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エピソード

263_01

無条件降伏(ポツダム宣言、原子爆弾、ソ連の対日参戦、降伏)
ここでは、1945年8月の日本軍の無条件降伏までを扱います。
 外交面では、2月にルーズベルト・チャーチル・スターリンがヤルタ会談して、南樺太・千島列島をソ連に譲渡するという条件で、「ドイツ降伏の3ヵ月後にソ連が対日参戦に踏み切る」という内容が極秘に約束されていました。これをヤルタ協定といいます。
 5月にドイツが降伏すると、日本の同盟国は日本だけのなりました。そこで、中立条約を結んでいたソ連に和平を仲介を依頼します。ソ連としては、ヤルタの秘密協定が実行される3ヶ月まで目前です。そんなことを知らない日本政府は、ソ連に一本化して、無意味な、おねだりを必死にします。
 ドイツの降伏直後、アメリカの大統領は、日本に無条件降伏を勧告しています。それを無視して、一億玉砕を唱えたため、沖縄の悲劇が誕生しました。
 その後、ポツダム宣言が出されましたが、国体が明確でないとして、これを無視しました。その結果が、原爆であり、ソ連の対日参戦という悲劇でした。
 国民を悲劇に巻き込む国体というのは存在するのでしょうか。
 1938(昭和13)年、ヒトラーが支配するドイツで、核分裂に成功しました。
 1939(昭和14)年、ヒトラーのヨーロッパ侵攻が始まりました。ナチスの迫害から逃れてアメリカに亡命したユダヤ系科学者のレオ・シラードは、ナチスが核分裂を利用して新型爆弾を開発しているのではないかと恐れました。そこで、著名な科学者であるアインシュタンを説得して、新型爆弾の研究を促す手紙をルーズベルト大統領に送りました。
 1942(昭和17)年、ルーズベルト大統領は、マンハッタン計画を承認し、ニューメキシコ州 ロスアラモスで原爆の研究が始まりました。官・軍・学・産を総動員した巨大軍事開発事業でした。
 1944(昭和19)年9月、アメリカとイギリスの首脳は新兵器を日本に対して使用することを決めました。3年の歳月と20億ドルの経費をかけて原爆はほぼ完成し、あとは実験を待つだけでした。
 1945(昭和20)年4月27日、原爆の投下地域として、東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保の17都市が選定されました。
 5月7日、ドイツは、連合国軍に無条件降伏しました。
 5月11日、原爆の投下地域として、京都、広島、横浜、小倉の4都市が選定されました。
 5月28日、原爆の投下地域として、京都、広島、新潟に対して、空襲が禁止されました。空襲を禁止した理由は、原爆の効果を正確に測定できるよう、空襲を受けていない直径3マイル(4.8キロ)以上の市街地を持つ都市を選んだからです。
 6月14日、原爆の投下地域として、小倉、広島、新潟の3都市が選定されました。
 6月、トルーマン大統領が出席した会議で、原爆の投下は「労働者の住宅に囲まれた軍需工場に、事前の警告無し」で行われるべきだと決められました。開発に携わった一部の科学者は、無警告の原爆投下に反対したといいます。
 7月10日、最高戦争指導会議は、ソ連に終戦斡旋依頼のため近衛文麿の派遣を決定しました。
 7月10日、アメリカの機動部隊は、関東各地を空襲しました。
 7月14日、アメリカの機動部隊は、東北・北海道各地を空襲しました。
 7月14日、アメリカの機動部隊は、釜石を空襲しました。
 7月14日、アメリカ艦載機の攻撃で青函連絡船翔鳳丸など9隻が沈没しました。
 7月15日、アメリカの機動部隊は、室蘭を艦砲射撃しました。
 7月16日、アメリカは、ニューメキシコ州のアラマゴードで、最初の原子核爆発実験に成功しました。実験をニュースフィルムで見ました。太陽のような火の玉が地上から真上に浮き上がります。遠くから観測していたアメリカ人のコンクリート製の小屋も吹っ飛ばしていました。
 火の玉の威力は、摂氏100万度にもなったそうです。ウラン1kgが分裂すると、1gから100ワットの電球×2万8000年分のエネルギーを放出するそうです。
風力
爆心地からの距離 最大風速 被害の程度
800m以下 330m秒 コンクリート以外完全に崩壊
1800m以下 200m秒 すべての建物が大破
2600m以下 72m秒 木造建築物は使用不可
3200m以下 36m秒 木造建築物では部分破損

 絶対に使ってはいけない悪魔の兵器と感じました。
 7月17日、トルーマン・チャーチルスターリンは、ポツダム会談を開きました。
 7月18日、日本の近衛文麿派遣申し入れに対して、ソ連はこれを拒否しました。
 7月25日、「8月3日以降、速やかに広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ原爆を投下する」という命令が出されました。
 7月26日、トルーマン・チャーチル・スターリンは、対日ポツダム宣言を発表しました。その内容は、以下の通りです。
(6)吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐サラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ
 *解説(無責任な軍国主義が・・・日本国国民を欺瞞し、これによって世界征服をしようとした過誤を犯した者の権力及び勢力は、永久に除去されなければならない→日本から軍国主義を追放する)
(7)右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ聯合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ
 *解説(日本国の戦争遂行能力が破砕されたという確証があるまでは、占領する→戦後の占領政策)
(8)「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
 *解説(カイロ宣言を実行し、また、日本国の主権は本州・北海道・九州及び四国並びに諸小島に局限される→つまり、日清戦争以前の状態の戻す)
(10)吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ
 *解説(われらの俘虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加える。日本国政府は、民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去する。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は、確立されなければならない→捕虜を虐待した戦犯の処罰、民主主義の復活、基本的人権の確立)
(12)前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ
 *解説(諸目的が達成され、自由意思によって平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍は、直ちに日本国より撤収する→平和で民主の政府が自立されると占領政策は終了する)
(13)吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ニ対ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス
 *解説(全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、充分な保障を提供することを要求する。これ以外の選択には、迅速かつ完全な壊滅があるだけである→無条件降伏しなければ、完全な壊滅がある
 7月27日、イギリス総選挙で勝利した労働党のアトリー内閣が誕生しました。
 7月28日、鈴木首相は、記者団に対しポツダム宣言黙殺・戦争邁進と談話しました。
 7月30日、駐ソ大使の佐藤尚武は、ソ連に条件付和平の斡旋を依頼しました。
 8月1日、「8月6日に投下する。優先順位は広島、小倉、長崎とする」ということが決定しました。広島が目標とされた理由に、軍隊・軍事施設・軍需工場が集中しており、空襲を受けていませんでした。
 8月6日未明、マリアナ諸島のテニアン島から気象観測機は、広島・小倉・長崎に向け出発しました。その後、原爆を搭載したエノラ・ゲイ号と科学観測機・写真撮影機3機のB29が出発しました。気象観測機から「第1目標が好天なり」と連絡を受けたエノラ・ゲイ号は、広島に向かいました。
 8月6日8時15分、B29のエノラ・ゲイ号は、広島の相生橋を照準にして、4トンのリトル・ボーイという原子爆弾(ウラン爆弾)を投下しました。原爆は、相生橋の南東300メートルにある島病院の上空580メートルでさく裂しました。原爆は火球となり瞬間的に摂氏100万度に達しましした。爆心地付近の地上では約摂氏6000度の照射がりました。
 爆心地より半径1キロ以内の屋外にいた人では、1週間以内に90〜100%が亡くなっています。
 爆心地から半径2キロ以内の遮蔽物のないところにいた人では、1週間以内の死亡率は83%でした。半径2キロ以内ではすべての木造建築物は崩壊しました。
 爆心地から3キロ以内でも90%以上の建造物が崩壊・焼失しました。
 広島市の人口29万6000人のうち、原爆による死者はは20万1990人でした。
 8月7日、豊川市の海軍工廠が爆撃され、女子挺身隊員・小学生ら2400人が即死しました。
 8月8日、ソ連は、日本に宣戦を布告し、北満州・朝鮮・樺太に進攻を開始しました。
 8月8日、「8月9日に投下する。優先順位は小倉、長崎とする」ということが決定しました。
 8月9日、毛沢東朱徳は、「抗日戦は最後の段階に入った」と声明しました。
 8月9日、マリアナ諸島のテニアン島を出発したB29のボックス・カー号は、第1目標の小倉上空に来ましたが、煙やもやのため投下を断念して、第2目標の長崎に向いました。
 8月9日11時2分、B29のボックス・カー号は、長崎の北部の浦上地区上空9600mから4.5トンのファット・マンという原子爆弾(プルトニウム爆弾)を投下しました。高度500mで炸裂し、0.2秒後には半径200mの火の球となりました。この火の球の表面温度は太陽の表面温度並の8000度にも達しました。死者は15万人でした。
 8月9日、防空総本部は、新型爆弾につき白衣を着て横穴壕に退避するなどの対策を発表しました。
爆発高度 被爆時人口A 1945年末死者 1950年10月B B/A
広島 580m 42万人 14万±1万人 20万人 47.6%
長崎 503m 27万人 7万人±1万人 14万人 51.8%
 8月10日、御前会議が召集されました。
 8月10日2時30分、御前会議は、国体維持を条件にポツダム宣言受諾を決定しました。
 8月10日、鈴木内閣は、中立国のスウェーデン・スイスを通じて、連合国へ申し入れました。
 8月10日20時、同盟通信社・日本放送協会は、海外放送でポツダム宣言条件付受諾申し入れを放送しました。しかし、国内向けには厳秘扱いされました。
 8月11日、新聞各紙は、情報局総裁の下村宏国体護持の談話と陸相の阿南惟幾の全将兵への断固抗戦訓示を並べて報道しました。
 8月12日、日本の降伏条件に対する連合国の回答公電が到着しました。それには、天皇制には直接触れた文面はありませんでした。
 8月13日、世界シオニスト会議は、ユダヤ人100万人のパレスチナ入国を要求しました。
 8月14日、被害調査のために広島に入った仁科芳雄らは、新型爆弾を原子爆弾と発表しました。
 8月14日、御前会議は、ポツダム宣言受諾を決定しました。中立国のスウェーデン・スイスを通じて、連合国へ申し入れました。その内容は、以下の通りです。
 「ポツダム」宣言ノ條項受諾ニ関スル八月十日附帝国政府ノ申入並ヒ二八月十一日附「バーンズ」米国国務長官發米英ソ支四国政府ノ回答ニ関連シ帝国政府ハ右四国政府ニ対シ左ノ通リ通報スルノ光榮ヲ有ス
一、 天皇陛下ニオカセラレテハ「ポツダム」宣言ノ條項受諾ニ関スル詔書ヲ發布セラレタリ
二、 天皇陛下ニオカセラレテハソノ政府及ヒ大本営ニ対シ「ポツダム」宣言ノ諸規定ヲ實施スル爲必要トセラルヘキ條項ニ署名スルノ権限ヲ興へ且ツ保障セラルルノ用意アリ又陛下ニオカセラレテハ一切ノ日本国陸、海、空軍官憲及右官憲ノ指揮下ニ在ル一切ノ軍隊ニ対シ戦闘行爲ヲ終止シ武器ヲ引渡シ前記條項實施ノ爲連合国最高司令官ノ要求スルコトアルヘキ命令ヲスルコトヲ命セラルルノ用意アリ
 8月14日、昭和天皇は、戦争終結の詔書を録音しました。
 8月14日、中ソ有効同盟条約が調印されました。
 8月15日、日本は、無条件降伏・ポツダム宣言受諾を発表し、第2次世界大戦が終了しました。推定死者は1683人、負傷者は2670人に達しました。
 8月15日、陸軍の一部将校は終戦阻止の反乱をおこして、録音盤奪取を図ったが鎮圧されました。
 8月15日12時、終戦終結の詔書が放送されました。政府の発表によると、太平洋戦争の戦没者は陸海軍人155万5308人、一般国民29万9485人となります。実際の戦没者は合計で300万人と推定されます。
 8月15日、この日までに戦災による文化財の被害は、名古屋城・徳川家康廟など国宝293件、史蹟名勝天然記念物44件、重要美術品134件に上りました。
 8月15日、鈴木貫太郎内閣が総辞職しました。
 8月15日、朱徳は、米英ソ3国に対して、解放区の人民代表・対日平和会議参加権・米国の対蒋援助停止など5項目を要求しました。
 8月15日、旧フランスビシー政府のペタン元帥に死刑の判決が出ました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
ポツダム宣言の深読み、終戦の詔勅、原爆
 7月26日に出されたポツダム宣言の13条「We call upon the Government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all the Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is complete and utter destruction」(吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ・・・右以外ノ日本国ノ選択ハ完全ナル壊滅アルノミトス)の英文・和文をよく読みなおしてみました。
 unconditional surrenderとは無条件降伏、alternativeとは直訳では補償の代替ですが、翻訳すると無条件降伏以外の選択、utterは徹底的・完全な、destructionは破壊・破滅です。
 要するに、無条件降伏以外の選択をすると、完全な・破壊・壊滅があると書いています。つまり、ソ連の対日参戦、アメリカの原爆投下を暗示する、恐るべき宣言です。
 7月27日、鈴木貫太郎内閣は、ポツダム宣言の存在を論評せずに、条文のみ公表しました。
 7月28日、各新聞者は、次のように報道しました。「笑止、対日降伏條件」(読売新聞)、「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢、錯覚を露呈」(毎日新聞)。
 7月28日、鈴木貫太郎首相は、記者会見で、「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず、黙殺し、斷固戦争完遂に邁進する」と語りました。
 7月29日、朝日新聞は、「政府は黙殺」と報道しました。同盟通信社は「ignore it entirely」と翻訳して報道しました。ignoreとは「無視する、知らないふりをする、取り合わない、踏みにじる」という意味であり、しかも「意図的に」という強調された内容です。しかも、entirelyは「全く、完全に」という意味です。鈴木首相の「ポツダム宣言を黙殺し、斷固戦争完遂に邁進する」の意図に一番近い翻訳だと思います。
 7月29日、外国のロイターとAP通信は「reject」と翻訳して報道しました。rejectとは「拒絶する、拒否する、拒む、断る、受け入れない、認めない、退ける、はねつける」という意味です。
 これでは、売り言葉に買い言葉で、喧嘩になるのは当然です。
 日本の政府や軍部は、「完全な壊滅がある」という脅迫文を無視して、どうして破滅的な「斷固戦争完遂に邁進」という態度をとったのでしょうか。
 日本の政府や軍部にとって、一番大切なのは、国の基礎である国民ではなく、天皇制(国体)であったのです。ポツダム宣言には、国体のことが触れられていませんでした。だから、このような態度をとったのです。
 その結果、完全な壊滅がやってきました。8月6日には史上最初の原爆が広島に投下されました。8月8日には和平交渉の仲介を依頼していたソ連が対日宣戦を布告して満州に進撃入しました。8月9日には史上2発目の原爆が長崎に投下されました。
 ここまで国民が痛めつけられて、やっと、日本の政府や軍部は対応策を考えました。
 8月9日、御前会議を開き、天皇制(国体の護持)を条件にポツダム宣言の受諾を決定しました。
 8月10日、日本政府は、この段階になっても、そのことを連合国に打診しました。
 「右宣言は国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に受諾す。帝国政府は右了解にして誤りなきを信じ本件に関する明確なる意向が速に表示せられんことを切望す」
 8月11日に、アメリカのバーンズ国務長官は、次のように回答しました。
「From the moment of surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander for the Allied Powers who will take such steps he deems proper to effectuate these terms of surrender」
 *和訳(降伏の時より、天皇および日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官に従属する)
「The ultimate form of government of Japan shall in accordance with the Postsdam Declaration be established by the freely exressed will of the Japanese people」
 *和訳(日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される)
 「subject to」は、普通「to以下に従属する」と訳します。従属するを軍部は「隷属する」と解釈し、外務省は「制限の下におかれる」解釈し、国体をめぐって対立がありました。
 加瀬英明氏の『天皇家の戦い』にはこのように記録されています。
 8月11日13時、芝高輪の高松宮御殿に高松宮・三笠宮ら6人が参加して、東郷茂徳外相からポツダム宣言に対する政府の対応を聞きました。
 8月12日15時、高松宮・三笠宮ら13人が吹上御所で皇族会議を開きました。閑院宮と久邇宮は、戦争継続を強く主張しましたが、他の皇族方は、誰も話に加わりませんでした。間もなく天皇が入御され、本土決戦の見込や連日の空襲による国民の悲惨な状況から、ポツダム宣言受諾の決心を伝え、「皇族全員が平和を達成する目的のため協力することを望む」として話を終えられた。
 8月12日夜、陸相の阿南惟幾大将は、三笠宮を訪ね、降伏に傾いた天皇の翻意を懇願しました。その時、三笠宮は「陸軍は満州事変以来大御心に副わぬ行動ばかりしてきた」と叱責しという話が残っています。
 8月14日、御前会議は、宣言受諾を決定しました。昭和天皇は、戦争終結の詔書を録音しました。
 8月15日未明、国体護持が確証ない状況での終戦に納得できない陸軍省軍務局の椎崎二郎中佐・畑中健二少佐らは、 近衞師団參謀の石原貞吉少佐・古賀秀正少佐らと共に、天皇を擁護してのクーデタ計画を進めていました。椎崎中佐と畑中少佐と陸軍省の井田正孝中佐、近衛師団司令部を訪れ、クデータの協力を要請しました。しかし、近衛師団長の森赳中将は、「たとへ陸軍大臣・參謀総長の命令であろうと、近衞師団は天皇の命令以外には動かない」と抵抗しました。そこで、椎崎二郎中佐らは近衛師団長の森赳中将をを殺害して、偽の命令で近衛師団を出動させました。しかし、玉音盤を奪い取ることは出来ませんでした。森中将の死を知った陸相の阿南惟幾大将は、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル・・・神州不滅ヲ確信シツツ」という遺書を残して自害しました。
 8月15日早朝、東部軍司令官の田中静壱大将は皇居に乗り込み、このクーデタ計画を鎮圧しました。そこで、椎崎二郎中佐らは、ラジオ放送を通じ国民に決起の趣旨を呼びかけ用としましたが、これも失敗しました。最後に、椎崎二郎中佐らは、宮城周辺で徹底交戦を呼びかける檄文をまきました。
 8月15日7時21分、NHKラジオは、「謹んでお伝えいたします。畏きあたりにおかせられましては、このたび詔書を渙発あらせられます。畏くも天皇陛下におかせられましては、本日正午おんみずから御放送あそばされます。まことに畏れ多い極みでございます。国民はひとりのこらず謹んで玉音を拝しますよう。
なお昼間送電のない地方にも、正午の放送の時間には、特別に送電いたします。また官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などにおきましては、手もちの受信機をできるだけ活用して、国民もれなく厳粛なる態度で、畏きお言葉を拝し得ますようご手配ねがいます。ありがたき放送は正午でございます」という内容の放送を流しました。
 8月15日11時20分、椎崎二郎中佐・畑中健二少佐は、皇居前で拳銃で自害しました。
 阿南惟幾大将や椎崎二郎中佐・畑中健二少佐の顕彰碑が立っていたり、彼らを評価する人がいたりします。八絋一宇といえば、家族が東アジアで、その家父長が天皇です。家族が犠牲になっているのに黙っている家父長はいますかね。
 8月15日12時、NHKの和田アナウンサーが「ただいまより重大なる放送があります。全国聴取者の皆様御起立を願います。重大発表であります」と放送しました。続いて、下村情報局総裁が「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給う事になりました。これよりつつしみて玉音をお送り申します」と伝えました。注目すべきは、「国体を護持し得」たいう表現です。
「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し茲に忠良なる爾臣民に告ぐ。
 朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。抑々、帝国国民の康寧を図り萬邦共栄の樂を偕にするは、皇祖皇宗の遺範にして、朕の拳々措かざる所、曩に米英二国に宣戦せる所以も、亦実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出て、他国の主権を排し領土を侵すが如きは、固より朕が志にあらず。然るに、交戦已に四歳を閲し朕か陸海将兵の勇戦朕か百僚有司の励精朕か一億衆庶の奉公各々最善を尽せるに拘らす戦局必ずしも好転せす世界の大勢亦我に利あらす加之敵は新に残虐なる爆弾を使用して頻りに無辜を殺傷し惨害の及ふ所真に測るへからさるに至る而も尚交戦を継続せむか終に我か民族の滅亡を招来するのみならす延て人類の文明をも破却すへし。斯の如くむば、朕何を以てか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せむや。是れ、朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり。朕は、帝国と共に、終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れたる者、及、其の遺族に想を致せば、五内為に裂く。且、戦傷を負ひ、災禍を蒙り、家業を失ひたる者の厚生に至り ては、朕の深く軫念する所なり。
 惟ふに、今後帝国の受くべき苦難は、固より尋常にあらず。爾臣民の衷情も、朕善く之を知る。然れども、朕は時運の趨く所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て萬世の為に太平を開かんと欲す。
 朕は、茲に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民と共に在り。若し夫れ、情の激する所、濫に事端を滋くし、或は、同胞排擠互に時局を亂り、為に大道を誤り、信義を世界に失うが如きは、朕最も之を戒む。宜しく挙国一家子孫相伝え、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念ひ、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらむことを期すべし。爾臣民其れ克く朕が意を体せよ」
1945年7月26日がポツダム宣言発表の日、8月10日が天皇大権不変更を条件にポツダム宣言を受諾回答した日、8月15日がポツダム宣言受諾の日です。その間20日です。その20日間とは、日本の指導者が善良なる日本国民の運命でなく、国体護持に固執して空費した貴重な20日間でした。
 その結果、38万人の日本国民が犠牲となりました。太平洋戦争の日数は、1347日間で、その死者は300万人と言われています。38万人は、全体の死者の13%にあたります。これを悲劇の20日間と表現する人がいます。全く、同感です。
 私は、「原爆は悪魔の兵器である」と思っています。いかなる理由があろうとも、使ってはいけないのです。毒ガスが使用禁止になっています。それ以上に、危険な兵器なのです。
 なぜ、アメリカはこの悪魔の兵器を使ったのでしょうか。次の理由を挙げる人がいます。
(1)1945(昭和20)年の米・英・ソ首脳によるヤルタ会談で、ソ連はドイツの降伏から3カ月以内に日本に参戦することを極秘に決めていました。米国はソ連の対日参戦より前に原爆を日本に投下し、大戦後世界でソ連より優位に立ちたいと考えていました。しかし、これはあり得ません。原爆投下の決定は1944年9月で、ヤルタ協定は1945年2月です。ただ、ソ連より優位に立つという理屈は成り立ちます。
(2)アメリカは原爆という新兵器を実戦で使い、その威力を知りたかったと同時に、膨大な費用を使った原爆開発を国内向けに正当化したかった。官・軍・産・学連携のアメリカです。これは、あり得ます。
(3)日本をできる限り早く降伏させ、米軍の犠牲を少なくしたかった。これは議論が分かれる所です。
@1945年7月、米国統合参謀本部議長のブラッドレーは「日本は既に事実上敗北しており、降伏を準備している」と報告しています。
A1945年7月、陸軍長官のスチムソンは「残っているのはこうるさく抵抗する程度の戦力である」と報告しています。
B1945年9月、米国戦略爆撃調査団は「原爆投下・対日参戦がなくても、12月31日までには確実に降伏したであろう」と記録しています。
C大統領のトルーマンは、「原爆投下は、日本上陸作戦で失われる100万人以上の米軍の犠牲を回避し、戦争を早期に終結させるためであった」と議会で、戦後、述べています。
Dトルーマンの話を信ずるアメリカ人もたくさんいます。しかし、それを否定するアメリカ人もいます。

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