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エピソード

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民主化の促進(日本の占領、ポツダム命令、天皇のマッカーサー訪問)
 今、日本の憲法や教育基本法が、マッカーサーによって押し付けられたという議論がTVなどで、盛んに取り上げられ、だから改正しなければいけない、と短絡的に語られています。
 強制されたり、押し付けられたことは事実です。しかし、自浄作用として、当時の日本の指導者は、どんなビジョンを提供できたでしょうか。
 最近(2006年)、教育基本法の改正案骨子が発表になりました。「我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し・・・」が話題になっていますが、私は「教育は、不当な支配に服することなく、この法律や他の法律の定めにより行われる」を注視しています。一部には、「不当な支配に服することなく」という文言を削除する動きがあるといいます。
 戦前、不当な支配に服した結果、多くの生徒が洗脳され、自分の個性も伸ばせず、または、死んでいったのです。「不当な支配に服してはいけません」という戦前の反省に沿った法律を日本人指導者は出せるはずもありません。なぜなら、自分たちは悪いことをしたと思っていないのですから。こんな素晴らしい押し付け・外圧は、どんどん押し付けてもらいたい。これも自虐でしょうか。
 ここでは、どんな外圧が日本人に、受け入れられたのかを取り上げました。
 1945(昭和20)年8月17日、@43東久邇宮稔彦内閣が誕生しました。
 8月30日、マッカーサーは丸腰で、コーンパイプをくえて、厚木飛行場のタラップを降りました。
 8月30日、アメリカ海兵隊第1陣1万3000人が横須賀に上陸を開始しました。占領の開始です。
 9月2日、東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号の艦上で、日本軍の無条件降伏調印式が行われました。この時、マッカーサーは、日本政府に対し、今後の政策立案は、連合国軍総司令部GHQが、直接行うと通告してきました。実際、米国政府の計画では、日本に軍事政権を置く予定でした。
 9月3日、重光葵外相は、マッカーサーを訪ね、「GHQの直接統治は、日本国民を混乱させる。政策の実行は、日本政府を通して行ってほしい」と要望しました。それに対して、マッカーサーは、「日本国を破壊する考えは全くない」と答えて、間接統治を約束したといいます。
 9月11日、GHQは、東条英機ら39人の戦争犯罪人の逮捕を命令しました。
 9月13日、大本営が廃止されました。
 9月15日、『日米会話手帳』(誠文堂新光社)が360万部の大ベストセラーになりました。
 9月15日、文部省は、「新日本建設の教育方針」を発表し、国体護持・平和国家建設・科学的思考力の養成を強調しました。
 9月17日、重光葵外相は、終戦連絡中央事務局の内閣直属移管案に反対して辞任し、その後任に吉田茂が就任しました。
 9月18日、GHQは、言論に関する総司令部覚書違反で、朝日新聞社を配信停止処分にしました。
 9月19日、GHQは、「プレス=コードに関する総司令部覚書」(「日本新聞規則に関する覚書」)を指令しました。その内容は、以下の通りです。
(1)ニュースは厳格に真実に符号するものたるべし(第1項)
(2)直接又は間接に公安を害する恐れある事項を印刷することを得ず(第3項)
(3)連合国占領軍に対する破壊的批判及び軍隊の不信若は憤激を招く惧れある何事も為さざるべし(第4項)
(4)ニュースの筋は事実に即し編輯上の意見は完全に之を避くべし(第6項)
(5)ニュースの筋は宣伝的意図で着色することを得ず(第7項)
(6)ニュースの筋は宣伝的意図を強調又は拡大する目的を以て、微細の点を強調することを得ず(第8項)
 9月19日、アメリカ軍政庁がソウルに設置され、軍政が開始されました。
 9月20日、日本政府は、緊急勅令第542号で、「帝国憲法第8条第1項に依りポツダム宣言の受諾に伴ひ発する命令に関する件」を公布・即日施行されました。この緊急勅令では、第二次世界大戦後、連合国軍の占領下にあった日本で、連合国軍最高司令官の発する要求事項の実施につき特に必要がある場合には、法律事項であっても、政府が命令で定められる(罰則も可)とした。連合国軍による日本占領は、日本の政府機関を温存・利用する間接統治によったが、連合国最高司令官の要求事項は指令・覚書の形で政府に伝えられ、政府は命令の形にして国民と政府機関に伝えた。
 9月20日、日本政府は、緊急勅令第543号で、「SCAPの要求に係わる事項実施のため勅令・閣令・省令を以って所要の定めをなしうる」ことにしました。これをポツダム命令といいます。ポツダム勅令ポツダム政令もポツダム命令の一種です。その原文は、以下の通りです。
 「政府ハポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ聯合国最高司令官ノ為ス要求ニ係ル事項ヲ実施スル為特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ヲ以テ所要ノ定ヲ為シ及必要ナル罰則ヲ設クルコトヲ得」
 9月20日、文部省は、中等学校以下の教科書より戦時教材を省略削除するよう通牒しました。
 9月21日、朝鮮のアメリカ軍政庁は、一般命令第5号で、「日本の神社など朝鮮人弾圧の諸法律の廃棄」を発表しました。
 9月22日、GHQは、「生活必需品の生産促進、輸出入活動の禁止、武器等の生産禁止など経済の非軍事化、平和経済の確立等日本経済再建の具体的基本指針」という指令第3号を出しました。
 9月22日、GHQは、「ラジオ=コードに関する覚書」を指令しました。
 9月22日、アメリカ政府は、降伏後における米国の初期対日方針を正式発表しました。その内容は、以下の通りです。
(1)最高司令官ハ米国ノ目的達成ヲ満足ニ促進スル限リニ於テハ天皇ヲ含ム日本政府機構及諸機関ヲ通ジテ其権限ヲ行使スベシ日本国政府ハ最高司令官ノ指示ノ下ニ国内行政事項ニ関シ通常ノ政治機構ヲ行使スルコトヲ許容セラルベシ
(2)天皇又ハ他ノ日本国ノ権力者ガ降伏条項実施上最高司令官ノ要求ヲ満足ニ果サザル場合最高司令官ガ政府機構又ハ人事ノ変更ヲ要求シ又ハ直接行動スル権利及義務ニ依リ制限セラルルモノトス
 9月23日、フランス軍は、イギリス軍の援助を受け、サイゴンを占領しました。
 9月24日、GHQは、政府による言論統制を撤廃し、国外のニュースを傍受する自由を認める新聞及び通信社に対する政府の統制廃止方に関する総司令部覚書を指令しました。
 9月25日、復員第一船高砂丸は、中部太平洋のメレヨン島から陸海軍兵士1628人を乗せて、大分県の別府港に入港しました。日本政府は、軍人・軍属の引揚げを優先しました。
 9月26日、三木清(49歳)は、豊多摩刑務所で獄死しました。
 9月27日、昭和天皇は、マッカーサーを訪問しました。
 9月27日、GHQは、映画に対する従来の一切の統制を撤廃すると発表しました。
 9月29日、朝日・毎日・読売の各新聞は、昭和天皇とマッカーサーとの会見写真を掲載しました。内務省情報局は、これを不敬として、朝日・毎日・読売の各新聞を発売禁止としました。
 9月29日、GHQは、朝日・毎日・読売の各新聞の発売禁止処分を解除しました。
 9月29日、GHQは、新聞、ラジオ、映画、通信等の自由に対する制限法令であった新聞紙法・国家総動員法・言論出版集会結社等臨時取締法など12法令の撤廃を命じました。
 9月29日、英蘭軍は、日本軍武装解除のためバタビアに到着し、インドネシア人民軍との間に戦闘が開始されました。
 10月1日、元米海軍作戦部長であったウイリアム・ブラット海軍大将は、アメリカの新聞『ニューズ・ウィーク』に「日本人を如何に教育するか!パンかパンフレットか?」と題して、次のような記事を掲載しました。「日本人は・・・殆ど飢餓水準をさ迷う生活状態の下で如何に生きる。・・・われわれは日本と将来友好関係を結ぶことを期待している。われわれが与える如何に僅少なるパンであろうとも、自由主義経済の長所を述べる数多くのパンフレットよりも民主主義の良さについてより以上に日本に教えるであろう」
 つまり、食べ物で自由主義経済の長所や民主主義の良さを宣伝しようというのである。花より団子という発想で、鬼畜米英以前の問題です。すごい!!
 10月3日、前海軍司令長官で内務大臣の山崎巌は、ロイター通信の東京特派員に対して「思想取締の秘密警察は現在なお活動を続けてをり、反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕する、また政府転覆を企てる者の逮捕も続ける……共産党員であるものは拘禁を続ける……政府形態の変革とくに天皇制廃止を主張するものはすべて共産主義者と考へ、治安維持法で逮捕……」と語っています。
 10月3日、東京第1弁護士会会長で岩田宙造法相は、「共産党員をはじめ多くの政治犯人を即時釈放すべしとの意見があるが当局の方針如何」との質問に答えて、「司法当局としては現在のところ政治犯人の釈放の如きは考慮してゐない、かかる犯罪人を刑期より前に釈放することは裁判を無効にすることであり、我々にはかかる権限は与えられてゐない、かかる権限は天皇の大権に属し、唯一の具体的方法は、陛下の御発議による恩赦以外にない」といい、さらに「政治犯のうち既に刑期を終えたにもかゝわらず、拘置所に収容されてゐる予防拘禁者が多いが、彼らの釈放は司法大臣の権限にあると思ふが如何」との質問に対して、「大臣の権限をもって釈放できる、しかし現在の事態の下では彼等を依然拘置所に留めておく必要ありと考へ、従つてこれまた釈放の如きは考へてゐない」と述べました。
 10月4日、GHQは、「政治的、公民的および宗教の自由に対する制限の除去に関する」という総司令部覚書を発しました。この覚書では、天皇に関する自由討議、政治犯釈放、思想警察の全廃、内相・特高警察全員の罷免が指令されました。また、即時廃止すること要求された人権蹂躪の治安法とは、治安維持法・思想犯保護観察法・予防拘禁手続令・国防保安法(・軍用資源秘密保護法など一切の法律・勅令・省令並びに取締規則でした。
 10月4日、マッカーサーは、東久邇宮内閣の国務大臣である近衛文麿に対して、憲法改正とその必要とその指導について示唆・激励しました。
 10月4日、山本有三志賀直哉安倍能成和辻哲郎谷川徹三田中孝太郎らは、同心会を結成しました。これは後の岩波書店の雑誌『世界』の母体になりました。
 10月5日、東久邇宮は、内務大臣ら内務官僚の罷免要求に激しいショックを受け、「マッカーサー司令部の行ひたるが如き処置を受けては到底任務を果し得ず」として総辞職を決めました。
 10月8日、アチソンは、近衛文麿に対して、天皇の立法権の消滅など12項目の憲法改正点を示唆しました。
 10月9日、GHQは、「政治犯の釈放を10月10日のまでに行うこと」を要求しました。
 10月9日、@44幣原喜重郎内閣が誕生しました。外相は吉田茂が留任、内相は堀切善次郎、蔵相は渋沢敬三、陸相は下村定、海相は米内光政、農相は松村謙三、厚相は芦田均、国務相は松本丞治らが就任しました。
 10月上旬、東京帝国大学教授で皇国史観の泰斗である平泉澄が辞表を提出しました。
 10月10日、政治犯3000人が釈放されました。
 10月10日、GHQ政治顧問代理のアチソンは、国務長官のバーンズに、「幣原政権が日本社会の、保守的で用心深い階層を代表する政権であることを立証する充分な証拠がある」と報告しています。
 10月10日、アメリカの軍政長官は、朝鮮人民共和国否認を声明しました。
 10月11日、近衛文麿を内大臣府御用掛に任命しました。
 10月11日17時、首相の幣原喜重郎は、新任の挨拶をするために、マッカーサーを訪ねました。マッカーサーは、幣原首相に対して、口頭で、(1)婦人参政権の付与(2)労働組合結成の奨励(3)学校教育の自由主義化 (4)国民生活を恐怖に陥れた秘密審問司法制度の撤廃(5)独占的経済機構の民主化を指示しました。これを5大改革の指示といいます。これは、10月4日の「市民的自由の実現要求」に加えて、日本の経済機構の民主化と侵略戦争の背景となった教育制度の改革を求めたものでした。
 10月12日、幣原内閣は、GHQの指令を実行するため、閣議で治安維持法の廃止を決定しました。
 10月13日、政府は、国防保安法・軍機保護法・言論出版集会結社等臨時取締法など廃止の件を公布しました。
 10月13日、幣原内閣は、閣議で、婦人に参政権を与え、選挙権は年令を25才を20才に引下げ、被選挙権も男女同権とすることを決定しました。この結果、有権者は、前回(1937年)の総選挙と比べて、男子で300万人、女子で2168万人増加しました。全体で4292万人ですから、約3倍になりました。
 10月13日、政府は、国務相の松本烝治を主任として、憲法改正に関する研究開始を決定しました。
 10月13日、憲法学者の佐々木惣一を内大臣御用掛に任命し、帝国憲法改正の検討に着手させました。
 10月13日、蒋介石は、国民党の各部隊に内戦を密命して、各地で解放軍と衝突しました。
10  10月14日、平壌で、金日成帰国歓迎市民集会が開かれました。
 10月15日、大蔵大臣の渋沢敬三は、UP記者に対して、「現状のままでいけば、来年度の餓死者・病気で死亡する者は、1000万人に達するだろう」と語りました。
 10月15日、治安維持法・思想犯保護観察法など廃止の件が公布されました。
 10月15日、日本陸海全軍の武装解除が終わり、陸軍参謀本部と海軍軍令部が廃止されました。
 10月15日午後、マッカーサーの5大改革の指令を受けて、GHQ経済科学局長のクレーマー大佐は「三井、三菱、住友などの財閥については目下種々研究中で、ポツダム宣言に沿つてその解体を考慮している。財閥に対処する根本原則は二つある。第一は、これら財閥は戦争中巨額の不当利得を得たが、彼等から戦時利得を吐き出させ、すべての日本人に戦争が決して有利に事業でないといふことを深く脳裏に刻みつけることである。第二は、全体主義的な独占力を持つた経済勢力の破砕である」と日米の記者会見の場で、説明しました。
 10月15日、文部省は、私立学校に対して、キリスト教教育を容認しました。
11  10月16日8時、マッカーサーは、ラジオをとおして、「日本軍武装解除といふ難事業が円滑に行はれていること、進駐軍将兵の行動は正々堂々として日本人に大いなる教訓を与へ、日本では人民の権威回復の革命がはじまつた」と日本国民に演説しました。
 10月16日、李承晩は、アメリカより帰国しました。ソ連は北朝鮮全土の行政権を北朝鮮人民に移管しました。
 10月17日、GHQは、映画の自主性を尊重するため、映画の制作・公演の自由を束縛してきた日本の法律を全廃するとの覚書を発表しました。これを映画に対する日本政府の統制廃止方に関する総司令部覚書といいます。
 10月17日、戦時中「東京ローズ」の愛称で米軍向けの謀略放送を担当していた日系二世のアイバ・戸栗(アイビー・トグリ)を横浜刑務所に収監しました。
 10月17日、蒋介石の国府軍は、台湾に上陸しました。
 10月19日、幣原内閣は、閣議で、徴発令・義勇兵法・軍事特別措置法・俘虜処罰法など49件の戦時法令の廃止を決定しました。
 10月19日、吉田茂外相は、15日のクレーマ大佐の財閥解体について、「日本の経済機構は三井、三菱その他の古い財閥によつて樹立されたものである、日本国民の繁栄はこれ等の財閥に努力によつて齎されたものであつた、これらの古い財閥を解体することが果して国民に利益となるかどうか甚だ疑問である」と外人記者団に語りました。これは当時の日本の支配層の共通した本音といえます。
 10月20日、GHQは、日本政府に対して、復員軍人については、兵籍を問わず徽章と階級章をとりはずことを命令しました。
 10月20日、幣原内閣は、閣議で、被選挙権も男女同権で満25才とすることを決定しました。
 10月20日、鳩山一郎ら15人は、新日本自由党創立準備委員会を結成し、「政治を特権階級の手より国民の手に移し、国民の生活水準を高めるべきである」との立党宣言を発表しました。
 10月20日、日本共産党の機関紙『赤旗』の復刊第1号が発行され、徳田球一と志賀義雄らによる「人民に訴ふ」が掲載されました。
 10月20日、エジプトなどアラブ3国は「イスラエル国家の創設は戦争を招く」とアメリカに警告しました。
12  10月22日、GHQは、「教育制度運営の基本方針に関する総司令部覚書」を政府に指令しました。その内容は、軍国主義的・超国家主義的教育を排除して、自由主義的・民主主義的教育体制を樹立するというものでした。
 10月22日、GHQは、日本政府の認識に対する答えとして、財閥資産の恣意的処分を防止し、解体、清算の制限を行うため三井・三菱等15財閥にその事業内容、資本構成等の報告の提出方を指令しました。これを主要金融機関又は企業の解体又は生産に関する総司令部覚書といいます。
 10月22日、GHQの覚書に対して、日本政府は、「財閥の改組に関する連合国の根本方針に対しては、政府はこれに反対する意思を有せしことなく、また今後もかゝる意思を有するものに非ず、従つてその自発的改組に当たつては、連合国の方針を体し、適当の処置を講ずる所存なり」との声明を発表しました。
 10月24日、日本政府は、工場法戦時特例および工場事業場管理令など13件を廃止しました。
 10月25日、憲法問題調査委員会を設置し、委員長に松本烝治が就任しました。
 10月28日、東京・明治神宮外苑野球場において、実に5年振りに野球が復活した。東京6大学野球0B戦である。娯楽に飢えていた人々は、神宮球場につめかけ、午後2時開始にもかかわらず、スタンドは午前中に満員となるほどの盛況であった。
 10月30日、GHQは、皇室財産を公表しました。その額は、宝石や金塊を除いた現金・有価証券・土地・建物・森林など15億9000万円でした。皇室が一つの財閥だったことが分かります。
13  10月31日、GHQは、軍国主義者および極端な国家主義者を、日本の教育界から即座に追放すること、また復員将兵その他軍籍にあった者が教育に従事することは、その適格が認定されるまで、これを一時的に停止すべきことを内容とした、「教育及び教育関係官の調査、適格審査及び証明等に関する総司令部覚書」発令しました。
 11月2日、文部省は、軍国主義者・国家主義者の教壇からの追放と反軍国主義・自由主義的言動により休職・退職処分の教員らの優先的再任用に関して、大学・高専および地方長官宛に通牒を発しました。
 11月4日、東京帝大経済学部教授会は、この通牒を基づき、大内兵衛矢内原忠雄土屋喬雄有沢広巳山田盛太郎脇村義太郎木村健康の7教授の復職を決定しました。同時にこれらの教授追放に重要な役割を果たした同学部の橋爪明男教授と難波田春夫助教授が辞職しました。
 日本人は、鬼畜米英から自由で民主主義的の国=アメリカへの“変身”も、抵抗もなく行われました。
14  1947(昭和22)年5月3日、日本国憲法が施行されました。ポツダム命令は、ポツダム政令・総理府令・法務府令と省令の形式に変更されました。
 1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立国となりました。その結果、ポツダム命令・ポツダム緊急勅令は、原則として、180日後に廃止されました。
 この項は、『近代日本総合年表』・西鋭夫『國破れてマッカーサー』(中公文庫)などを参考にしました。
ルースベネディクト著『菊と刀』、マッカーサーと昭和天皇
 私は、以前、ルース・ベネディクト女史の『菊と刀ー日本の文化の型』を読んだことがあります。この本は、1944年、日本の戦後処理政策決定のために、アメリカ陸軍局の委嘱を受けて書かれました。菊は天皇家、刀は武士道を象徴しています。
 つまり日本文化は、恥によって行動を規制されているとか、天皇制を頂点とする階級社会であるとか、義理と人情を道徳律にしているとか、死を恐れないとか、分析していました。私は、日本人以上に日本人を知っていると感じました。最近、日本の一部の人が『菊と刀』を非難していますが、今の視点でなく、当時の視点で語るべきです。
 日本人は、鬼畜米英として、英語を拒否し、他人を知ることを拒否しました。逆に、アメリカ人は、日本人の徳性を徹底的に研究しました。
 マッカーサーも『菊と刀』の愛読者でした。その結果、イギリス風の立憲君主制として、天皇制は維持されたのです。
 1945年6月、アメリカ国民の世論調査(天皇の処刑33%・裁判17%・終身刑11%)やソ連・中国・オーストラリアなど共和政国家は、天皇を戦犯として裁くべきだと考えていました。アメリカ政府も、天皇を戦争犯罪容疑と理解していました。
 アメリカ国務省は、日本が無条件降伏する前に、「日本の完全敗北と同時に、天皇の憲法上の権限は停止されるべきである。」「中国およびアメリカの世論も次第に天皇制の廃止に傾きつつある」と報告していました。
 9月8日、マッカーサーは、GHQ本部を皇居の隣に移しました。
 9月10日、昭和天皇を戦犯として裁くという決議案が、アメリカ議会に提出されました。
 9月11日、GHQは、元首相の東條英機ら37人を戦争犯罪人として逮捕しました。天皇や皇族にも、戦犯として逮捕されるという危機感が出てきました。
 9月中旬、マッカーサーは、昭和天皇の出向くのを待つ戦法をとりました。
 9月20日、天皇と会見した吉田茂新外相は、マッカーサーを訪問し、「陛下がお訪ねになることを、期待されていますか」と尋ねました。それに対して、マッカーサーは「私としても、もっとも喜ばしいことと考えている」と答え、GHQ本部でなく、アメリカ大使公邸を指定しました。
 9月27日10時15分、昭和天皇は、黒のモーニングとシルクハット姿で、アメリカ大使館内の宿舎にマッカーサーを訪問しました。通訳の奥村勝蔵が同行しました。天皇を出迎えたのは、マッカーサーの副官といわれる二フェラーズ代将と通訳のバワーズ少佐でした。これは、マッカーサーが自分の力を日本国民に誇示するため、計画したものでした。
 写真撮影の時、「マッカーサー元帥ハ極メテ自由ナル態度」で、天皇に「パチパチ撮リマスガ、一枚カ二枚シカ出テ来マセン」と説明したといいます。
 写真撮影の後、マッカーサーは、昭和天皇と35分間、会談しました。
 マッカーサーは、回顧録の中で、「”私(天皇)は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした”。この勇気ある態度は私の魂までも震わせた」と書いています。天皇に対するマッカーサーの考えも変わっていきました。
 9月28日、マッカーサーが指示したとおり、日本の各新聞は、昭和天皇とマッカーサーの会見を一斉に報道しました。しかし、内閣情報局は、写真は、不敬にあたるとして掲載を禁じました。
 9月28日、GHQは、「日本政府の新聞検閲の権限はすでにない」と、直ちに禁止処分を取りやめさせて、写真の掲載を指示しました。同時に、戦時中の新聞や言論に対する制限の撤廃も即決しました。
 9月29日、写真は、朝日・毎日・読売の各新聞の一面に掲載されました。左に燕尾服で正装した天皇が直立不動で立っています。右にノーネクタイで、襟元のボタンを外し、両腕を腰の後ろに回し、ふんぞり返っているマッカーサーがラフなポーズで立っています。当時の人々は、神様と崇められた人(身長165センチ)がマッカーサー(身長180センチ)の肩口しかない姿に衝撃を受けました。作家の高見順は「かかる写真は、誠に古今未曾有」と日記に記しています。
 マッカーサーの巧妙な演出によって、神様が人間に戻されたのです。その結果、日本国民は、敗戦を実感を実感し、誰が日本の元首であるかを知らされました。
 9月30日、GHQが言論の制限を撤廃したことを知った高見順は「これでもう何でも自由に書ける・・・生れて初めての自由!」と日記に書きました。
 11月、アメリカ政府は、マッカーサーに対して、「昭和天皇の戦争責任を調査するように」と要請しました。それに対して、マッカーサーは、「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」と回答しました。
 1946年1月7日、アチソン政治顧問は、マッカーサーに対して、「天皇を裁けば、ひどい混乱を引き起こし、多くの親日家たちも、政府を維持できるだけの人物を見いだすことは不可能だと思っています。それ故、民主化を推し進めたいと努力している天皇を利用するのは当然である」と報告しています。
 1月25日、マッカーサーは、日本の精神文化の中で、天皇の存在を改めて確認しました。この時、マッカーサーに大きな影響を与えた人が軍事補佐官フェラーズ准将です。フェラーズ准将は、以前から「日本軍と天皇」というテーマで研究しており、「天皇の意向を利用した統治」と進言したといわれています。
 マッカーサーは、陸軍省に対して、「連合国が天皇を裁判にかければ、日本国民の憎悪と憤激は、間違いなく未来永劫に続くであろう。天皇が戦犯として裁かれるかどうかは、極めて高度の政策決定に属する」と打電しました。
 その結果、陸軍省は、国務省と会談し、「天皇は免訴にする」ということになりました。

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