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エピソード

269_01

政党の復活と政権の推移T(社会党政権の誕生)
 今からは想像もできませんが、社会党が政権をとっていた時期がありました。しかし、短命に終わったので、世論は、「やはり、社会党ではだめなんだ」という気持ちになったといいます。
 今回は、その経緯を取り上げました。
 1945(昭和20)年8月17日、@43東久邇宮稔彦内閣が誕生しました。
 9月2日、日本全権の重光葵梅津美治郎は、米艦ミズーリ号上で降伏文書に調印しました。
 10月9日、@44幣原喜重郎内閣が誕生しました。
 10月10日、政治犯3000人が釈放されました。日本共産党の徳田球一志賀義雄が「人民に訴う」を声明しました。
 10月20日、日本共産党は、合法政党として活動しました。
 11月2日、旧無産政党を統合して日本社会党を結成しました。書記長に片山哲、幹事長に右派の西尾末広が就任しました。
 11月9日、旧政友会系の43人で、日本自由党を結成しました。総裁に鳩山一郎(元政友会)・幹事長に河野一郎(元政友会)・総務会長に三木武吉(元民政党)・政調会長に安藤正純(元政友会)が就任しました。翼賛政治会から推薦を受けなかった政友会が母体です。
 11月16日、翼賛政治会を母体にした旧民政党系273人は、日本進歩党を結成しました。総裁に町田忠治(元民政党総裁)・幹事長に鶴見裕輔(元民政党)・総務会長に犬養健(元政友会中立派)・政調会長に太田正孝(元政友会中立派)が就任しました。
 12月1日、日本共産党第4回大会で、書記長に徳田球一が就任しました。
 12月15日、衆議院議員選挙法改正案が成立しました。
 12月17日、衆議院議員選挙法改正案が公布されました。
(1)婦人参政権を認め、満20才以上の男女全てに選挙権が付与されました。これを完全普通選挙法といいます。その結果、有権者は人口の50%となりました。
(2)大選挙区制・制限連記制を採用しています。
 12月18日、労資協調の中間保守政党である日本協同党が結成されました。委員長に山本実彦が就任しました。
 1946(昭和21)年1月1日、天皇は、神格化否定の詔書を発表し、これが天皇の人間宣言です。
 1月4日、GHQは、軍国主義者の公職追放を指令しました。日本自由党の安藤正純政調会長が追放されました。日本進歩党の町田忠治総裁ら260人が追放され、残ったのは斎藤隆夫ら14人でした。
 1月19日、マッカーサーは、極東国際軍事裁判所条例を承認し、戦争犯罪人(平和・人道に対する罪、戦時法規違反の罪)を審問・処罰のため裁判所の設置を命令しました。
 2月17日、金融緊急措置令を公布しました。
 4月10日、@22衆議院議員総選挙が新選挙法により実施され、自由党141人、進歩党94人、社会党93人、協同党14人、共産党5人、諸派38人、無所属81人が当選しました。日本自由党が第1党になりました。日本進歩党は273人から一気に94人と激減しました。
 4月19日、幣原喜重郎首相は、日本進歩党に入党しました。
 5月3日、極東国際軍事裁判所が開廷しました。これを東京裁判といいます。
 5月4日、第一党の日本自由党党首である鳩山一郎は、組閣直前に、公職を追放されました。鳩山一郎は、滝川事件の時の文相でした。
 5月14日、鳩山一郎は、吉田茂に後継総裁就任を要請しました。吉田茂は「私は党の金の事については一切知らない。人事については一切わたしにまかせる。やめたくなったらいつでもやめる」という3条件を窮地の鳩山一郎に示して、鳩山が承知すると、吉田茂は日本自由党の党首を受諾しました。
 「鳩山が追放解除になったらいつでも総裁を譲る」という条件もあったといいます。この存否が後に問題化します。
 5月15日、吉田茂は、日本自由党に入党しました。
 5月22日、@45吉田茂内閣が誕生しました。自由党と進歩党の連立内閣です。外相に吉田茂が兼任、内相に大村清一、蔵相に石橋湛山、文相に田中耕太郎、農相に和田博雄、商工相に星島二郎らが就任しました。進歩党からは幣原喜重郎が復員庁総裁、斎藤隆夫が行政調査部総裁、一松定吉が逓信相、木村小左衛門が和田博雄の後任として農相に入閣しました。
(1)第一党の保守系である日本自由党が日本進歩党に協力しました。
(2)敗戦後の社会の混乱は、政局の破綻を許さなかったのです。
 5月24日、大同クラブは、赤城宗徳船田中らの日本協同党・日向民主党・日本農本党の3政党と合同して協同民主党を結成しました。委員長に山本実彦が就任しました。三木武夫は党常任委員の一人に選ばれました。二階堂進は、「三木さんは選挙のカネを貰いに行っても1円もくれず、当時から本当にクリーンだったよ」と語っています。
 5月24日、日本自由党の三木武吉総務会長が追放されました。
 6月20日、日本自由党の河野一郎幹事長が追放されました。
 8月18日、自由党大会は、吉田茂を新総裁に正式に選出しました。日本自由党の重鎮である鳩山一郎・三木武吉・河野一郎らが追放され、吉田ワンマン体制が確立しました。
 9月4日、マッカーサーは、「炭鉱はあらゆる経済活動と密接に関連しており、したがって国有化の提案は検討する理由が十分ある」と対日理事会への覚書で表明しました。
 9月25日、笹森順三らは、国民党を結成しました。
 11月3日、日本国憲法が公布されました。
 12月27日、傾斜生産方式が開始されました。
 12月28日、第92通常帝国議会が開会されました。これを第92議会といいます。
 1947(昭和22)年1月1日、吉田茂首相は、念頭の辞の放送で一部労働運動指導者を「不ていのやから」と非難して問題化しました。
 1月8日、吉田茂首相は、連立内閣工作のため、社会党右派の西尾末広書記長らと内面交渉を開始しました。しかし、社会党左派と自由党内の反対で失敗しました。
 吉田首相は、批判派をかわすために、内閣改造を行いました。内相の大村清一の後任に植原悦二郎、文相の田中耕太郎の後任に高橋誠一郎、商工相の星島二郎の後任に石井光次郎が就任しました。
 1月16日、内閣法が公布されました。
 1月17日、自由党・進歩党・社会党の3党首会談が決裂し、政府の連立工作は失敗に終わりました。自由党・進歩党は、現内閣の支持を共同声明しました。
 1月29日、自由党・進歩党・社会党の3党首が会談しました。しかし、政府は、社会党への連立工作に再び失敗しました。
 1月31日、GHQは、2.1ゼネスト中止を指令しました。
 1月31日、吉田茂首相は、連立工作失敗後の対処策として、内閣改造を行いました。しかし、吉田首相の専断として与野党から批判がおこりました。
 2月13日、自由党・進歩党・社会党・協同民主党・国民党の5党代表者会議で、連立条件に関する覚書を発表しました。
 2月14日、5党代表者会議は、交渉打ち切りを共同声明しました。
 3月8日、協同民主党と国民党が合同して、国民協同党を結成し、中道政治を主張しました。書記長に三木武夫が就任しました。井出一太郎早川崇らも参加しました。
 3月23日、芦田均は、新党に参加のため自由党を脱党しました。
 3月25日、衆議院選挙法改正委員会で、自由党・進歩党提出の修正案(中選挙区・単記制)をめぐり与野党が乱闘しましたが、後に成立しました。
 3月26日、進歩党は、新党樹立と同時に党の解散を決定しました。
 3月31日、衆議院が解散しました。これを帝国議会の終幕といいます。
 3月31日、日本進歩党を母体に、自由党脱党派・国民協同党の一部が合流して、145人で民主党を結成しました。この段階では第1党です。進歩党で、幣原喜重郎総裁に批判的な若手議員は、自由党内で吉田茂首相と対立していた芦田均を引き抜き、新党結成を画策した結果誕生しました。修正資本主義的な中道政党を表明しました。総裁は設置せず、犬養健・木村小左衛門・斎藤隆夫・楢橋渡・一松定吉らが最高委員に就任して、芦田均を幹事長に選出し、幣原喜重郎が最高顧問となりました。
 4月5日、都道長官・府県知事・市区町村長選挙が行われました。
 4月17日、地方自治法が公布されました。
 4月20日、参議院議員選挙が行われ、社会党47人、自由党39人、民主党29人、国民協同党10人、共産党4人、無所属など121人が当選しました。その結果、日本社会党が第1党となりました。
 4月25日、@23衆議院議員選挙が行われ、社会党は143人、自由党は131人、民主党は121人、国民協同党は29人、共産党は4人、諸派は25人、無所属は13人が当選しました。その結果、日本社会党が第1党となりました。
 社会党の片山哲委員長は、「我が党が第一党の栄誉を獲得したことは、旧勢力に代わる革新勢力の台頭のあらわれである。保守勢力の政策を国民が信頼しないということが明らかになった以上、次は、資本主義から社会主義へ移行する性質をもった政権でなければならない」と談話しました。だが実際は西尾末広書記長が「そりゃ、えらいこっちゃ」と言ったように、青天の霹靂であったといいます。
 4月30日、都道府県会・市区町村会議員選挙が行われました。これが第1回統一地方選挙です。
 4月30日、国会法を公布しました。
 5月3日、日本国憲法が施行されました。
 5月9日、社会党右派の西尾末広幹事長は、脆弱な社会党が第1党であっても、社会党・自由党・民主党・国民協同党の4党の連立と社会党が閣僚の多数は占めるが、形は第二次吉田茂内閣とする構想を持っていました。
 5月9日、西尾末広構想にしたがって、社会党の片山哲委員長・西尾末広幹事長、自由党の吉田茂総裁・大野伴睦幹事長、民主党の斎藤隆夫最高総務委員・芦田均幹事長、国民協同党の三木武夫書記長・岡田勢一中央常任委員会議長ら4党の代表が会談しました。社会党は、自由党・民主党の政策に同調したので、4党連立内閣に意見が一致しました。その結果、4党は政策協定まで進み、閣僚の配分も決まりました。4党で決まった政策協定の内容です。
(1)経済危機突破のための経済統制
(2)生産増強のために超重点産業政策の導入と重要産業に対しては必要に応じた国家管理
(3)インフレ克服のための健全財政の堅持および金融統制
 5月9日、自由党の吉田茂総裁・大野伴睦幹事長は、容共左派といわれた社会党左派の入閣に反対しました。社会党右派の西尾末広幹事長は、この時、「七重のヒザを八重に折っての願いごとです」と必死に説得しましたが、吉田らを納得させられませんでした。これが後に表面化します。
 ここでいう社会党左派とは、鈴木茂三郎加藤勘十らのことをいいます。
 5月9日、民主党も、幣原喜重郎派は、社会党との連立に反対し、芦田均派は連立に賛成でした。
10  5月17日、参議院の無所属議員は、緑風会を結成しました。
 5月17日、吉田茂内閣は、蔵相の石橋湛山・商工相の石井光次郎・司法相の木村篤太郎が公職追放令に該当すると発表しました。
 5月18日、民主党総裁に芦田均、名誉総裁に幣原喜重郎が就任しました。芦田派が多数を占めた民主党大会は、社会党との連立を決定しました。
 5月20日、吉田茂内閣が総辞職しました。
 5月20日、第1特別国会を召集しました。
11  5月21日、自由党総裁の吉田茂は、不安定な連立政権に参加して共倒れを畏れ、社会党左派の機密問題を口実に、土壇場で、非公開代議士会で反共および野党の立場を強調しました。
 5月23日、衆参両院は、片山哲を首相に指名しました。片山哲は、4党連立構想で組閣工作を開始しました。
 5月28日、片山哲は、自由党を除く3党連立工作に切りかえました。民主党は、連立の条件に次の提案をしました。社会党左派対策といえます。
(1)極右・極左主義反対を堅持する。
(2)社会不安を起こす恐れのある行動はせず、違反する党員には各党が責任をもつ。
 5月30日、西尾末広は、閣僚候補の名簿を持参して、GHQの民政局のケーディス行政課長に、内諾を求めました。ケーディス行政課長は、社会党の平野力三と民主党の林平馬を許可しませんでした。平野力三は、戦前は右翼運動に参加したこともある社会党右派の実力者で、西尾と親友でした。
 5月30日、西尾末広は、片山哲首相を動かして、マッカーサーに嘆願書を書いてもらいました。
 GHQには、二派の対立がありました。
(1)ホイットニー代将を長とする民政局(GS)がありました。弁護士出身で、部下にはニュー・ディラー派の学者や専門家が多く、日本の民主化政策推進の中心になっていた。
(2)ウィロビー代将を長とする参謀第二部(G2)がありました。たたき上げの軍人での集団でした。平野はこの集団と密接な関係にあり、G2がマッカーサーを動かしました。
(3)その結果、平野力三・林平馬の入閣が認められました。
12  6月1日、@46片山哲内閣が樹立しました。社会党・民主党・国民協同党の連立内閣です。社会党143人・民主党121人・国民協同党29人を与党とする三党連立政権293人(62.9%)でした。
 外相に副総理兼任芦田均(民主党総裁)、内相に木村小左衛門(民主党顧問)、蔵相に矢野庄太郎(民主党政調会長)、文相に森戸辰男、法相に鈴木義男、農相に平野力三(社会党中央執行委員)、商工相に水谷長三郎(社会党中央執行委員)、運輸相に苫米地義三(民主党政調副会長)、逓信相に三木武夫(国協党書記長)、厚相に一松定吉(民主党顧問)、(行政調査部総裁に斉藤隆夫(民主党最高顧問)、官房長官に西尾末廣(社会党書記長)、安本長官に和田博雄(緑風会)が就任しました。閣僚の割り振りは、社会7・民主7・国協2・緑風会1でしたが、第一党の社会党左派を閣僚から除外しており、片山哲内閣は、最初から不安定でした。
 6月1日、官房長官の西尾末広は、官房次長に曽祢益佐藤栄作、経済安定本部総務長官の吉田内閣の和田博雄を抜擢しました。しかし、佐藤栄作は、戦犯として巣鴨プリズンに入牢していた兄の岸信介に相談すると「その仕事はオレには出来るがお前には無理だろう」と言われて、辞退しました。
 経済安定本部総務長官の和田博雄に協力したのが、都留重人や和田と親しい勝間田清一でした。
 6月9日、水谷長三郎商工相は、全炭代表と会談し、商工省案を提示しました。その結果、全炭代表は、「単に目前の三千万トン達成のみを企図するものであり、官僚統制により現在以上の劣悪な状態に置かれる危険を多分に含んでいる」「労働条件・生活向上確保のための闘争を政府に向けざるを得なくさせる」と声明しました。
 6月28日、経済閣僚懇談会に炭鉱国家管理要綱が提出されました。その内容は、以下の通りです。
(1)石炭企業の本社機構と生産現場とを分離し、生産現場を直接国家が握るようにする。
(2)炭鉱労務者が国家管理機構の管理に参加出来るようにする。
 しかし、要綱をめぐり、社会党と民主党の意見が対立しました。民主党の閣僚は「炭鉱の国有国営を前提にした社会主義政策だ」と激しく反対しました。
13  7月4日、水谷長三郎商相は、記者会見の席で、(1)「国管の狙ひはイデオロギーからでなく増産第一主義としてスタハノフ運動に拠ったものだ。四党政策協定では国有国営に迄はもつてゆかないが国管は断行するとの協約が成立した」と語りました。
 7月12日、自由党の代議士である世耕弘一による隠退蔵物資に関する情報に基づく詐欺事件が拡大し、関係者の政治献金が問題化しました。
 7月14日、社会党は、社会主義政策的な炭鉱国家管理案大綱を決定しました。
(1)社会党の重要政策で、水谷長三郎商工相が推進しました。その内容は、石炭増産のために、炭鉱を国家管理にするというものでした。
(2)片山哲首相や右派の西尾末広官房長官は、消極的でした。
(3)水谷長三郎の商工省と和田博雄の経済安定本部は、「年間3000万トンが生産されない場合には石炭産業の国家管理を実施する」と発表しました。
 8月6日、社会党・民主党・国民協同党の3派の連絡協議会は、「経済再建のために炭鉱管理を断行する」という一致点を確認しました。しかし、炭鉱労働者と炭鉱資本家の指導権をめぐっては議論は煮詰まりませんでした。
 8月10日、社会党・民主党・国民協同党の3党首会談が行われました。
(1)管理の範囲は、全炭鉱とする
(2)管理の方式は、社会党は現場、民主党は全企業と対立しましたが、全企業となりました。この決定に炭鉱労組は反対でした。
(3)生産協議会は、社会党は議決機関、民主党は協議機関と対立しましたが、水谷商工相は、民主党に妥協して諮問機関とし、「生産協議会の議を経て」という表現にし、運用上権限を発揮することにしました。この決定に炭鉱労組は反対でした。
 9月中旬、片山哲首相がマッカーサーに依頼していたマッカーサー書簡を届きました。そこで、片山首相は、(2)「この法案は緊急措置で、国家管理の制度は他の産業に及ぼすことはない」という妥協案を示して、やっと閣議で了承されました。
 9月25日、片山哲内閣は、炭鉱国家管理法案を衆議院に提出しました。骨子は次の通りです。
(1)増産第一主義で、国有国営は考えていないが、国管は断行する。
(2)国管実施は炭鉱業にかぎり、他の産業には及ぼさない。
 9月下旬、全国炭坑労働組合は、「政府が3000万トンのノルマをクリアさせようとしている」と反対を表明しました。
 9月30日、衆議院本会議で、民主党・自由党は、「労働者が事業計画に参加することは経営権の侵害である」・「労働時間の延長による増産運動をはかるべきである」という意見が出ました。共産党は「資本家による管理法案の骨抜き」に反対しました。
14  11月4日、GHQの民政局は、米価問題をめぐり和田博雄安本長官と対立する平野力三の罷免を要求しました。その結果意、片山哲首相は、非協力を理由に平野力三農相に初の閣僚罷免権を発動しました。
 農相の後任をめぐり、社会党左派が野溝勝を推薦しましたが、拒否され、社会党内が紛糾しました。
 11月20日、衆議院本会議は、炭鉱国家管理法案をめぐり大混乱しました。11月22日まで3日間乱闘騒ぎが続きました。吉田茂の自由党が反対し、民主党の幣原喜重郎派も反対しました。
 11月28日、民主党は、炭鉱国家管理法案に反対する7人を除名しました。
 11月29日、幣原喜重郎ら炭鉱国家管理法案反対派は、脱党して、同志クラブを決定しました。
 12月10日、第2通常国会が召集されました。
 12月13日、農相の後任に波多野鼎が就任しました。
 12月13日、社会党左派は、波多野鼎農相決定の不満から、4党協定廃棄・党内野党化を声明しました。
 12月18日、過度経済力集中排除法が時限立法として公布されました。
 12月20日、炭鉱国家管理法案が時限立法として、賛成233人、反対155人で可決されました。これを炭鉱の国家管理といいます。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
片山哲と社会党政権雑感
 片山哲についてのエピソードは余りありません。
 戦後、社会党を率いて総理大臣になったこと、それも短命内閣だったこと位です。まだありました、戦前反軍演説をした斎藤隆夫が除名されました。この時、片山哲は本会議を欠席して、社会大衆党から除名されたことです。まじめの人だったのですね。
 そこで、少し調べてみました。
(1)同志社でキリスト教を学び、キリスト教社会主義を提唱した安部磯雄が社会民衆党を結成した時、片山哲は書記長となります。2人はキリスト教で結びつきました。片山哲の母は、夫に内緒で洗礼を受けて、やがて夫をも洗礼を受けさせたといいます。
(2)戦前、片山哲の知人が「わが党は社会民主主義であって、反共産主義である」と演説したとき、警察が検挙する事件がありました。片山哲が抗議すると、警察は「反共産主義」の反を半と誤解したということでした。
(3)片山哲が日本禁酒同盟の会長であったことは余り知られていません。片山哲は、禁酒・禁煙をモットーにしており、自分が使った食器は自分で洗ったといいます。
 社会主義を標榜する社会党が、なぜ保守の民主党や国民協同党と連立を組んだのでしょうか。
 痛ましい戦争を終わって二度と戦争したくないという背景がありました。次に、社会主義に対する憧れということもありました。
 社会党の民主社会主義的な傾向と、民主党の一部社会主義的な政策を取り入れた修正資本主義的な傾向が一致したのです。それは、体制を否定する共産党とも違い、体制を保守しようとする自由党とも異なっていました。
 1947年7月7日、片山内閣の経済安定本部は、1800円ベースの新物価体系第1次を発表しました。
 鉄鋼・石炭・銅・肥料・ソーダを価格安定帯物資とします。その公定価格を1934〜1936年を基準として、60〜65倍の限度を設けます。これを価格安定帯といいます。そして価格安定帯物資の公定価格を基準に原価計算して他の商品価格の公定価格を定め、そこから賃金を決定するという方法です。その結果が1800円ベースの新物価体系でした。
 しかし、当時の家計支出は4700円だったので、1800円の賃金では、やっていけません。
 理想と現実は、なかなか難しい。
 電車内は静かな方がいいに決まっています。しかし、現実は携帯電話などでうるさい。「学校の先生はどんな指導しているのか」「親の顔が見たい」と新聞に投書しても、解決しません。自分で行動するしかありません。安全圏からいくらぼやいても現実は改良しませんね。
 日本の歴史で社会党が政権を握ったのが二度あります。片山哲内閣と、村山富市内閣です。
1945年 1946年 1947年 1948年 1949年 1950年 1951年 1952年
日本自由党 ━━┳━━ ━━━━━ 民主自由党 ━━━━━ 自由党━━ ━━━━━ 自由党
日本進歩党 ━━━━━ 民主党━━ ━━┻━━ ━━━━━ 国民民主党 ━━━━━ 改進党
日本協同党 協同民主党 国民協同党 ━━┳━━ ━━━━━
国民党
農民党 農民新党 農民協同党 ━━━━━ ━━━━━ 協同党
社会革新党 ━━━━━ ━━━━━ 社会民主党
右派━━━ 右派
日本社会党 ━━━━━ ━━━━━ ━━╋━━ ━━━━━ ━━━━━
左派━━━ 左派
労働者農民党 ━━━━━ ━━━━━ ━━━━━ 労働者農民党
日本共産党 ━━━━━ ━━━━━ ━━━━━ ━━━━━ 国際派━━ ━━━━━ 国際派
主流派━━ ━━━━━ 主流派
緑風会 ━━━━━ ━━━━━ ━━━━━ ━━━━━ 緑風会

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