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エピソード

266_01

占領と民主化政策(極東委員会、対日理事会、東京裁判)
 ここでは、東京裁判を扱います。
 以前、「たけしのTVタックル」をみました。テーマは「靖国神社の参拝について」でした。自民党の参議院議員である桝添要一氏が「これだけ外交問題化している以上、総理大臣という立場をわきまえる必要がある」と発言すると、コラムニストの勝谷誠彦氏が「東京裁判史観から脱却していないということですか」と例の如く激しく迫りました。その時、元自民党の衆議院議員である浜田幸一氏が血相を変えて「お前は何も分かっとらん。昭和天皇を免訴する代わりに、東条英機らが戦犯として処刑されたのだ」と一括しました。
 保守党内でも、東京裁判の評価が割れているようです。国民全体ということになると、もっと大きな幅があります。東京裁判の経緯をもう一度おさらいしました。
 1945(昭和20)年10月9日、@44幣原喜重郎内閣が誕生しました。
 11月19日、GHQは、荒木貞夫小磯国昭松岡洋右ら11人の逮捕を命令しました。
 11月21日、治安警察法廃止の件がポツダム勅令で公布されました。
 12月1日、陸軍省・海軍省廃止の件および第一復員省・第二復員省官制が公布されました。
 12月2日、GHQ、戦犯容疑で、元帥の梨本宮守正陸軍大将・元首相の平沼騏一郎・元外相の広田弘毅をはじめ皇族・陸海軍将校・政治家・財界人・記者ら59人の逮捕を命令しました。
 12月6日、GHQ、戦犯容疑で、「16日の午後12時までに」と期限を区切って、元首相の近衛文麿・前内大臣の木戸幸一・貴族院副議長の酒井忠正・前駐独大使の大島浩陸軍中将・前国務大臣の緒方竹虎・理研工業社長の大河内正敏ら9人の逮捕を命令しました。これで、逮捕を命じられた戦争責任者は合計で286人になりました。
 12月7日、マニラの軍事裁判は、山下奉文の戦争犯罪に対して死刑を宣告しました。
 12月8日、松本烝治国務相は、衆議院予算委員会で、「天皇の統治権総攬は不変、議会の議決権拡大、国務大臣の国政全般および議会に対する責任、人民の権利・自由の確立など」憲法改正の4原則を言明しました。これを松本私案といいます。
 12月8日、神田共立講堂で、共産党以外の5団体主催戦争犯罪人及び人民大会は、天皇を含む1000人以上の戦犯名簿を発表しました。
 12月14日、元独秘密警察員は、ニュルンベルク国際軍事裁判で、ユダヤ人虐殺は600万人以上と証言しました。
 12月16日、アメリカは、米国は単独で極東諮問委員会(Far Eastern Advisory Commission)を設置して、対日占領政策を実施しようとしましたが、ソ連が反対したので、モスクワ外相会議を提案しました。その結果、米・英・ソの3国外相会議は、極東委員会対日理事会の設置を決定しました。
(1)極東委員会(FEA、Far Eastern Committee)は、本部をワシントンに設置しました。
 @米・英・ソ・中・仏・蘭・加・豪・ニュージーランド・印・フィリピンで構成されました。
 A最高決定機関で決定された対日政策をアメリカ政府を通じてマッカーサーに伝達されました。
(2)対日理事会は、日本占領管理機関(ACJ、Allied Council for Japan)で、本部は東京です。
 @米・英連邦・ソ連・中国の4か国で構成され、議長は米国代表の連合国最高司令官です。
 A極東委員会の出先機関で、FEAの指令について連合国最高司令官を監視・チェックする。
極東委員会(本部:ワシントン、議長:アメリカ代表)
       ↓(基本方針の伝達)
アメリカ政府
↓指令 諮問
連合国軍最高司令官
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)
対日理事会(本部:東京、議長アメリカ)
↓(指令・勧告) 助言
日本政府
↓(実施)
日   本   国   民
 12月16日、戦犯容疑者の中で最も重要な人である近衛文麿(55歳)は、自宅で青酸カリで服毒自殺しました。近衛は、死の前に、「戦争前は軟弱だと侮られ、戦争中は平和運動家とののしられ、戦争が終われば戦争犯罪人だと指弾される。僕は運命の子だ」と語ったといいます。
 12月17日、米軍俘虜に対する暴虐行為容疑者に対する軍事裁判が横浜地裁で開廷しました。これが日本で最初の戦犯裁判(BC級)です。
 1946(昭和21)年1月1日、天皇は、神格化否定の詔書を発表しました。これを天皇の人間宣言といいます。マッカーサーは、詔書に満足の意を表明しました。人間宣言の内容は、以下の通りです。
「朕は爾等国民と共に在り、常に利害を同じうし休戚を分たんと欲す。朕と爾等国民との間の紐帯は終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず」
 *解説(私(天皇)と国民との絆は、神話と伝説ではない。私を現人神=人の姿をしてこの世に現れた神とし、日本民族は他民族より優越しているので、世界を支配すべき運命を持っているという架空の観念でもない。私(天皇)と国民との絆は、相互の信頼と敬愛で結ばれている→私たちの敗戦後の出発点は、まさにここにあります)
 1月4日、GHQは、軍国主義者の公職追放および超国家主義団体27の解散を指令しました。
 1月19日、マッカーサーは、極東国際軍事裁判所条例を承認し、戦争犯罪人(平和・人道に対する罪、戦時法規違反の罪)を審問・処罰のため裁判所の設置を命令しました。
 1月21日、自由党鳩山一郎は、憲法改正要綱を発表し、天皇は統治権の総攬者であることを明記しました。
 2月3日、マッカーサーは、GHQ民政局に対して、(1)天皇は国家の首部にある(2)戦争を放棄する(3)封建制度を撤廃するという3原則に基づく日本国憲法草案の作成を指示しました。
 2月8日、憲法改正要綱(松本試案)がGHQに正式に提出されました。
 2月10日、GHQは、日本国憲法草案を完成しました。これをGHQ草案といいます。
 2月13日、GHQは、松本試案を拒否し、GHQ草案を日本政府に手交しました。これを日本国憲法はアメリカの押し付けという議論を生みました。しかし、日本の指導者の作成した草案は、明治憲法とほとんど変わらない内容でした。「日本人は内圧では変わらず、外圧によって変わる」しかなかったといえます。
 2月14日、進歩党町田忠治は、天皇制を護持する憲法改正要綱を決定しました。
 2月19日、GHQは、刑事裁判権行使に関する覚書を発表しました。その内容は、占領目的に有害な行為に対し連合国軍事占領裁判所も裁判権を行使するというものでした。
 2月22日、幣原内閣は、閣議で、GHQ草案の受け入れを決定しました。
 2月23日、社会党片山哲は主権在国家・天皇は儀礼的代表という憲法改正案要綱を発表しました。
 2月23日、戦犯として裁かれた山下奉文の死刑が執行されました。
 3月4日、幣原内閣は、GHQ草案に趣旨に基づく憲法改正草案を作成し、GHQに提出しました。
 3月6日、幣原内閣は、(1)主権在民(2)天皇象徴(3)戦争放棄を規定した憲法改正草案要綱を発表しました。マッカーサーは、全面的承認を声明しました。
 4月10日、@22衆議院議員総選挙が新選挙法により実施されました。
 4月28日、東条英機ら28人のA級戦犯容疑者の起訴状を発表しました。
 5月3日、極東国際軍事裁判所が開廷しました。これを東京裁判といいます。
 5月15日、対日理事会で、アメリカ代表のアチソンは、「共産主義を歓迎せず」と言明しました。
 5月22日、@45吉田茂内閣が誕生しました。
 6月12日、連合国占領軍の占領目的に有害な行為に対する処罰等に関するポツダム勅令を公布しました。その内容は、違反者は、連合国軍事占領裁判所において裁判に処せられるというものでした。
 6月18日、極東国際軍事裁判のアメリカ側主席検事のキーナンは、ワシントンで、「天皇を戦争犯罪人として裁判しない」と言明しました。
 6月20日、憲法改正案が帝国議会に提出されました。
 7月12日、蒋介石の国府軍50万人は、解放区への攻撃を開始しました。これを中国の全面的国共内戦の開始といいます
 8月24日、衆議院は、憲法改正案を修正多数で可決しました。賛成は421人、反対は8人でした。
 10月1日、ニュルンベルク国際軍事裁判で判決がり、12人に絞首刑が宣告されました。
 10月7日、衆議院は、憲法改正案の貴族院修正案に同意して、日本国憲法が成立しました。
 10月16日、自殺したゲーリングを除いて、11人が絞首刑に処せられました。
 11月3日、日本国憲法が公布されました。
 1947(昭和22)年3月4日、GHQは、南方軍事裁判で絞首刑30人と発表しました。
 3月12日、トルーマン大統領は、ソ連封じ込めのトルーマン・ドクトリンを発表しました。
 5月3日、日本国憲法が施行されました。
 5月13日、東京裁判で南京虐殺事件が審議されました。
 5月24日、@46片山哲内閣が誕生しました。
 10月7日、片山内閣は、財界・報道関係991人の公職を追放しました。
 1948(昭和23)年1月5日、米陸軍長官のロイヤルは、サンフランシスコで、「日本を共産主義に対する防壁にする」と演説しました。
 2月16日、アメリカ政府は、岸信介らA級戦犯容疑者の裁判を放棄すると声明しました。
 3月2日、中国検察当局は、ソ連抑留中の元満州国皇帝である溥儀を反逆罪で起訴しました。
 3月6日、米・英・仏など6ケ国会議は、西独の取り込みを決議し、ドイツの東西分裂が決定しました。
 3月10日、@47芦田均内閣が誕生しました。
 8月15日、大韓民国が樹立され、大統領に李承晩が就任しました。
 9月9日、朝鮮民主主義人民共和国が樹立され、首相に金日成が就任しました。
 10月19日、@48第二次吉田茂内閣が誕生しました。
 11月2日、アメリカの大統領選でトルーマンが再選されました。
 11月9日、蒋介石は、アメリカ大統領のトルーマンに対して、緊急軍事援助を要請しました。
 11月12日、東京裁判で最終判決が出され、東条英機ら7人に絞首刑が宣告されました。
 12月16日、中国共産党軍は、北京に無血入城しました。
 12月23日、東条英機ら戦犯7人は、巣鴨拘置所で、絞首刑が執行されました。
 12月24日、岸信介・笹川良一児玉誉士夫らA級戦犯が釈放されました。
 1949(昭和24)年11月、極東委員会の参加国は、ビルマとパキスタンを加え、13か国になりました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
戦犯か戦争指導者か、東京裁判
 私は、小さい時に、よく戦争体験を聞かされたものです。
 自分の手柄話や苦労話、日本軍の活躍を聞かされました。そこで、私が「なのに、どうして、日本は戦争に負けたのですか」と聞くと、体験者のほとんどは「そりゃー、戦争指導者が悪かった。無茶やったなー」という話になります。「戦友を餓死させた戦争指導者は、戦犯やったなー」。
 中国人のことを「支那人」とか「チャンコロ」と侮蔑的に表現して、「臆病だった」といいます。「南方では日本軍は解放軍として歓迎された」と自慢するので、私が「それなら日本は戦争に勝っていた方が良かったですか」と聞くと、体験者の全員は「いや、勝っとたら、日本はもっとひどくなっていたやろ」とか「負けていて良かった」という話になります。私が「どうして?」と尋ねると、彼らは「物言えん軍隊はいやや」とか「しごきはきつかった」という人が多かったが、「戦う前に日本は、負けていた」という人にも出会いました。「弾は前(敵)からばかり来ると思うなよ。後ろ(味方)からもくるぞ」という声もあったとそうです。
 最後に、「やっぱり平和がええ」「二度と戦争はごめんや」という話になります。
 新聞の投書欄やアンケートでは、出てこない本音が聞けました。
 東京裁判史観を持ち出す人が、いったい私たちをどこへ連れて行こうとしているのでしょうか。
 東京裁判史観とは何か、「つくる会」の教科書は扶桑社から出版されています。産経新聞の系列が扶桑社で、産経新聞は「つくる会」の活動を支持していることは周知の事実です。そこで、産経新聞に連載され、産経新聞ニュースサービスから発行され、扶桑社から発売されている『教科書が教えない歴史2』からその主張を紹介します。著者は「作る会」の実権を握っている藤岡信勝氏と自由主義史観研究会の会員です。
(1)高橋史朗氏は「つくる会」の教科書の監修者で、「つくる会」の元副会長で、現在は埼玉県の教育委員です。高橋氏は『日本人は大東亜共栄圏の樹立という理想のもとに「大東亜戦争」を戦いましたが、占領軍は1945年(昭和20年)12月15日の「神道指令」の中で、この「大東亜戦争」という用語自体の使用を禁止しました。このことは、日本人が「大東亜戦争」という固有の歴史観をもつことを否定し「太平洋戦争」という「新しい歴史」観をもつことを強制したことを意味しています。この「太平洋戦争史」には日本と連合国、特にアメリカとの間の戦いであった戦争を、軍国主義者と国民との間の対立にすりかえ、戦争の責任は軍国主義者にあるという考え方を宣伝しようという意図がありました。このような太平洋戦争史観が東京裁判によって固定化され「日独全体主義に対する英米民主主義の正義の戦争」ととらえる”平和と戦争”のプロパガンダがそのまま歴史の事実であるように正当化されるに至ったのです。明治以後の日本の歴史を一方的な「侵略戦争」と断罪する「東京裁判史観」は見直す必要があります』と書いています。
(2)藤岡信勝氏のことを調べるために、「つくる会」のホームページを閲覧しました。ちょっとびっくりするような内容が赤裸々に語られていました。藤岡氏と盟友の西尾幹二氏は「つくる会」を離脱し、会長だった八木秀次氏は解任され、種子島経氏が会長になったと思ったら、その種子島氏がすでに解任されていました。そうした内紛にも関係なく主流派であり続ける藤岡氏は「ナチスと同じ罪にしたかった連合国」と題して「アメリカはこのナチスに対するのと同じ罪を日本にかぶせようともくろみました。ナチスのホロコーストに相当するような規模の大量殺人を日本は犯していませんから、日本糾弾の迫力が出ません。そこで持ち出されたのが「南京大虐殺」事件でした。それも数千や数万の規模では戦場ではどこでも起こりがちです。ニュルンベルク裁判の範疇や前提は、東京裁判に適用されると、完全に崩壊した。東京裁判史観を克服し、日本の過去を正しく見つめることが今こそ必要です」と書いています。
 *解説(1)日本は、ポツダム宣言を受諾しました。その十条には「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ」(stern justice well be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners.)とあります。日本は、戦犯の処罰を受け入れることを承認して、連合国からは無条件降伏を承認されたのです。世界と交わした公約なのです。東京裁判史観からの脱却を唱える人は、連合国とのこの約束をどう考えているんでしょうか。
 *解説(2)私も、東京空襲や広島・長崎への原爆投下などを裁けなかった東京裁判を全て正しかったとは思っていません。しかし、日本は、サンフランシスコ講和条約を締結して、独立を果たし、世界に復帰したのです。これは世界と交わした公約です。サンフランシスコ講和条約11条で、東京裁判を受諾しています。一部の人は、東京裁判そのものを認めたのではなく、「judgements」だから諸判決を受諾したのだと主張して、東京裁判史観からの脱却を訴えます。外務省は「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し・・・」(Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan)と訳しています。和英辞典で「裁判」と引くと、「bar・judgment・judicial trial・justice・trial」とあり、judgmentも裁判となっています。『Oxford Advanced Learner's
Dictionary』で調べると、「judge」を調べると「hear and try case in a law court」とありました。つまり、法廷で審問した結果がjudgmentで、裁判のない判決はないということです(裁判=判決)。
 *解説(3)高橋史朗氏は、「大東亜戦争」という固有の歴史観と書いています。戦争体験者により「二度と戦前はいやだ」と否定された歴史観を、固有の歴史観と言って賛美する気持ちが分かりません。
 *解説(4)藤岡信勝氏はこの著書でもTV番組でも「日本にはホロコーストはなかった」と持論を展開しています。ホロコーストを行ったナチスと同盟を結んだのは日本ですよ。日本にホロコーストはなかった証拠に「数千や数万の規模では戦場ではどこでも起こりがちです」と持論を述べます。だから戦争に反対なんだし、数百万の虐殺はいけないが、数万の虐殺は問題ないという発想は、どこか精神が倒錯していませんか。
 *解説(5)日本は、サンフランシスコ講和条約を締結して「東京裁判を受諾」しました。これは、日本が世界と交わした公約です。今の段階で東京裁判を否定する発言は、ヒトラーが世界と公約したベルサイユ体制打破を叫んでいる姿にダブります。そんな低い次元の発想はやめましょう。それより、「外国と競争しながら、日本のよさを宣伝しましょう」というのが私の提案です。
 *解説(6)東京裁判史観の脱却は、世界への挑戦です。案の定、ジョンズ・ホプキンズ大学ライシャワー東アジア研究所のケント・カルダー所長らは「戦争を正当化することは、日本と戦った米国の歴史観と対立する。異なった歴史解釈のうえに安定した同盟は築けない」と語ったといいます。対米関係に携わってきた日本の外務省幹部も「政権の外では日本の歴史問題に対するワシントンの雰囲気は厳しい」と話しています(2006年4月30日付け朝日新聞)。
 この項の冒頭で、浜田幸一氏が「天皇の免訴と引き換えに、東条らが戦犯となった」という発言が気になっていました。
(1)1945(昭和20)年11月29日、米統合参謀本部は、マッカーサーに対し、「天皇の戦争犯罪行為の有無につき情報収集するように」と命じました。
 1946年1月25日付けのこの電報で、
(2)1946(昭和21)年1月22日、オーストラリアは天皇を含む戦犯リストを提出しました。
 1月24日、幣原喜重郎は、マッカーサーを訪問して「世界中が戦争をしなくなるようになるには、戦争を放棄する以外ない」と述べると、マッカーサーは「連合国の一部は、天皇を戦犯にすべきだと強硬に主張し始めた。戦争放棄を世界に声明し、天皇をシンボルとして憲法に明記する。それ以外、天皇制を続けていく方法はないのではないか」と答えたといいます。
(3)1946(昭和21)年1月25日、マッカーサーは、1945年11月の問い合わせに関して、米統合参謀本部に「天皇の犯罪行為の証拠なし」「仮に天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろう」と打電しました。
 1月25日、同時にマッカーサーは、米陸軍参謀総長のアイゼンハワーに「もし天皇を起訴すれば、100万の軍隊を駐屯させなければならなくなる」と報告し、アメリカの負担の面からも天皇の起訴は避けるべきだとの立場を表明しました。
(4)1946(昭和21)年4月8日、中国代表半二の梅汝■の日記に「天皇が日本の侵略戦争に何の責任もないとはどうしても思えない」「裁判官たち個人レベルの会話でもしょっちゅう議論され、大多数の人は私と同じ見方を持っている」
 5月7日、中国代表半二の梅汝■の日記に「政治的理由で(天皇は)起訴を免れたが、将来、再び提起される日が来るだろう」(2006年5月4日付け神戸新聞)
(5)1946(昭和21)年6月18日、アメリカ側主席検事のキーナンは、「天皇を戦争犯罪人として裁判しない」と言明しました。
(6)1947(昭和22)年10月10日、アメリカ側主席検事のキーナンは、「天皇と実業界に戦争責任なし」と言明しました。
(7)児島襄著『東京裁判』(中公新書)に次のような記述がありました。1948(昭和23)年1月8日夜、マッカーサーはウエッブ裁判長とキーナン主席検事をGHQに招いて、「東条証言の経緯を聞き、東条大将の責任の明確化、言い換えれば天皇の免責が確認されたと見做して天皇不起訴を決定する」と語りました。オーストラリア人のウエッブ裁判長は、釈然としなかったので、無言でいると、マッカーサーが「よろしいですな」と言ったので、ウエッブ裁判長はやむなく肯きました。この結果、東京裁判で最大の目的が達成されたのです。
(8)象徴天皇制と戦争放棄は、マッカーサーの思惑は別として、日本国民への最大のプレゼントだと思っていたし、国民もそう受け取っていました(五百旗頭真神戸大学教授)
 *解説(当時、天皇の起訴は世界世論でした。天皇免訴はアメリカ側の思惑が強かったことは事実ですが、日本側の天皇制を残したいという期待にも沿っていました。東京裁判史観脱却を唱える人で、天皇免訴のみ東京裁判を受け入れることをご都合主義・歴史修正主義といいます)。
 政府の公式見解を調べてみました。東京裁判史観脱却説は、ここでは明快に否定されていました。
(1)1985(昭和60)年10月14日、外務委員会
○小和田恒外務省条約局長「日本国との平和条約の第十一条に規定がございます。「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。」云々という規定がございまして、ここで極東国際軍事裁判所の裁判を受諾するということを約束しておるわけでございます」
○土井たか子「受諾するということになると、条約に対しては遵守するという義務が日本としてはございますから、したがって、平和条約の十一条に言うところで、はっきりそのことに対しては認めているという立場に日本の政府としては立つわけですね。日本の国としては立つわけですね。これを再確認します」
○小和田恒外務省条約局長「ここで裁判を受諾しているわけでございますから、その裁判の内容をそういうものとして受けとめる、そういうものとして承認するということでございます」
(2)1986(昭和61)年8月28日、内閣委員会
○後藤田正晴内閣官房長官「いわゆる東京裁判については、いろいろなお立場の人でそれぞれの御意見があることは御案内のとおりでございます。しかしただ、国対国の関係におきましては、これは日本政府は、サンフランシスコ平和条約第十一条によってあの裁判を認めておるといった大前提に立って私は事柄を処理せざるを得ないのではないか、かように考えているわけでございます」
(3)1988(昭和63)年4月15日、決算委員会
○小渕恵三官房長官「政府といたしましては、同裁判をめぐる法的な諸問題に関しまして種々の議論のあることは承知をいたしておりますが、いずれにせよ、国と国との間の関係においては、我が国はサンフランシスコ平和条約第十一条によりまして極東国際軍事裁判所の裁判を受諾したことは御承知のとおりであり、我が国としては、右裁判を受諾した以上、右裁判についての異議を唱える立場にはない、こういうふうな考え方でございます」
○法制局・外務省「官房長官の方から御答答がありましたとおりの考え方をとっております」
(4)1993(平成5)年10月5日、予算委員会
○細川護煕内閣総理大臣「戦勝国による一方的な押しつけであると受けとめられている向きもございます。しかし、とにかく八カ国による裁判というものを我が国が受け入れて、そして、二度とこのようなことを、国際社会の中で過ちを繰り返さないということを誓って国際社会に復帰できたわけでございますから、そうした事実は厳然とした事実として受けとめなければならないであろう、このように思っているところでございます」
(5)1993(平成5)年11月9日、内閣委員会
○丹波實条約局長「いろんな御意見、説がございますけれども、当時日本国として独立を回復し、戦後の国際社会に復帰するためのサンフランシスコ平和条約としては、それはそれでやむを得なかった措置だった、こういうふうに考えざるを得ないのであります」
○武村正義官房長官「サンフランシスコ平和条約によってあの裁判の結果を受諾したということを政府として公式に表明をしているわけであります。そのことの重みを日本の国としては軽視するわけにはいかないということも事実でございまして、政府としては一貫したこの認識を変えることはできないのであります」
10 (6)1994(平成6)年6月8日、予算委員会
○江藤隆美「昭和26年、西村条約局長は何と答えていますか。あれは判決を受諾したのである、判決を。だから、サンフランシスコ条約が発効すれば今の戦犯も全部釈放される、全部無罪になる、そして係争中の、裁判中のものも全部釈放しなきゃならぬから、その規定を定めたのがあの第十一条でしょう」
 丹波實条約局長「英語では「ジャッジメント」こうなっておりますけれども、要するにこの議論をされる方は、まさに今先生おっしゃったとおり、「判決を受諾し」といって、その本当に狭いところを受諾しているはずなのに、この日本語は裁判として全体に網をかぶせて、それを受諾している、それはやはりおかしいんじゃないかという御議論でございますけれども、しかし東京裁判の判決を読みますと、裁判というのは、実は裁判長は、これからジャッジメントを自分は読むと言って、そのジャッジメントが全体をかぶせて言っているものですから、包括的にここでは「裁判を受諾し」という考え方が私は正しいと思っておりまして、日本政府はずうっと、自民党政権時代も私たち政府はそういう説明をいたしておりまして・・・」
11 (7)1994(平成6)年6月13日、予算委員会
○丹波實条約局長「「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに」としてその他の裁判が書かれておりますが、「の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする」というのが一番主要な条項でございます」
○上田耕一郎「丹波局長は、6月8日、衆議院予算委員会で、これは戦後国際社会に復帰していくための一つのやむを得ない受諾だったと、私もいろいろな気持ちを実は持っております、などと言っている。しかし、宇野首相は、89年、このサンフランシスコ平和会議で私たちは極東軍事裁判の結果をすべて受諾した、こうも答えたんですね。はっきりすべて受諾している。首相、侵略戦争と明確に起訴状にも判決にも書いてある。この侵略戦争という判決を首相は受諾しているでしょうね」
○羽田孜首相「これは間違いなく受諾をいたしております」
12 (8)1995(平成7)年3月2日、予算委員会
○上田耕一郎「極東軍事裁判の判決です。これは、「日本が」「開始したイギリス、アメリカ合衆国及びオランダに対する攻撃は、侵略戦争であった。これらは挑発を受けない攻撃であり、その動機はこれらの諸国の領土を占拠しようとする欲望であった。サンフランシスコ条約十一条でこの侵略戦争という判決を受諾したんでしょう。どうですか」
○折田正樹条約局長「判決は、七カ国に侵略戦争が行われたものと認定して二十五名の被告を有罪としているわけでございます。平和条約の第十一条によりまして、日本政府はこの裁判をそういう内容のものとして受けとめ、受諾したものでございます。裁判を受諾した以上、法的、歴史的に種々御議論はございますが、この裁判について日本国として連合国に異議を申し立てることはできないというのが政府の立場でございます」
○村山富市首相「侵略行為や植民地支配などがアジア近隣諸国等の多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたと考えておりますから、これに対する深い反省の気持ちに立って、そして不戦の決意のもと世界平和の創造に向かってやっていくことがこの国家、内閣に課せられた課題である、国民に課せられた課題だ・・・と申し上げているわけです」
13 (9)1998(平成10)年3月25日、予算委員会
○竹内行夫条約局長「この極東国際軍事裁判所の裁判を例にとりますと、裁判の内容、すなわちジャッジメントは三部から構成されておりまして、この中に裁判所の設立及び審理、法─法律でございますけれども、侵略とか起訴状の訴因についての認定、それから判定、これはバーディクトという言葉を使っておりますけれども、及び刑の宣言、センテンスという言葉でございますけれども、こういうことが書かれておりまして、裁判という場合にはこのすべてを包含しております。
 平和条約第十一条の受諾というものが、単に刑の言い渡し、センテンスだけを受諾したものではない、そういう主張には根拠がなかろうと言わざるを得ないというのが従来政府から申し上げているところでございます」
14 (10)1998(平成10)年4月7日、総務委員会
○長嶺安政条約局法規課長「平和条約第十一条におきましては、まずその前段におきまして、日本国が極東国際軍事裁判所等の裁判を受諾することを規定しております。
 同条後段におきましては、右前段の規定を前提といたしまして、日本国において拘禁されている戦争犯罪人につきまして日本が判決の執行の任に当たること、恩赦、釈放、減刑などに関する事項は日本政府の勧告に応じて判決を下した連合国政府においてこれを行うこと、極東国際軍事裁判所の下した判決につきましては連合国の過半数によって決定するとの具体的な義務を課したものでございます」
○村岡兼造官房長官「歴史についての政府の考え方は、我が国が過去の一時期に植民地支配と侵略により多くの国々とりわけアジア諸国の人々に対し、多大の損害と苦痛を与えた事実を謙虚に受けとめ、これらに対する深い反省とおわびの気持ちに立って世界の平和と繁栄に向かって力を尽くすということで、橋本総理も同様の考えでございます」
15 (11)2005(平成17)年6月2日、予算委員会
○岡田克也民主党代表「総理は極東軍事裁判、いわゆる東京裁判、これについてどういった見解をお持ちでしょうか」
○小泉純一郎首相「これは第二次世界大戦後、極東軍事裁判が行われましたけれども、我が国は我が国を含む46カ国が締約国となっておりますサンフランシスコ平和条約第11条により、極東国際軍事裁判所、この裁判を受諾しておりますし、この裁判について今我々がとやかく言うべきものではないと思っております」
○岡田克也民主党代表「(極東軍事裁判において有罪判決を受けた)25名の人たち、重大な戦争犯罪を犯した人たちであるという認識はありますか」
○小泉純一郎首相「東京裁判において戦争犯罪人と指定されたわけであり、その点は日本としては受諾しているわけであります」
○岡田克也民主党代表「A級戦犯については、重大な戦争犯罪を犯した人たちであるという認識はあるということですね」
○小泉純一郎首相は「裁判を受諾している。二度と我々は戦争を犯してはならない、戦争犯罪人であるという認識をしているわけであります」
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194812月23日、東京裁判で、判決が下されました(●は靖国神社に合祀されたA級戦犯)
    氏名 経歴 判決 その後
東条英機 首相・陸相・参謀総長・陸軍大将 絞首刑 執行
広田弘毅 首相・外相・駐ソ大使 絞首刑 執行
松井石根 上海派件軍司令官・シナ派遣軍司令官・陸軍大将 絞首刑 執行
土肥原賢二 奉天特務機関長・陸軍大将 絞首刑 執行
板垣征四郎 陸相・満州事変・第七方面軍司令官・陸軍大将 絞首刑 執行
木村兵太郎 陸軍次官・ビルマ方面軍司令官・陸軍大将 絞首刑 執行
武藤章 陸軍省軍務局長・第十四方面軍参謀長・陸軍中将 絞首刑 執行
  木戸幸一 首相・内相 終身禁固 病気出獄
平沼騏一郎 首相・枢密院議長 終身禁固 病気出獄
10   賀屋興宣 蔵相 終身禁固 法相
11   嶋田繁太郎 海相・連合艦隊参謀長・軍令部長・海軍大将 終身禁固 仮釈放
12 白鳥敏夫 駐伊大使 終身禁固 獄死
13   大島浩 駐独大使・陸軍中将 終身禁固 減刑出獄
14   星野直樹 企画院総裁 終身禁固 社長
15   荒木貞夫 陸相・陸軍大将 終身禁固 仮釈放
16 小磯国昭 首相・軍務局長・関東軍参謀長・陸軍大将 終身禁固 獄死
17   畑俊六 陸相・中支那派遣軍最高指揮官・陸軍大将 終身禁固 会長
18 梅津美治郎 陸軍次官、関東軍司令官・参謀総長・陸軍大将 終身禁固 獄死
19   南次郎 陸相・関東軍司令官・陸軍大将 終身禁固 出獄
20   鈴木貞一 企画院総長・陸軍中将 終身禁固 仮釈放
21   佐藤賢了 軍務局長・陸軍中将 終身禁固 釈放
22   橋本欣五郎 桜会の中心人物・陸軍大佐 終身禁固 仮釈放
23   岡敬純 軍務局長・海軍次官・海軍中将 終身禁固 釈放
24 東郷茂徳 外相・駐ソ大使・駐独大使 禁固20年 獄死
25   重光葵 外相・外務次官・駐ソ大使 禁固7年 外相
●松岡洋右(外相)・●永野修身(海相・軍令部総長)は裁判中病死、大川周明は発狂で免訴
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A級戦犯と指定されながら裁判を免れた人です
青木一男 不起訴により釈放 安倍源基 不起訴により釈放
天羽英二 不起訴により釈放 安藤紀三郎 不起訴により釈放
石原広一郎 不起訴により釈放 岩村通世 不起訴により釈放
岸信介 不起訴により釈放 葛生能世 不起訴により釈放
小泉親彦 自殺 児玉誉士夫 不起訴により釈放
後藤文夫 不起訴により釈放 近衛文麿 自殺
笹川良一 不起訴により釈放 正力松太郎 不起訴により釈放
須磨弥吉郎 不起訴により釈放 高橋三吉 不起訴により釈放
多田駿 不起訴により釈放 谷正之 不起訴により釈放
寺島健 不起訴により釈放 徳富蘇峰 不起訴により自宅拘禁解除
梨本宮守正王 不起訴により釈放 西尾寿造 不起訴により釈放
橋田邦彦 自殺 本庄繁 自殺
本多熊太郎 不起訴により釈放 真崎甚三郎 不起訴により釈放
18  TV番組で、東京裁判に関して発言する人が多くなりましたが、明らかに間違っていることがあります。
それは、公職追放の項目がA項からG項まで分類されています。それを「A級戦犯というのは間違いでA項といわなくてはいけない」と発言していることです。
(1)A項は戦犯3422人、B項は職業軍人12万2235人、C項は団体役員3064人、D項翼賛会関係3万4396人、E項海外開発機関488人、F項占領地行政長官89人、G項その他の軍国主義者・国家主義者です。G項の内訳は、大臣・官吏145人・特高警察319人・言論報道831人・その他在郷軍人会などです。
(2)戦犯の種類は、以下の通りです。
 1945年8月8日、英・米・仏・ソは、国際軍事裁判所憲章に調印しました。
 @その6条a項の「平和に対する罪」を犯した侵略戦争計画者をA級といいます。A級戦犯は約200人が逮捕されました。
 Aその6条b項の「通例の戦争犯罪」行為の責任者をB級といいます。
 Bその6条b項の「人道に対する罪」行為の実行者をC級といいます。
 B・C級戦犯は約5416人が逮捕され、937人が死刑となりました(ソ連・中国地区は除く)。
19  以前、『私は貝になりたい』というTVドラマを見たことがあります。主演はフランキー堺さんでした。ハサミしか持ったことがない散髪屋さんが、徴兵され、上官の命令で、アメリカ兵捕虜を銃剣で殺害しようとしましたが、結局、怪我を負わせただけで、上官に殴り倒されます。終戦後、散髪屋さんに戻って仕事をしていると、MPがやってきて、裁判になります。「上官の命令を拒否しなかったことは、殺害する意思があった」とされて、死刑が判決されます。
 十三階段を上がる途中で、フランキー堺さんは「どうしても生まれ代わらなければならないのなら、兵隊にとられることもない、戦争もない、深い海の底の貝にでも、そうだ私は貝になりたい!」という場面が、今も脳裏に焼きついています。
 後で調べてみると、放送は1958(昭和33)年で、加藤哲太郎著『狂える戦犯死刑囚』を橋本忍さんが脚本、岡本愛彦さんが演出したということが分かりました。後に、所ジョージさんが散髪屋さんをしましたが、さっぱりでした。これはC級戦犯を裁いた東京裁判でした。
20  この項の締めくくりの文章を書いているのが2006年5月3日(水)です。東京裁判が開廷してから、ちょうど60年目にあたります。昨日(5月2日)の朝日新聞の社説です。
 「東京裁判に批判があるのは事実だ。後からつくられた「平和に対する罪」や「人道に対する罪」で裁くのはおかしいという指摘がある。原爆投下など連合国側の行為は問われず、判事団は連合国側だけで構成された。被告の選定基準はあいまいで恣意的だった。
 一方、評価もある。日本軍による虐殺や関東軍の謀略などが裁判で初めて明るみに出た。ナチスを裁いたニュルンベルク裁判とともに、戦争というものを裁く国際法の流れの先駆けともなった。
 はっきりしているのは、政治の場で裁判の正当性を問い、決着を蒸し返すことの現実感のなさである。
 あの裁判は、戦後日本にとって二つの意味で線を引く政治決着だった。
 国際的には、51年のサンフランシスコ平和条約で日本は東京裁判を受諾し、国際社会に復帰を果たした。平和条約は締約国の対日賠償を基本的に放棄することもうたい、それとセットで日本は連合国側の戦後処理を受け入れたのだ。
 国内的には、A級戦犯に戦争責任を負わせることで、他の人を免責した。その中には、昭和天皇も含まれていた。
 裁判は不当だという立場を貫くなら、あの戦後処理をやり直せと主張するに等しい。講和を再交渉し、米国をはじめ世界の国々との関係も土台から作り直す。そして戦争犯罪は自らの手で裁き直す。
 言葉をもてあそび、現実の政治と混同するのは責任ある政治家の態度とは思えない。裁判を否定したところで、日本の過去が免責されるわけでもない」。
 私たちは二度と戦争をしないことを世界に誓いました。その原点に帰りたい。
21  神戸新聞の正平調

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