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エピソード

274_01

経済自立と労働運動U(ドッジ=ライン、シャウプ税制、下山・三鷹事件)
 戦争によって、日本経済は壊滅的な打撃を受けました。国富の25.3%、建物の24.5%、家具・家財の20.5%、船舶にいたっては80.6%も損失しました。これが戦争のもう一つの現実です。
 戦後の食生活の状況は下記の表から判断できます。衣服や貴金属などを1つ1つ手離して、食料品を手に入れることから「竹の子生活」といいます。消費者物価指数をみると、猛烈なインフレだったことが分かります。これでは、現金は、ほとんど無価値です。
  1945 1946 1947 1948 1949 1950 1934〜1946年
の平均=100
主食 78 56 75 77 83 83
副食 60 58 53 63 68 82
嗜好品 29 27 31 37 42 48
物価指数 308 5080 10910 18900 23690 21990
 GHQの指示を受けた政府は、日銀券預入令により預金の出し入れを禁止し、金融緊急措置令により旧円を無効にし、新円に切り替え、インフレを抑制しようとしました。
 他方、臨時財産調査令により、25〜90%という強烈な課税を行いました。皇族の多くが財産を失いました。これを西武の堤康次郎が手にいれ、プリンスホテル王国の基礎としました。
 次に傾斜生産方式により重要産業の復興を目指しました。
 中国大陸では、中国共産党が支配権を確立しました。そのことに危機感を感じたGHQは、「竹の子生活」を送っている日本人がインフレにより困窮している状態では、共産革命の恐れを感じ、資本主義的な豊かな生活を日本にもたらすよう、大幅に占領政策を転換しました。
 そこで、税制上、狙われたのが公務員の削減です。税金による人件費の節約です。
 1948(昭和23)年10月15日、@48第二次吉田茂内閣(民主自由党単独)が誕生しました。
 1949(昭和24)年1月20日、トルーマン大統領は、低開発地域開発計画を提唱しました。これをポイント=フォアといいます。
 1月23日、@24衆議院議員選挙が行われ、民主自民党(民自党)が第1党になりました。
 1月25、ソ連・東欧5カ国は、経済相互援助会議を設置しました。これをコメコンといいます。
 1月31日、中国人民解放軍が北京に入城しました。
 2月1日、アメリカの陸軍長官であるロイヤルとGHQの経済顧問であるドッジ公使らが来日しました。
 2月10日、民主自由党の吉田茂・民主党の犬養健は、マッカーサーに協力を求め、「長期安定政権を期す」との共同声明を発表しました。
 2月16日、@49第三次吉田内閣(民主自由党・民主党連立)が誕生しました。吉田内閣は、アメリカの意向を受けて逆コ−スを推進しました。
 2月16日、吉田首相は、経済安定9原則の忠実なる実行を強調する談話を発表しました。
 2月25日、アメリカ陸軍長官ロイヤルは「日本が攻撃された時は、米軍が反撃する」と言明しました。
 3月1日、ドッジ公使は、池田勇人蔵相と会談し、「収支均衡予算編成の方針」を検討しました。
 3月7日、ドッジ公使は、内外記者団会見で、経済安定9原則実行に関し声明を発表しました。これをドッジ=ラインといいます。マッカーサーは、共産主義から日本を防衛するためには、日本経済の自立が必要と考え、公務員の削減・課税を強化する方針を提示しました。そして、マッカーサーは、「達成を遅らせようとする企図は…抑圧されなければならない」と演説しました。当時、この「抑圧」という意味が分かりませんでした。
 3月31日、ドッジ=ラインの実施により、復興金融金庫の貸出が急減しました。
 4月1日、GHQは、ガリオアおよびエロア輸入物資の円勘定に関する覚書を発表しました。
 4月4日、ポツダム政令で、団体等規制令が公布されました。その結果、団体の構成員の届出が義務付けされました。
 4月15日、ドッジ公使は、昭和24年度予算案につき、超均衡予算の実施を強調しました。
 4月25日、GHQは、為替レート設定の覚書を発し、1ドル=360円の単一為替レートとなりました。
 5月4日、吉田内閣は、行政機関職員定員法を決定し、26万7300人の行政整理を決めました。
 5月7日、吉田首相は、外人記者に講和条約締結後も米軍の日本駐留を希望すると言明しました。
 5月10日、シャウプ税制使節団が来日しました。
 5月31日、行政機関職員定員法が公布され、28万5124人の行政整理を発表しました。
 6月26日、国労中央委員会は、行政整理反対のため「ストを含む実力行使」の方針を決定しました。
 6月27日、政府は、「労組の決定は、公共企業体労働関係法第17条違反の結果をもたらすもの」という声明を発表しました。
 6月30日、福島県平市で、労働者・市民は、「常磐地帯の中小炭坑の首切りに反対」と書いた掲示板撤去に反対して警官と衝突し、平警察署に乱入・占拠しました。この結果、騒擾罪により300人が検挙されました。これを平事件といいます。
 7月4日、マッカーサーは、「日本は共産主義進出阻止の防壁」と声明しました。
 7月4日、国鉄は、行政機関職員定員法に基づく第1次人員整理3万700人を通告しました。
 7月5日、国鉄総裁の下山定則は、登庁の途中で行方不明となりました。
 7月6日、国鉄総裁の下山定則の轢死体が発見されました。これを下山事件といいます。
 7月12日、国鉄は、行政機関職員定員法に基づく第2次人員整理6万300人を通告しました。
 7月15日、国鉄中央線三鷹駅で無人電車が暴走し、6人が死亡しました。これが三鷹事件です。
 7月17日、国労の分会幹部2人が逮捕されました。
 7月18日、国鉄は、鈴木市蔵副委員長ら国労中闘の共産・革同派14人を免職しました。
 7月21日、国鉄労働組合は分裂し、合法闘争を主張する民同派が主導権を掌握しました。
 8月11日、郵政・電通両省は、2万6500人の人員整理を全逓労組に通告しました。
 8月17日、旅客列車が脱線転覆し、乗務員3人が死亡しまし。これを松川事件といいます。
 8月18日、官房長官の増田甲子七は「集団組織による計画的妨害行為と推定される」と語りました。
 9月10日、松川事件に関し、共産党員・国鉄・東芝労組員らが逮捕されました。
 9月13日、アメリカのアチソン国務長官・イギリスのベヴィン外相は、ワシントンで会談し、対日講和会議の早期開催に合意しました。
 9月15日、GHQは、税制の根本改革というシャウプ勧告の全文を発表しました。
 9月19日、人事院は、国家公務員法に基づき、公務員の政治活動を制限しました。
 9月25日、ソ連のタス通信は、ソ連の原爆保有を報道しました。
 10月1日、中華人民共和国が成立し、国家主席(President)に中国共産党総書記である毛沢東が就任しました。国務院総理(首相)に周恩来が就任しました。
 10月26日、松川事件で6人が起訴されました。その後、14人が起訴されました。
 11月11日、吉田茂首相は、参議院で、「単独講和でも全面講和に導く1つの途であるならば喜んで応ずる」と答弁しました。
 11月28日、国際自由労連が結成され、53カ国が加盟しました。
 12月4日、社会党中央委員会は、講和問題に対する一般的態度として「全面講和・中立堅持・軍事基地反対の平和3原則」を決定しました。
 12月5日、全官公脱退の日教組・国鉄・全逓などは官公労を結成しました。
 12月7日、アメリカが支援した蒋介石国民党政府は、首都を台湾の台北に移転しました。
 12月25日、マッカーサーは、戦犯に特赦令を出し、BC級戦犯46人を釈放しました。
 12月27日、中国人民解放軍は、中国大陸を完全に解放しました。
 1950(昭和25)年1月1日、マッカーサーは、年頭の辞で「日本国憲法は、自己防衛の権利を否定せず」と言明しました。
 1月5日、トルーマン米大統領は、「台湾問題に軍事介入せず、経済援助にとどめる」と声明しました。
 1月6日、イギリスは、中華人民共和国を承認しました。
 1月12日、国務長官のアチソンは、「アメリカの防衛線はアリューシャン・日本・沖縄を結ぶ線である」と演説しました。
 1月13日、国連安保理は、ソ連の国民政府追放案を否決しました。その結果、ソ連は、7月3日まで議国連をボイコットしました。
 1月19日、社会党第5回大会で、指導権争いから左右両派に分裂しました。左派は鈴木茂三郎書記長を選出、右派は片山哲委員長・水谷長三郎書記長を選出しました。
 2月4日、北京放送は、台湾の年内解放を言明しました。
 2月9日、共和党のマッカーシー上院議員は、「国務省に57人の共産党員がいる」と演説し、マッカーシー旋風、または赤狩りの始まりといいます。
 2月17日、韓国大統領の李承晩が来日し、マッカーサーと反共政策につき会談しました。
 4月26日、野党外交政策協議会は、平和・永世中立・全面講和を主張する共同声明を発表しました。
 4月27日、アメリカ政府筋は、「中立声明は理想論である」との見解を発表しました。
 5月3日、マッカーサーは、「共産党は侵略の手先」と非難し、非合法化を示唆しました。
 5月3日、吉田首相は、南原繁東大総長の全面講和論を「曲学阿世」の論と非難しました。
 5月6日、南原繁東大総長は、「学問への権力的強圧である」と反論しました。
 6月6日、マッカーサーは吉田首相宛て書簡で「共産党中央委員24人の公職追放」を指令しました。
 6月18日、ジョンソン国防長官・ブラッドレー統合参謀本部議長が来日しました。
 6月25日未明、38度線全域にわたり、戦争状態に入りました。これを朝鮮戦争の勃発といいます。
 6月25日14時、ソ連欠席の国連安保理は、北朝鮮を侵略者と認めるアメリカ決議案を採択しました。
 7月8日、マッカーサーは、吉田首相宛て書簡で、「国家警察予備隊7万5000人の創設、海上本朝の拡充8000人増員」を指令しました。
 7月11日、産別会議を脱退した組合や中立組合は、反共民主労組として、日本労働組合総評議会を結成しました。議長に武藤武雄が就任しました。
 7月15日、最高検察庁は、徳田球一ら9人を出頭命令拒否の理由で逮捕状を発令しました。
 7月24日、を勧告しました。
 7月28日、GHQの申し入れにより、新聞各社は共産党員とその同調者を追放しました。これをレッドパージ(the Red Purge)といいます。
10  8月10日、ポツダム政令で、警察予備隊令が公布されました。第1陣として7000人が入隊しました。
 8月16日、日産は、朝鮮特需で米軍よりトラックの大量受注に契約しました。
 8月25日、GHQは横浜に在日兵站司令部を設置と発表しました。これが朝鮮特需の本格化です。特需を背景に、景気が回復しました。これを特需景気といいます。
 9月21日、第2次シャウプ税制勧告を発表しました。その内容は、平衡交付金の大幅増額でした。
 10月7日、ドッジが来日し、「ディスインフレは堅持する」と声明しました。
 10月13日、吉田内閣は、戦犯覚書該当者以外の1万90人の追放解除を発表しました。
 10月29日、朝鮮戦争の特需が累計で1億3000万ドルに達しました。
 11月8日、GHQは、「11月21日に重光葵が巣鴨刑務所を仮出所する」と発表しました。これはA級戦犯では初の処置です。
 11月10日、吉田政府は、太平洋戦争開戦後の陸海軍学校入学者の旧軍人3250人に初の追放解除を発表しました。
 12月13日、地方公務員法が公布され、地方公務員・公立学校教員の政治活動・争議行為等が禁止されました。
 12月、松川事件に関して、福島地裁は「死刑5、無期5など全員有罪」と判決しました。
11  1963(昭和28)年、松川事件に関して、最高裁は「再上告破棄」、つまり全員に無罪を判決しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
下山事件、三鷹事件
 授業中、下山事件・三鷹事件・松川事件を扱いながら、背筋が寒くなったことを覚えています。「政治は目的のためには、ここまでやるか」という思いと、「日本人は過去の歴史で、ここまで残酷な手段を使ったか」ということです。
 GHQでは、当初、実権を握っていたのは中国派、つまりニューディール派でした。しかし、反共派のウイロビー少将らは、アジア情勢の変化から、ニューディール派を追放し、日本の経済自立化と共に、日本共産党の拠点である官公労の弱体化を画策しました。
 三大事件の前の日本の状況を概観します。
 1949年5月20日、運輸省の下山定則事務次官は、参議院選挙に立候補するため、辞職を決意していました。
 5月31日、行政機関職員定員法を公布し、専売公社や国鉄職員などの公務員28万5124人が人員整理の対象となりました。国鉄は62万人の19.4%に該当する12万人の解雇を決定しました。
 6月1日、国鉄は、新しい公共企業体として発足し、初代の総裁が就任することになっていました。しかし、初代総裁の任務は、解雇とそれへの対応でした。誰も嫌がります。近鉄の村上義一社長もそのことを知って、広川弘禅幹事長や大屋晋三運輸大臣が何度足を運んでも拒絶しました。
 困った大屋運輸相は、同じ運輸省の下山定則事務次官に懇願します。下山事務次官は、選挙の立候補のこともあり、ことの重大さを認識できなかったのか、「私が犠牲になります」と承諾しました。
 6月9日、国労は、組合管理の人民電車を走らせました。
 6月26日、国労中央委員会は、行政整理反対のため「ストを含む実力行使」の方針を決定しました。
 6月27日、政府は、「公共企業体労働関係法第17条違反の結果をもたらすもの」と発表しました。
 6月30日、福島県平市で、労働者・市民が警官と衝突する平事件がおこりました。
 7月2日、国鉄と国労の交渉が決裂し、下山総裁は、「7月20日までに9万500人を解雇する」と宣言しました。
 7月2日深夜、GHQの民間運輸局(CTS)のシャグノン中佐は、下山総裁に対して、ピストルをテーブルの上に置き、「4日には整理を発表しろ」と迫りました。
 7月4日15時、国鉄の下山総裁は、GHQの民間運輸局(CTS)のシャグノン中佐の指示で第1次人員整理3万700人の名簿を発表しました。発表後の下山総裁にはこんな話が残っています。
 下山総裁は、放心状態で、テーブルにあった国鉄の芥川公安局長の茶を飲み干しました。給仕が茶を追加しようとすると、下山はものすごい形相で「いらん」と怒鳴ったといいます。その後で、給仕がアイスクリームを出すと、下山総裁は自分の分を食べた後、不在の人も分まで食べています。それも、服の上にアイスクリームをだらだらと垂らすような食べ方だったといいます。
 簡単に3万700人を解雇といっても、その人には、老いた父母、妻、食欲旺盛な子もいるでしょう。その家族を思うと、放心状態になるのが人情です。
 7月3日10時、下山総裁は、自宅に帰りました。
 7月5日8時20分、総裁専用車の運転手大西政雄は、総裁を乗せて自宅を出発しました。10時に百貨店が開くのに、「三越にやってくれ」とか「白木屋に行ってくれ」といつもと違う言動をしました。
 7月5日8時45分、下山総裁の大塚辰治秘書は、国鉄本社の玄関に立ち、下山総裁を迎えることを日課になっていました。しかし、下山総裁が姿を見せませんでした。今日は9時から局長会議が予定されていたので、大塚秘書は、下山総裁の自宅に電話しました。下山夫人から「いつもの時間に出た」と返事がありました。
 7月5日9時5分、下山総裁は、千代田銀行(今の三菱銀行)に行きました。
 7月5日9時30分、大塚秘書は、下山総裁が立ち寄りそうなGHQの民間運輸局(CTS)や民政局(GS)に電話しましたが、「未だ来ていない」という返事でした。
 7月5日9時37分、下山総裁は「5分で済む」と行って、三越に入っていきました。これが大西運転手が下山総裁を見た最後でした。
 7月5日10時15分、三越の案内係が地下鉄駅の方に降りていく下山総裁を確認しています。
 7月5日12時、連絡を受けた警視庁の田中栄一警視総監は、刑事部長らを招集して協議しました。
 7月5日13時43分、東武鉄道五反野駅の駅員は、ある男から「この辺に旅館はないですか」と聞かれたので、末広旅館を紹介しました。
 7月5日12時、末広旅館の長島フクは、ある客を2階の4畳半に案内しました。その客はぼんやりと窓辺に腰掛けていました。
 7月5日17時、国鉄は、下山総裁失踪の事実を公表しました。NHKラジオは、臨時ニュースとして「下山総裁失踪」を報じました。これが下山事件の発端です。
 7月5日17時、NHKラジオの臨時ニュースを聞いた大西運転手は、7時間以上も待たされていましたが、下山総裁は過去にも三越劇場で過ごすことがあったので、劇場内に入っていきました。しかし発見できなかったので、国鉄にその経緯を電話しました。
 7月5日17時30分、客は末広旅館を出て行きました。人相を確認すると、身長は170センチ、ネズミ色背広、白ワイシャツ、チョコレート色の靴など下山総裁と一致しました。
 7月5日19時、国電日暮里駅の駅員は、後に、荷物台に白墨で「五・十九・下山罐」と書かれているのを発見したと証言しました。。これは「5日19時、下山をドラム缶に入れて運べ」という解釈する人もいます。最初の他殺説の証言です。
 7月5日21時、下山総裁の自宅に電話がかかり、電話を受けた同居人の仲村量平の妻は、アリマと名乗る男性が「総裁は今日、自分のところに立ち寄ったが、元気だったので心配はいらないと思う」と言ったと証言しました。
 7月6日0時25分、国鉄の下山定則総裁(49歳)の轢死体が発見されました。死体は、首・胴体・右腕・左脚・右足首に轢断されていました。現場を0時19分に通過した869貨物列車に、下山の衣類の切れ端・肉片・血痕が付着していたので、この列車が原因と断定されました。これも他殺説の証言です。
 7月6日3時20分、斎藤綾瀬駅長は、遺体を線路の反対側に移動させました。「土砂降りの雨だったが、轢死にしては現場には血が少なく、胴体を持ち上げたとき、その下の石は白く乾いていた」と証言しました。これも他殺説の証言です。
 7月6日8時、東京都監察医務院の八十島信之助監察医は、「生活反応が認められず、頭と右肩の轢かれた傷跡と、死体に死斑がなかったことは、自殺者の場合によく認められる。本件死体は生体が轢かれたものの可能性を示す」と証言しました。これも他殺説の証言です。
 7月6日17時30分、東京大学法医学教室の古畑種基教授は、解剖結果から、「轢断創からは生活反応としての出血がなく、死後轢断と鑑定する。死後轢断となれば、自殺ではなく他殺である。死因は不明だが、睾丸の傷からみて、局所を蹴られたショック死と考えられる」と証言しました。これも他殺説の証言です。
 *解説(他殺説が多数を占める中、国労は孤立し、第1次3万700人の解雇が終わりました)
 7月12日、国鉄は、第2次人員整理6万300人の名簿を発表しました。
 7月15日、国鉄中央線三鷹駅で無人電車が暴走し、6人が死亡しました。これが三鷹事件です。
 7月17日、国労の分会幹部2人が逮捕されました。
 7月18日、国鉄は、鈴木市蔵副委員長ら国労中闘の共産・革同派14人を免職しました。
 7月21日、国鉄労働組合は分裂し、合法闘争を主張する民同派が主導権を掌握しました。
 8月11日、郵政・電通両省は、2万6500人の人員整理を全逓労組に通告しました。
 8月17日、旅客列車が脱線転覆し、乗務員3人が死亡しまし。これを松川事件といいます。
 8月18日、官房長官の増田甲子七は「集団組織による計画的妨害行為と推定される」と語りました。
 8月、東京大学法医学教室の古畑種基教授は、「死体に血液が非常に少なかったことから、体の血を抜き取って殺した。失血死だったかも知れない」と証言しました。その後、東大法医学教室の古畑教授は、衆議院法務委員会で、「自殺ということも考えられなくもない」と証言しました。解剖を担当した桑島直樹博士は、「轢かれたときは、死体と言ったが、自殺とも他殺とも断定していない」と発言しました。
 9月10日、松川事件に関し、共産党員・国鉄・東芝労組員らが逮捕されました。
 12月31日、捜査1課は「下山は自殺」と結論づけて、捜査本部を解散した。
 *解説(目的を達成するまでは、解雇を通告された労働側の他殺説が多数を占めました。その結果、国鉄の従業員9万1000人が解雇されました。解雇という目的が達成されると、下山総裁の自殺説と断定し、犯人探しを終了させました)
 作家の松本清張氏は、占領軍情報機関(CIC)による他殺説を採用しています。
 作家の大野達三氏は、中央情報局(CIA)による他殺説を採用しています。
 1964年7月6日、下山事件は、自殺か他殺か不明のまま、時効が成立しました。
 国鉄の従業員解雇に大きな役割を果たした三鷹事件です。
 7月12日、国鉄は、第2次人員整理6万300人の名簿を発表しました。
 1949年7月15日20地儒23分、中央線三鷹駅構内の電車引込み線に停車していた7両編成の無人電車が暴走して、車止めを突破しました。無人電車は、改札口に向っていた乗客を跳ね飛ばし、駅前交番を突きぬけ、道路を横切って商店街に突っ込んで停車しました。この事故で、死者6人、負傷者20人を出しました。
 7月16日、吉田首相は、「社会不安を起こしているのは一部の労組であり共産主義者の扇動によるもの」と声明しました。
 7月17日、東京地検は、三鷹事件の犯人として、三鷹電車区の飯田七三元執行委員長・三鷹電車区の山本久一を逮捕しました。2人とも共産党員でした。
 8月1日、三鷹電車区の竹内景助・伊藤正信・横谷武男ら7人が「電車往来危険・同転覆・同致死罪」で逮捕されました。その後、2人が逮捕され、計11人に達しました。11人のうち、竹内景助以外の10人は、すべて共産党員でした。
 8月16日、山本久一はアリバイが証明されて、釈放されました。
 1950年8月11日、東京地検は、共産党員9人と竹内景助の共同謀議として起訴しました。東京地裁は、共産党員9人を無罪として、竹内景助の単独犯行として無期懲役を言い渡しました。竹内は、アリバイがあると主張して控訴しました。
 *解説(無罪が確定した時には、国鉄の解雇は終了していました)
 1951年3月30日、東京高裁は、竹内景助に対して、一審を破棄して、死刑を言い渡しました。
 1955年6月22日、最高裁は、竹内景助に対して、上告を棄却し、死刑が確定しました。
 1956年2月3日、竹内景助は、再審を請求しました。
 1967年1月18日、竹内景助は、東京拘置所で、脳腫瘍のため、獄死しました。
 その後の調べで、竹内景助のことが判明しました。
 竹内景助は、人員整理に名簿が登載されたので、消防署の面接を受け、合格していました。しかし、逮捕されたことで、合格は取り消されました。次の就職が内定している人間が、いくら解雇の腹いせといえ、電車を暴走する危険を犯すとは考えられません。
 事故当時、竹内景助は、銭湯で複数の人間が目撃していおり、アリバイを証明しましたが、警察では採用されなかったといいます。裁判に証言すると、人事面で考慮されると脅されたともいいます。
 松川事件は、別項であつかいます。

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