することになりました。以後17日まで駆逐艦による輸送が続きました。
 10月2日、ラバウルの辻中佐は大本営に、「戦局は波乱があるだろうが、心配無用」と打電しました。
 10月7日、アメリカ軍は、第2師団の歩兵第4連隊が確保しようとしていたマタニカウ川東岸を占領しました。マタニカウ川東岸は、飛行場を直接砲撃できる地域であり、正面突破作戦を実施する上でも重要な拠点でした。しかし、歩兵第4連隊は、アメリカ軍の猛烈な火砲の前に壊滅的な打撃を受けました。
 10月11日、第17軍は、マタニカウ川東岸が占領されたことを知り、正面突破作戦をジングル地帯を迂回する奇襲作戦に変更しました。作戦変更の経緯を示す『第17軍迂回作戦決心の経緯』によると「海図により迂回せば比較的容易に且つ敵飛行場の直前に進出。参謀を九○三高地に派遣して見ると、部隊の正面より正面突破するより迂回路の方がはるかに通過容易の如く見らる」と書いています。川口支隊と同じ海図を見て、このように判断を下したのです。お粗末としかいいようがありません。
 10月11日夜、輸送作戦支援の第8艦隊の第6戦隊の重巡洋艦3隻・駆逐艦2隻が出港しましたが、アメリカ艦隊の重巡洋艦2隻・軽巡洋艦2隻・駆逐艦5隻のレーダーによる索敵で、日本軍の重巡洋艦古鷹・駆逐艦吹雪が沈没し、旗艦の重巡洋艦青葉が中破し、第6戦隊司令官の五藤存知少将は戦死しました。アメリカ軍も駆逐艦1隻が沈没しました。これをサボ島沖夜戦といいます。
 10月12日、ジャングルを切り開く作業が始まりました。工兵隊が切り開いたこの道は、第2師団長の丸山政男中将の名前をとって丸山道と呼ばれました。丸山道は40キロにもなります。100メートルを1時間もかかる難所です。しかし、参謀の辻政信中佐は、田中作戦部長に「密林障害の度は予想以上に軽易なり」と打電しています。
 10月12日、ガダルカナルの辻中佐は、大本営に、「駆逐艦による兵力及び弾薬、糧秣の輸送は敵機の揚陸妨害に依り計画の概ね2分の1程度なると。揚陸点より第一線までの補給は夜間、人力のみに依り辛うじて3分の1前後を前送しうる状態に在り」と現場の実態を打電しています。
 10月13日、第17軍は、第2師団に対し、「海岸沿いに進撃せず、アウステン山麓の南側を迂回して進撃し、ルンガ飛行場南側からの、攻撃予定日を10月20日とする」ことを命令しました。
 10月13日夜、海軍の第3戦隊である戦艦金剛・戦艦榛名は、ルンガ飛行場に艦砲射撃36センチ主砲弾918発を撃ち込み、多数の航空機90機のうち48機を破壊しました。
19  10月14日夜、日本軍の第8艦隊である重巡洋艦鳥海・重巡洋艦衣笠は、ルンガ飛行場を艦砲射撃20センチ主砲弾752発を撃ち込み、アメリカ軍は最大の被害を受け、滑走路は使用不能となりました。
 10月14日夜、日本軍が頼りとしていた輸送船団6隻がガダルカナルに無事到着しました。しかし、必死のアメリカ軍の戦闘機と爆撃機が揚陸中の輸送船3隻と撃沈しました。その結果、弾薬の5分の1、糧秣の2分の1しか揚陸出来ませんでした。
 10月15日、第17軍は、第2師団に対して、物資の輸送は順調ではなかったが、「攻撃を遅延せず、夜襲によりルンガ飛行場を攻撃する事」を命令しました。
 10月16日、陽動作戦をする部隊を海岸線に残して、第2師団主力1万5000人は、工兵隊が開鑿したジャングル道でルンガ飛行場に向け前進しました。大砲は200キロもあり、3個に分解します。そのため、3往復するため、歩兵より大幅に遅れました。
 10月18日、ラバウルの第17軍参謀長の宮崎周一少将は、ガダルカナルの第7軍と第2師団の司令部に対し、「アメリカ軍が飛行場のジャングル方面の防備を以前より強化している」と報告しました。
 10月18日、ジャングルを同行していた辻政信中佐は、実態を知った上で、第17軍司令部に「集合に4日、攻撃準備に2日を要する故、22日攻撃開始を至当と認める」と報告しました。現実的には不可能な日程であるのに、22日を攻撃開始日としている理由は、辻中佐の面子以外の何物でもありません。
 10月20日、バンデグリフト少将は、攻撃は最小限にとどめ、飛行場の陣地防衛に徹する戦術を確認しました。
 10月21日、ジャングルの日本軍の行進は、困難を極め、予定地点に集合できない部隊もあり、「攻撃予定日を10月23日に変更する」こととなりました。
 10月21日夕、右翼攻撃隊指揮官の川口少将は、第2師団司令部に対して、「一部の部隊が23日迄に攻撃地点に集合できないこと」と、「攻撃地点のムカデ高地付近が以前より防御体制が強固になっていること」を理由に、「攻撃予定日を10月24日に延期して、攻撃地点を高地より東北側の草原地帯に移すべきである」と意見具申しました。
 10月21日、第17軍は、アメリカ軍の兵力を8000人、戦車30両、火砲150門と把握していました。しかし、実際には2万3000人、最新式の兵器も揚陸させていました。砲弾も一木支隊の時の10倍、川口支隊の時の3倍準備しました。
 それに対して日本軍は2万8000人、火砲200門、戦車・装甲車75両と全てで上回る計算をしていました。しかし、実際は1万5000人、装備は3分の1でした。大本営情報部参謀の杉田一次大佐は「飛行機もないし、間諜もない、敵の情報を得る術がなかった」と語っています。
 10月22日、バンデグリフト少将は、6000人(川口支隊残存兵)+1万2400人(輸送船6隻の総トン数3万1000トン×日本軍1人貨物2.5トン)=1万8400人×0.9(人的損害1割)=1万6500人と合理的な数字を出しました。捕獲文書では1万5245人なので、ほぼ正確な数字といえます。
 10月23日、第2師団司令部は、川口少将の体験を基にした意見具申を却下し、「攻勢意欲無し」とみなして川口少将を指揮官から解任しました。攻撃直前の解任は、異例中の異例でした。川口少将の後任に歩兵第230連隊長の東海林俊成大佐を任命しました。また、歩兵第230連隊主力の到着が遅れたので、「攻撃予定日を10月24日に変更する」ことになりました。
 10月23日、辻政信中佐は、第17軍司令部に対して、「地形峻険錯雑のため部隊の進出おくれ攻撃準備できず、今夜の攻撃は不可能なり。いまだ敵に発見せられあらず、敵は飛行場の側でテニスを行いつつあり」と報告しました。
20  10月24日12時、第2師団長の丸山中将は、次のような攻撃命令を出しました。
「一、天佑神助と将兵の辛苦とに依り、師団は其の企図を全く秘匿し敵の側背に進出することを得たり。 二、予は神明の加護に依り既定計画に基づき攻撃を行い、一挙飛行場付近の敵を撃滅せんとす」
 10月24日12時、最前線にいる参謀の辻中佐も第17軍司令部に「第2師団の第一線は敵に察知せられることなく飛行場南方約2キロ付近に進出し…本夜は確実故、次回無電にて”バンザイ”を送る」と報告しました。攻撃は17時と決定しました。
 10月24日14時、ガダルカナル島一帯は、スコールのような豪雨となり、攻撃時間の17時が来ても止みませんでした。
 10月24日17時、第2師団の両翼隊は、突入の命令に基づき前進しましたが、起伏の激しいジャングルは地点の標定ができず、さらに日没を過ぎると全くの暗黒となりました。左翼隊の先頭に立ったのは仙台夜襲師団の名を持つ那須弓雄少将の指揮する歩兵第29連隊で、その中で勝股治郎太尉率いる第11中隊が先陣を切りました。
 第3大隊の突撃に呼応して第29連隊長の古宮正二郎大佐は、自ら突撃を敢行しましたが、アメリカ軍の激しい火砲攻撃を受け、古宮大佐は連隊旗とともに行方不明となり、大隊長・中隊長の大半が戦死しました。古宮大佐の遺書には「無益に多くの兵を失い、かくの如き結果となり申し訳なし。火力を侮るなかれ、火力あれば士気上がり火力なくば如何とのもし難し。精神力は永遠に在り」とあります。アメリカ軍は105ミリ榴弾砲を一木支隊の時は30発、川口支隊の時は1992発、今回は2719発使用しています。日本軍の砲兵部隊指揮官の木村竹治中佐は「砲弾は1発も撃たなかった。もともと野襲だから、師団命令で突撃が成功するまでは射撃はしないことになっていた」と語っています。
 勝股太尉が属する第3大隊が攻撃に移った時、第1大隊は第29連隊本部と連絡を失っており、一斉突撃は出来ませんでした。結局、この日、第1大隊は攻撃できませんでした。
 左翼隊が攻撃を始めたとき、罷免された川口少将に代わって、攻撃直前に指揮を執ることとなった東海林俊成大佐の第230連隊の右翼隊は、ジャングルに入り込み、草原を飛行場と思い込んで占領しました。そして「バンザイ」を本部に打電しました。30分後、飛行場でなくたんなる草原だったことが確認され、打消しの電報を打ち直しています。
21  10月25日、第2師団長の丸山中将は、左翼隊が敵陣に突入している状況から、再度全力を挙げて夜襲を敢行する命令をだしました。
 10月25日深夜、第16連隊の一部は、鉄条網を突破しました。しかし、アメリカ軍は、陣地周辺にマイクロフォンを設置し、日本軍の接近を音声で察知し、機関銃や迫撃砲による激しい攻撃をしかけました。その結果、那須少将は戦死、第16連隊長の広安広安寿郎大佐も戦死しました。第29連隊の損害は、2日間で戦死522人、負傷と合わせると50%になりました。第2師団も2日間で2000人以上の戦死者を出しました。この時、大本営派遣参謀の辻正信中佐は「陣地突破は望み得ない」と述べたといいます。
22  10月26日早朝、第2師団の総攻撃を支援するため、連合艦隊の機動部隊である空母4隻・重巡8隻・軽巡4隻・駆逐艦28隻・潜水艦12隻という大艦隊が出動しました。キンケード少将率いるアメリカ第16・第17任務部隊も出動しました。日本は、空母翔鶴・空母瑞鳳から零戦62機、艦爆・艦攻の第1次攻撃隊が発艦し、続いて、空母瑞鶴・空母隼鷹から攻撃機44機が発艦しました。アメリカも空母エンタープライズ・空母ホーネットから艦載機48機、艦爆・艦攻の第一陣を発艦させました。
 米軍機は、空母翔鶴・空母瑞鳳に集中攻撃をかけ、両空母とも飛行機の発着を不可能としました。
 10月26日、日本の第一次攻撃隊が空母ホーネットを発見しました。全機突入を命じ、爆弾5発と魚雷2発が命中し、やがて、ホーネットは沈没しました。エンタープライズも飛行甲板を大破して戦場離脱を図りました。しかし、日本軍も空母翔鶴・瑞鳳2隻が大破し、航空機69機を失いました。これは日本海軍最後の勝利となりました。これを南太平洋海戦といいます。
  第一次攻撃 第二次攻撃 第三次攻撃 第四次攻撃 合計 真珠湾以来の
ベテランパイロ
ットが殆ど戦死
しました。
零戦 10   17
99式艦爆 17 12 11   40
97式艦攻 16 10   28
23  10月26日、第17軍司令官の百武中将は、攻撃中止を発令しました。一木支隊、川口支隊に続き、日露戦争以来の伝統を持つ第2師団の攻撃も失敗しました。第17軍は、敗戦した第2師団主力に対して、ルンガ川上流地区に後退するよう命令しました。
 ガダルカナル島の実情は、「耳かき1杯の塩と手の平1つのかゆ」とか「絶食数日」で、しかも、山深いジャングルの中でした。これでは、体力も覇気も生まれてきません。それどころか、多数の病人がでました。ガダルカナル島への上陸は2万7000人で、現員は1万9700人でした。そのうち、戦闘可能は7500人でした。第17軍司令部では、伝令内容を煙草の包装の裏に書いたといいます。
 10月28日、大本営は、ガダルカナル島などを日米決戦の場と考え、10月26日の南太平洋海戦の大戦果も考慮に入れ、第17軍の戦力を充実させて、組織化すれば戦局の転換は可能だと判断しました。そこで、独立混成第21旅団の歩兵2個大隊を第17軍の指揮下に入れました。
 10月末、第17軍は、第38師団主力をタサファロングに上陸させることを決定し、第2師団主力をマタニカウ川渡河点付近まで後退させました。戦略・戦術ではなく、メンツにこだわった「戦力の遂次投入」という下策も下策の作戦でした。
 11月18日、大本営は、陸海軍協力してガダルカナル島奪回を図ることにしました。その結果、「12月下旬迄に中部ソロモン諸島のムンダなどに航空基地を設定して、陸海軍航空隊の活動を開始する。1月中旬には増援部隊を上陸させる。1月下旬には地上攻撃を開始する」という計画を立てました。
24  12月3日、第8艦隊の重巡洋艦2隻軽巡洋艦1隻・駆逐艦1隻は、第2水雷戦隊の駆逐艦11隻と共にガダルカナル島に出港し、ドラム缶1500個の食糧をタサファロング沖に投入しました。しかし、陸上部隊が回収できたのは30%でした。
 12月5日、船舶徴用問題で参謀本部と陸軍省が衝突しました。
 12月6日、作戦部長の田中新一中将は、ガダルカナル島作戦継続のため、船舶増徴16万5000トンの要求しました。閣議は、8万5000トンしか認めなかったので、田中中将は、政府側の軍務局長である佐藤賢了少将と殴り合い事件をおこしたり、東条英機首相に「馬鹿野郎」と怒鳴りました。その結果、田中中将は、謹慎の上、作戦部長を更迭されました。
 12月7日、参謀本部作戦部長の田中中将が罷免されて、参謀本部と陸軍省の妥協が成立しました。
 12月9日、第1海兵師団長であるバンデグリフト少将の後任に、陸軍のアメリカル師団長であるパッチ少将が就任しました。
 12月28日、大本営は、中部ソロモン諸島のムンダ航空基地・東部ニューギニア方面の各部隊が壊滅的な状況にあると判断し、ガダルカナル島奪回作戦を「撤退の方向」で再考しました。
 12月31日、軍令部総長の永野修身大将と参謀総長の杉山元大将は、ガダルカナル島撤退案を上奏しました。御前会議は、ガダルカナル島撤退を正式に決定しました。これは、明治以来、敗戦による初めての撤退でした。
25  1943(昭和18)年1月2日、ニューギニアでブナの日本軍が玉砕しました。
 1月2日、パッチ少将が率いるガダルカナル島の兵力は、5万人に達しました。
 1月4日、大本営は、「1月下旬から2月上旬にかけて、ガダルカナル島から全部隊を撤収する」「東部ニューギニア攻略部隊についても状況により撤退させる」ということを命令しました。これをケ号作戦といいます。「ケ」とは捲土重来の意味です。
 1月14日、ガダルカナル島撤退部隊の支援として、第38師団の補充兵によって編成された矢野任少佐率いる大隊750人をエスペランス岬付近に上陸させました。撤退命令伝達のため第8方面軍参謀の井本熊男中佐と佐藤少佐がガダルカナル島に上陸しました。
 1月15日、第8方面軍参謀の井本熊男中佐は、第17軍司令部に対して、ガダルカナル島撤退命令を伝えました。
 1月16日、第17軍司令官の百武中将は、撤退に同意しました。
 1月20日、 第17軍司令官の百武中将は、幹部以外には撤退を知らせず、各部隊に対して、エスペランス岬付近に集結し再攻勢を準備するよう命令しました。
 1月22日夜、残弾が少なくて砲撃できなかった重火砲を処分しながら、エスペランス岬に向けて移動を開始しました。
 1月27日、投入された陸軍航空隊は、ガダルカナル島の米軍を空襲しました。
 1月31日夜、アメリカ戦闘機部隊は、ラバウル航空基地に待機の日本航空隊50機を破壊しました。
 2月1日、第38師団・海軍部隊5400人は、駆逐艦20隻に分乗し、ショートランドに撤退しました。これを第1次撤退といいます。
 2月4日、第17軍司令部・第2師団4100人は、駆逐艦18隻に分乗し、ショートランドに向けて撤退しました。これを第2次撤退といいます。
 2月7日、第2次撤退を見届けた松田大佐率いる残存陸海軍部隊1900人は、重火器などを全て破棄して、駆逐艦4隻に分乗してショートランドに向けて撤退しました。これを第3次撤退といいます。
 撤退命令が届かなかった第4連隊の内藤大隊は、大隊長以下全員が戦死しました。
 この時、撤退できなかった日本兵は、ガダルカナル島に取り残されました。
  上陸兵力 撤退前離島 撤退人員 死亡 内戦死 内戦病死 負傷
日本軍 31.400 740 10.652 20.800 5.000 15.0000 不明
アメリカ軍 60.000       1.000   4.245
 この項は、NHK取材班『ドキュメント太平洋戦争2−敵を知らず己を知らず−』などを参考にしました。
ガダルカナル攻防戦
 日本人と戦う前のアメリカ人将兵の日本人に対する知識は、どんなものだったのでしょうか。
(1)日本軍は非常によく訓練されていて、とくにジャングル戦や夜戦に強いということを聞いていました。
(2)日本人はジャングルに生まれて猿みたいに木の上に住んでいるから、ジャングル戦に強い。
(3)日本人の9割は視力が低く、眼鏡を掛けている。その理由は漢字で、辞書を引いたり本を読んだりするたびに目が悪くなる。
(4)「日本兵の眼鏡を割れ、そもなくば飛行機にマッチで火をつけろ」と教えられていました(日本兵は集団で戦えても1人では戦えないから、眼鏡を割って集団から引き離す。日本軍の飛行機は旧式だから紙や木で作られているから、マッチで炎上する)。
(5)日本兵は一握りの米と干し魚の屑で生き抜くことができる。また完全装備で20キロの行軍をすることなど朝飯前だ。山間地やジャングルでは信じられないような戦闘技術を示し、多数の命の犠牲をものともしない攻撃に精通している。
(6)サムライは想像を絶するほど忍耐強く、英雄的で、騎士道の世界のように忠実で、金銭などの物欲を知らない、歴史上まれに見る理想主義者であった。しかし優れているのは軍事的側面に限られ、・・・傲慢で執念深く、自分の命に無関心なので他人の命もぞんざいに扱い、残酷な恐るべき行為を良心の呵責なく犯した。
 アメリカ人と戦う前の日本人将兵のアメリカ人に対する知識は、どんなものだったのでしょうか。
(1)陸軍は、日露戦争直後の帝国国防方針以来、太平洋戦争まで一貫して最大の仮想敵国はロシア・ソ連だったので、アメリカに関心が薄く、参謀の駐在先もアメリカは候補でなかった。その結果、物的国力はあるが、軍隊は弱いという認識しかありませんでした。
(2)参謀総長の杉山元大将のメモには
 @人的戦力は物的戦力に伴わざるべし(物量は豊富だが人間の力は大したことはない)。
 A政治経済機構は国家総力戦に必要なる臨戦態勢を整備し居らず(民主主義のような政治機構では国を挙げての総力戦態勢を確立するのは難しい)。
 B生活程度高く・・・戦争継続は社会不安を醸成し、一般に士気の衰退を招来すべし(ふだん豊かな生活をしているから、戦争で耐乏生活を続けると不安が渦巻き士気が落ちる)。
(3)辻政信参謀の『これだけ読めば戦は勝てる』には「将校は西洋人で下士官は大部分土人であるから軍隊の上下の精神的団結は全く零だ。対手は支那兵以下の弱虫で、戦車も飛行機もがたがたの寄せ集めである」と書いています。
(3)アメリカの兵隊は、暇になれば女といちゃついているから、たいしたことない。
(4)日本が作ったアメリカ軍のパンフレットには「米軍は世界一訓練のない弱い軍隊で、行けばすぐ潰れる」と書いてあった。
 日本人と陸上で初めて戦ったアメリカ人は、「日本兵にとって武器というものは、重機関銃から戦車まで勝利を得る手段ではなく、単なるアクセサリーにすぎない」と書いています。
 夜襲白兵主義の伝統は、どのようにして形成されたのでしょうか。
 昭和15年制定の兵士の教科書である『歩兵操典』には「訓練精到にして必勝の信念堅く・・・攻撃精神充溢せる軍隊は能く物質的威力を凌駕して戦捷を完うし得るものとす」(訓練を積んだ上で、必ず勝つという信念を持って銃剣突撃をしていけば、自動小銃や大砲の砲弾などの物質的な力をしのぐことができる)。「攻撃精神は忠君愛国の至誠より発する軍人精神の精華にして鞏固なる軍隊士気の表徴なり。……蓋し勝敗の数は必ずしも兵力の多寡によらず、精練にしてかつ攻撃精神に富める軍隊は克く寡を以て衆を破ることを得るものなればなり」(攻撃精神は忠君愛国の至誠より出てくる軍人の真価であり、勝敗の数は、兵力の多いとか少ないではない。精鋭の攻撃精神に富む軍隊は、少数であっても多数の敵にも勝つことができる)。「歩兵の本領は地形及び時期の如何を問わず戦闘を実行し突撃を以て敵を殲滅するに在り、しかして歩兵はたとい他兵種の協同を欠くことあるも克く戦闘を遂行せざるべからず」(歩兵の本領は、地形とか時期に関係なく、命令に従って戦闘し、突撃により敵を殲滅することである。歩兵は砲兵部隊や戦車部隊がなくても、戦闘を遂行せよ)。
 この通り戦って、敗れた場合、必勝の信念や攻撃精神が不足していたことになります。こうした精神主義一辺倒な不合理な考え方は、敵に対する無知・驕りに対しても、無責任で済ませられます。
 日露戦争の勝利に自信を深めた陸軍は、『歩兵操典』で攻撃精神と白兵銃剣突撃を核とする歩兵戦術を確立しました(「戦闘に最終の決を与うる者は銃剣突撃とす」)。
 第一次世界大戦は、白兵の銃剣突撃から、一気に戦車・飛行機の近代的物量主義に移行しました。第一次大戦を体験した軍人は、兵器と装備の近代化を主張しました。しかし、陸軍の多数は、これを敗北主義・精神力の軽視ととらえ、必勝の信念こそが物質力を凌駕すると主張しました。つまり、自動小銃には弾薬の消費が膨大すぎるが、日本兵には三八式歩兵銃による一発必中の名人芸と精神力があるというのです。
 陸軍の将校は、初期はドイツ式のサーベルを帯剣していましたが、満州事変以後は日本刀を帯剣するようになりました。精神主義の象徴です。
 東条英機の演説には次の一説があります。「敵情判断に捉われ敵の行動で自己の策案を立つるが如き思想尚存するは深く反省を要する。敵の行動如何に拘らず積極的自主的方策を以てし・・・一時的状況の変化などで方針変更など指揮官の深く戒むる所」(敵の状況や敵の行動に対応して作戦を変えるという思想はよくない。敵の行動がどうあれ、断固とした積極果敢な行動に躊躇してはいけない。一時的状況の変化で方針を変更するなど指揮官はしてはいけない)。この結果、参謀は情報を軽視し、自分の思い込みで判断するようになりました。
 日中戦争では、この精神主義的白兵銃剣突撃が成功してきました。そのため、これに異論を挟む異見は、敗北主義・精神主義の軽視として排斥し、そういう人物を第一線に送り込みました。
 しかし、この精神主義的白兵銃剣突撃から脱却できる時がありました。ノモンハン事件の時です。
 日本兵は、日露戦争のロシア兵と同じ感覚で、第一次大戦を経験して兵器の近代化を図ったソ連の戦車に夜間銃剣突撃しました。ソ連の英雄であるジューコフ将軍は、大兵力を集中し、「従深陣地」という火砲中心の戦略を立てました。こうした情報を得ていましたが、敵情判断に捉われるなということで、夜間銃剣突撃を敢行しました。惨敗です。この指揮を執ったのが、主任参謀の服部卓四郎中佐であり、作戦参謀の辻政信少佐でした。
 しかし、服部中佐や辻少佐は「自分たちは優秀で間違ってはいない。悪いのは命令どおり動かなかった現場の司令官で、責任をとって自害すべきだ」と報告したといいます。その結果、多数の司令官が自殺し、服部中佐や辻少佐の責任は不問にされ、近代兵器時代に銃剣突撃作戦が残ったのです。
 1943年2月7日にガダルカナル攻防戦が終わりました。その11日後にアメリカは『日本兵の正体』という報告書を出しました。
 そこには「日本兵にとって武器というものは、単なるアクセサリーにすぎない」とか「日本軍が武器を軽視する背景には、アメリカの文明・文化が物質的であるのに対し、日本のそれは精神的なものであるとの思い込みがある。そしてこうした考え方こそ日本の軍人精神、すなわち”大和魂”の根幹をなすものである。この精神は…わが軍の武器や戦闘能力などをも含めたわが国の文明に対する軽蔑の原因ともなっている。…日本人はこのような天皇への尊敬と絶対服従をあまりに長く強いられてきたために、もはやそれに染まり切ってしまい、天皇の言葉に従う以外の行動は考えられなくなってしまったのである。日本軍の規律が厳しいのも、またその兵士が優秀な人間機械として上官の命じるままに勇敢かつ巧に戦い、刀をもって勝利を手にするか、さもなくば残された唯一の道すなわち死を選ぶしかないと信じるのも、すべてはこうした要素が重なり合って生じた結果なのである」と書いてあります。
 今の日本人に通ずる厳しい分析です。どうして短時間に相手に対応できるのでしょうか。
 日本語の出来る人間が極端に少なかったアメリカでは、開戦の半年前から、日本語の語学将校を1万人まで増やす計画をたて、その第一陣がガダルカナルに送り込まれたのでした。日本では鬼畜米英の合言葉で、英語が禁じられたのと大違いです。
 彼らは日本兵の残した日記を分析しました。日本人捕虜には煙草やチョコレートを与えて親しくなりました。陸軍軍医吉野平一中尉の日記です。前書きに「我亡きあとに此の記を妻房子に送る」とあり、新婚の妻への思いが伝わってきます。私は涙を禁じえません。「9月10日、今日も亦密林内の前進か、食事は出来ず乾パンをかじる。水も少ない。…米を食わないので身体の力が抜けるようだ」「9月11日、午前3時半起床、4時出発。朝食は米なく乾パンを歩きながら食す。苦しい、水もなくなる。水が欲しい水が欲しい。…夜は腰から下ビショぬれの為安眠出来ず」
 別な人の日記には「指揮官は真っ先に逃げる」とか「こんな状況で、いつまで生きることが出来るのか。考えると涙が出る」・「家のことを思い出して眠れなかった」・「死にたくない、妻子の所に帰りたい」とありました。プロパガンダとして利用された部分もありますが、死を恐れないスーパーマンという日本兵を、同じアメリカ兵と同じ人間だと考えるようになり、冷静に日本兵と対応できるようになったといいます。死ぬまで戦って残されるのは死後の名誉だけというのでは限界があると感じたのです。
 捕虜になってニュージーランドに送られた熊林竹雄上等兵は「捕虜になったら舌を噛み切って死ねといわれた。介護してくれた看護婦は”病人には敵も味方もない、恨むなら東条を恨みなさい””ニュージーランドでは捕虜は戦死者の次に名誉なことです。どうして日本人は死にたがるのです?”と言われた」と語っています。
 アメリカに残っていた捕虜尋問調書には次の記録が残っていました。
(1)嘘の名前や部隊を言ったのは、捕虜になった通知が日本に送られたら家名を汚すのが怖かった。
(2)マラリヤで自力で動けなかったので、自分を殺すようにと手真似した。
(3)小銃を汚すことは大きな罪であり、天皇に無礼を行ったとして謝罪文を書かされた。靴を汚すだけでも古参兵に首を縛られるようなリンチを受け、謝らなければならなかった。
(4)捕虜は戦死とみなされている。
 捕虜になることが兵士本人にとって許されないことであるばかりでなく、家族にまで累が及ぶというようなことは、日本軍以外にはなかった。捕虜になるという前提がないので、捕虜になった場合の訓練は必要なかったのです。だから、日本兵士は、軍事機密までなんでもしゃべったのです。これを捕虜は恥の思想といいます。
 『戦陣訓』には、「恥を知る者は強し。…生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」とあります。将校用の『俘虜に関する教訓』には、「許されて軍隊に復帰するや雪辱の意気に燃えて服務し、決死の勇を持って奮闘し死処を得るに努べきものとす。ただし特に気節を重んずべき将校にありては、選ぶべき途は自決の外なきを通常とす」とあります。
 1942年12月の『教育資料』には「俘虜になる等ということは、…2600年の祖先と家郷と国土に生き得るか否かの運命の岐れ路である」「唯々攻撃あるのみ。戦って戦って死ぬ、唯それあるのみ。…自決は攻撃精神の最後手段である」と、絶句するようなことが書かれています。
 ガダルカナル攻防戦当時、大本営陸軍部作戦課の参謀は13人いました。彼らは、陸軍幼年学校・士官学校・大学校の純粋培養教育を受けた中のエリートの中のエリートでした。その中でも3人の参謀が突出していました。
 作戦部長の田中新一中将は、日中戦争・太平洋戦争でも強硬派でした。作戦課長の服部卓四郎大佐は、ノモンハン事件・太平洋戦争でも積極的推進はでした。作戦班長の辻政信中佐は、士官学校を主席で卒業し、前線で指揮する参謀であり、マレー・シンガポール作戦の成功で「作戦の神様」ともいわれ、上司をも大声で威圧し、独断専行でも有名でした。
 シンガポール陥落の時の司令官であった山下奉文中将は、辻政信中佐を「此男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり」と日記に記しています。

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