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エピソード

264_01

太平洋戦争中の文化(横浜事件、軍歌)
 小泉純一郎首相の靖国参拝を受けて、TV番組に、今までなら、歴史修正主義者として出演出来なかった学者や評論家がたくさん出てくるようになりました。
 それを受けて、ホームページや掲示版、ブログ(毎日更新される日記風簡易ウエブサイト)などには、史料を提示せず、偏狭な国家主義的文章が蔓延しています。
 大東亜戦争は正義の戦いだったという論調が多いです。当時の日本は、自由に物が言える時代ではありませんでした。体が弱くて戦争にいけなないと非国民と呼ばれた時代です。竹槍訓練に強制的に動員されても文句を言えなかった時代です。少しでも政府や軍部の言うことに是非を問わず物をいうと、刑務所に入れられた時代です。
 今TVの出演者も偏狭なナショナリズムを書きたてている人も、当時なら、弾圧されていました。強制を嫌がる今の若者が無意味な竹槍訓練に参加しなくていい時代です。今の自由で平和な社会だから、何でも言えるのです。その分、責任が伴うのです。そんな時代をもう一度、主体的に考えたいと思います。
 ここでは、太平洋戦争中最大の言論弾圧事件といわれる横浜事件を取り扱います。
 1942(昭和17)年7月、細川嘉六は、郷里の富山県泊町で開かれた『植民史』の出版記念に、中央公論社や改造社の編集者らを招待しました。出席者の1人が記念写真をとりました。
 8月、雑誌『改造』8・9月号に、細川嘉六の「世界史の動向と日本」が掲載されました。その論旨は「わが国の目指す東亜新秩序の建設は、旧来の植民地支配政策ではいけない。民族の自由と独立を支持するソ連の新しい民族政策の成功に学べ」というものでした。弁証法とか生産力という語句を使用していましたが、内務・情報局の検閲を通過していました。
 8月6日、陸軍報道部の平櫛孝少佐は、「この論文は擬装共産主義を煽動するものである」として「筆者の述べんとするところは、わが南方民族政策においてソ連に学べということに尽きる。。この論文は日本の指導的立場を全面的に否定する反戦主義の鼓吹であり、戦時下巧妙なる共産主義の煽動である。・・・かような雑誌の継続は即刻取りやめさせる所存である」と述べました。
 これを受けて、陸軍報道部長の谷萩那華雄大佐は、平櫛少佐の意見に賛同しました。
 9月1日、雑誌『改造』は、配本済でしたが発売禁止となり、編集長の大森直道は辞職しました。
 9月14日、細川嘉六が検挙されました。これが横浜事件の発端です。
 1943(昭和18)年5月、神奈川県特高は、西沢富夫平館利雄らを検挙したときに、出版記念の写真を入手しました。これを元に、特高は、出版記念は共産党再建準備会としての「泊会議」であり、この会議に参加したメンバーを再建グループの「細川嘉六グループ」という構造を作り上げました。
 5月26日、神奈川県特高は、写真に写っていた5人を検挙しました。
 7月1日、神奈川県特高は、細川嘉六の著作上の仕事を手伝っていた中央アジア協会の新井義夫を逮捕しました。新井義夫が昭和塾と関係があることをつかみました。
 7月31日、神奈川県特高は、新井義夫との関係から、昭和塾関係で中央公論社の浅石晴世らを検挙しました。これを機会に、神奈川県特高は、知識階級に影響力をもつ総合雑誌や出版社の編集者グループを弾圧することにしました。
 物を盗んだり、人を怪我させれば、罪を犯したことになり、罰を受けるのは当然です。しかし、どんな心が罪で、それを罰するということは普通では、あり得ません。しかし、戦前の日本では、治安維持法が罪を裁くのです。その手先が特高でした。特高もつらかったと思います。軍の竹槍戦術を「あんなことをしていたら日本は敗けるよ」と陰口を言うと、これは共産主義的敗北主義の発言として刑務所に入れられるのです。『昆虫の社会』という生物の本を買った人が、社会という本を買ったといって刑務所に入れられた話を聞きました。今なら笑い話です。
 1944(昭和19)年1月29日、中央公論社関係では、小森田一記畑中繁雄青木滋藤田親昌沢赳が検挙されました。すでに検挙されているのが木村享・浅石晴世・和田喜太郎です。
 改造社関係では、小林英三郎水島治男若槻繁青山鉞治が検挙されました。すでに検挙されているのが相川博・小野康人です。
 3月12日、改造社の元編集長であった大森直道が検挙されました。
 5月26日、小野康人の証言です(美作太郎・藤田親昌・渡辺潔著『言論の敗北』より)。
 私を拘引に来た警察官は神奈川特高課の平賀警部補らでありましたが、長谷川検事の拘引令状を見せ、三人でどかどか私の家に上がって、まず私を巡査が連れ出して、付近の渋谷警察署の特高室に連れて行き、その後で家中を捜して、押入れから学生時代読みふるした左翼本を百四、五十冊及びその他手紙や原稿の書きふるしを捜し出し、大きな風呂敷包み四個にまとめて、私はこの風呂敷包みとともに横浜の寿警察署に連行されたのです。
 寿署に着くと、最初、講堂に連れこまれて、小憩の後、正午頃平賀警部補が取調べを開始しました。
警察「お前は共産主義を何時信奉したか?」
小野「十年も前からまったく、共産主義からは離れている」
警察「なかなか、手ごわいぞ。シラを切っても、泊会議はどうした? 証拠は十分あるんだ」
 私を同行の巡査と二人で武道場に連れていったのです。
警察「やい、てめえは、甘く見てるな」と強圧的に私をそこに押し倒し、私が絶対嘘を言ってないと辯解してもきかばこそ、最初竹刀でやたらになぐっていましたが、その中、竹刀をバラバラにほごして、巡査と二人で無茶苦茶に打ちさらに靴で蹴り、言うにたえない悪口雑言を吐いて、約一時間、拷問をつづけたのでした。そして、へとへとになった私の手をとって、その訊問調書というのに、お前は共産主義を何時信奉したか?と書いてある次に「答」として「ハイ申し訳ありません」という一句を自分で入れ、私の名を書かせ、無理やりに拇印を押させたのです。
  「日本共産党再建準備活動」という手記を書かせられ、平賀がこれを調書に書きあらためて検事局に廻して、刑務所に昭和十九年四月六日に送られ、起訴されたのです。
 私は昭和十八年の十二月末から二十年の一月初にかけて、長谷川検事の取調べを受けましたが、まだ警察にいる時だったので、全面的に否認したら何んな拷問を受けるか知れないという恐怖から、原則的に共産主義は肯定しました。しかし、共産党再建だとか、山浦貫一が共産主義者だとかいうことは否認して来ました。
 そして拘置所に移ってからは、川添という検事に取調べを受けましたが、この時は全的に否認したにも拘らず「山根検事」によって起訴され、一年二ヵ月まったく取調べがなく、独房で餓死の一歩手前まで追い込まれ、さらに予審廷では、「石川予審判事」の取調べを受けて、全的に否認し、判事が、「被告はそれでは何故警察で認めたか」と詰問したのに対し、以上の如き拷問の事実を挙げて、彼らが勝手につくった事件であることを強調して来た次第です。ところが予審決定書を見ると、まったく私の陳述は無視されて、検事の公訴状がそのままの決定書となっているので、法廷ではさらにこれを反駁して否認したのでありますが、昭和二十年九月十五日、八並裁判長より懲役二年、執行猶予三年の判決を言い渡されたのであります。
 *感想(当時の社会を体験していない私にとって、当時の社会を想像させてくれる証言でした)
 6月30日、朝日新聞社関係では、酒井寅吉が検挙されました。
 7月10日、内閣情報局は、改造社と中央公論社に対して、自主的廃業を申し渡しました。
 7月末、山本実彦社長の『改造』と嶋中雄作社長の『中央公論』が廃刊となりました。神奈川県特高は中央公論社・改造社・日本評論社・岩波書店などを「共産主義的傾向がある反時局的出版社」とレッテルをはり、「けしからん編集者を雇うておく社長は、ろくでもない奴にきまっている」というのが特高の口癖でした。きっかけがあれば、廃刊を狙っていました。
 8月、特高の月報によると、「本事件に依り中央公論社、改造社内の永年に亘る不逞活動を究明剔決して遂に之を廃業に立至らしめ、戦時下国民の思想指導上偉大なる貢献を為し得たること、は特筆すべき事項なり」と記録されています。
 11月27日、日本評論社関係では、美作太郎松本正雄彦坂竹男が検挙されました。
 岩波書店関係では、藤川覚が検挙されました。
 同盟通信社長の古野伊之助に新しい出版社設立の意図があることを知り、中央公論社の小森田一記・岩波書店の川覚・日本評論社の美作太郎らが、既成出版社にない新しい企画に期待を持って集まりました。これを特高は危険視して、共産主義のレッテルをはったのです。
 1945(昭和20)年4月10日、日本評論社者の鈴木三男吉渡辺潔が検挙されました。
 5月9日、岩波書店の小林勇が検挙されました。
 神奈川県警特高の厳しい拷問で、中央公論社の浅石晴世・和田喜太郎、世界経済調査会の高橋善雄、東京航空計器の田中政雄ら4人が獄中で死亡しました。
 7月、獄中で危篤となった満鉄調査部の西尾忠四郎は、保釈となりました。しかし、出獄直後に心神衰弱がもとでが死亡しました。その外、拷問で怪我をした人は32人もいました。
 8月15日、ポツダム宣言を受諾し、日本の敗戦が決定しました。
 9月、横浜地裁は、敗戦後から治安維持法廃止までの期間に、「自白」を唯一の証拠に、30人が執行猶予付きの有罪と判決しました。GHQによる訴追を恐れたのか、当時の公判記録は全て焼却され、残っていません。
 10月9日、木村亨の証言として、「当局の云うことを否認すると裸にして5・6回投げ飛ばして置いてから太さ指三本位のロープで打ったり、椅子をこわして作った木刀で頭、背中を殴り足腰を蹴る‥‥また竹刀をバラバラにしたもので肩や背を打ち革のスリッパで顔を叩いたりして失神状態にでもなると用意して置いたバケツの水をぶっかけて気をとり戻すと兼ねて用意して置いた筋書きどおり調書や手記を目の前に突き付けて承認しろという」と書かれています(『朝日新聞)。
 10月15日、治安維持法が廃止されました。
 1947年4月、元被告らは、拷問をした神奈川県の特高警察官30人を人権蹂躙の罪で告訴しました。
 1949年2月、横浜地裁は、元特高幹部3人に特別公務員暴行傷害罪で有罪の判決を下しました。
 1952年4月、最高裁は、元特高幹部3人の有罪を確定しましたが、投獄はされませんでした。
 1986年7月、横浜地裁に対して、第1次再審請求を行いました。
 1988年3月、横浜地裁は、請求を棄却しました。
 12月、東京高裁は、即時抗告を棄却しました。
 1991年3月、最高裁は、特別抗告を棄却しました。
 1994年7月、横浜地裁に対して、第2次再審請求を行いました。
 1996年7月、横浜地裁は、請求を棄却しました。
 1998年8月、横浜地裁に対して、第3次再審請求を行いました。
 9月、東京高裁は第2次請求の即時抗告を棄却しました。
 2000年7月、最高裁は、第2次請求の特別抗告を棄却しました。
 2001年10月、第3次請求で横浜地裁は、大石真京大教授(憲法)に鑑定を依頼しました。
 2002年3月、横浜地裁に対して、第4次再審請求を行いました。
 5月、大石真京大教授は、鑑定書を提出しました。
 2003年4月、横浜地裁は、旧刑事訴訟法下で有罪が確定し、死亡した元被告の再審開始を決定しましたが、地検は即時抗告しました。
 4月17日、「天声人語」には次にように書かれています。
 共産主義者は殺してもいいことになっているんだ。小林多喜二は何で死んだか知っているか!」「多喜二の二の舞いを覚悟しろ」と、まず拷問死した作家の名前を出す。「この聖戦下によくもやりやがったな」などと、裸にして角材の上に正座をさせ、失神するまで暴行をする。あるいは逆さづりにして強打する。戦前の思想取り締まり警察の特高による拷問のやり方である。記録も多く残っている。天皇制国家体制に抵抗する「思想犯」は、そのころ人間ではなかった。「非国民、不逞のやから、天皇へ弓を引く大逆の徒であった。治安維持法違反で逮捕された1人で評論家の青地晨が後に回顧している。家族も疎開先で「非国民」の妻子だとわかって家主に追い出された。「聖戦」の御旗の下、抑圧が激しさを増していく時期の事件だった。
10  2005年3月10日、検察官の即時抗告申立てに対して、東京高裁第三刑事部の中川武隆裁判長は抗告審で、警察官の拷問を認定した確定判決から、元被告らの自白は拷問(「裸にして縛り上げ、正座させた両足の間に太いこん棒を差し込み、膝の上に乗っかかり、ロープ、竹刀、こん棒で全身をひっぱたき、半失神状態に……」)によるものだったと認定しました。そして、「拷問による自白は信用性がない疑いが顕著で、無罪を言い渡すべき新証拠がある」と指摘し、「再審は事実認定の誤りの是正が基本。法解釈の誤りを理由にするのは、再審の本質と相いれない」ことを理由として検察側抗告を退け、横浜地裁の再審開始決定を支持した。
 東京高検は最高検と協議した結果、特別抗告を断念しました。これにより、治安維持法違反で有罪判決が確定してから60年余り経過し、裁判記録のほとんどが失われた異例の再審開始決定が確定し、すべて他界している元被告5人について、横浜地裁で再審公判が始まりました。
 7月、再審の公開をめぐり検察側と弁護団が対立したが、横浜地裁は、公開を決定しました。
 10月17日、横浜地裁の松尾昭一裁判長は、第1回公判が開きました。木村さんの妻木村まきさん(56)は夫は「パンツのみで丸太の上に正座させられ、竹刀や木刀、荒縄などで拷問された。特高は小林多喜二はどうして死んだか知っているか。小林のようにしてやる。天皇に逆らった者はこうしてやるなどと罵倒し、気絶してもはげしい拷問を繰り返し、夫は腕をつかまれ『私は共産主義者である』などと書かれた紙に無理やり母印させられた」と詳細に証言しました。
 12月、第2回公判が行われ、結審しました。 
11  2006年2月9日、横浜地方裁判所の松尾昭一裁判長は「終戦の際の特殊な状況下で訴訟記録が廃棄され、そのため確定判決が残されていないという異常な事態もあって、再審開始までにかなりの時間が経過し、その間、生存していた元被告らが死亡し、再審裁判を受けることができない状況に至ったことは誠に残念というほかない。再審請求に対する抗告審決定で元被告5人が神奈川県警特高から拷問を受けた事実が明らかにされ、原再審開始決定の結論が維持されたことによって再審が開始された。
 当裁判所は、そのような再審開始決定を受けて、元被告5人に対する再審のための公判を特に開いた上、弁護人らの本件に関する主張に謙虚に耳を傾け、その意見を十分に吟味した。
 そして、元被告らに免訴となる事由がある本件では、弁護人らの主張にもかかわらず、元被告5人に対して免訴の判決をもってのぞむのが相当との結論に達した」と結論しました。
 弁護士は、元被告らの名誉回復のために無罪を言い渡すよう求めていました。
 故・木村亨さんの妻まきさん(56)は、警察の拷問で元被告らが虚偽の自白をしたと裁判所が認め、無罪判決を言い渡すと期待していました。
 しかし、裁判所は、拷問を受けた事実を認め、弁護人の主張にも耳を傾けたが、罪を問う根拠となった同法がすでに廃止されたことなどを理由に、裁判手続きを打ち切る免訴を言い渡しました。
 免訴とは、刑の廃止や大赦などで裁判を続ける意味がなくなった場合、裁判を打ち切って言い渡す形式的判決のことです。刑事訴訟法は(1)同じ犯罪について確定判決がある(2)犯罪後に刑が廃止(3)大赦(4)時効成立の場合は、免訴の判決を言い渡さなければならないとしています。
 2月10日、環直彌主任弁護人は「違法な判決だ。『免訴でも、無罪と思っていればいいじゃないか』という内容になっており、慰めにごまかされるわけにはいかない」と話して、控訴しました。
12  私が歌ったり、聞いたことがある軍歌です。歌詞の意味を考えずに歌ったり、聞いたりしていました。
 いま、活字にして見ると、当時の世相が透けて見える気がします。
13  昭和12年の軍歌です
(1)昭和12年:海行かば(作詞:大伴家持、作曲:信時潔)
海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ

(2)昭和12年:愛国の花(作詞:福田正夫作詞、作曲:古関裕而作曲)
真白き富士の気高さを 心の強い楯として 御国につくす女等は 輝く時代の山ざくら
地に咲き匂う国の花 老いたる若き諸共に 国難しのぐ冬の梅
かよわい力よくあわせ 銃後に励む凛々しさは ゆかしく匂う国の花
勇士の後を雄々しくも 家をば子をば守りゆく 優しい母や又妻は 真心燃ゆる紅椿
うれしく匂う国の花 御稜威のしるし菊の花 ゆたかに香る日の本の
女といえど生命がけ こぞりて咲いて美しく 光て匂う国の花

(3)昭和12年:露営の歌(作詞:藪内喜一郎、作曲:古関裕而)
勝って来るぞと 勇ましく 誓つて故郷を 出たからは 手柄たてずに 死なれよか 進軍ラツパ 
聞くたびに 瞼に浮かぶ 旗の波 
弾丸も タンクも銃剣も 暫し露営の草枕 夢に出て来た 父上に 死んで還れと 励まされ
さめて睨むは 敵の空
思へば今日の 戦闘 朱に染まつて にっこりと 笑つて死んだ 戦友が 天皇陛下萬歳と
のこした聲が 忘らりよか
戦争する身は かねてから 捨てる覚悟で ゐるものを 鳴いてくれるな 草の虫 東洋平和の 
ためならば なんの命が 惜しからう
 *その他の流行歌(「嬬恋道中」、「流転」、「裏町人生」、「別れのブルース」)
14  昭和13年の軍歌です
(1)昭和13年:日の丸行進曲(作詞:有本憲次、作曲:細川武夫)
母の背中にちさい手で 振ったあの日の日の丸の 遠いほのかな思い出が 胸に燃え立つ愛国の
血潮の中にまだ残る 
永久に栄える日本の 国のしるしの日の丸が 光そそげば果てもない 地球の上に朝がくる
平和かがやく朝がくる

(2)昭和13年:麦と兵隊(作詞:藤田まさと、作曲:大村能章)
徐州徐州と人馬は進む 徐州居よいか住みよいか 洒落た文句に振り返えりゃ お国訛りのおけさ節
髯が微笑む麦畑 
戦友を背にして道なき道を 往けば戦野は夜の雨 すまぬすまぬを背中に聞けば 
馬鹿をいうなとまた 進む 兵の歩みの頼もしさ

(3)昭和13年:愛国行進曲(作詞:森川幸雄、作曲:瀬戸口藤吉) 
見よ 東海の空明けて 旭日 高く輝けば 天地の正気 溌刺と 希望は躍る 大八洲
おお 清朗の朝雲に  聳ゆる富士の姿こそ 金甌無欠 揺るぎなき わが日本の 誇りなれ
起て 一系の大君を 光と永久にいただきて 臣民われら 皆共に 御稜威に副わん大使命
征け 八紘を宇となし 四海の人を 導きて 正しき平和 うち建てん 理想は花と 咲き薫る
いま幾度か わが上に 試練の嵐 たけるとも 断乎と守れ その正義 進まん道は 一つのみ
ああ 悠遠の神代より 轟く歩調 うけつぎて 大行進の ゆく彼方 皇国つねに 栄あれ
 *その他の流行歌(「旅の夜風」、「雨のブルース」、「旅の夜風」、「宵待草」)
15  昭和14年の軍歌です
(1)昭和14年:よさこいと兵隊(作詞・作曲詞:鯨部隊)
南国土佐を後にして 戦地へ来てから幾歳ぞ 思い出します故郷の友が 門出に歌ったよさこい節を
土佐の高知の播磨屋橋で 坊さんかんざし買うを見た 
故郷の父さん室戸の沖で 鯨釣ったというたより 自分も負けずにいくさの後で 
歌うよ土佐のよさこい節を 言うたちいかんちやおらんくの池にゃ 潮吹く魚が泳ぎよる よさこいよさこい

(2)昭和14年:愛馬進軍歌(作詞:久保井信夫、作曲:新城正一)
国を出てから幾月ぞ 共に死ぬ気でこの馬を 攻めて進んだ山や河 取った手綱に血が通う
伊達には佩らぬこの剣 真っ先駆けて突っ込めば 何と脆いぞ敵の陣 馬よ嘶け勝鬨だ

(3)昭和14年:出征兵士を送る歌(作詞:生田大三郎、作曲:林伊佐緒)
わが大君に召されたる 生命光栄ある朝ぼらけ 讃えて送る一億の 歓呼は高く天を衝く
いざ征けつわもの日本男児
ああ万世の大君に 水漬き草むす忠烈の 誓致さん秋至る 勇ましいかなこの首途
いざ征けつわもの日本男児

(4)昭和14年:父よあなたは強かった(作詞:福田節、作曲:明本京静)
父よあなたは強かった 兜も焦がす炎熱を 敵の屍とともに寝て 泥水すすり草を噛み
荒れた山河を幾千里 よくこそ撃って下さった
夫よあなたは強かった 骨まで凍る酷寒を 背をも届かぬクリークに 三日も浸かっていたとやら
十日も食べずにいたとやら よくこそ勝って下さった
友よわが子よありがとう 誉の傷の物語 何度聞いても目がうるむ あの日の戦に散った子も
今日は九段の桜花 よくこそ咲いて下さった

(5)昭和14年:ほんとにほんとに御苦労ね(作詞:野村俊夫、作曲:倉若晴生)
楊柳芽をふくクリークで 泥にまみれた軍服を 洗う姿の夢を見た お国の為とは言いながら
ほんとにほんとに御苦労ね
妻よ戦地の事などは なにも心配するじゃない 老いたる両親頼むぞと 書いた勇士のあの音信
ほんとにほんとに御苦労ね

(6)昭和14年:九段の母(作詞:石松秋二、作曲:佐藤富房)
上野の駅から 九段まで かってしらない じれったさ 杖をたよりに 一日がかり
せがれきたぞや  会いにきた
空をつくよな 大鳥居 こんな立派な おやしろに 神とまつられ もったいなさよ
母は泣けます うれしさに
鳶が鷹の子 うんだよで いまじゃ果報が 身にあまる 金鵄勲章が みせたいばかり
逢いに来たぞや 九段坂
 *その他の流行歌(「上海ブルース」、「旅姿三人男」、「大利根月夜」、「上海の花売り娘」)
16  昭和15年の軍歌です
(1)昭和15年:月月火水木金金(作詞:高橋俊策、作曲:江口夜詩)
朝だ夜明けだ潮の息吹 うんと吸い込むあかがね色の 胸に若さの漲る誇り 海の男の艦隊勤務
月月火水木金金
度胸ひとつに火のような練磨 旗はなるなるラッパは響く いくぞ日の丸日本の船だ 海の男だ艦隊勤務
月月火水木金金

(2)昭和15年:紀元二千六百年(作詞:増田好生、作曲:森義八郎)
金鵄かがやく 日本の 栄ある光 身にうけて 今こそ祝え この朝 紀元は 二千六百年
ああ一億の胸は鳴る
荒ぶ世界に ただ一つ ゆるがぬ御代に 生い立ちし 感謝は清き 火と燃えて 紀元は二千六百年
ああ 報国の血は勇む
ああ燦爛のこの国威 正気凛たる 旗の下 明朗アジア うち建てん 力と意気を 示せ今 
紀元は 二千六百年 いや 弥栄の日は昇る

(3)昭和15年:暁に祈る(作詞:野村俊夫、作曲:古関裕而)
ああ あの顔で あの声で 手柄たのむと 妻や子が ちぎれる程に 振った旗 
遠い雲間に また浮かぶ
ああ あの山も この川も 赤い忠義の 血がにじむ 故国までとどけ 暁に 
あげる興亜の この凱歌
 *その他の流行歌(「蘇州夜曲」、「誰か故郷を思わざる」、「燦く星座」、「南京の花売娘」)
17  昭和16年の軍歌です
(1)昭和16年:戦陣訓の歌(作詞:梅木三郎、作曲:須磨洋朔)
日本男児と 生まれ来て 戦さの場に 立つからは 名をこそ惜しめ 武士よ 散るべき時に 清く散り 
御国に薫れ 桜花
情けに厚き 丈夫も 正しき剣 とる時は 千万人も 辞するなし 信ずる者は 常に勝ち 
皇師に向かう 敵あらじ

(2)昭和16年:めんこい仔馬(作詞:サトウハチロー、作曲:仁木他喜雄)
濡れた仔馬のたて髪を 撫でりゃ両手に朝の露 呼べば答えてめんこいぞオーラ 
駆けて行こかよ丘の道 ハイドハイドウ丘の道
明日は市場かお別れか 泣いちゃいけない泣かないぞ 軍馬になって行く日にはオーラ 
みんなで万歳してやるぞ ハイドハイドウしてやるぞ
 *その他の流行歌(「たきび」、「琵琶湖哀歌」、「アリラン月夜」、「森の水車」)
18  昭和17年の軍歌です
(1)昭和17年:空の神兵(作詞:梅木三郎、作曲:高木東六)
藍より蒼き大空に大空に 忽ち開く百千の 真白き薔薇の花模様 見よ落下傘空に降り
見よ落下傘空を征く 見よ落下傘空を征く 
讃えよ空の神兵を神兵を 肉弾粉と砕くとも 撃ちてしやまぬ大和魂 我が丈夫は天降る 
我が皇軍は天降る 我が皇軍は天降る

(2)昭和17年:討匪行(作詞:八木沼丈夫、作曲:藤原義江)
どこまで続く泥濘ぞ 三日二夜を食もなく 雨降りしぶく鉄兜 雨降りしぶく鉄兜
さもあらばあれ日の本の 我はつわものかねてより 草生す屍悔ゆるなし 草生す屍悔ゆるなし
敵にはあれど遺骸に 花を手向けて懇ろに 興安嶺よいざさらば 興安嶺よいざさらば
亜細亜に国す吾日本 王師一度ゆくところ 満蒙の闇晴れ渡る 満蒙の闇晴れ渡る
 *その他の流行歌(「新雪」、「マニラの街角で」、「父ありき」)
19  昭和18年の軍歌です
(1)昭和18年:若鷲の歌(作詞:西条八十、作曲:古関裕而)
若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ霞が浦にゃ でっかい希望の雲が湧く
命惜しまぬ予科練の 意気の翼は勝利の翼 見事轟沈した敵艦を 母へ写真で送りたい

(2)昭和18年:ラバウル小唄(作詞:若杉雄三郎、作曲:畠山駒夫)
さらば ラバウルよ また來る までは しばし 別れの 涙が にじむ 戀し 懷し あの島 見れば 
椰子の 葉かげに 十字星
赤い 夕陽が 波間に 沈む 果ては 何處ぞ マーシャル 群島 椰子の 葉蔭に 夕日を 眺め 
想ひは 故郷の 山や 川
さすが 男と あの娘が 言うた 燃ゆる 思いは 操縦桿に まかせ 明日の いのちは あの雲 まかせ 
散って 九段の 若桜

(3)昭和18年:加藤隼戦斗隊歌(作詞:田中林平・旭六郎、作曲:原田喜一・岡野正幸)
エンジンの音轟々と 隼は征く雲の果て 翼に輝く日の丸と 胸に描きし赤鷲の
印は我等が戦闘機
世界に誇る荒鷲の 翼伸ばせし幾千里 輝く伝統受け継ぎて 新たに興す大亜細亜
我等は皇軍戦闘隊
 *その他の流行歌(「お使いは自転車にのって」、「寒太郎月夜唄」)
20  昭和19年の軍歌です
(1)昭和19年:比島決戦の歌(作詞:西條八十、作曲:古関裕而)
決戦かがやく アジアの曙 生命惜しまぬ若櫻 いま咲き競う フイリッピン 
いざ来いニミッツ、マッカーサー 出てくりや地獄へさか落とし
陸には猛虎の 山下将軍 海に鉄血 大河内 見よ頼もしの 必殺陣 
いざ来いニミッツ、マッカーサー 出てくりや地獄へさか落とし
正義の雷 世界を震はせ 特攻隊の 行くところ われら一億 ともに行く 
いざ来いニミッツ、マッカーサー 出てくりや地獄へさか落とし

(2)昭和19年:鳴呼神風特別攻撃隊(作詞:野村俊夫、作曲:古関裕而)
無念の歯がみ こらへつつ 待ちに待ちたる 決戦ぞ 今こそ敵を屠らむと 奮ひ起ちたる若櫻 !
大義の血潮 雲そめて 必死 必中 体当り 敵艦などて 逃すべき 見よや不滅の 大戦果!
凱歌(はたかく 轟けど 今はかへらぬ 丈夫よ 千尋の海に 沈みつつ なほも皇国の 護り神 !
熱涙 傳ふ 顔あげて 勲をしのぶ 国の民 永久に忘れじ その名こそ 神風特別攻撃隊 !

(3)昭和19年:同期の桜(作詞:西條八十、作曲:大村能章)
貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ国のため
貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう

(4)昭和19年:あゝ紅の血は燃ゆる(作詞:野村俊夫、作曲:明本京静)
花もつぼみの若桜 五尺の生命ひっさげて 国の大事に殉ずるは
我ら学徒の面目ぞ ああ紅の血は燃ゆる
君は鍬とれ我は鎚 戦う道に二つなし 国の使命を遂ぐること
我ら学徒の本分ぞ ああ紅の血は燃ゆる
 *その他の流行歌(「月夜船」)
21  昭和20年の軍歌です
(1)昭和20年:お山の杉の子(作詞:吉田テフ子、作曲:佐々木すぐる)
むかしむかし そのむかし 椎の木林の すぐそばに 小さなお山が あったとさ あったとさ 
丸々坊主の 禿山は いつでもみんなの 笑いもの これこれ杉の子 起きなさい
お日さまニコニコ 声かけた 声かけた
一ィ二ゥ三ィ四ォ 五ィ六ゥ七ァ 八日九日 十日たち
ニョッキリ芽が出る 山の上 山の上 小さな杉の子 顔出して
はいはいお日さま 今日は これを眺めた 椎の木は
アッハハのアッハハと 大笑い 大笑い

(2)昭和20年:男散るなら(作詞:米山忠雄、作曲:鈴木静一)
鉄砲玉とはおいらのことよ 待ちに待ってた出征ださらば
戦友よ笑って今夜の飯は 俺の分まで食ってくれ
男命は桜の花よ 散って九段でまた咲き返る
死んで生きるな雷撃魂 死んで薫るな大和魂
 *その他の流行歌(「リンゴの唄」)
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
横浜事件とマッカーサー、軍歌と文化、感情と知識
 横浜事件弁護団の森川金寿弁護士(92)の話です。
 1985年、再審請求活動の中心メンバーだった元中央公論出版部員の故・木村亨さんから相談を持ちかけられ、横浜事件の再審請求弁護を引き受けました。
 元被告らは70年代半ばから名誉回復に向けた準備を進めていたが、引き受ける弁護士がいなかったということでした。すでに戦後40年が過ぎており、森川弁護士も、横浜事件は終わった話だと思っていたそうです。しかし、名誉回復もなされていないと知り、がくぜんとしました。
 森川弁護士は、終戦直前中国にいました。米軍の飛行機からまかれたビラに書かれたポツダム宣言を目にしました。そのには、「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」ありました。これが、初めて「基本的人権」という言葉に触れた瞬間だったのです。
 あのとき日本にいたら、自分も巻き込まれていたかも知れないと思ったといいます(朝日新聞より)。
 日本の憲法はマッカーサーから押し付けられたといいます。だとしても、基本的人権は、日本人自身の手で発案できたでしょうか。漢字も英語も外圧です。しかし、いいものは日本に根付くのです。
 私は、戦後、小さい時聞いた『お山の杉の子』が好きでした。児童合唱団がテンポ速く唄い、そのストーリー性に魅かれました。しかし、(1)〜(4)しか聞かなかったような気がします。
(5)〜(6)も調べて見ました。この童謡も、やはり軍歌だったのですね。大きくなって、兵隊さんを運ぶ船になったり、傷痍軍人の寝る家になったり、神の国を守る産土神になったりという内容でした。
(1)むかしむかし そのむかし 椎の木林の すぐそばに 小さなお山が あったとさ あったとさ 
丸々坊主の 禿山は いつでもみんなの 笑いもの これこれ杉の子 起きなさい
お日さまニコニコ 声かけた 声かけた
(2)一ィ二ゥ三ィ四ォ 五ィ六ゥ七ァ 八日九日 十日たち ニョッキリ芽が出る 山の上 山の上 
小さな杉の子 顔出して はいはいお日さま 今日は これを眺めた 椎の木は
アッハハのアッハハと 大笑い 大笑い
(3)こんなちび助 何になる びっくり仰天 杉の子は おもわずお首を ひっこめた ひっこめた 
ひっこめながらも 考えた なんの負けるか今に見ろ 大きくなって 国のため
お役に立って みせまする みせまする
(4)ラジオ体操 一二三 子どもは元気で 伸びてゆく 昔々の 禿山は 禿山は 今では立派な
杉山だ 誉れの家の 子のように 強く 大きく 逞ましく
椎の木見おろす 大杉だ 大杉だ
(5)大きな杉は 何になる 兵隊さんを 運ぶ船 傷痍の勇士の 寝るお家 寝るお家 本箱 お机
下駄 足駄 おいしいお弁当 食べる箸 鉛筆 筆入れ そのほかに
嬉しや まだまだ 役に立つ 役に立つ
(6)さあさ 負けるな 杉の木に 勇士の遺児なら なお強い 体を鍛え 頑張って 頑張って 
今に立派な 兵隊さん 忠義孝行 ひとすじに お日さま出る国 神の国
この日本を 守りましょう 守りましょう
 靖国神社が話題になっています。これは『靖国の母』(国民総意の歌)という軍歌です。戦地の兵隊にも靖国がある、銃後の母にも靖国があるという歌です。靖国神社が軍国の民の象徴になっていたことが分かりました。
 掲示板の記事です。小泉首相の靖国神社参拝について新聞紙上で取り沙汰されていますが、中韓の干渉には大反対です。東京へ行けば必ず靖国神社に参拝しています。私が田舎から昭和十八年四月に東京の専門学校に入学した頃に一番印象深い思い出の歌として学校で覚えた歌があります。題名は「靖国の母」と記憶していますが、歌詞の一番は朧げですが「なんにもいえぬ靖国の宮のきざはしひれ伏して、熱い涙が込みあげる、そうだ感謝のその気持、そうろうそろう気持が国護る」でした。
(1)なんにも言えず 靖国の 宮のきざはし ひれ伏せば 熱い涙が こみあげる
  そうだ感謝の その気持 揃う 揃う気持が國護る
(2)雁鳴きわたる 月の空 今夜いまごろ 戦地では 弾丸を浴びてる 朋友がある
  そうだ済まない その気持 揃う 揃う気持が國護る
(3)戦に勝つにゃ お互が 持場職場に 命がけ こんな苦労じゃ まだ足りぬ
  そうだその意気 その気持 揃う 揃う気持が國護る
 これも、靖国神社に関する掲示板の記事です。
(1)私も上京の都度、靖国神社へのお参りは欠かしません。戦友・学友・先輩の面影を偲び、心中でアレヤコレヤと話しかける時、思わず知らず涙が頬を伝います。それは、若くして国のために命を捧げた友を悼む涙であり
(2)近隣諸国の傍若無人の行為に為すところ無くお世辞笑いを浮かべ頭を下げ放しの日本国の政治家に対する怒りの涙であり、更に又英霊に対するお詫びの涙であります。
 *感想(1)については、その感情をだれも文句は言わないでしょう。その感情をスライドして、日本人が殺害した朝鮮や中国、東南アジアで多数の軍人でない人々に当てはめることは出来ませんか。
 (2)鍬・包丁・網を銃に換えて、無実のアジア人を殺害させたのは誰でしょうか。戦争指導者ではないですか。感情を知識に換えてこそ、資源のない日本が「自存自衛」でなく「共存共栄」できるのではないでしょうか。

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