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エピソード

267_02

教育制度(教育基本法、学校教育法、教育委員会)
 戦前に教育を受けた人は、教育勅語で学び、戦後教育を受けた人は教育基本法で学んでいます。
 確かに、今の若者は、ひどい状況です。私があることを依頼しても、「出来ますよ」と簡単に答えます。しかしいくら待ったも返事がありません。つまりキャッチボールが出来ないのです。仕方なく、「例の件、どうなった」と尋ねると、「あー、あれね、出来ませんでした」とのたまう。
 パラサイト(寄生虫)といって、働かず、親と同居し、親の言いなりになる若者が増えています。私の場合も、妻の場合も、息子や娘も「親との同居」より「親からの自立」を当然視しています。
 電車の中の態度や携帯電話などのマナーが悪いと指摘する人がいます。
 もっと悪いのは、平気で人の物を盗み、怪我をさせ、殺人に走る若者が多くなったことです。
 これを、教育基本法のせいにする人が増えてきました。戦前の教育勅語の方が良かったかという人も増えてきました。今回はそこらあたりを探ってみたいと思います。
 1945(昭和20)年9月2日、日本全権の重光葵梅津美治郎は、米艦ミズーリ号上で降伏文書に調印しました。
 9月11日、GHQは、東条英機ら39人の戦争犯罪人の逮捕を命令しました。
 9月14日、元文相の橋田邦彦が自決しました。
 9月15日、▲『日米会話手帳』(誠文堂新光社)が360万部の大ベストセラーになりました。
 9月15日、文部省は、国体護持・平和国家建設・科学的思考力の養成を強調しました。
 9月20日、▼文部省は、中等学校以下の教科書より戦時教材を省略・削除するよう通牒しました。
 9月26日、三木清(49歳)は、豊多摩刑務所で獄死しました。
 10月4日、▼GHQは、「政治的、公民的および宗教の自由に対する制限の除去に関する」という総司令部覚書を発しました。この覚書では、天皇に関する自由討議、政治犯釈放、思想警察の全廃、内相・特高警察全員の罷免が指令されました。
 10月上旬、▼東京帝大教授で皇国史観の泰斗である平泉澄が辞表を提出しました。
 10月9日、@44幣原喜重郎内閣が誕生しました。
 10月10日、▲政治犯3000人が釈放されました。
 10月11日、▲マッカーサーは、幣原首相に対して、学校教育の自由主義化など5大改革の指示をしました。これは、侵略戦争の背景となった教育制度の改革などを求めたものでした。
 10月12日、▼幣原内閣はGHQの指令を実行するため、閣議で治安維持法の廃止を決定しました。
 10月13日、▼政府は、国防保安法・軍機保護法・言論出版集会結社等臨時取締法など廃止の件を公布しました。
 10月15日、▼治安維持法・思想犯保護観察法など廃止の件が公布されました。
 10月15日、▲文部省は、私立学校における宗教教育を認め、キリスト教教育を容認しました。
 10月22日、GHQは、「教育制度運営の基本方針に関する総司令部覚書」を政府に指令しました。その内容は、▼軍国主義的・超国家主義的教育を排除して、▲自由主義的・民主主義的教育体制を樹立するというものでした。
 10月30日、▼GHQは、軍国主義者および極端な国家主義者を日本の教育界から即座に追放すること、また復員将兵その他軍籍にあった者が教育に従事することは、その適格が認定されるまで、これを一時的に停止すべきことを内容とした、「教育及び教育関係官の調査、適格審査及び証明等に関する総司令部覚書」発令しました。
 11月2日、▼文部省は、軍国主義者・国家主義者の教壇からの追放と反軍国主義・自由主義的言動により休職・退職処分の教員らの優先的再任用に関して、大学・高専および地方長官宛に通牒を発しました。
 11月4日、東京帝大経済学部教授会は、この通牒を基づき、大内兵衛矢内原忠雄土屋喬雄有沢広巳山田盛太郎脇村義太郎木村健康の7教授の復職を決定しました。同時にこれらの教授追放に重要な役割を果たした同学部の橋爪明男教授と難波田春夫助教授が辞職しました。
 11月7日、▲GHQは、都下各大学の学生有志を招いて、学園の自由について意見を聴取しました。
 11月10日、▼GHQは、文部省に対し、全教科書の完全英訳の提出を命じ、印刷許可のない教科書の製造禁止を指令しました。
 11月20日、▲京都帝大・同志社大などが参加して、京都学生連盟が結成されました。
 11月21日、▲九州帝大法文学部教授会は、向坂逸郎ら5人の招聘を決定しました。
 11月21日、▲東北帝大では、服部英太郎宇野弘蔵が復帰しました。
 11月21日、▼治安警察法廃止の件をポツダム勅令で公布しました。
 12月2日、GHQ、戦犯容疑で、元帥の梨本宮守正陸軍大将・元首相の平沼騏一郎・元外相の広田弘毅をはじめ皇族・陸海軍将校・政治家・財界人・記者ら59人の逮捕を命令しました。
 12月4日、▲幣原内閣は、閣議で、女子教育刷新要綱を了解し、女子大の創設・大学の男女共学制などを決定しました。
 12月6日、GHQは、戦犯容疑で、「16日の午後12時までに」と期限を区切って、元首相の近衛文麿・前内大臣の木戸幸一・貴族院副議長の酒井忠正・前駐独大使の大島浩陸軍中将・前国務大臣の緒方竹虎・理研工業社長の大河内正敏ら9人の逮捕を命令しました。これで、逮捕を命じられた戦争責任者は合計で286人になりました。
 12月15日、▼GHQは、国家神道に対する政府の保証・支援・保全・監督および弘布の廃止に関する覚書を出しました。
 12月24日、▲文部省は、教職員・学生・生徒の政治活動について通達し、政治結社加入の自由を認めました。
 12月31日、▼GHQは修身・日本歴史・地理の授業停止と教科書回収に関する覚書を出しました。
 1946(昭和21)年1月1日、▼天皇は、神格化否定の詔書を発表し、これが天皇の人間宣言です。
 1月4日、GHQは、軍国主義者の公職追放を指令しました。
 1月9日、▲GHQは、覚書で、米国教育使節団に協力すべき日本教育家の委員会の設置を指令しました。委員長に南原繁東大総長が就任しました。
 1月13日、▲高校長の安倍能成が文相に就任しました。 
 1月28日、▲東京都教員組合は、生活権擁護を要求し、教員として最初のデモを行いました。
 1月30日、蓑田胸喜(55歳)が縊死しました。
 1月30日、出獄してまなしの河上肇(68歳)が亡くなりました。
 2月2日、▲宗教法人令改正により、神社も他の宗教法人と同様の扱いとなりました。
 2月16日、▲滝川幸辰は、京都大学の教授に復帰しました。
 2月21日、文部省学校教育局長の田中耕太郎は、教育勅語は自然法的心理であると演説しました。
 2月21日、▼京都帝大経済学部の全教官が戦争責任をとり、辞表を提出し、10教官が辞任しました。
 3月5日、GHQの招請により、米国教育使節団が来日しました。
 3月31日、米国教育使節団は、報告書を提出し、▼官僚統制の廃除や▲6・3制など教育の民主化を勧告しました。
 4月10日、@22衆議院議員総選挙が新選挙法により実施され、自由党141人、進歩党94人、社会党93人、協同党14人、共産党5人、諸派38人、無所属81人が当選しました。
 5月3日、極東国際軍事裁判所が開廷しました。これを東京裁判といいます。
 5月中旬、文部省体育局は、戦前の1937年と1945年との児童の体位比較を発表しました。それによると、6年女児の体重は2.2kg減、身長は4.4cm減というものでした。
 5月22日、@45吉田茂内閣が誕生しました。
 5月31日、▲早稲田大学は、学生自治会の自治権確立要求を承認しました。これを学生自治権確立の初めといいます。
 6月9日、▼日本基督教団基督教徒大会は、戦争責任を痛感し反省と懺悔と悔改を表白しました。
 6月10日、▲津田左右吉は、早稲田大学総長に当選しましたが、辞退しました。
 6月29日、▲GHQは、覚書で、地理授業の再開を許可しました。
 7月5日、▲文部省は、市町村に公民館設置を通牒し、以後、各地に公民館が設置されました。
 7月12日、中国で全面的国共内戦に突入しました。
 8月10日、▲教育刷新委員会が設置され、委員長に安倍能成文相が就任しました。
 9月5日、▲文部省は、家永三郎森末義彰岡田章雄大久保利鎌執筆の国民学校用国史教科書『くにのあゆみ』を発表しました。
 10月8日、▼文部省は、教育勅語拝読の廃止、勅語・詔書の謄本の神格化廃止を通達しました。
 10月12日、▲GHQは、覚書で、日本史授業の再開を許可しました。
 10月15日、▲皇太子明仁親王の家庭教師として、アメリカ人のヴァイニング夫人が来日しました。
 11月3日、日本国憲法が公布されました。
 11月16日、▲政府は、当用漢字表(1850字)および現代かなづかいを告示しました。
 11月29日、教育刷新委員会は、教育基本法制定の必要を決議しました。
 12月27日、教育刷新委員会は、義務教育の9年制・教育委員会の設置などを建議しました。
 1947(昭和22)年1月、東京都で学校給食(副食)が再開されました。これはララ物資といいます。
 3月12日、トルーマンは、ソ連封じ込めのトルーマン・ドクトリンを発表しました。
 3月20日、▲文部省は、学習指導要領を刊行しました。
 3月31日、▼国民学校令などを廃止し、▲教育基本法を公布しました。
(1)その前文には「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに日本国憲法 の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」と書かれています。
(2)その内容は、以下の通りです。
第一条には教育の目的として「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と書かれています。
第二条〜第九条には、教育の方針・教育の機会均等・義務教育・男女共学・学校教育・社会教育・政治教育・宗教教育が書かれています。
(3)第十条には教育行政が扱われています。
 第一項は「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」と書かれています。
 第二項は「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」と書かれています。
 *解説(二度と戦争をしないという当時の決意が表明されています。全ての基本は個人の尊厳から始まります。この思想は、人類愛という世界的・普遍的な真理です。次に人類愛を実現するには平和を希求する人間でなくてはなりません。この人類愛を踏みにじったのが、国家や権力・支配者という行政の介入です。そのためには、教育は、不当な支配に服してはいけません)。
10  3月31日、学校教育法が公布されました。
 4月1日、▲学校教育法が施行されました。
(1)小学校6年・中学校3年・高等学校3年・大学4年、専修学校や各種学校などを定めました。
(2)戦前の複線型教育(各種学校令)を廃止し、単線型教育(6・3・3・4制)に改めました。
(3)1条学校とは、教育基本法の第6条学校教育がいう「法律に定める学校」のことで、小学校・中学校・高等学校・大学などのほか、養護学校・幼稚園などをいいます。
 5月3日、日本国憲法が施行されました。ポツダム命令は、ポツダム政令・総理府令・法務府令と省令の形式に変更されました。
 5月3日、日本国憲法が施行されました。
 5月9日、▲教育刷新委員会は教員養成制度の大綱を採択し、教師養成の開放性などを決めました。
 5月24日、@46片山哲内閣が誕生しました。
 6月3日、▼学校における宮城遙拝・天皇陛下万歳・天皇の神格化表現の停止などを通知しました。
 6月20日、井上清は、『くにのあゆみ』を批判し、歴史学界・歴史教育界に歴史論争がおこりました。
 8月2日、文部省は、社会教育指導者用テキストとして『あたらしい憲法のはなし』を頒布しました。
 11月11日、文部省は、▼視学制度を廃止して、▲後の指導主事設置を通知しました。
 11月、教育刷新委員会の委員長に南原繁東大総長が就任しました。
 12月26日、教育刷新委員会は、文部省解体・文化省設置など教育行政民主化を決議しました。
11  1948(昭和23)年1月5日、米陸軍長官のロイヤルは、サンフランシスコで、「日本を共産主義に対する防壁にする」と演説しました。
 2月16日、アメリカ政府は、岸信介らA級戦犯容疑者の裁判を放棄すると声明しました。
 3月10日、@47芦田均内閣が誕生しました。
 3月25日、▲文部省は、キリスト教系・女子系を中心に、同志社大学・東京女子大学などの新制大学を承認しました。
 4月1日、▲新制高等学校が発足しました。
 6月19日、▼衆参両院は、教育勅語・軍人勅諭・戊申詔書の失効に関する決議案を可決しました。
 7月10日、後の検定教科書使用に関する臨時措置法を公布しました。
 7月15日、▲教育委員会法を公布しました。
(1)教育行政の地方分権化をはかる。
(2)都道府県・市町村の教育委員は公選制とする。
 10月19日、@48第二次吉田茂内閣が誕生しました。
 11月12日、東京裁判で最終判決が出され、東条英機ら7人に絞首刑が宣告されました。
12  戦後撤廃された項目、▲戦後設置された項目です。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
教育基本法と教育基本法改正案
 年表の▼印を見ると、窒息しそうな原因となった法律が次々の廃止されて行ってます。そして、▲印を見ると、自由な雰囲気と、学問・思想・宗教などの解放が感じられます。
 戦後、教育基本法が制定された経過を調べてみました。
(1)1946年9月23日、文部省で、教育刷新委員会が開かれました。その3回目の会合の時、田中二郎最高裁判事は教育基本法の要綱案を示し「憲法に例えば政治教育、宗教、あるいは男女の平等が出て参ります。そういう関連だけを採り上げまして列記したような次第であります。教育の問題として採り上ぐべき問題を網羅するとは考えておりません」と説明しました。つまり、教育基本法は憲法と他の教育法の架け橋役だったというのです。
 刷新委員会の副委員長だった東京帝大総長の南原繁は「今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい」と当時を振り返っています。
(2)子どもたちは朝夕、教育勅語と天皇の「御真影」を納めた奉安殿に最敬礼していました。教育勅語につてい、衆議院議員の芦田均は「日本が教育勅語の精神を誠実に行っていったならば、惨憺たる運命には陥っていないと思う」とか恵泉女学園長の河井道は「白手袋をはめなければいけないとか、奉読の際に一字間違っても免職だ、となさったからで、教育勅語が悪かったかたとは思いません」と評価しています。
 他方、衆議院議員の森戸辰男は「教育勅語を貫いている精神が、今の民主国家の建設には全くそぐわんものである」と反論しました。戦時中の教育勅語の扱いに問題があった点では一致しました。
 1946年10月、文部省は教育勅語の奉読を禁ずる次官通帳を出しています。しかし、1946年の議会での教育基本法の審議で、文相の高橋誠一郎は答弁した。「憲法、教育基本法と抵触する部分は効力を失いまするが、その他は両立する。孔孟の教えとかモーゼの戒律とかと同様なものとなって存在すると解釈すべきではないか」と答弁しました。
 1947年、教育基本法が制定されました。
 1948年、GHQ民政局の指示により、教育勅語は参両院で排除・失効確認が決議されました。
 教育基本法を研究する明治大学教授の三上昭彦氏は「勅語は内容も天皇の言葉という形式も憲法や基本法と矛盾する。なのに多くの有識者は憲法の理念を十分には理解せず、『悪いのは儀式の儀制で、内容はいい』と考えた。天皇制が人々の思考をいかに縛っていたか」と話しています。
 個人の尊厳から出発して公共性を築こうとする立場は、戦前・戦中との連続性を断とうとし、個人より国家への奉公を重視する立場は、勅語を正しいと、その連続性を維持しようとしてきました。それが今も続いていると朝日新聞は書いています(2006年5月11日付け)」。
(3)1963年に東京教育大学教授の家永三郎が出筆した「新日本史」が検討不合格になりました。家永は、国民の教育権を打ち出し、国家の教育権を否定する裁判をおこしました。これが家永訴訟です。
 1970年7月、東京地裁は、国民の教育権説に立ち、「検定は教育基本法が禁じた不当な介入に当たる」と判断しました。これを杉本判決といいます。1974年7月、東京地裁は国家の教育権説に立ち、原告敗訴を言い渡しました。これを高津判決といいます。
 1976年5月、学力テスト問題で、最高裁は、「極端かつ一方的で妥当でない」と国民の教育権説・国家の教育権説を共に退けました。
 以上見てきたように、教育基本法は、国の不当な介入に歯止めの役をしていることが分かります。
(4)2000年、文教族のドンといわれた森喜朗首相の私的諮問機関である教育改革国民会議は、伝統や文化の尊重、家庭、国家などの視点から基本法の見直しを提言しました。2003年、中央教育審議会(中教審)は、新たな理念として「郷土や国を愛する心」や「家庭教育」を答申しました。
 2006年、教育基本法改正案が国会に提出されました。
 森喜朗前首相は教育基本法の「改正は自民党結党以来の悲願だった。教育勅語には人間関係の大事なことを書いてあるが、戦前の教育は全部ダメということになり、衆参両院で廃棄宣言した」と自らの立場を戦前との連続派と認めて、「改正案には”道徳心”や”公共の精神”が盛り込まれた。規範が入ることで、国旗掲揚とか国歌斉唱の時の立ち居振る舞いを含め、先生は子どもたちの心身の発達過程に応じて教え込んでいけるようになる」と国家の教育権を明白に告白しています。
 同じく森喜朗氏は「命の大切さや、ありがたいとか、親にどうあるべきかとか、兄弟仲良くとか。このことを教えるには宗教的な情操教育が一番いい。公明党との調整で盛り込まれず残念だが・・・」と語り、法律が権力からの歯止めになっていることと、権力が国民の心の中に介入する本心を露骨に表明しています。「そういう資格のない人が教えたるという姿は滑稽です」。私は、あなた方のような人から教えてほしくないです。
 敗戦により、日本は再び戦争のない平和国家を誓いました。その反省が個人の尊重でした。しかし、今や個人より国家を重視する動きが、堂々と語られ、進められようとしています。
(5)これは76歳の方の新聞への投稿です。
 「終戦後に旧制中学を卒業した私は、出身の小学校から呼び出され、校長からいきなり代用教員に任命された。この年に教育基本法が公布され、先生たちで条文の読み合わせをした。
 私の父も以前に、同じ小学校の先生をしていた。戦場へ行くかつての教え子には、”人間を殺してはいけない。お母さんのために生きて帰ってこい”を送別の言葉にしてきた。
 終戦の日、他に先生がいる前で、この校長は”この先生の息のかかった子どもが戦争に行ったから負けた”と発言した。腹を立てた父はその場で辞職をした。
 基本法は憲法に則って教育の基本を確立するとうたっている。学校で”天皇陛下のために血を流すのが愛国心だ”と教えられていた私たちには、新鮮だった」。
 個人より国家が重視された時代の悲劇です。個人の尊厳の上に国家が存在するという理念のない国の悲劇です。権力者に逆らえない時代の悲劇です。
 戦後の教育の基本とされた教育基本法(1947年)の史料です。
前文・第一条(教育の目的)・第十条 (教育行政)は上述のため、削除しています。
「 第二条 (教育の方針)
 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。
 第五条 (男女共学)  男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであつて、教育上男女の共学は、認められなければならない。
 *解説(二度と戦争をしないという当時の決意が表明されています。全ての基本は個人の尊厳から始まります。この思想は、人類愛という世界的・普遍的な真理です。次に人類愛を実現するには平和を希求する人間でなくてはなりません。この人類愛を踏みにじったのが、国家や権力・支配者という行政の介入です。そのためには、教育は、不当な支配に服してはいけません)。
 国会に提出された教育基本法改正案原案の要旨(2006年)です。
「前文 我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家をさらに発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願う。この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。
1・教育の目的
 教育は人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
2・教育の目標
 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
16・教育行政
(1)教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」。
 *解説伝統を継承し、新しい文化の創造とか伝統と文化を尊重我が国と郷土を愛するという文面、宗教に関する一般的な教養という文面が、人間の心を対象にしていること危惧します。男女平等という項目が削除されています。不当な支配に服することなくという文面は残っていますが、国民全体に直接に責任を負うという文面が削除され、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるという文面に変わっています)
 私の危惧が現実に起きています。国民的人気のある石原慎太郎東京都知事の学校の出来事です。
 1999年に「国旗・国歌法」が成立した時、政府は「国旗・国歌を尊重する気持ちを子どもに強制するものではない」と答弁しました。2001年に東京都は教育庁を新設し、教育目標に「わが国の歴史や文化の尊重」を追加しました。2003年に東京都の横山洋吉教育長は「学校行事等における国旗・国歌の実施」を学校長宛てに通達しました。その結果、2004年3月の卒業式で国家斉唱や起立をしなかった教員248人を「職務命令違反」として処分しました。2004年9月に全ての学校長は、日の丸・君が代に関して「学習指導要領に基づき、適正に生徒を指導する」よう求める職務命令を出しました。
 心の問題を、法律で弾圧する時代がやってきています。誰が歌い、誰が起立するのかを調べ、密告する人がいなければ、心を弾圧することは出来ません。命令する方もされる方も悲しく哀れな姿です。
 石原知事は、「不当な支配ではない。法律に基づいているのだから」というでしょう。正に、改正案の問題点が東京都で起こっています。
 先生が自由に活躍できて、初めて生徒も自由に活躍できます。先生が窒息すれば生徒も窒息します。これは真理です。戦前の歴史が教えるところです。
10 【追加】小坂文部科学相が本音(鎧)を語る。「衣の下に鎧」でなく、衣をかぶせぬ意図は?
 小坂文科相は19日の会見で、教育基本法改正で盛り込まれる「国を愛する態度」について「適切な指導が行われているか把握する何らかの方法はとっていく」と述べ、実態は把握を通じて指導不足や行き過ぎの是正を図る考えを示しました(2006年5月20日付け朝日新聞)。
 国家が教育権を縛る本音を吐露しています。小坂文科相といえば、トリノオリンピックで、フィギュアの荒川静香選手が金メダルを取った時、ロシア選手が転倒して場面で「やったー」と喜んだ人物です。このような偏狭な人物がどうして、指導できるのでしょうか。むしろ、指導して頂く方ではありませんか。

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