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エピソード

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政党の復活と政権の推移V(吉田茂内閣)
 ここでは、激動の1949年〜1950年を扱います。世界情勢とアメリカの政策と吉田茂との駆け引きが興味をそそられるところです。
 イギリスのロンドンへ家族旅行で行ったとき、マダムタッソーの蝋人形館へ立ち寄りました。日本では着物姿の吉田茂の蝋人形しか飾っていませんでした。
 イギリスでも、吉田茂は歴史上の人物なのですね。吉田茂の葬儀は国葬で、学校が休校になったことを思い出します。よくも悪しくも吉田茂ワンマン、ワンマンショーです。
 1948(昭和23)年10月15日、@48第二次吉田茂内閣(民主自由党単独)が誕生しました。
 1949(昭和24)年1月1日、中国共産党は北平市人民政府を樹立しました。北平は今の北京です。
 1月23日、@24衆議院議員選挙が行われ、その結果民主自民党(民自党)264人、進歩党69人、社会党48人、共産党35人、国民協同党14人、諸派12人が当選しました。吉田茂首相は、大蔵次官の池田勇人・運輸次官の佐藤栄作・外務次官の岡崎勝男ら官界出身者を含む大量の新人候補を擁立し、圧倒的過半数を獲得しました。この新人を吉田学校の生徒と呼びます。小泉チルドレンとは似て非なりです。他方、進歩党は69人と大敗しました。 
 2月1日、アメリカの陸軍長官であるロイヤルとGHQの経済顧問であるドッジ公使らが来日しました。
 2月3日、民主党の議員総会は、吉田内閣不参加・閣外協力を申し合わせました。
 2月10日、民主自由党の吉田茂・民主党の犬養健が党首会談をして、保守連携内閣で意見が一致しました。会談途中で、吉田と犬養は、マッカーサーを訪問し、会談内容を報告し、「長期安定政権を期す」との共同声明を発表しました。
 2月13日、東京軍政部は、教員の共産党選挙ビラ配布は違法で、解雇の理由になると発表しました。
 2月14日、民主党議員総会は、入閣問題をめぐって事実上分裂しました。民主党の犬養健総裁・保利茂幹事長ら連立派の衆院31人・参院8人は、民自党との連立を主張しました。しかし、芦田均派の北村徳三郎苫米地義三中曽根康弘らは、連立に反対し、野党派を言われました。連立派は、党議決定がないまま木村小左衛門稲垣平太郎を吉田内閣の閣僚に送り込み、一方的に連立に参加しました。
 その結果、民主党は、連立反対の芦田派である北村徳三郎・苫米地義三が率いる衆院38人・参院37人が野党派を結成し、分裂しました。
 2月16日、@49第三次吉田内閣(民主自由党・民主党連立)が誕生しました。外相に吉田茂が兼任、蔵相に池田勇人、法相に木村篤太郎、商工相に稲垣平太郎、運輸相に大屋晋三、建設相に益谷秀次、地方自治長官に木村小左衛門、官房長官に増田甲子七らが就任しました。GHQのマッカーサーの権力・絶対多数をバックに保守安定政権の確立を目指し、また、アメリカの意向を受けて逆コ−スを推進しました。
 2月16日、吉田首相は、経済安定9原則の忠実なる実行を強調する談話を発表しました。
 2月25日、アメリカ陸軍長官ロイヤルは「日本が攻撃された時は、米軍が反撃する」と言明しました。
 3月1日、ドッジ公使は、池田勇人蔵相と会談し、「収支均衡予算編成の方針」を検討しました。
 3月7日、ドッジ公使は、内外記者団会見で、経済安定9原則実行に関し声明を発表しました。その内容は、以下の通りです。これをドッジ=ラインといいます。
(1)竹馬経済から脱却する
(2)政府支出は税収を限度とするインフレ収束策を強化する
 3月22日、ドッジ公使は、池田蔵相に昭和24年度予算案を内示しました。吉田内閣は、内示案を中心に協議しました。その結果、民自党の主要公約が実現不可能となりました。
 3月31日、ドッジ=ラインの実施により、復興金融金庫の貸出が急減しました。
 4月1日、GHQは、ガリオアおよびエロア輸入物資の円勘定に関する覚書を発表しました。その内容は、以下の通りです。
(1)日銀に米国援助見返資金特別勘定を設定する
(2)その引き出しには、GHQの同意を必要とする
 4月15日、ドッジ公使は、昭和24年度予算案につき声明を出し、超均衡予算の実施・補給金の廃止など健全財政主義の徹底を強調しました。
 4月21日、中国で国共和平会談が決裂し、毛沢東・朱徳は、解放軍に全国進撃を命令しました。
 4月23日、中国の解放軍は、南京に入城しました。
 4月25日、GHQは、日本円に対する公式為替レート設定の覚書を発し、1ドル=360円の単一為替レートが実施されました。
 5月4日、吉田内閣は、行政機関職員定員法を決定し、26万7300人の行政整理を決めました。
 5月6日、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立しました。
 5月7日、吉田茂首相は、外人記者に講和条約締結後も米軍の日本駐留を希望すると言明しました。
 5月10日、シャウプ税制使節団が来日しました。
 7月4日、マッカーサーは、アメリカ独立記念日にさいし、「日本は共産主義進出阻止の防壁」と声明しました。
 7月4日、国鉄は、行政機関職員定員法に基づく第1次人員整理3万700人の通告を開始と発表しました。
 7月5日、国鉄総裁の下山定則は、登庁の途中で行方不明となりました。
 7月6日、常磐線北千住・綾瀬間の線路上で下山定則の轢死体が発見されました。これを下山事件といいます。死後轢断・生体轢断で見解が対立し、未解決となりました。
 7月12日、国鉄は、行政機関職員定員法に基づく第2次人員整理6万300人の通告を開始と発表しました。
 7月15日、国鉄中央線三鷹駅で無人電車が暴走し、6人が死亡しました。これが三鷹事件です。
 7月17日、国労の分会幹部2人が逮捕されました。
 7月18日、国鉄は、鈴木市蔵副委員長ら国労中闘の共産・革同派14人を免職しました。
 7月21日、国労中闘は分裂し、以後は、合法闘争を主張する民同派が主導権を掌握しました。
 8月11日、郵政・電通両省は、2万6500人の人員整理を全逓労組に通告しました。
 8月17日、東北本線金谷川・松川駅間で旅客列車が脱線転覆し、乗務員3人が死亡しまし。これを松川事件といいます。
 8月18日、官房長官の増田甲子七は、記者会見で「集団組織による計画的妨害行為と推定される」と語りました。
 8月24日、北大西洋条約機構(NATO)が発足しました。
 8月29日、ソ連は、原爆実験に成功しました。
 9月10日、松川事件に関し、共産党員・国鉄・東芝労組員らが逮捕されました。
 9月13日、アメリカのアチソン国務長官・イギリスのベヴィン外相は、ワシントンで会談し、対日講和会議の早期開催に合意しました。
 9月15日、GHQは、税制の根本改革というシャウプ勧告の全文を発表しました。
 9月19日、人事院は、政治的行為に関する人事院規則を制定し、国家公務員法に基づき、公務員の政治活動を制限しました。
 10月1日、毛沢東は、北京天安門広場で、中華人民共和国の成立を宣言しました。
 10月7日、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立しました。
 10月26日、松川事件で6人が起訴されました。その後、14人が起訴されました。
 11月11日、吉田茂首相は、参議院で、「単独講和でも全面講和に導く1つの途であるならば喜んで応ずる」と答弁しました。
 12月4日、社会党中央委員会は、講和問題に対する一般的態度として「全面講和・中立堅持・軍事基地反対の平和3原則」を決定しました。
 12月5日、全官公脱退の日教組・国鉄・全逓などは官公労を結成しました。
 12月7日、蒋介石の国民政府は、首都を台湾の台北に移しました。
 12月25日、マッカーサーは、戦犯に特赦令を出し、BC級戦犯46人を釈放しました。
 1950(昭和25)年1月1日、マッカーサーは、年頭の辞で「日本国憲法は、自己防衛の権利を否定せず」と言明しました。
 1月5日、トルーマン米大統領は、「台湾問題に軍事介入せず、経済援助にとどめる」と声明しました。
 1月12日、国務長官のアチソンは、「アメリカの防衛線はアリューシャン・日本・沖縄を結ぶ線である」と演説しました。
 1月19日、社会党第5回大会で、指導権争いから左右両派に分裂しました。左派は鈴木茂三郎書記長を選出、右派は片山哲委員長・水谷長三郎書記長を選出しました。
 1月31日、アメリカ統合参謀本部議長のブラッドレーと陸海空3軍首脳は、極東情勢検討のため来日しました。
 1月31日、トルーマン米大統領は、原子力委員会に水爆製造を正式に命令しました。
 1月31日、中国人民解放軍は、全土解放の終了を宣言しました。
 2月4日、北京放送は、台湾の年内解放を言明しました。
 2月9日、共和党のマッカーシー上院議員は、「国務省に57人の共産党員がいる」と演説し、マッカーシー旋風が始まりました。
 2月10日、民主自由党の大野伴睦らは、民主党連立派の犬養健らに反感を抱いて合同が難航していました。そこで、総裁の犬養を放り出したまま保利茂小坂善太郎政調会長ら衆院23人・参院5人が民主自由党に入党しました。
 2月17日、韓国大統領の李承晩が来日し、マッカーサーと反共政策につき会談しました。
 3月1日、民主自由党は、民主党の連立派と合同して、自由党と改称しました。総裁に吉田茂が就任しました。吉田学校の優等生である池田勇人佐藤栄作廣川弘禅ら党人派と融和しながら、占領統治下からの独立を推進しました。
 3月1日、池田勇人蔵相、記者会見で「中小企業の倒産や自殺はやむをえない」と発言し、国会で問題化しました。
 4月3日、社会党第6回大会で、左右両派が再統一しました。
 4月6日、トルーマン大統領は、ダレスを対日講和担当の国務省顧問に任命しました。
 4月24日、ダレスは、「対日講和促進」と言明しました。 
 4月25日、池田勇人蔵相・首相特使の白洲次郎らが渡米しました。
 4月26日、野党外交政策協議会は、平和・永世中立・全面講和を主張する共同声明を発表しました。
 4月27日、アメリカ政府筋は、「中立声明は理想論である」との見解を発表しました。
 4月28日、民主党野党派の北村徳三郎・苫米地義三らは、三木武夫の国民協同党と合同し、国民民主党を結成しました。最高委員長に苫米地義三、幹事長に三木武夫が就任しました。
 5月3日、マッカーサーは、憲法記念日の声明で、「共産党は侵略の手先」と非難し、非合法化を示唆しました。
 5月3日、自由党の秘密議員総会で吉田首相は、南原繁東大総長の全面講和論を「曲学阿世」の論と非難しました。
 5月6日、南原繁東大総長は、「学問への権力的強圧である」と反論しました。
 5月8日、吉田茂首相は、記者会見で、「講和・基地問題につき、米国などとの単独講和は事実上既にできている」と発言しました。
 6月4日、第2回参議院議員選挙が行われ、その結果、自由党52人、社会党36人、緑風会9人、国民民主党9人、無所属9人が当選しました。
 6月6日、マッカーサーは、吉田茂首相宛て書簡で、「共産党中央委員24人の公職追放」を指令しました。これを機会に徳田球一らは非公然体制に移行し、中央委員会は分裂により機能を喪失しました。
 6月16日、国家警察本部は、デモ・集会の全国的禁止を全警察に指令しました。
 6月17日、政府は、GHQと折衝し、「6月25日から公共の脅威・占領軍占領目的違反のものを除き緩和する」と発表しました。
 6月18日、ジョンソン国防長官・ブラッドレー統合参謀本部議長が来日しました。
 6月19日、ジョンソン国防長官らはマッカーサーと会談し、防備態勢・日本基地維持を検討しました。これを東京会談といいます。
 6月21日、ダレスが来日し、マッカーサーと講和条約の構想などについて会談しまし、その後、吉田首相とも会談しました。
 6月25日未明、38度線全域にわたり、戦争状態に入りました。これを朝鮮戦争の勃発といいます。
 6月25日14時、ソ連欠席の国連安保理は、北朝鮮を侵略者と認め、敵対行為の即時中止を要求するアメリカ決議案を採択しました。
 6月26日、マッカーサーは、吉田首相宛て書簡で、「朝鮮戦争についての報道態度を理由にアカハタの30日間発行停止」を指令しました。
 6月27日12時、トルーマン大統領は、韓国軍援助のため海空軍に出撃を命令しました。
 6月27日15時、国連安保理は、国連加盟国に武力攻撃撃退・韓国援助の勧告する決議案を採択しました。
 6月28日、北朝鮮軍は、韓国の首都ソウルを占領しました。
10  7月1日、アメリカ陸軍は、釜山に上陸しました。
 7月3日、ベトナム人民軍は、サイゴンの仏軍拠点を占領しました。
 7月4日、吉田内閣は、閣議で、朝鮮おける米国の軍事行動に行政措置の範囲内で協力する方針を了承しました。その内容は、以下の通りです。
(1)日本商船による韓国向け輸送
(2)特定労働者の超過勤務対策
 7月7日、国連の安保理は、アメリカによる国連軍(16カ国参加)指揮を決定しました。
 7月8日、トルーマン大統領は、マッカーサー元帥を国連軍最高司令官に任命し、司令部を東京に設置しました。
 7月8日、マッカーサーは、吉田首相宛て書簡で、「国家警察予備隊7万5000人の創設、海上本朝の拡充8000人増員」を指令しました。
 7月15日、最高検察庁は、徳田球一ら9人を出頭命令拒否の理由で逮捕状を発令しました。
 7月24日、GHQは、新聞協会代表に共産党員と同調者の追放を勧告しました。
 7月28日、東京の各新聞社・通信社・放送協会など言論機関は、解雇を申し渡しました。報道8社で336人を解雇されました。これをレッドパージ(the Red Purge)といいます。Redは赤、すなわち共産党、Purgeは追放する、つまり共産党員を追放するという意味です。
 7月25日、朝鮮戦争の国連総司令部、東京に設置。
11  8月10日、ポツダム政令で、警察予備隊令が公布されました。第1陣として7000人が入隊しました。
 8月16日、日産は、朝鮮特需で米軍よりトラックの大量受注に契約しました。
 8月25日、GHQは横浜に在日兵站司令部を設置と発表しました。これが朝鮮特需の本格化です。特需を背景に、景気が回復しました。これを特需景気といいます。
 9月14日、トルーマン大統領は、対日講和・日米安全保障条約締結予備交渉の開始を国務省に許可しました。
 9月15日、国務相顧問ダレスは、ワシントンで、「日本再軍備に制限を加えない」と演説しました。
 9月15日、国連軍は、仁川に上陸し、ソウルへの反攻を開始しました。
 9月21日、第2次シャウプ税制勧告を発表しました。その内容は、平衡交付金の大幅増額でした。平衡交付金とは、地方自治体が計算した不足分を国に申請して、交付されるお金です。
 9月26日、国連軍は、ソウルを奪回しました。
 10月3日、韓国軍は、38度線を突破して北進しました。
 10月7日、ドッジが来日し、「ディスインフレは堅持する」と声明しました。ディスインフレは、物価上昇率を高い状態から低い状態へ導く経済政策のことです。
 10月13日、吉田内閣は、GHQの承認を得て、戦犯覚書該当者以外の解除訴願中の1万90人の追放解除を発表しました。
 10月14日、トルーマン大統領は、ウェーク島でマッカーサー元帥と、対日講和条約・朝鮮戦争に関して会談しましたが、両者の意見が一致しませんでした。
 10月20日、国連軍は、平壌を占領しました。
 10月21日、フランス軍は、北部インドシナの重要基地ランソンを放棄しました。
 10月25日、中国人民義勇軍は、鴨緑江を渡河して、朝鮮戦線に出動しました。
 10月29日、朝鮮戦争の特需が累計で1億3000万ドルに達しました。
12  11月8日、GHQは、「11月21日に重光葵が巣鴨刑務所を仮出所する」と発表しました。これはA級戦犯では初の処置です。
 11月10日、吉田政府は、太平洋戦争開戦後の陸海軍学校入学者の旧軍人3250人に初の追放解除を発表しました。
 11月14日、衆議院議長の幣原喜重郎は、講和問題につき超党派外交の実現を各党に申し入れました。
 11月17日、吉田内閣は、「11月15日現在のレッドパージの人員を1171人」と発表しました。
 11月26日、北朝鮮軍・中国軍、総反撃を開始。
 11月30日、トルーマン大統領は、記者会見で、「朝鮮戦争で、原爆使用もありうる」と発言しました。
 12月3日、韓国国防長官、国連に対し原爆の使用を要請。
 12月4日、英首相のアトリーは、アメリカのトルーマンと会談して、原爆使用に反対を表明しました。
 12月5日、アメリカ極東軍司令部は、琉球米軍司令部宛に琉球列島米民政府に関する指令を通達しました。これをスキャップ指令といいます。その内容は、以下の通りです。
(1)沖縄の米軍政府を米民政府と改称し、初代民政長官にマッカーサーが就任する
(2)民政長官の監督下に住民の中央自治政府を樹立する
 12月7日、芦田均は、反共・自衛力増強・安全に関する意見書をGHQに提出しました。
 12月7日、池田勇人蔵相は、参議院で「貧乏人は麦を食え」と暴言を発し、問題化しました。
 12月13日、地方公務員法が公布され、地方公務員・公立学校教員の政治活動・争議行為等が禁止されました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
吉田茂とは
 吉田茂は、戦後の首相として最初の国葬になりました。たぶん、今後は国葬になる首相は誕生しないでしょう。戦前は、親英米派として軍部と戦い、敗戦後は占領軍と戦った吉田茂に信念を感じます。
 父の竹内綱は土佐の出身で、大蔵省の官僚だったり、衆議院議員でもありました。茂は、その5男として、1978(明治11)年に東京で生まれました。3歳の時、父の親友の実業家吉田健三の養子となりました。11歳の時、養父の吉田健三がなくなり、遺産50万円(今の40億円)を相続しました。
 28歳の時、東京帝国大学法科学政治学科を卒業しました。外交官になった吉田茂は、奉天総領事館勤務となりました。同期に広田弘毅がいました。当時、ロンドン・パリ・ワシントン・ニューヨークなどの欧米勤務をエリートコースという風潮があり、それからすると、吉田茂は別コースということになります。しかし「外務省の出世街道を歩いてきたとはいえない。しかし、今にして思うと支那大陸に早くから勤務できたことは、私をして非常に得るところがあった」と述懐しています。
 30歳の時、ロンドン大使館に転勤します。31歳の時、牧野伸顕の娘と結婚します。牧野伸顕は、明治の元勲大久保利通の次男で、外務省の官僚です。後に、外相・内相を勤め、二・二六事件の時には、襲撃を受けている程の人物です。そんな大人物に見抜かれるほど、吉田茂も大人物だったのでしょう。ロンドン大使館勤務時代に、「英国に好意を持ち、尊敬しすることに出会えた」と語っています。
 37歳の時、大隈内閣は、対華21カ条を要求しましたが、安東領事兼朝鮮総監府書記官であった吉田茂は、反対しました。この頃のことを、吉田茂の娘である和子は「祖父の牧野伸顕が外相時代、父の吉田茂は安東領事館の田舎暮らしでした。それを苦にもせずに知らん顔をしてつとめていた」と語っています。
 その結果、帰国後は、資料整理部に左遷されました。外務次官の幣原喜重郎が呼び出しても、聞こえない振りをしていたといいます。
 41歳の時、義父の牧野伸顕がベルサイユ条約日本全権として、パリに赴任する時、吉田茂は随行しています。この時のことを吉田は「長い外務省生活で自分から猟官運動をやったのは、パリ講和条約の全権随員と浜口内閣の外務次官の2度だけだ」と語っています。
 58歳の時、イギリス大使に任命されます。1936年ですから、二・二六事件が起きた時です。岡田啓介内閣の後、外交官だった広田弘毅が首相になります。この時、広田首相は、吉田茂に外相を打診しましたが、軍部から「自由主義者吉田茂」の外相就任に圧力がかかり、吉田茂の外相就任は叶いませんでした。吉田茂は、イギリス大使の時、「日英が中心となって、中国の秩序を回復し、世界の経済を発展させる」という構想を持っていたので、日独伊三国同盟には、激しく反対しました。
 60歳の時、イギリス大使を解任されます。
 64歳の時、ミッドウェー海戦で日本が大敗し、これを好機とみて、近衛文麿らと和平計画を立てましたが、木戸幸一に握りつぶされました。
 67歳の時、近衛文麿や牧野伸顕らと昭和天皇に戦争終結を訴える上奏文を提出しました。憲兵隊に逮捕され、40日間刑務所生活を体験しました。憲兵隊は吉田邸内に2人の女性スパイをお手伝いとして潜入させていたといいます。戦後、自由主義者で軍隊と戦った吉田茂ということで、東久邇宮内閣の外相に推薦されますが、木戸幸一の反対で、重光葵が外相になりました。重光の後任にやっと吉田茂は、外相に抜擢されました。
 69歳の時、高知県から立候補して当選しました。社会党の西尾末広は、吉田続投を企図していましたが、吉田は「首相は第一党から出すべきだ」と憲政の常道を強調して、辞退しました。
 70歳の時、昭和電工事件のあとを受け、内閣総理大臣になります。
 71歳の時、朝鮮戦争やサンフランシスコ講和条約による日本の独立を首相として対応しました。
 85歳の時、政界を引退し、89歳の時(1967年)、亡くなりました。
 次に、吉田茂のエピソードを調べてみました。エピソードが多い人でした。
(1)寺内正毅が首相になった時、吉田茂はお祝い行きました。寺内正毅は、吉田をから総理秘書官に誘いました。しかし、吉田茂は「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」と答えたといいます。
(2)イタリア大使として赴任して、ムッソリーニに挨拶に行った時、慣例では、ホストがゲストに歩み寄ることになっていましたが、「ゲストが歩み寄るように」とイタリア外務省から指示されました。しかし、ゲストの吉田茂は、ムッソリーニが歩み寄るまで直立不動だったといいます。
(3)吉田茂の娘の和子(外相の麻生太郎氏の母)は、「父は軍事的な人とか、何でも彼でも頭から押えようとする人はきらいである。思想のあわない人と仕事の出来ないいらだたしさをまぎらわすためか、イタリーにいた間は、すみからすみまで、自動車で遊び歩いた」と証言しています。
(4)終戦直前に刑務所に入ったことがある吉田茂は「君は牢屋に入ったことがあるかね?1度ははいっていいところだよ」と語ったといいます。
(5)公職追放の鳩山一郎から、後事を託された吉田茂は、主治医の武見太郎に相談すると、「あなたには首相は無理だ、あなたは政治家ではなく外交官だ」言われたといいます。しかし、吉田茂は、大英連邦史やアメリカ独立戦争敗退後のイギリスの研究をしていたので、妻雪子に「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」と説得したといいます。武見太郎は、後に、「ケンカ太郎」として有名になった日本医師会会長です。
(6)マッカーサーが吉田茂宛に書く書簡の冒頭にDearと書いていました。これは日本では拝啓にあたる儀礼分ですが、吉田茂はわざわざ「親愛なる吉田総理」と翻訳して、国会や記者会見の場で使用しました。そのことを知ったマッカーサーは、次からDearを削ったとか、苦笑いしていたという話です。
(7)憲法改正を急ぐ吉田茂はその理由を、「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ(General Head Quarters)というが、実は、Go Home Quicklyの略語だというものもあるくらいだ」と比喩的に語っています。
(8)日米安全保障条約の調印の時、吉田茂は、側近中の側近である池田勇人をも追い出し、1人で署名しました。これは池田勇人ら独立後の指導者を、日米安保否定派から守るためだったといいます。
(9)マッカーサーと対面した時、吉田茂は、葉巻きをすすめられましたが、「それはマニラでしょう?私はハバナしか吸いません」と堂々と対応したといいます。
(10)昭和天皇は吉田茂に対して、「血色がいいね」といわれた時、吉田は「わたしは人を喰っていますので」と答えました。天皇に対しても、即答してユーモアを出せる人だったのです。天皇から大勲位を受賞した時、吉田茂は「財産は使い果たしてしまったが、その代わり陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と言ったということです。
(11)明仁親王の立太子の式典に参加した時、吉田茂は、昭和天皇に自ら「臣茂」と話したり、書類に署名しました。
 次に、吉田茂の暴言を調べてみました。
(1)労働組合のストライキについて、吉田茂は「かかる不逞の輩が、わが国民中に多数あるものとは信じませぬ」と表明しました。
(2)資本主義国との単独講和を推進する吉田茂に対して、南原繁東大総長が全面講和論を主張した時、吉田茂は「これは国際問題を知らぬ曲学阿世の徒、学者の空論に過ぎない」と表明しました。
(3)保安隊が自衛隊となり、防衛庁が設置された時に、「自衛隊は軍隊となんら変わらない」と追求されると、吉田茂は「自衛隊は戦力なき軍隊である」と表明しました。
(4)地元高知県から有力者が度々陳情に訪れたが、吉田茂首相は、「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と言って取り合わなかったといいます。
(5)衆議院予算委員会で、社会党の西村栄一の問いに対して、吉田茂は「無礼じゃないか」と答え、西村が「質問しているのに何が無礼だ。日本の総理大臣として答弁できないのか」と再度問いただすと、吉田は「バカヤロー!」と国会では前代未聞の発言をし、これがきっかけで、バカヤロー解散となりました。
吉田茂閨閥図(は政治家)
竹内綱
┏━ 健  一 (英文学者)
吉田健三 ・・ ・・茂 ┣━ 桜  子
佐藤信彦 ━━━━ さわ 吉田寛
‖━ ╋━ 正  男 (学習院大教授)
佐藤茂世 岸信介 ━━━洋子
佐藤栄作 ‖━ 安倍晋三
安倍晋太郎
大久保利通 牧野伸顕 雪 子 ┣━ 江子
┗━ 和子
‖━━━ 麻生太郎
麻生太賀吉 ━━━信子
三笠宮寛仁親王

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