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エピソード

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経済自立と労働運動T(労働組合法、二・一ゼネスト、労働基準法)
 アメリカの占領政策は、一瞬、日本をアジアのスイスにするのかと思うぐらい、徹底した民主主義・平和主義を推進しました。当然、戦前からの指導者には、我慢ならなかったことでしょう。戦犯として巣鴨の刑務所に送られたり、抵抗勢力として、追放されます。
 所が、突如、岸信介や鳩山一郎らがどんどん解除され、日本の指導者として、復帰します。鬼畜米英を唱えていた彼らは、熱心な親米派に転向していました。そういう裏取引があったのかもしれません。
 アメリカの対日政策転換の背景は何だったのでしょうか。一言で言えばアジア情勢の激変といえます。朝鮮半島で東西が熱い戦争をしました。決定的だったのが、中国大陸で、アメリカが支援する蒋介石が台湾に追いやられ、ソ連が支援する毛沢東が社会主義政権を樹立したことです。ベトナム北部でもホー=チ=ミンの社会主義国家が誕生します。
 アメリカ側にあるのは、南朝鮮と台湾だけです。そこで、どうしても、日本を中立でなく、アメリカ側に着けさせる必要があったのです。大国のエゴによって、日本は、アジアのスイスたり得なくなったのです。
 1945(昭和20)年4月7日、@42鈴木貫太郎内閣が誕生しました。
 8月9日、中国共産党の毛沢東朱徳は、対日戦は最後の段階に入ったと声明しました。
 8月15日、日本は、無条件降伏・ポツダム宣言受諾を発表しました。
 8月17日、@43東久邇宮稔彦内閣が誕生しました。
 8月25日、中国共産党は、目前の時局に関する宣言を発表し、内戦回避・民主連合政府樹立を主張しました。
 8月26日、蒋介石の国府軍は、重慶その他の後方地区から南京・上海・北平に進駐を開始しました。
 8月30日、連合軍最高司令官SCAPマッカーサーは、神奈川県厚木飛行場に降り立ちました。
 9月2日、臨時政府主席のホー=チ=ミンは、ベトナム民主共和国成立を宣言しました。
 9月11日、GHQは、東条英機ら39人の戦争犯罪人の逮捕を命令しました。
 9月20日、日本政府は、緊急勅令第543号で、ポツダム命令の受け入れを表明しました。
 10月9日、@44幣原喜重郎内閣が誕生しました。
 10月11日、マッカーサーは、幣原首相に対し、(1)婦人参政権の付与(2)労働組合結成の奨励(3)学校教育の自由主義化(4)国民生活を恐怖に陥れた秘密審問司法制度の撤廃(5)独占的経済機構の民主化を指示しました。これを5大改革の指示といいます。
 12月22日、労働組合法を公布しました。その内容は、団結権を保障したり、団体交渉権を保護するというものでした。これは、占領軍の民主化政策の一貫で、全国に労働組合が結成されました。 
 戦前の最大労働組合員数は42万ですが、戦後の1946年にはその10倍以上になっています。
労働組合員・ストライキの推移(戦争中は労働運動禁止)
  1936年 1945年 1946年 1947年 1948年 1949年 1950年
労働組合員 42万人 38万人 492万人 569万人 667万人 665万人 577万人
同盟罷業 498件 95件 622件 381件 667件 511件 566件
 1946(昭和21)年2月9日、農民運動の中心的組織である日本農民組合が結成されました。
 2月17日、金融緊急措置令を公布し、旧円預金を封鎖し、新円を発効しました。
 3月17日、全国官公職員労働組合連絡協議会(全官公労協)が結成されました。
 4月10日、@22衆議院議員総選挙が新選挙法により実施されました。
 5月1日、第17回メーデーが11年ぶりに復活しました。皇居前広場に50万人が参加し、飯米獲得人民大会が開かれました。
 5月3日、極東国際軍事裁判所が開廷しました。これを東京裁判といいます。
 5月15日、対日理事会で、アメリカ代表のアチソンは、「共産主義を歓迎せず」と言明しました。
 5月19日、食糧メーデーが行われ、「国体はゴジされたぞ、朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね」と書かれたプラカードが問題化し、後に不敬罪で起訴され、名誉毀損で有罪となりました。
 5月22日、@45吉田茂内閣が誕生しました。
 5月、資本家の生産サボタージュに対して、労働者の生産管理が主要の戦術となりました。東芝・東宝・日本鋼管など180社で生産管理が行われました。
 6月18日、東京裁判主席検事キーナンは「天皇を戦争犯罪人として裁判しない」と言明しました。
 7月12日、蒋介石の国府軍50万人は、共産軍を攻撃し、全面的国共内戦が開始されました。
 8月1日、日本労働組合総同盟(総同盟)が結成され、会長に松岡駒吉が就任しました。総同盟は、旧同盟系で反共の全国的組織で、社会党左派が主導権を握りました。
 8月19日、全日本産業別労働組合会議(産別会議)が結成され、委員長に聴濤克巳が就任しました。産別会議は、左翼的な全国組織で、共産党系が主導権を握りました。
 9月27日、労働関係調整法が公布され、労働争議調停法は廃止されました。
 9月、全国官公庁労働組合(全官公労)が結成されました。組合員は260万人に達しました。これは全労働組合員の52.8%になります。
 10月、共産党系の産別会議の指導で、10月闘争が始まりました。全炭・東芝・NHKなどがストに突入し、大幅な賃上げに成功しました。
 11月3日、日本国憲法が公布されました。
 11月、官公庁の賃金水準は民間の45%だったことを背景に、官公庁・郵便局・国鉄・教員などの労働組合は、全官公庁労働組合共同闘争委員会を結成しました。吉田茂首相に対して、待遇改善と越年賃金を要求しました。
 12月、中央労働委員会の末広巌太郎委員長は、調停案を全逓・国鉄・政府に提示しました。しかし、全逓・国鉄がこれを拒否したので、労働側は、実力行使を宣言しました。
 12月17日、全官公庁労組は、産別会議を中心に、組織労働者の99%500万人を結集し、生活権確保・吉田反動内閣打倒国民大会を開催しました。日本共産党の徳田球一書記長は、「デモだけでは内閣はつぶれない。労働者はストライキをもって、農民や市民は大衆闘争をもって、断固、吉田亡国内閣を打倒しなければならない」と挨拶しました。
 12月18日、ワシントンの極東委員会は、日本の労働組合奨励策に関する16原則を決定しました、その内容は、以下の通りです。
(1)民主化のための労働運動の必要性を認める
(2)労働運動は占領の利益を阻害しないこと、労働運動も連合軍の管理下におかれる
(3)ストライキその他の作業停止は、占領軍当局が占領の目的ないし必要に直接不利益をもたらすと考えた場合にのみ禁止される
 1947(昭和22)年1月1日、吉田茂首相は、年頭の辞をラジオを通じて、「政争の目的の為にいたずらに経済危機を絶叫し、ただに社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするがごときものあるにおいては、私はわが国民の愛国心に訴えて、彼等の行動を排撃せざるを得ない。しかれども、かかる不逞の輩がわが国民中に多数ありとは信じない」と挨拶しました。ここでいう「かかる不逞の輩」とは労働運動の指導者ですから、労働側から猛烈な反発が出ました。
 1月8日、吉田首相は、連立内閣工作のため、日本社会党右派の西尾末広らに連立を持ちかけ、労働運動などの切り崩しを図りまし。右派から4名が入閣することでまとまりかけたが、左派の反対で、この連立内閣は流産しました。
 1月9日、吉田首相の発言を受けて、全官公庁労働組合拡大共同闘争委員会は、「2.1にスト実施」を決定しました。
 1月15日、「2.1スト」に備えて、産別・中立系400万人を結集し、全国労働組合共同闘争委員会(全闘)を結成しました。議長に伊井弥四郎が就任しました。
 1月18日、全官公庁共同闘争委員会は、ゼネスト宣言拡大共闘委を開いて、「われら260万の全官公庁労働者は、2月1日午前零時を期して決然として立ち、全国いっせいに無期限ゼネストに突入する」と宣言しました。民主人民政府樹立の政治的ストライキの意図がありました。
 1月22日、GHQ経済科学局長のマーカットと労働局長エオドル・コーエンは、伊井弥四郎議長などを召集し、「ゼネストは許されない」と忠告しましたが、伊井議長はその忠告を拒否しました。
 1月28日、吉田内閣打倒・危機突破国民大会は、皇居前広場に30万人が参加して開催されました。ゼネスト態勢が全国をおおい、革命前夜の様相を帯びてきました。
 1月29日、全官公庁共同闘争委員会は、政府と第3次交渉を持ちました。中央労働委員会の労働者側委員は、社会党右派の西尾末広・松岡駒吉、社会党左派の荒畑寒村、共産党の徳田球一でした。右派の西尾末広は「ゼネストは凶器だ」と反対でした。政府側委員は、石橋湛山蔵相でした。
 労働側委員は、現行の平均賃金556円を1800円に引上げるよう要求しました。そこで、中労委の末広厳太郎委員長は、18歳で最低賃金650円、平均で1000円にするという調停案を出しました。労働側が再度1200円を要求したので、末広委員長は、1200円を政府に勧告しました。政府側は、労働側の分裂を見越して、「調停案を受け入れるが、当分は平均984円とする」という条件を出しました。その結果、交渉は決裂しました。
 1月31日16時、マッカーサーは、最初は放任していましたが、「衰弱した現在の日本では、ゼネストは公共の福祉に反するものだから、これを許さない」と声明し、「2.1ゼネスト」は占領政策に反するという態度に転換しました。その結果、「2.1ゼネスト」の中止を命令しました。これを占領軍の民主化政策転換といいます。
 1月31日21時15分、NHKに連行された全官公庁共同闘争委員会の伊井弥四郎議長は、ラジオを通じて、泣きながら「一歩後退、二歩前進」と前置きし、マッカーサー指令によりゼネストを中止したことを発表しました。そして、最後に、伊井議長「日本の労働者および農民万歳、我々は団結せねばならない」と語りかけました。
 2月1日、全官公庁共同闘争委員会・全国労働組合共同闘争委員会が解散しました。その後、伊井議長は、GHQの忠告を受けなかったため、占領政策に違反したとして逮捕され、懲役2年を言い渡されました。
 3月12日、トルーマンは、ソ連封じ込めのトルーマン・ドクトリンを発表しました。
 4月7日、労働基準法が公布されました。8時間労働・強制労働禁止女子少年労働者の保護などが規定されました。
 5月24日、@46片山哲内閣が誕生しました。
 6月4日、日本教職員組合(日教組)が結成されました。日教組は、ストライキを背景に文部大臣が交渉し、労働協約書を交わして賃金を決定していました。
 1948(昭和23)年1月5日、米陸軍長官のロイヤルは、サンフランシスコで、「日本を共産主義に対する防壁にする」と演説しました。
 2月16日、アメリカ政府は、岸信介らA級戦犯容疑者の裁判を放棄すると声明しました。
 3月10日、@47芦田均内閣が誕生しました。
 7月31日、ポツダム政令201号が発令され、国家公務員・地方公務員の団体交渉権・罷業権などが否認されました。これを占領軍の民主化政策転換といいます。
 8月15日、大韓民国が樹立され、大統領に李承晩が就任しました。
 9月9日、朝鮮民主主義人民共和国が樹立され、首相に金日成が就任しました。
 10月19日、@48第二次吉田茂内閣が誕生しました。
 11月2日、アメリカの大統領選でトルーマンが再選されました。
 11月9日、アメリカ大統領のトルーマンに対して、蒋介石が緊急軍事援助を要請しました。
 11月30日、国家公務員法改正が公布され、政令201号を廃止し、人事院を設置し、公務員の争議行為を禁止しました。人事院は、民間労働者と公務員の賃金格差が5%以上になった時、国や地方公共団体に勧告します。その代償として、公務員の賃金決定権を無くしました。
 12月16日、中国共産党軍は、北京に無血入城しました。
 12月18日、GHQは、「アメリカの国務省・陸軍省共同声明で、マッカーサーへの対日自立復興の9原則実施を指令」と発表しました。これを経済安定9原則といいます。
 12月19日、マッカーサーは、吉田茂首相に書簡を送りました。
 12月23日、東条英機ら戦犯7人は、巣鴨拘置所で、絞首刑が執行されました。
 12月24日、岸信介・笹川良一児玉誉士夫らA級戦犯が釈放されました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
戦後の労働運動、アジアのスイスになりそこなった日本
 占領軍は、アメリカ的民主主義政策の一貫として労働組合の奨励に尽力しました。その結果、上記の表でも分かるように、戦前の最大労働組合員数は42万ですが、戦後の1946年にはその10倍以上になっています。
 下記の消費者物価指数をみると、1949年は戦前の2万3690倍、1945年の70倍になっています。インフレによる生活苦と、社会主義思想と、労働組合の解禁などが複合して、労働運動はかってないほどの激しさを加えました。
 
1934〜1936年の平均を100とした場合
  卸売物価指数 消費者物価指数 鉱工業生産指数
1945 350.3 308.4 60.2
1946 1627.0 5080.0 30.7
1947 4820.0 10910.0 40.0
1948 12790.0 18900.0 50.0
1949 20880.0 23690.0 80.0
1950 24680.0 21990.0  
 その延長が二・一ゼネストです。以下は、全官公庁労組共同闘争委員会が行ったゼネスト決行共同宣言です。
「ゼネスト決行共同宣言 全勤労階級の生活権獲得なくして祖国の再建は絶対にあり得ないことを深く信じたるわれわれ全官公庁労働者は基本的人権確立の要求を提出し3カ月にわたって隠忍交渉をつづけてきた、然るに非愛国的政府は常にわれわれの要求を踏みにじり15日ついに誠意なき一片の文書回答を投げ与えたのである、今やわれわれの生活は壊滅の深淵に追いつめられ全産業はまさに崩壊の危局にさらされんとしている、われわれはわれわれの祖国を限りなく愛し、敗戦は日本民族の復興を熱願するの情切々ここに血涙をのんで遂に建設的大手術を断行せざるのやむなきに至った、我等260万の全官公労働者は2月1日午前零時を期してけつ然として起ち、全国一斉にゼネストに突入し要求の貫徹するまでは政変の如何に拘わらす断乎として闘うことを宣言する、なお2月1日以前に弾圧を受けた場合はそれが如何なるものであろうとも自動的にゼネストに突入するものであり、これによつて生する事態の一切は政府の当然負う可き責任であることを警告する。
                 全官公庁労組共同闘争委員会」
 GHQの労働政策は、ある程度容認はするが、占領政策に有害であったり、特に共産党の拡大に結びつくような行動は弾圧の対象とするということが明白となりました。
 こうした民主化政策の転換には、どのような背景があったのでしょうか。
 よく言われることが、日本の占領政策をめぐって、GHQ内に2つの流れがあったということです。
(1)中国派といわれるグループで、オ−エン・ラティモアら中国問題専門家やルーズベルト大統領のニュ−ディ−ル政策推進の進歩派で構成されていました。中国派は、天皇制と財閥追求に厳しく、非軍事・民主化の徹底を主張しました。
(2)日本派といわれるグループで、元駐日大使グル−プや米軍首脳部で構成されていました。日本派は、高級官僚の弊害を取り除けば、天皇・財閥などは対ソ戦略に有効であると主張しました。
(3)米ソ対立による冷戦や中国大陸における中国共産党の覇権確立などにより、中国派が発言力を失い、その結果、日本の民主化政策が日本派により指導されるようになりました。
 日本の民主化が推進された後、アジアにおける状況の変化がきておれば、日本はアジアのスイスとして輝かしい戦後を世界に宣伝できたのにと残念に思います。

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