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エピソード

267_01

戦前の教育制度
 ここでは、1937(昭和12)年〜1845(昭和20)年8月までの教育制度・内容を取り扱います。
 「今の若者はなっていない」とか「教育基本法で育ったヤングママの子育ては犯罪者を育てた」・「教育勅語が方がよかった」という言葉がよく聞かれます。
 ここでは、教育勅語下の教育制度・内容を検証します。
 1937(昭和12)年6月4日、@34近衛文麿内閣が誕生しました。
 7月15日、文相の安井英二は、宗教・教化団体代表者に、挙国一致運動を要望しました。
 8月17日、宗教局長は、国民精神総動員につき、宗教家の奮起を促しました。
 8月24日、近衛内閣は、国民精神総動員実施要綱を決定しました。
 10月1日、近衛内閣は小冊子「我々は何をなすべきか」を1300万部を全国各戸に配布しました。
 10月1日、近衛内閣は、朝鮮人に「皇国臣民の誓詞」を配布しました。
 10月7日、東京の仏教護国団は、日比谷で報告大会を開催しました。
 1938(昭和13)年2月15日、警視庁は盛り場でサボ学生狩りを実施し、3日間で3486人を検挙し、宮城遥拝後、釈放しました。
 3月30日、文部省は、神道・儒教・仏教の代表と国民精神総動員などを協議しました。
 1939(昭和14)年1月5日、@35平沼騏一郎内閣(司法官僚)が誕生しました。
 1月28日、帝大総長の平賀譲は、経済学部の河合栄治郎教授・土方成美教授の休職処分を文相の荒木貞夫に上申しました。これを平賀粛学といいます。河合・土方教授が休職となりました。
 3月15日、各地の招魂社を護国神社と改称し、神饌幣帛供進の制を定めました。
 3月30日、大学でも軍事教練が必修となりました。
 5月11日、ノモンハン事件が発生しました。
 5月29日、文部省は、小学校6・6年と高等科の男児に武道(柔道・剣道)を必修としました。
 6月16日、国民精神総動員委員会は、学生の長髪禁止・パーマネント廃止などを決定しました。
 7月8日、国家総動員法に基づき、国民徴用令が勅令により公布されました。
 8月16日、文部省は、学生の運動競技を休日・土曜午後以外禁止と通牒しました。
 8月23日、モスクワで、独ソ不可侵条約が調印されました。
 8月30日、@36阿部信行内閣(陸軍軍事参議官・予備役)が誕生しました。
 9月3日、第二次世界大戦が始まりました。
 10月1日、厚生省は体力章検定を実施し15歳以上男子に義務化し、初〜上級を判定しました。
 12月26日、朝鮮総督府は、朝鮮人の氏名に関する件を公布し、創氏改名を強制しました。
 1940(昭和15)年1月16日、@37米内光政内閣(海軍大将)が誕生しました。
 3月28日、内務省は、ミス=ワカナディック=ミネ藤原釜足ら16人に改名を指示しました。
 7月22日、@38第2次近衛文麿内閣が誕生しました。
 7月26日、近衛内閣は、閣議で、「基本国策要綱」を決定しました。
 8月1日、国民精神総動員本部は、「贅沢品は敵だ!」の立看板を配置しました。そして、このスロ−ガンの下に生活の切りつめを強要し、国民服もんぺを奨励しました。
 8月30日、文部省は学生生徒の映画・演劇観覧を土曜・休日に限ると学校長に厳達しました。
 9月23日、日本軍は、北部仏印に進駐しました。
 9月27日、ベルリンで、日独伊三国同盟が調印されました。
 10月31日、英語使用について、たばこのバットを金鵄に、チェリーを桜に改名しました。
 11月2日、大日本帝国国民服令が勅令により公布されました。
 11月3日、厚生省は、10人以上の子を持つ親1万336人を優良多子家庭として表彰しました。
 1941(昭和16)年1月8日、陸相の東条英機は、戦陣訓を示達しました。
 2月26日、情報局は、矢内原忠雄田中耕太郎横田喜三郎らを出筆禁止者としました。
 3月1日、小学校を国民学校令と改称し、教科を国民科・理数科・体練科・芸能科に統合しました。
 3月10日、改正治安維持法を公布し、予防拘禁制を追加しました。
 3月26日、台湾教育令により、国民学校に一本化されました。
 3月31日、朝鮮総督府は、国民学校規定を公布し、朝鮮語の学習を廃止しました。 
 4月4日、近衛内閣は、閣議で、植民地・占領地への教員の大量派遣を決定しました。
 4月上旬、中等学校の新入生の制服が制定され、男子は国民服に戦闘帽となりました。
 4月13日、モスクワで、日ソ中立条約を調印しました。
 7月18日、@39第3次近衛文麿内閣が誕生しました。
 7月25日、アメリカは、在米日本資産を凍結しました。
 7月28日、日本軍は、南部仏印に進駐しました。
 8月1日、アメリカは、日本に対する石油輸出を全て停止しました。
 9月6日、御前会議は、「帝国国策遂行要領」を決定しました。
 10月18日、@40東条英機内閣が誕生しました。
 11月5日、御前会議は、対米交渉の甲案乙案と「帝国国策遂行要領」を決定しました。
 11月22日、国民勤労報国協力令により、14歳以上男女の勤労奉仕が義務化されました。
 12月8日3時、日本の機動部隊はハワイの真珠湾を空襲し、アメリカ戦艦の主力を撃破しました。
 1942(昭和17)年1月24日、文部省は、中等学校の教員に学寮制で練成を行いました。
 5月21日、津田左右吉は禁固3ケ月、岩波茂雄は禁固2ケ月、執行猶予2年の判決が出ました。
 6月5日、ミッドウェー海戦で、日本軍は空母4隻を失い、戦局の転機となりました。
 7月8日、文部省は、高等女学校の英語を随意科目とし、週3時間以内とすると通牒しました。
 7月12日、朝日新聞社は、全国中等学校野球大会中止を発表しました。
 9月15日、警視庁は不良少年の一斉検挙で、2万2000人を取り調べ、1857人を送致しました。
 9月16日、日本に滞留の宣教使を抑留所に強制収用しました。
 10月1日、朝鮮総督府は、朝鮮青年特別練成令を制定しました。
 1943(昭和18)年1月13日、情報局はジャズなどアメリカ音楽1000種を禁止しました。
 1月21日、中等学校令改正により、修業年限を1年短縮し、教科書を国定化しました。
 2月7日、ガダルカナル島1万1000人の撤退が完了しました。
 2月14日、大日本国仏教会は、京都知恩院で聖旨奉戴護国法要を行いました。
 2月、英米語の雑誌名を付けた雑誌が禁止されました。サンデー毎日は週刊毎日、エコノミストは経済毎日、キングは富士、オール読物は文芸読物と改題させられました。
 4月15日、日本基督教団は、聖旨奉戴基督教大会を開きました。
 4月28日、東京大学野球連盟は、解散を決定しました。
 6月20日、創価教育学会が弾圧され、牧口常三郎戸田城聖ら幹部が検挙されました。
 6月25日、東条内閣は、本土防衛のため軍事訓練と勤労動員を徹底しました。
 8月20日、東条内閣は、「大学の科学研究は戦争を唯一絶対の目標とする」と規定しました。
 8月31日、文化学院校主の西村伊作が検挙されて、文化学院が強制的に閉鎖されました。
 9月8日、イタリアが無条件降伏しました。
 9月23日、東条内閣は、理髪師など17職種の男子就業を禁止し、14歳以上の女子を勤労挺身隊として動員することにしました。
 9月24日、文部省は、学徒体育大会を一切禁止しました。
 10月2日、在学徴集延期臨時特例により、学生・生徒の徴兵猶予が全面的に停止されました。
 10月2日、文部省に国史編修準備委員会が勅令により設置されました。
 10月12日、東条内閣は、「教育ニ関スル戦時非常措置方策」を決定し、理工科系・教員養成系以外の徴兵猶予を停止し、学生の勤労動員を年間3分の1実施することを決めました。
 10月21日、文部省は徴兵延期停止により出陣する学徒壮行大会を神宮外苑で挙行しました。
 11月5日、大東亜会議が開催されました。
 11月27日、ルーズベルトチャーチル蒋介石は、カイロ宣言に署名しました。
 11月28日、ルーズベルト・チャーチル・スターリンは、テヘラン宣言を発表しました。
 12月1日、第1回学徒兵が入隊しました。これを学徒出陣といいます。
 12月10日、文部省は、学童の縁故疎開促進を発表しました。
10  1944(昭和19)年2月16日、勤労動員のために義務教育の年限を満12歳に引下げました。
 2月17日、文部省は、徴兵による教員の不足のため、軍人・官吏などを無試験で教員としました。
 2月23日、文部省は戦時下の食料の国内自給に即応すべく学徒500万人動員を計画しました。
 3月7日、東条英機内閣は学徒動員実施要綱を閣議で決定しました。
 3月8日、日本軍は、インパール作戦を開始しました。
 4月1日、国民学校学童に1食7勺の給食となりました。
 5月、勝ち抜くため南瓜をつくりましょう」と女子大生の宣伝挺身隊が都内で呼びかけました。
 6月13日、城戸幡太郎留岡清男らが検挙され、民間教育運動は壊滅しました。
 6月30日、東条内閣は、閣議で、国民学校初等科児童の集団疎開を決定しました。
11  7月7日、サイパン島の日本守備隊3万人が玉砕しました。住民1万人が死亡しました。
 7月22日、@41小磯国昭内閣が誕生しました。
 8月4日、学童集団疎開第1陣が上野駅を出発しました。
 8月23日、女子挺身勤労令が勅令で公布されました。
 8月23日、学徒勤労令により、中学生以上全学生の工場配置が強行されました。
 9月1日、国民学校学童にパン食のみとなりました。 
 10月16日、陸軍特別志願兵令改正により、17歳未満の者の志願を許可しました。
 10月18日、陸軍省は、兵役法施行規則改正を公布し、17歳以上を兵役に編入しました。
12  1945(昭和20)年1月9日、アメリカ軍は、ルソン島に上陸しました。
 2月4日、ルーズベルトチャーチルスターリンは、ヤルタ協定を発表しました。
 3月6日、国民勤労動員令により、女子挺身隊も国民義勇隊に再編成されました。
 3月9日、B29は、東京を大空襲しました。江東地区23万戸焼失し、死傷者は12万人に達しました。
 3月18日、決戦教育措置要綱により、初等科以外の授業を4月から1年間停止されました。
 4月1日、アメリカ軍は、沖縄本島に上陸しました。
13  4月7日、@42鈴木貫太郎内閣が誕生しました。
 5月6日、ドイツ軍は、連合国に無条件降伏をしました。
 6月6日、天皇臨席の最高戦争指導会議は、「本土決戦方針」を決定しました。
 6月18日、負傷兵看護に従事の師範女子部・第一高女のひめゆり部隊49人が集団戦死しました。
 6月23日、師範女子部・第一高女のひめゆり部隊多数が自害しました。
 6月23日、15〜60歳以下の男子と17〜40歳以下の女子が国民義勇戦闘隊に編成されました。
 7月26日、トルーマン・チャーチル・スターリンは、対日ポツダム宣言を発表しました。
 7月28日、鈴木首相は、記者団に対しポツダム宣言黙殺・戦争邁進と談話しました。
14  8月6日、B29は、広島に原子爆弾を投下しました。死者は20数万人といわれます。
 8月8日、ソ連は、日本に宣戦を布告し、北満州・朝鮮・樺太に進攻を開始しました。
 8月9日、B29は、長崎に原子爆弾を投下しました。
 8月15日、日本は、無条件降伏・ポツダム宣言受諾を発表し、第2次世界大戦が終了しました。
 8月17日、@43東久邇宮稔彦内閣が誕生しました。
 8月28日、東久邇宮首相は、初の記者会見で、国体護持全国民総懺悔を強調しました。
 8月30日、連合軍最高司令官SCAPマッカーサーが厚木飛行場に到着しました。
 8月下旬、米軍進駐をひかえ、女学校では休校が指示されました。
25  印は学問・思想・宗教など心に関する項目です。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
教育勅語と戦前の教育
 年表のを見て、戦前の窒息しそうな生活が浮かんできます。「教え子を戦場におくった」という先生の気持ちがよく伝わってきます。
 青山学院高等部は、2005年2月の入学試験の英語で、元ひめゆり学徒の証言について、沖縄を訪れた生徒が「退屈で飽きてしまった」と語る内容の英文を出題していたことが判明しました(時事通信)。
 6月10日、青山学院高等部のホームページ上で、大村修文部長は次のような文章を掲載しました。
「お詫び 青山学院高等部の2005年度入試英語試験問題の出題内容について
 2005年度の青山学院高等部一般入試英語試験問題におきまして、大変不適切な表現があり、元ひめゆり学徒の方々はもとより、沖縄の方々のお気持ち、また全国の皆様のお心を傷つける部分がありましたことを、心よりお詫び申し上げます」。
 青山学院高等部の説明によると、英文は英語科教諭が生徒の感想文という形式にして作成したものです。内容は、防空壕に入った後、ひめゆり学徒隊の女性から体験談を聞いて「退屈で飽きた。彼女が話せば話すほど、私は防空壕で受けた強い印象を失った」と感じ、「いろんな場所で証言をしてきて、話し上手になっていた」と生徒が感じたというものでした。
 これが様々の議論を呼びました。
 私は、この項を書いている段階(2006年5月)では、英文の原文は削除されており、手に入れることができませんでした。ただ最も表現として大切な英文は入手できました。
「To tell you the truth, it was boring for me and I got tired of her story」(朝日新聞は「本当のことを言うと、彼女の話は少々退屈で、私は飽きてきてしまった」と訳しています。)
 boring forr meとは「私には退屈である」という意味で、got tired ofとは「〜に飽きる」という意味です。
 次に、英文は手に入りませんでしたが、和訳は入手できました。
 「はじめは都会から来た子供等にはちょうどいい遊び場のように見えた防空壕で騒いでいた」「この中でキャンプしたら面白いねという子」「滑って転んで爆笑を誘う子」という表現から、沖縄戦やひめゆり部隊の話を事前指導で教わったのかな、印象を持ちました。遊びに行くなら、プレイランドに行ったらどうですか。
 次の英文で紹介した箇所です。その続きには、「彼女が話せば話すほどに壕で受けた強い印象は薄れていった」。そして、作者は、結論として、「言葉の持つ力は強い。でも問題はどのようにそれを受けてが理解するかである。もし聞き手が話し手の思想を理解しなければよい話もただの言葉の羅列になってしまう」と語りかける。素晴らしい評論でした。おっと待てよ、これは、青山学院高等部の中間・期末考査でなく、不特定多数を相手にしている入試問題だろう。
 そこで、入試問題の回答がどうあったのか調べてみました。ありました。
7. Why didn't the writer like the story told at the Himeyuri Memorial Park?
A. Because he already knew the whole story.
B. Because he knew it was a lie.
C. Because he thought the old lady treated him like a child.
D. Because he didn't like her way of telling the story.
 設問は「なぜ、筆者は、ひめゆり記念公園で話された話が気に入りなかったのですか」という質問に、青山学院高等部のホームページ解説サイトにはDでした。Dの和訳は「彼は彼女の話し方が気に入らなかったから」です。
 これに対して、コラムニストの勝谷誠彦氏は2005年6月14日には「早速土下座使節を送った青学の阿呆どもの写真を一面に載せて大はしゃぎの琉球新報を見ればよくわかるというものだ」「今回の件について・・・沖縄の人々からの声だ。沖縄の悲劇を語り継ぐことの尊さはもちろん認めながらもそれをイデオロギーや金に代える連中のせいでどれほど沖縄が新たな蔑視を受けているかを縷々とつづられたものが目立った」と反応しています。
 6月15日には『ひめゆり騒ぎの記者は息子が青学落ちたんじゃねえか』と題して、「「リアリティから目をそらさず物語を疑うこの思考方法こそがまさに欧米人のそれだからだ。おそらくこの文章はひめゆり商売の連中の最も痛いところを突いたのだろう。・・・戦争を知らずして平和は語れない」のである。だから子どもたちには駐屯地で武器を触らせるべきであり日本軍がいかに闘って死んでいったかを教えるべきなのだ」と入試問題の筆者を激賞し、平和運動を食い物にしていると語り部を揶揄しています。
 そして入試問題の筆者を「ひめゆりの語り部の物語に”モノとしての戦争と反戦”を感じているのである。そこから話をさらに支那の反日に持っていくあたりはいささかあざといほど見事な文章である」。
 最近、保守思想について面白い発言はありました。「反共(反左翼・反リベラル)を旗幟によって、保守陣営は辛うじて纏まりを保ってきたのである」(宮崎哲弥氏)、「戦後生まれの保守は、サヨク批判するしかできない。ナショナリズムともいえますが、不安を抱えた人びとが群れ集うポピュラリズムだと考えた方が適切だと思います」(小熊英二氏)。
 勝谷氏は、そういう潮流にのってマス=コミに登場してきました。青山学院の問題は、評論家の問題でなく、入試問題として適切かどうかの問題です。それを、反共という同類項で結んで、この記事を書いた琉球新報の記者のことを、「息子が青学落ちたんじゃねえか」と悪態ついています。私は、事実を冷静にコラム(かこみの欄)記者がTVに出まくって、暴言をはき、それに拍手を送る時代がどんな社会だったかを記憶しておきたいと思います。
 私も高校に勤務していました。兵庫県一斉の入試問題は、一般の教諭には手の届かない所で作成されます。しかし、推薦問題は、その高校独自で作成します。私が関わった事実を書きますと、推薦問題作成委員が集まって、どの問題をどう扱うかなど、5回以上検討します。その後、検討委員会で再度審議し、その結果、兵庫県に上申します。問題が指摘されれば、訂正し、最後の審議をして、県に提出します。中学3年生の入試として適切か不適切かは、最低、3回チェックされます。
 私は、問題といい、解答といい、「予断と偏見がが入っている」と断定します。
 青山学院高等部でも当然行われたと思います。勝谷氏は、中学3年生の入試として適切か不適切かは論外としています。誰もチェックしていなかれば、学校側に問題があり、中学3年生の入試として適切か不適切かを考慮しなかった出題教諭に問題があります。
 いずれ、ひめゆり部隊の話は項を改めて紹介します。
 純粋に高校の入試問題ととらえた人の感想です。誰でも普通はそうですよ、勝谷さん。
(1)吉村作治氏は「考古学者のひとりごと」で、 ひめゆり入試問題を取り上げています。
 「本当に悲しいことです。そんなことを言う生徒も許せませんが、それをさとす先生がいない、それを印刷して外部に出す神経、そしてそれを入試問題にする学校の見識、それをチェックしない学校責任者、全てが現代社会のひずみを端的に示しています」
(2)お年寄りは同じ話を繰り返します。それは確かですが、本質はそこじゃないでしょう。どう思おうとそれは話を聞いた人の勝手ですが、入試問題にそれをそのまま書くとは恐れ入ります。
 それにこの教師が問題を作成したとしても、誰かがチェックするんじゃないんですか?誰もこの問題をおかしいとは感じなかったんでしょうか?
(3)筆者の意図は「平和に対する観念のマンネリ化を予測し警鐘を鳴らすこと」であっても、試験問題としては妥当ではないと思います。
 この戦前の規範を律したのが教育勅語と戦陣訓だと思っています。
(1)教育勅語は、「国や天皇のために奉公する」という言葉です。これが、だんだんエスカレートして、天皇のために死に、靖国神社に祭られることを名誉だと教えられ、他国に侵略し、多数のアジア人を殺害したのです。
(2)戦陣訓は、日本の伝統的で非近代的な戦法である銃剣突撃を貫徹させるために、降伏して人命を守るという退路を防ぐために考案されて、世界でも類のない非人道的な軍人の聖書でした。
(1)戦前の教育の基本とされた教育勅語(1890年)の史料です。
「朕惟ふに我皇祖皇宗を肇むること宏遠に徳を樹つること深更なり我か臣民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世々厥の美を済せるは此れ我か国体の精華にして教育の淵源亦実に此に存す爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信し恭倹己れを持し博愛衆に及ほし学を修め業を習ひ以て知能を啓発し徳器を成就し進て公益を広め世務を開き常に国憲を重し国法に遵ひ一旦緩急あれは義勇公に奉し以て天壌無窮の皇運を扶翼すへし是の如きは独り朕か、忠良の臣民たるのみならず又以て爾祖先の遺風の顕彰するに足らん
 斯の道は実に我か皇租皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶に遵守すへき所之を古今に通して膠らす之を中外に施して悖らす朕爾臣民と倶に拳々服膺して咸其徳を一にせんことを庶幾ふ」
 *解説(クリスチャンの内村鑑三が一高教師を辞職に追い込まれたり、美濃部達吉の天皇機関説が糾弾され、その後言論弾圧にのきっかけになったのが国体の精華でした。また、日本が朝鮮・中国に侵略していった時に、利用されたのが一旦緩急あれは義勇公に奉し以て天壌無窮の皇運を扶翼すへしでした。)
 次は陸相の東条英機が1941年1月8日に出した戦陣訓です。東条英機はじめ戦争指導者に贈りたい言葉です。史料←全文戦陣訓はここをクリック
  第八 名を惜しむ
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面白を思ひ愈々奮励して其の期待に答ふべし。
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ
  第九 質実剛健
質実以て陣中の起居を律し、剛健なる士風を作興し、旺盛なる志気を振起すべし。
陣中の生活は簡素ならざるべからず。不自由は常なるを思ひ、毎事節約に努むべし。奢侈は勇猛の精神を触むものなり。
  第十 清廉潔白
清廉潔白は、武人気節の由つて立つ所なり。己に克つこと能はずして物欲に捉はるる者、争でか皇国に身命を捧ぐるを得ん。
身を持するに冷厳なれ。事に処するに公正なれ。行ひて俯仰天地に愧ぢざるべし。
10  参考資料として、1882(明治15)年1月4日に明治天皇が出した軍人勅諭を掲載します。軍人は暗記させられ、すらすら言えないと殴られたといいます。史料←全文戦陣訓はここをクリック
 「我か国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある
 昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中国のまつろはぬものともを討ち平け高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ(中略)
 朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭すへき事こそあれいてや之を左に述へむ
一 軍人は忠節を尽すを本分とすへし
一 軍人は礼儀を正くすへし
一 軍人は武勇を尚ふへし
一 軍人は信義を重んすへし
一 軍人は質素を旨とすへし
 汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ国に報ゆるの務を尽さは日本国の蒼生挙りて之を悦ひなん朕一人の懌のみならんや」

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