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エピソード

265_01

占領下の実状(東久邇宮内閣、GHQSCAP、マッカーサー)
 日本は、ポツダム宣言を受諾したことにより、占領という未曾有の体験をすることになります。
 アメリカの罠にはまり、自存自衛のために、大東亜戦争に突入したという立場の人からすると、耐えられない事実です。大東亜共栄圏による八絋一宇を信じる人にも我慢できないでしょう。
 1941(昭和16)年10月、@40東条英機内閣が誕生しました。
 1944(昭和19)年2月、近衛文麿高松宮宣仁東久邇宮稔彦細川護貞らは、「東条内閣打倒と早期和平を実現」でグループを結成しました。この動きを知った東条英機は、杉山元陸軍参謀総長を元帥に祭り上げて、自らが参謀総長になりました。永野修身海軍軍令部総長を元帥に祭り上げて、嶋田繁太郎海相には軍令部総長を兼任させ、権力を集中して近衛らの打倒運動に対抗しようとしました。
 4月、内大臣の木戸幸一も反東条英機に傾きました。
 6月16日、岡田啓介海軍大将は、嶋田繁太郎海相に辞任を要求しました。
 6月22日、海軍教育局第1課長の神重徳大佐は、犬養毅を射殺した元海軍中尉の三上卓と会合を持ちました。
 6月23日、神重徳大佐は、海軍教育局長の高木惣吉少将と会合を持ちました。その結果、次のような東条英機暗殺計画が出来上がりました。計画の実行者は7人とする。東条の乗ったオープンカーが海軍省手前の四つ角に来た時に、前と両方の進路から突入して襲撃する。決行者6人は、一式陸攻で台湾に脱出する。現場には高木惣吉が残り、全責任を負う。
 6月24日、高木惣吉少将は、岡田啓介大将を訪ねて、相談します。しかし、岡田大将は、高木少将に対して、暗殺に反対しました。さらに伏見宮元帥を訪ね、東条内閣総辞職の線で、幕引きを図りました。
 7月、反東条の瀬島龍三大佐が関東軍に転出しました。
 7月、反東条の松前重義は、42歳で、勅任官の逓信院工務局長から二等兵に下げられて、召集令状を受けました。
 7月7日、サイパン島が陥落し、B29が日本本土爆撃圏に入りました。
 7月14日、東条英機は、参謀総長を辞任しました。
 7月17日、嶋田繁太郎海相が辞任しました。
 7月18日、東条英機内閣が総辞職しました。
 7月22日、@41小磯国昭内閣が誕生しました。
 1945(昭和20)年4月7日、@42鈴木貫太郎内閣が誕生しました。
 7月17日、トルーマンチャーチルスターリンは、ポツダム会談を開きました。
 7月18日、日本の近衛文麿派遣申し入れに対して、ソ連はこれを拒否しました。
 7月25日、「8月3日以降、速やかに広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ原爆を投下する」という命令が出されました。
 7月26日、トルーマン・チャーチル・スターリンは、対日ポツダム宣言を発表しました。
 7月28日、鈴木首相は、記者団に対しポツダム宣言黙殺・戦争邁進と談話しました。
 8月6日8時15分、B29のエノラ・ゲイ号は、広島に原子爆弾(ウラン爆弾)を投下しました。
 8月8日、ソ連は、日本に宣戦を布告し、北満州・朝鮮・樺太に進攻を開始しました。
 8月9日11時2分、B29のボックス・カー号は、長崎に原子爆弾(プルトニウム爆弾)を投下しました。
 8月10日、御前会議が召集されました。
 8月10日2時30分、御前会議は、国体維持を条件にポツダム宣言受諾を決定しました。
 8月10日、鈴木内閣は、中立国のスウェーデン・スイスを通じて、連合国へ申し入れました。
 8月10日20時、同盟通信社・日本放送協会は、海外放送でポツダム宣言条件付受諾申し入れを放送しました。しかし、国内向けには厳秘扱いされました。
 8月11日、新聞各紙は、情報局総裁の下村宏国体護持の談話と陸相の阿南惟幾の全将兵への断固抗戦訓示を並べて報道しました。
 8月12日、日本の降伏条件に対する連合国の回答公電が到着しました。それには、天皇制には直接触れた文面はありませんでした。
 8月14日、御前会議は、ポツダム宣言受諾を決定しました。その結果、ポツダム宣言の内容を受け入れることになりました。その内容は、以下の通りです。
(6)吾等ハ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ*解説(日本から軍国主義を追放する)
(7)基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ*解説(軍国主義を追放するまで占領する) 
(8)「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ*解説(カイロ宣言により日本国の主権は本州・北海道・九州・び四国・諸小島に限る) 
(10)吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ*解説(捕虜を虐待した戦犯の処罰、民主主義の復活、基本的人権の確立) 
(12)責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ*解説(平和で民主の政府が自立されると占領政策は終了する)
 具体的にはどういうことなのでしょうか。
(イ)連合軍の日本占領を了承する。
(ロ)日本の主権は、四つの島と連合国の定める諸小島の範囲とする。
(ハ)満州および朝鮮半島北部・南樺太・千島は、ソ連軍が領有する。
(ニ)朝鮮半島南部・奄美大島・琉球諸島を含む南西諸島・小笠原諸島は、アメリカの軍政下におく。
(ホ)台湾は、中国へ譲渡する。
(ヘ)満州その他でソ連軍に降伏した日本軍人は、国際法に違反してシベリアに連行されました。
 8月15日、日本は、無条件降伏・ポツダム宣言受諾を発表しました。
 8月15日12時、昭和天皇は、戦争終結の詔勅を放送しました。この段階で、「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ」という表現をしています。
 8月15日、鈴木貫太郎内閣が総辞職しました。
 8月17日、@43東久邇宮稔彦内閣が誕生しました。外務は重光葵、陸相は東久邇宮が兼任、海相は米内光政、内務は山崎巌、大蔵は津島寿一、司法は岩田宙造、文部は松村謙三、農商は千石興太郎、軍需は中島知久平、運輸は小日山直登、大東亜は重光葵、厚生は松村謙三、国務は近衛文麿・緒方竹虎が就任しました。
 8月17日、昭和天皇は、陸海軍人に「国家永年の礎を遺さむことを期せよ」と勅語しました。
 8月18日、インドネシアで共和国独立宣言が出され、「45年憲法」が制定され、スカルノが大統領に選出されました。
 8月18日、松村謙三文部の後任に前田多門が就任しました。
 8月18日、内務省は、地方長官に占領軍向け性的慰安施設設置を指令しました。
 8月19日、近衛文麿・緒方竹虎国務相の後任に小畑敏四郎が就任しました。
 8月20日、朝鮮共産党債権委員会がソウルで結成され、委員長に朴憲永を選出しました。
 8月22日、樺太からの引揚船3隻が国籍不明の潜水艦により撃沈し、1708人が死亡しました。
 8月22日、右翼の尊攘同志会12人が集団自爆しました。その後、右翼関係者の自害が続きました。
 8月23日、東久邇宮陸相の後任に下村定が就任しました。
 8月24日、松江の降伏反対の皇国義勇軍48人が県庁・新聞社・放送局などを襲撃しました。
 8月24日、埼玉県朝霞に野営中の陸軍将校ら67人が放送所などを占拠しました。
 8月25日、中国共産党は、目前の時局に関する宣言を発表し、内戦回避・民主連合政府樹立を主張しました。
 8月26日、蒋介石の国府軍は、重慶その他の後方地区から南京・上海・北平に進駐を開始しました。
 8月26日、大東亜省・軍需省官制が廃止され、農商省が農林省、軍需省が商工省と改称されました。
 8月26日、農商相の千石興太郎が農林相の千石興太郎、軍需相の中島知久平が商工相の中島知久平となりました。重光葵は大東亜相を辞任しました。後任はいません。
 8月28日、アメリカ軍のテンチ大佐など連合軍先遣隊の150人は、厚木飛行場に到着しました。
 8月28日、東久邇宮内閣は、閣議で、言論出版集会結社等臨時取締法の廃止および治安警察法の精神にのっとる取締方針を決定しました。
 8月28日、東久邇宮首相は、初の記者会見で、国体護持全国民総懺悔を強調しました。
 8月28日、連合国総司令部GHQ)が横浜に設置されました。
 8月29日、ソ連軍は、朝鮮全域を掌握しました。
 8月29日、アメリカの国務省・陸軍省・海軍省間の日本占領管理問題に関する調整委員会作製の「降伏後における米国の初期の対日方針」概要をマッカーサー宛に通報しました。
 8月30日14時5分、C54輸送機バターン号でやってきた連合軍最高司令官SCAPマッカーサーは、コーン・パイプをくわえて、神奈川県厚木飛行場に降り立ちました。マッカーサーの第一声は「メルボルンから東京まで思えばその道は長かった。長い長いそして困難な道程だった」というものでした。
 8月30日、毛沢東は、重慶で、蒋介石と会談し、内戦が一時的に回避されました。
 8月31日、トルーマン大統領は、イギリスのアトリー首相に10堪忍の即時入国を要求しました。
 8月下旬、米軍進駐をひかえ、横浜方面の人心が動揺し、婦女子の疎開したり、女学校では休校が指示されました。
 9月1日、東京劇場・大阪歌舞伎座・京都南座などが開場しました。
 9月2日、日本全権の重光葵・梅津美治郎は、米艦ミズーリ号上で降伏文書に調印しました。その結果、天皇・日本政府の権限は、正式にGHQの支配下に入りました。
 9月2日、臨時政府主席のホー=チ=ミンは、ベトナム民主共和国成立を宣言しました。
 9月2日、連合国最高司令官のマッカーサーの指示により、参謀長のサザーランド中将は、「軍需生産の禁止、陸海軍の解体、満州・北緯38度線を境に在朝鮮日本軍の米ソ各軍への降伏」などの連合国最高司令官総司令部指令第1号を発しました。
 9月3日、連合国最高司令官のマッカーサーの指示により、「第1部総則、第2部日本国軍隊、第3部連合国俘虜及非軍人被抑留者、第4部資源、第5部雑則」からなる指令第2号が発せられました。
 9月6日、連合軍は、マッカーサーに対して、「天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官としての貴官に従属する。貴官は、貴官の使命を実行するため、貴官が適当と認めるところに従つて貴官の権限を行使する。われらと日本人との関係は、契約的基盤の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からいかなる異論も受け付ない」という連合国最高司令官の権限に関する通達を行いました。
10  9月6日、藤原義江らの明朗音楽会が日比谷公会堂で開かれました。
 9月6日、朝鮮建国準備委員会は、朝鮮人民共和国樹立を宣言しました。
 9月8日、連合軍は、ジープで東京に進駐を開始しました。太平洋戦争開戦当日ワシントンのホワイトハウスに掲げられた星条旗が、東京にある赤坂のアメリカ大使館に掲揚されました。その後、連合軍は都内600箇所以上の建物を接収しました。
 9月9日、マッカーサーは、占領下日本の管理方針を正式に声明しました。「最高司令官マッカーサーは、日本政府に対して指令を発し、日本政府はこの指令を受けて、国民に対し命令を発し、その政策を執行する」という間接統治方式が採用されました。
 9月9日、NHKは、歌謡曲と軽音楽を戦後初放送しました。
 9月9日、米軍は、ソウルで、38度線以南の日本軍の降伏を受理しました。
11  9月10日、GHQは、言論及新聞の自由に関する総司令部覚書(報道範囲、進駐軍・連合国に関する報道制限)を発し、検閲を開始しました。
 9月10日、GHQは、同時に、「真実を発表せず、虚偽の報道で国民を欺瞞し続けた大本営を9月13日午後12時限りで廃止する」と発表しました。
 9月11日、隣組の回覧板では、「婦人は進駐軍には笑顔を見せる」などの警告が出回りました。
 9月11日、GHQは、東条英機ら39人の戦争犯罪人の逮捕を命令しました。東条英機は、逮捕に出向いた連合国側の官憲の前でピストルを左腹部に撃ち込み自殺を図りましたが、未遂に終わりました。
 9月14日、GHQは、言論に関する総司令部覚書違反で、同盟通信社を配信停止処分にしました。
12  9月15日、GHQの本部が東京日比谷の第一生命相互ビルに設置されました。GHQの本部にここを選んだ理由は、皇居を見下ろせる総大理石作りの最も高かいの建築物だったからでした。
(1)連合国最高司令官は、マッカーサーです。
(2)GHQは、「General Head Quarters」の略で、連合国総司令部のことです。
(3)GHQSCAPは、「General Head Quarters of the Supreme Commandeer for the Allied Powers」の略で、連合軍最高司令官のことです。
 この項は、『近代日本総合年表』・Wikipediaなどを参考にしました。
マッカーサーと東条英機
 マッカーサーとはどんな人物でしょうか。
 父のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は名誉勲章を受章している南北戦争の退役軍人でした。 1903年、マッカーサーは、ウェストポイントアメリカ陸軍士官学校を史上最高の成績で卒業しました。その成績は、今も、破られていないそうです。
 第一次世界大戦では、ヨーロッパ戦線で第42歩兵師団を指揮し、その後、アメリカ陸軍最年少で参謀総長に就任しました。
 1935年、マッカーサー大将は、参謀総長を退任して、フィリピンの軍事顧問として就任し、フィリピン軍の元帥という称号を与えられました。フィリピンの最高級ホテルであるマニラ・ホテルのスイート・ルームを与えられ、高等弁務官を兼任して、フィリピン財閥のメンバーとなりました。
 1941年、マッカーサーは、ルーズベルト大統領の要請を受け、現役に復帰し、再び大将に就任しました。二度も大将になったのは、アメリカでも皆無のことだと言われています。
 1942年3月、マッカーサーは、日本軍に追われて、フィリピンより撤退した時、「I shall return 」という名言を残しました。
 1944年10月、マッカーサーは、約束どおり、レイテ島に上陸しました。アメリカ陸軍参謀本部は、フィリピン攻略を「戦略上必要無し」と判断していましたが、マッカーサーは、「フィリピン国民との約束」であるからとフィリピン攻略を主張しました。結局、マッカーサーの主張が通ったのは、国民的英雄であるマッカーサーが「1944年の大統領選挙には立候補しない」ことをルーズベルト大統領の約束したからだと言われています。マッカーサーにとっては、フィリピンとの約束ばかりでなく、フィリピンにおけるマッカーサーの私的財産も大きな動機でありました。
 1945年8月、マッカーサーは、日本にやってきました。
 1948年3月、マッカーサーは、「指名されれば大統領選に出馬する」との声明を出しました。日本の新聞は、マッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章を掲載しました。しかし、マッカーサーは共和党大会では、1094票のうち11票しか取れませんでした。大統領に当選したのは、マッカーサーとは肌の合わない民主党のトルーマンでした。
 1950年6月、朝鮮戦争が勃発しました。マッカーサーは、戦局を打開するため、核攻撃の必要性を主張して、トルーマン大統領と対立しました。
 1951年4月、マッカーサーは、トルーマン大統領から解任されました。マッカーサーが飛行場に向った時、沿道には、占領政策のトップであった連合国軍最高司令官を見送る日本人が20万人も詰めかけたといいます。マッカーサーは上下院の合同会議で、「Old soldiers never die, they just fade away」(老兵は死なない、ただ立ち去るのみ)と演説しました。パレードには、アイゼンハワーの勝利の凱旋パレードの7倍も多い700万人が集まったと言われています。
 あれほど鬼畜米英と侮り恐れた日本人が、マッカーサーにコロッと参ったのはどうしてなのでしょうか。
 マッカーサーを知る上で、もう1つ重要なことがあります。
 私の親戚の人の自慢話です。マッカーサーに手紙を書いたというのです。中身の話も聞きましたが、子供には難しくて、記憶にありません。あるのは、手紙を出したという話だけです。
 雲の上の人に手紙なんか出せるはずはないと思っていましたが、調べると、そういう事実がありました。
GHQには50万通もの手紙が送られたのです。
(1)そこには、「日本を哀れんでやってください」、「平和のために、日本をアメリカの植民地にしてください」、「天皇制を廃止せよ」などの内容がありました。
(2)2000年3月の国会のやり取りです。私(民主党の土肥隆一氏)ここに、「拝啓マッカーサー元帥様」という、戦後マッカーサー司令官が日本にやってきた直後に、五十万通の手紙がGHQマッカーサー元帥あてに、「東京都軍司令部マッカーサー閣下親覧」というような手紙が行っておりまして、この五十万人のマッカーサーへの手紙が、全部ではございませんけれども、こうやってまとめられているわけです。
 これを見ておりますと、占領国が来た、そして自分たちは占領管理下に置かれたという、その日本国民が、大多数は大歓迎をもって、マッカーサー以下GHQの駐留を歓迎しているわけですね。編集者の解説によりますと、これは一時期の情動、一時期の情熱ではなくて、かなり経過的に続いたんだ。そして、
五年、十年、二十年たつと、それは一定の定着をしてくるわけでございまして、その定着ということを私ども国会が無視しますと、国民にしっぺ返しを食うのではないかというふうに思います。
(3)三重県の人の書簡です。「天皇制の存続に就いて私は絶対反対では有りませんが日本政府の今日の計画のみでは甚だ危険と思つて居ります。何故かと申せば天皇は従来と同じく政治責任者或は官吏の忠誠心に対する確認の機関として依然日本天皇の特権が元首に於て遂行されるからであります。故に結局狂人でない限り時勢の波に乗つて政権を獲得すれば天皇も同じく時勢の動向に左右されて単純なる忠誠心に元首としての役割を制約されるからであります」
(4)神戸大学の学生にまつわる話です。「当時日本を占領していた SCAP(SupremeCommander for Allied Powers) General Douglas MacArthur に ESS Times に寄稿を依頼する次のような手紙を出しました。“We shall be most gratified if you kindly spare your busy and valuable time to give us your frank opinion on the present Japanese young generation.”これに対し、3月26日付で、総司令部民間情報教育局(Civil Information and Education ) 局長(Chief)Nugent中佐から、 “General MacArthur has read your letter of 12 February and asked me to reply.”で始まる返事が来たのです。手紙はさらに続けて、”貴君の要望は認められたが、General MacArthurのStatement を特定の新聞だけに出すことは出来ないので、すでに発表されているものを載せられてはどうか”という内容でした」
 *感想(1)手紙のあて先を「ッカーサー元帥閣下」と私信扱いして、書き出しの多くが、「マッカーサー元帥様、あなただけに申し上げます」という表現になっています。そこには、マッカーサーを独裁者と見つつも、絶大なる信頼を置いていることが分かります。絶望的で、窒息しそうな日本にあって、その救いを水戸黄門のような日本人ではなく、鬼畜米英と恐れおののいた白人のスーパースターに託したのです
 *感想(2)大東亜共栄圏・八絋一宇の時代が如何に欺瞞に富んでいるかが、この悲劇的・喜劇的ともいえるマッカーサーの手紙から読み取れます。
 それに対して、東条英機はどんな人だったのでしょうか。
 1884年、陸軍中将である東条英教の子として生まれました。
 1899年、陸軍幼年学校に入学しました。
 1904年、陸軍士官学校に入学しました。
 1912年、陸軍大学校に入学しました。
 1921年、ドイツ駐在武官として赴任しました。
 1922年、陸軍大学校の教官となりました。
 1935年、陸軍少将・関東憲兵隊司令官・関東局警務部長となりました。時に、51歳でした。
 1937年、関東軍参謀長となり、盧溝橋事件以後の日中戦争を主導しました。
 1938年、板垣征四郎陸相のときに、陸軍次官・陸軍航空総監・陸軍航空本部長となりました。
 1941年、首相兼内相・陸相・陸軍大将となり、松岡洋右外相らと日独伊三国軍事同盟を締結し、対米英戦争を主張しました。『戦陣訓』を作成しました。
 1943年、首相兼陸相・文相・商工相・軍需相になり、軍・政の権限を掌握しました。その他、外相にもなった時期があります。
 1944年、首相兼参謀総長になり、作戦・用兵の権限を掌握しました。サイパン島陥落で、首相を辞任しました。
 1945年9月11日、ピストル自殺を図るも、未遂に終わり、「生きて虜囚の辱めを受けること勿れ」と強制した人が、連合国の虜囚となりました。
 *感想(1)軍人一筋という感じです。要職を兼務しており、他人が信頼できぬ独裁者でしょうか。
 次は、東条英機のエピソードです。Wikipediaなどを参考にしました。
(1)東条英機と犬猿の仲だった石原莞爾は、関東軍当時、上官であった彼を「東条一等兵」と呼んでいました。戦後、「関東軍時代、あなたと東条には意見の対立があったようだが」と訊ねられると、石原莞爾は「自分にはいささかの意見がある。しかし、東条には意見が無い。意見の無い者と対立のしようがないではないか」と答えたそうです。
(2)首相兼陸相・軍需相・参謀総長の東条英機に対して、側近がヒトラーと同じではと言うと、東条は「ヒトラーは一兵卒、私は大将です。同じにしないでもらいたい」と答えました。また、東条英機は、夜な夜な民家のゴミ箱を漁っては「贅沢品を食べてはいないか」とチェックしたという話が残っています。
(3)竹槍事件で批判された東条英機は、その新名丈夫記者を37歳でしたが、二等兵として召集し、一番危険な硫黄島へ送ろうとしました。新名記者が海軍省記者クラブの主任記者という関連で、海軍は「大正の兵隊をたった1人取るのはどういうわけか」と陸軍に申し込みました。陸軍は、大正の兵隊を250人を召集して、硫黄島に送りました。新名記者は、三ケ月で除隊になりましたが、硫黄島に送り込まれた老兵250人は、全員戦死しました。
(4)逓信省工務局長松前重義は、東条反対派の東久邇宮に接近したため、42歳で召集され、南方で電柱かつぎに使役されました。冨永恭次陸軍次官は「これは東條閣下の直接の命令で、絶対に解除できぬ」と述べています。高松宮宣仁親王は「『松前運通省工務局長は、熊本の西部22部隊に二等兵として召集された由、実に憤慨にたえぬ」と日記に書いています。
(4)衆議院議員中野正剛は、東条政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けたとして検挙されました。中村登音担当検事は、中野正剛を容疑不十分で釈放しました。釈放後、中野正剛は、陸軍に入隊していた息子の安全と引き換えに自殺させられたといわれています。中野正剛を釈放した中村登音担当検事は、43歳にも拘らず召集されました。
(5)東条英機は、インパール作戦を直訴し白骨街道を築いた牟田口廉也は罪を問われず、フィリピンで特攻指令をだし、自分も特攻すると訓示したが「胃潰瘍」の診断書をもって護衛戦闘機付きで台湾に逃亡した富永恭次も罰せられませんでした。
(6)姫路藩主である酒井家の血を引く酒井美意子は、「生来、父の前田利為と東条はソリが合わず、父は東条を『頭が悪くて先が見えない男』と批評し、東条は父に『世間知らずの殿様に何がわかるか』と反発した」と書いています。その結果、前田利為は、東条英機によって南方の激戦地に転任させられ、戦死しました。しかし東条は、これを戦死ではなく戦傷病死扱いにして遺族の年金を減額したといいます。
(7)東条英機を批判した衆議院議員浜田尚友は、現職のまま召集されました。
(8)塚本少佐は、東条夫人から私用の車を要求されて断ったり、東条英機へ直言して、サイパンの守備参謀に左遷されて、戦死したという話が残っています。
(9)東条英機に早期終戦を説いた谷田勇少将は、最前線のラバウルに転任させられました。
 「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という『戦陣訓』を書いた東条英機は、GHQの逮捕の前に自決しました。といえば、一応筋が通っていますが、実際は、自殺未遂で、GHQの捕虜になってしまいました。これでは、戦陣訓を信じて死んだ人は、泣くになけません。その経緯はどうなのでしょうか。
 9月10日、東条英機は、アメリカの従軍記者が「戦争犯罪者については」と質問すると、東条は「戦争犯罪者?それは勝者が決定するものだ、日本的解釈だが私は、戦争犯罪者ではない、戦争責任者なのだ」と語りました。
 9月11日、GHQは、東条英機ら39人の戦争犯罪人の逮捕を命令しました。東条英機は、逮捕に出向いた連合国側の官憲の前でピストルを左腹部に撃ち込み自殺を図りましたが、未遂に終わりました。その場にいた朝日新聞の記者は、目撃談を次のように報道しています。
 東条大将に対してマツカーサー元帥から捕縛命令が出た。11日の午後2時の東条邸ー既に米官憲が到着し窓越しに東条大将を拘引にきた旨を述べてゐた。東条大将は笑つて「只今行きますから暫く待つて下さい」と通訳を通してあいさつし、窓に鍵を下したが、その時、ピストルの響が内部に聞えた。米官憲は外から鍵の下りた戸を叩き破り「窓をこわして入れ」などと怒鳴り威赫的に銃を撃ちつつ室内に入つた。東条大将は予て覚悟の自決をはかつてゐたのである。椅子にもたれたまま、白の開襟ワイシヤツを着た上から左腹部に拳銃を撃ち込み、すでに息も絶え絶えであつた。午後4時15分であつた。20分後大将は何か言はんとするので記者は大将の傍により「何か言ふことがありますか」と問へば、苦しい息の下から次のやうな遺言を洩らしたのである。
 「一発で死にたかつた。時間を要したことを遺憾に思ふ。大東亜戦争は正しい戦ひであつた。国民と大東亜諸民族には誠に気の毒であつた。・・・法廷に立ち連合国の前に裁判を受けるのは希望する所でない。・・・一思ひに死にたかつた。あとから手を降して生きかへるやうなことをしないでくれ。・・・責任者としてとるべきことは多々あると思ふが、勝者の裁判にかかりたくない。・・・家のことは広瀬(伯爵)にまかせてある。その通りやればよい。家のことは心配ない。天皇陛下万歳、身は死しても護国の鬼となつて最期を遂げたいのが真意であるー水をくれー腹を切つて死ぬことは知つてゐるが、間違つて生き度くない」
 遺言が終つてから米官憲は付近の友原医院より医師を招き手当を施したが、その時の様子では生命はとりとめるやうに見うけられた。米官憲は直ちに東条邸の門を閉じて日本の巡査に警戒をせしめた。
 その頃の反応はどうだったのでしょうか。
 8月15日、阿南惟幾陸相は、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル、神州不滅ヲ確信シツツ」と遺書を残して割腹自殺しました。介錯を拒んだので、もがき苦しみ、死んでいったということです。
(1)阿南の死に方と東条の死に方を比較して、「なぜ東条大将は阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか。逮捕状が出ることは明々白々なのに、今までみれんげに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損っている。日本人は苦い笑いを浮かべずにはいられない」
(2)「文字通り自分を乱臣賊子として国家と国民を救う意志であったならそれでよい。それならしかしなぜ自殺しようとしたのか。死に損なったのち、なぜ敵将に自分の刀など贈ったのか。『生きて虜囚の辱しめを受けることなかれ』と戦陣訓を出したのは誰であったか。今、彼らはただ黙して死ねばいいのだ。今の百の理屈より、一つの死の方が永遠の言葉になることを知らないのか」
(3)「期するところあつて今まで自決しなかつたのならば、なぜ忍び難を忍んで連行されなかつたのであろう。なぜ今になつてあわてて取り乱して自殺したりするのであろう。そのくらいなら、御詔勅のあつた日に自決すべきだ。生きていたくらいなら裁判に立って所信を述べるべきだ。醜態この上なし。しかも取り乱して死にそこなつている。恥の上塗り」
(4)「死ニ遅レタ現在ニ於テハ戦争ノ最高責任者トシテ男ラシク裁判ニカヽリ大東亜戦争ヲ開始セザルヲ得ナカツタ理由ヲ堂々ト闡明シタル上、其責任ヲ負フベキデアツタ」
(5)「米兵ニ連行ヲ求メラレテ初メテ自殺ヲ図リタルハ生ヲ盗ミオリタルモノト見ルノ外ナク、然モ死ニ切レナカツタ事等詢ニ醜態ナリトシ同情的言動認メラレズ」
 東条英機がピストル自殺をして未遂に終わったことを、専門家はどう見ているのでしょうか。
(1)左利きであるにもかかわらず利き手ではない右手でピストルの引き金を引いたために失敗した。
(2)娘婿で近衛第一師団の古賀少佐の遺品である陸軍制式大型を自決に使用したが、この拳銃は発射時に独特のショックがあり、使い慣れていなかったため、手元が狂ってしまった。
(3)自殺に22口径を使って胸を撃つなんて銃について知っている人間にとっては笑い話である。
(4)この口径の拳銃で胸を撃っても自殺は不可能であり狂言自殺ではないか。
 この2人の指導者を比較したとき、マッカーサーへの手紙が50万集まった理由が分かります。
 議論して、さすが上司だと納得させれば、部下との間に信頼関係が生まれます。上司は部下に尊敬されるだけの知識や技術や先見性が要求されます。
 他方、上司という立場を利用して、上意下達で命令を押し付け、意見を言うと、左遷される人間関係では、尊敬も信頼も生まれません。

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