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エピソード

270_03

政党の復活と政権の推移W(吉田茂内閣)
 ここでは、激動の1951年〜1952年を扱います。世界情勢とアメリカの政策と吉田茂との駆け引きが興味をそそられるところです。
 1949(昭和24)年2月16日、@49第三次吉田内閣(民主自由党・民主党連立)が誕生しました。
 1951(昭和26)年1月1日、北朝鮮・中国軍は、38度線を越えて、南下しました。国連軍は、ソウルを撤退しました。
 1月1日、マッカーサーは、年頭の辞で「集団安全保障と講和」とを強調しました。
 1月8日、前首相の芦田均は、「自衛の軍備は違憲ではない」と講演しました。
 1月10日、トルーマン大統領は、対日講和締結交渉の大統領特別代表にダレスを任命しました。
 1月18日、警察予備隊長官は、「軽機関銃を装備する」と言明しました。
 1月20日、吉田茂首相は、「再軍備は国民の自由である」と表明しました。
 1月21日、社会党第7回大会は、平和3原則および再軍備反対を決議し、委員長に鈴木茂三郎を選出し、中央執行委員の半数を左派が占めて、主導権を握りました。
 1月25日、米講和特使ダレスが来日し、吉田首相と対日講和条約に関して会談しました。
 1月27日、共産党の川上貫一は、衆議院で、吉田首相に対して「全面講和と再軍備反対」を主張しました。その結果、川上は懲罰委員会に付せられ、その後除名されました。
 1月29日、経団連・日経連・経済同友会など経済8団体は、ダレス特使に講和に関する要望を提出しました。その内容は、多数講和・集団安全保障・経済的自立でした。
 2月10日、平野力三が追放を解除されると、社会革新党を解党して社会民主党を結成しました。委員長に平野力三、書記長に佐竹晴記が就任しました。民族自立・協同主義を掲げて全国農民組合の拡大に力を入れました。
 2月11日、ダレス特使は、日本政府は米軍の駐留を歓迎と声明しました。吉田首相は、「米国との安全保障取り決めを歓迎し、自衛の責任を認識する」と声明しました。
 3月1日、警察予備隊は、先に追放解除された旧軍人から300人の幹部採用を決定しました。
 3月7日、国連軍は、ソウルを奪回しました。 
 3月24日、APは、アメリカの対日講和条約草案完成と報道しました。
 3月24日、国連軍最高司令官のマッカーサーは、「中国本土攻撃も辞せず」と声明しました。
 3月26日、米国務省は、中国本土攻撃を示唆したマッカーサーに、重要声明の事前連絡を要請しました。
 3月27日、吉田内閣は、米政府が作成した対日講和条約草案の交付を受けました。
 4月11日、トルーマン大統領は、マッカーサーを解任し、連合国最高司令官の後任にリッジウェイ中将が就任しました。
 4月16日、マッカーサー元帥が帰国しました。衆参両院は、感謝決議案を可決しました。
 4月18日、ダレス特使は、連合国最高司令官のリッジウェイ・首相の吉田茂と3者会談を行い、対日講和・安全保障に関する米国の基本的態度不変を確認しました。
 5月5日、マッカーサーは、米上院聴聞会で「日本人の成熟度は12歳、勝者にへつらう傾向」と発言しました。
 6月11日、追放中の鳩山一郎が脳溢血で倒れました。
 6月11日、旧陸士58期生・海兵74期生・同相当生245人は、幹部候補生として警察予備隊に入隊しました。
 6月16日、GHQは、吉田内閣への覚書で、鳩山一郎・川上丈太郎ら73件のメモランダム=ケース(個別的覚書追放)を撤回しました。
 6月20日、吉田内閣は、第1次追放解除を決めし、石橋湛山三木武吉菊池寛ら2958人の名簿を発表しました。
 6月21日、国際労働機構(ILO)は、日本の加盟を承認しました。
 6月23日、ソ連代表のマリクは、朝鮮停戦交渉を提案しました。
 7月1日、北朝鮮と中国は、国連軍の休戦会談提案を承諾しました。
 7月10日、朝鮮休戦会談は、開城で開催されました。
 7月11日、米国務省顧問のダレスは、「講和条約と同時に日米安全保障条約を結びたい」と言明しました。
 7月20日、アメリカは、対日講和会議への招請状を50カ国に送付しました。
 7月23日、ビルマは、対日講和草案に反対であることをアメリカに通知しました。
 7月24日、自由党は、社会党・緑風会に講和全権団への参加を要請しましたが、社会党は拒否しました。
 7月27日、フィリピン最高会議は、米の対日講和草案に反対方針を表明しました。
 8月6日、吉田内閣は、第2次追放解除を決め、鳩山一郎・大麻唯男緒方竹虎前田米蔵松野鶴平松村謙三・河上丈太郎(社会党)・河野密(社会党)ら1万3904人の名簿を発表しました。解放後、松村謙三・大麻唯男ら戦前の旧民政党議員は、民政旧友会を経て新政クラブを結成しました。
 大野伴睦らは、鳩山系元議員の復帰のため早期に解散を要求していましたが、吉田首相は、断固拒否しました。
 8月15日、アメリカ・イギリスは、対日講和条約最終草案を発表しました。中国の周恩来首相は、これを非難しました。
 8月16日、吉田内閣は、旧陸・海軍正規将校1万1185人の追放解除を発表しました。
 8月16日、吉田内閣は、講和条約最終草案の全文を発表しました。
 8月16日、吉田首相は、臨時国会で講和をめぐる日米交渉の経過を説明し、「講和後の米軍駐留は日本から希望した」と報告しました。
 8月22日、講和会議全権委員6人を任命しました。主席は吉田茂で、緑風会・国民民主党からも参加しました。
 8月25日、インドは、外国軍の日本駐留や中国の講和除外に抗議し、対日講和会議不参加を通告しました。
 8月31日、吉田首相ら講和全権団49人が羽田を出発しました。
 9月4日、対日講和会議がサンフランシスコで開かれ、52カ国が参加しました。
 9月5日、ソ連全権は、条約修正案を提出し、中国代表の参加を要求しましたが、拒否されました。
 9月8日、吉田茂首相らは、サンフランシスコ講和会議に出席し、対日平和条約に調印して、独立を果たしました。調印国は49カ国でしたが、ソ連・チェコ・ポーランドは、新しい戦争のための条約であるとして調印を拒否しました。
 9月8日、吉田首相は、日米安全保障条約に調印しました。
 9月8日、吉田内閣は、旧特高・思想検察関係336人の追放解除を発表しました。
 9月18日、中国の周恩来は、「中国不参加の対日講和条約は非合法・無効」と声明しました。
 10月16日、日本共産党は、五一年テーゼを採択し、武装闘争方針の具体化が始まりました。
 10月24日、社会党第8回大会で、講和・安保両条約に対する態度をめぐり、左派の鈴木茂三郎と右派の浅沼稲次郎とに分裂しました。
 10月26日、衆議院は、講和条約を賛成307・反対47で承認、安保条約は賛成289・反対71で承認しました。
 11月18日、参議院は、講和条約を賛成174・反対45で承認、安保条約は賛成147・反対76で承認しました。
 11月26日、吉田首相は、アメリカのラスク国務次官補と行政協定につき会談しました。
 12月22日、日韓会談で、国籍・永住権につき原則的に意見が一致しました。
 12月24日、吉田首相は、ダレス宛て書簡で「蒋介石の国民政府と講和する」を確約しました
 1952(昭和27)年1月18日、韓国政府は、海洋主権を主張し、李承晩ラインを設定しました。これを李ラインといいます。
 1月21日、札幌市で白鳥一雄警部が射殺されました。これを白鳥事件といいます。後に、共産党員の村上国治が逮捕されました。
 2月8日、国民民主党は、松村謙三らの新政クラブと農民協同党の一部と合同して、改進党を結成しました。三木武夫が民主党から引き続いて幹事長に就任しました。
 2月9日、吉田内閣は、追放解除を決め、宇垣一成有田八郎ら138人の名簿を発表しました。
 2月19日、青梅線小作駅から貨車4両が暴走しました。これを青梅事件といいます。後に、共産党員10人が起訴されました。
 2月28日、日米行政協定が調印されました。その内容は、以下の通りです。
(1)米軍駐留の条件を規定
(2)刑事裁判権は属人主義とする。属人主義とは、その人が現在どこにいるかにかかわらず、その人の国籍のある国家の法律に従うべきであるという考え方です。その対語が属地主義といいます。
(3)日米安全保障条約に基づくとして国会承認の手続きをふまず
 3月6日、吉田首相は、参議院で「自衛のため戦力は違憲ではない」と答弁しました。
 3月10日、吉田首相は、野党の猛反発で、「自衛のため戦力は違憲ではない」を訂正しました。
 3月26日、衆議院は、「行政協定は国会の承認を要する」との決議案を否決しました。
 3月29日、武装警官100人は、共産党の工作隊23人を検挙しました。
 4月28日、対日講和条約・日米安保条約が発効しました。
 4月28日、GHQ・対日理事会・極東委員会が廃止されました。
 4月28日、その結果、岸信介ら5700人が自動的に追放を解除されました。
 4月28日、日華平和条約が調印されました。
 5月1日、中央メーデーで、使用不可の皇居前広場に入ったデモ隊6000人は、警官隊5000人と衝突しました。これを血のメーデー事件といいます。
 6月9日、日印平和条約が調印されました。
 6月13日、追放解除された重光葵が改進党総裁に就任しました。
 6月24日、吹田市で朝鮮動乱2周年記念集会後、デモ隊は、人民電車を動かし、警官隊と衝突して、60人が逮捕されました。これを吹田事件といいます。
 7月1日、自由党議員総会で、吉田首相の側近である福永健司を1年生議員でありながら幹事長に推薦しました。しかし、反対派は激しく抵抗して、吉田は窓に押し付けられて身動きできなくなりました。
 7月4日、衆議院は、参議院修正通り破壊活動防止法案を可決しました。
 7月7日、名古屋で、デモ隊と警官隊が火炎瓶とピストルで衝突し、121人を検挙しました。これを大須事件といいます。
 7月14日、警察予備隊は、幹部増強のため旧軍人の大佐ら236人を採用しました。
 7月30日、鳩山系議員の大野伴睦や吉田反乱部隊の石田博英らの働きかけで、福永健司は、幹事長指名を辞退し、党人御三家の1人である林譲治が幹事長に就任しました。党人事の主導権を鳩山不在の鳩山系が握りました。その結果、自由党内での対立が深刻化しました。
 7月、平野力三は、党勢がふるわず、農民協同党と合同して、協同党に発展的解消しました。
 7月31日、保安庁法が公布され、保安庁を設置し、警察予備隊を保安隊に編成替え、海上に海上警備隊を新設しました。
 8月4日、吉田首相は、保安庁長官として保安庁幹部に「新国軍の土台たれ」と訓示しました。
 8月22日、A級戦犯の元首相である平沼騏一郎が服役中に死去しました。
 8月28日、吉田派内では、党人派の廣川弘禅と官僚派の増田甲子七との対立も激化していました。
 吉田総裁は、反主流派の気勢を制するため松野鶴平の示唆で「抜き打ち解散」を断行しました。
10  9月18日、日本の国際連合加入申請が、ソ連の拒否権で否決されました。
 9月21日、石川県内灘村緊急拡大村議会は、米軍の試射場接収反対を決議しました。これを内灘闘争の始まりといいます。
 9月29日、自由党の吉田茂総裁は、選挙活動で、反吉田演説をしているとして、石橋湛山・河野一郎を除名しました。
 10月1日、@第25回総選挙が行われ、自由党240人、改進党85人、右派社会党57人、左派社会党54人が当選し、共産党は全員落選でした。自由党は第1党になりましたが、ぎりぎりの過半数でした。再起不能と言われ、悲劇の宰相候補と言われた鳩山一郎が当選して、政界に復帰しました。鳩山派の動向次第で政局は不安定なものとなりました。
 10月6日、通産省は従来の取締り方針を改め、兵器産業を保護・育成する基本方針を決定しました。
 10月13日、平野力三らの協同党が解党しました。
 10月15日、保安隊4000人が都内を行進しました。
 10月23日、鳩山一郎は、吉田茂首相と会談し、約束どおり、政権移譲を求めましたが、拒否されました。そこで、三木武吉・河野一郎らと共に対決姿勢を強めることになりました。また、占領政治・吉田時代からの脱却を唱えて、石田博英ら自由党内の反吉田派とも連携しました。 
 10月24日、安藤正純・三木武吉ら自由党鳩山派強硬分子は、民主化同盟を結成し、委員長に安藤正純が就任しました。これを民同派といいます。
 10月30日、@50第四次吉田茂内閣が誕生しました。法相に犬養健、通産相に池田勇人、運輸省に石井光次郎、建設相に佐藤栄作、官房長官に緒方竹虎らが就任しました。吉田茂は、鳩山派を抱き込み党内民主化等の要求を受け入れ、追放解除組の緒方竹虎を起用して、体制の安定化を図りました。
11  11月4日、米大統領選挙で、共和党のアイゼンハワーが当選しました。
 11月27日、池田勇人通産相は、衆院で「中小企業の倒産・自殺もやむをえない」と発言しました。
 11月28日、池田通産相の不信任案が提出されると、鳩山一郎らの民同派は、欠席戦術を採用しました。その結果、不信任案が可決されました。
 11月29日、池田勇人通産相が引責辞任しました。
 12月13日、自由党の鳩山一郎らの民同派は、補正予算の野党修正案に同調を決定しました。
 12月16日、官房長官の緒方竹虎は、吉田茂に鳩山一郎らとの和解を進言し、吉田もこれを受け入れました。その結果、石橋湛山・河野一郎の除名を取り消し、総務会長に三木武吉が就任しました。三木は廣川弘禅をも引き入れました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
明治人で、戦前を生き抜いた政治家像
 最近(2006年)の国会、政治家を見ていて、戦後政治史とは雲泥の差を感じます。
 二大政党政治を支援する国民を裏切った民主党の体たらくです。自民党との違いを出そうと若手中心に切り替えました。若手政治家が老練政治家を実力で押しのけて、若手中心の指導部なら、自由競争を生き抜いたたくましさがあります。ところが、老獪政治家から、チャイルドシート(指定席)をあてがわれた若手に逞しさ・厳しさがありません。
 次に、選良である議員・弁護士の西村慎吾氏は、愛国心を唱え、国民に高潔を求めながら、自分は愛国心とは相容れない犯罪行為をし、かつ、議員にしがみついています。本当に国民に必要とされているなら、潔く議員辞職して、次回、立候補すべきでしょう。このような最低の道徳も弁えない人・愛国心の1かけらもない人が、選良として存在していることに、日本の道徳・愛国心が透けて見えます。
 戦後の政治家はどうだったのでしょうか。前項では、吉田茂を扱いました。明治11年に生まれ、軍国主義時代は軍部と戦い、戦後は占領軍と戦いました。主義・主張は色々ですが、明治人としての威厳や逞しさ・潔さを感じました。これが、武士道に通ずる日本の伝統ではないでしょうか。
 私が新聞を読むようになってから、登場する政治家が戦後に出てきています。ここでは、そいった人々を調べてみました。首相となった鳩山一郎については、別項で扱います。
(1)最初は社会党左派の鈴木茂三郎です。モサさんと呼ばれていました。
 1915年に、小僧として働きながら、今で言うと苦学しながら、早稲田大学専門部政治経済科を卒業して、新聞記者になりました。シベリア出兵を目の当たりにして、軍部への不信感を強め、戦争の悲惨さを感じます。ソ連の社会主義を体験します。そこで、新聞記者の限界を感じ、社会主義運動に関わり、日本無産党を結成し、検挙という弾圧を体験します。
 戦後、衆議院議員として、片山哲社会党内閣の予算委員長になります。この時、予算案撤回の動議を可決させて、片山哲内閣崩壊のきっかけとなりました。
 1951年に日本社会党委員長になったモサさんは、「青年よ、再び銃をとるな」「婦人よ、夫や子供を戦場に送るな」と非武装中立論を訴え、大きな反響をよびました。演説には力が入ると高い声が何色かに変わるので、「7色の声」の持ち主と言われました。1955年の総選挙では、社会党左派の当選者を16人から89人に増加させました。モサさんは、社会党右派の河上丈太郎と合同し、「55年体制」をつくりました。
 1960年に例の西尾末広が統一社会党から脱党して、民社党を結成した時、責任を負って、委員長を辞任しました。ここまでのモサさんは、平和運動の発展に尽力して、輝いていました。
(2)次は三木武夫首相の父である三木武吉です。「七転び八起き人生」が座右の銘です。
 中学生の時、うどん食い逃げ事件退校処分となり、京都同志社中学に転向しましたが、病気で帰郷しました。その後、東京に出て、新宿で女遊びをしながら、1904年に東京専門学校(今の早稲田大学)を卒業しました。同級生に大山郁夫・永井柳太郎らがいました。日本銀行に入りましたが、「ポーツマス条約反対弾劾」や「桂太郎内閣退陣要求」の反政府の演説をして、免職されました。
 1907年に司法試験に合格して裁判官になりましたが、7ヶ月で辞め、自由な弁護士に転職しました。
 衆議院議員になり、1920年の原敬内閣の蔵相である高橋是清が「陸軍は10年、海軍は8年」と海軍予算案を説明していると、「ダルマは9九年」とヤジったといういいます。高橋是清のあだ名がダルマだったからです。浜口雄幸蔵相の大蔵参与官になりましたが、京成電車疑獄事件に連座して有罪となる体験もします。
 1942年の翼賛選挙の時、非推薦で当選し、民政党の幹部になりました。非推薦で当選した鳩山一郎は政友会の幹部になりました。鳩山と三木は政敵でしたが、軍部に抵抗する党人(はえぬきの政党人)としては、一致していました。
 戦後、三木武吉は郷里の高松で衆議院選挙に立候補しました。相手候補は「ある有力な候補者は、メカケ3人を連れて郷里に帰り、小豆島に一緒に住まわせている。かかる不義不道徳な輩を、わが香川県より選出すれば、県の恥辱である」と三木を攻撃しました。次に演壇に立った「無力な候補者は、私がメカケを3人も連れて帰ったといっているが、女の数は3人ではありません。5人であります」と反撃して、その理由を人情論でかわし、トップ当選しました。
 三木武吉は鳩山一郎と日本自由党を結成しました。しかし、組閣直前に鳩山一郎は公職追放されました。吉田茂首相は、政党が軍部に降参したことに不信感を抱いており、党人である河野一郎幹事長や三木武吉総務会長に相談しません。鳩山派は不満を持ちましたが、三木武吉は、政権が社会党に行くよりはましだと考え、吉田茂に協力しました。衆議院議長になった直後に、三木武吉も公職追放されました。1946年のことでした。小豆島で読書三昧の生活を送りました。充電期間です。
 その後、1951年に追放解除されると、鳩山政権の誕生・保守合同の「55年体制」に尽力しました。
(3)次は大野伴睦です。「猿は木から落ちても猿だが政治家は選挙に落ちればタダの人だ」と名言を残したり、新幹線岐阜羽島駅と作らせたことでも有名です。
 ここでは、政治圧力という格好の資料があります。それを紹介して、大野伴睦を推測します。
 まず、昭和37年に発行された『睦友通信』に岐阜薬専の設立の経過が掲載されていました。
「いよいよ、国の認可申請の段階で、国が専門学校の増設を認めない方針、さらに特別に認めるとしても同じ薬専の設立認可の申請を隣の愛知が先に出していたことで、せっかくの渡辺さんの厚意が水の泡と帰するところ、再び天運と謂うか時の文部大臣が鳩山一郎さんであり、鳩山先生の愛弟子が岐阜県出身の大野伴睦さんでありました。大野伴睦さんは岐阜市とともに認可の猛運動を展開され、文部大臣も大いに困られたということです。
 そのとき、”鳩山先生、愛知と岐阜では同じ薬専でも、作る精神が違います。岐阜は一個人の篤志によって立てるのです。その気持ちを汲んでいただきたい。そして、この精神こそ教育ではありませんか”と伴睦さんは陳情され、文部大臣は、”大野君はいいことを言うね。岐阜は全国にも例のない一篤志家によってつくるんだってね、これでは例え愛知県でなくても岐阜に真っ先に認可すべきだ”。
 二人の政治家のハラ芸をこう理屈づけられ、全国の特例として愛知の先を越して岐阜が認可されたのであります」。
 次に羽島駅の話です。岐阜県には新幹線の駅が1つもありませんでした。そこで、岐阜出身の大物政治家大野伴睦は、国鉄の幹部に「おれはどこで降りればいいんだね?」と言ったそうです。当初は、名古屋・京都間は鈴鹿トンネルを掘って、中間駅を設けないという予定を東海道線と並行させて走らせるよう変更し、急遽羽島駅が作られることになったそうです。それを裏付けるように羽島駅には、大野伴睦夫妻の銅像が立っています。
 東京へ行く途中、夜の羽島駅の照明が誘蛾灯のような役割をしていて、蛾の死骸がホームに散乱していました。私の住んでいる相生の新幹線駅も、造船の衰退による人口減でさびれていますが、「未だましか」とつくづく政治駅の悲哀を感じたものです。
 しかし、最近はかなり高層ビルも立ち、面目を一新しています。その理由は、地元に人によると、何もない所に立ったことが幸いして、マイカー時代の到来で、安価な土地が膨大な駐車場となり、新幹線通勤に利用されるようななったということです。
 議員としては、林譲治・益谷秀次とともに党人御三家と呼ばれていました。戦前から、鳩山一郎の側近で、外務官僚の吉田茂とは対立していました。戦後、鳩山に接近した三木武吉には反発する関係でした。1952年8月に衆議院議長となりましたが、2日後の抜き打ち解散で議長を辞任しました。10月に再び衆議院議長となりましたが、5ヵ月後のバカヤロー解散で、議長を辞任しました。
1945年 1946年 1947年 1948年 1949年 1950年 1951年 1952年
日本自由党 ━━┳━━ ━━━━━ 民主自由党 ━━━━━ 自由党━━ ━━━━━ 自由党
日本進歩党 ━━━━━ 民主党━━ ━━┻━━ ━━━━━ 国民民主党 ━━━━━ 改進党
日本協同党 協同民主党 国民協同党 ━━┳━━ ━━━━━
国民党
農民党 農民新党 農民協同党 ━━━━━ ━━━━━ 協同党
社会革新党 ━━━━━ ━━━━━ 社会民主党
右派━━━ 右派
日本社会党 ━━━━━ ━━━━━ ━━╋━━ ━━━━━ ━━━━━
左派━━━ 左派
労働者農民党 ━━━━━ ━━━━━ ━━━━━ 労働者農民党
日本共産党 ━━━━━ ━━━━━ ━━━━━ ━━━━━ 国際派━━ ━━━━━ 国際派
主流派━━ ━━━━━ 主流派
緑風会 ━━━━━ ━━━━━ ━━━━━ ━━━━━ 緑風会

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