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エピソード

274_02

経済的自立と労働運動V(松川事件)
 松川事件があった時、私は7歳でした。実体験では、まったく、記憶にありません。所が、教師になり、授業で下山・三鷹・松川の3大事件を説明するために、色々な本を調べました。その結果、目的を達するために、無実の人を死刑にする裁判制度があることを知りました。日本にある時期にそういうことが行われたことを知りました。
 所が、当時の管理職から、松川事件を授業で扱わないほうがいいという圧力がありました。その人は、年齢からして27歳頃、松川事件を実体験していたと思われます。
 今回改めて、圧力の意味を理解しました。三鷹事件では逮捕された11人中10人が共産党員でした。松川事件では逮捕された20人中18人が共産党員でした。そして、全員が無罪となっても、当時の政府やマス=コミは、「共産党は怖い」という風潮を徹底的に宣伝していました。圧力をかけて管理職は、親切心で言ったのだと思えるようになりました。
 しかし、私は、歴史の事実と冤罪という視点から、退職するまで、3大事件を取り扱いました。それは、松川事件を支援をしてきた作家の広津和郎氏が「正しいことは訴え続けねばならないということだ。絶望は禁物である」という言葉を実践しているにすぎません。
 1946(昭和21)年10月1日、東芝労連の59組合4万7000人は、産別会議の指導で、無期限ストに突入しました。
 11月10日、アメリカ軍憲兵隊(MP)のアーバン中尉6人は、自動小銃をかまえて、東芝堀川町の団交室にやって来ました。しかし、憲兵隊の圧力にも屈せず、賃上げなどの条件を勝ち取りました。
 1949(昭和24)年1月23日、@23衆議院議員選挙で、共産党は35人の当選者を出しました。
 2月16日、@49第三次吉田内閣(民主自由党・民主党連立)が誕生しました。
 3月、第一生命社長のに就任しました。
 5月31日、行政機関職員定員法を公布し、専売公社や国鉄職員などの公務員28万5124人が人員整理の対象となりました。国鉄は62万人の19.4%に該当する12万人の解雇を決定しました。
 6月30日、福島県平市で、共産党に指導された労働者・市民が警官と衝突し、平市警察署が占拠されました。この時、留置されたいた者が釈放され、警察官や署長が軟禁されました。これを平事件といいます。共産党系の産別労組である国労福島支部も指名解雇反対闘争に入りました。
 7月4日、国鉄の下山総裁は、第1次人員整理3万700人の名簿を発表しました。
 7月6日、国鉄の下山定則総裁(49歳)の轢死体が発見されました。これを下山事件といいます。
 7月12日、国鉄は、第2次人員整理6万300人の名簿を発表しました。
 7月14日、東芝は、堅山利文を採用して、労資協調の第2組合を結成させました。
 7月15日、国鉄中央線三鷹駅で無人電車が暴走し、6人が死亡しました。これが三鷹事件です。
 7月16日、東芝の石坂泰三社長は、東芝堀川町工場4700人のうち1370人の指名解雇を通告しました。その中には、労組幹部の全員と共産党員220人が含まれていました。
 7月17日、国労の分会幹部2人が逮捕されました。その後9人が逮捕されました。
 7月18日、国鉄は、鈴木市蔵副委員長ら国労中闘の共産・革同派14人を免職しました。
 7月21日、国鉄労働組合は分裂し、合法闘争を主張する民同派が主導権を掌握しました。
 8月11日、郵政・電通両省は、2万6500人の人員整理を全逓労組に通告しました。
 8月12日、福島県の東芝松川工場で指名解雇が行われました。共産党系の産別労組である東芝松川労組は、指名解雇反対闘争に入りました。ここに、同じ産別労組である国労福島支部と東芝松川労組が共闘を組むようになりました。
 8月13日、検察側の主張によると、「この日、共同謀議が行われた。15日、再度確認するため、会合をもつことを約束して別かれた」とあります。しかし、二審の公判で国労側3人のアリバイが証明される。
 8月15日、検察側の主張によると、「この日、国労福島支部事務所で、第2回連絡謀議であった」とあります。しかし、国労側のアリバイが証明され、第1回共同謀議が成立しなければ、第2回共同謀議がなくなります。
 8月15日、共同謀議に参加していたとされる佐藤一は、東芝松川工場で、会社側との団体交渉に出席していました。労組側も会社側も佐藤一のアリバイを証言しましたが、「佐藤一のため事実をまげて証言したもの」として退けられていました。
 8月16日14時、東芝の天王原工場内で、「17日に24時間ストライキに突入する」という説明会が行われました。
 8月16日22時、24時間ストが確認され、東芝工場から国労労組員が引き上げました。
 8月17日2時9分、東北本線の金谷川駅を出て、松川駅に向って進行していた上り列車が福島県松川町を通過中に、機関車と客車3両が脱線転覆して、蒸気機関車の機関士1人・助手2人が死亡しました。現場検証の結果、線路継目部のボルト・ナットがゆるめられ、レールの継ぎ目板がはずされていることが判明しました。また、レールを固定する犬釘が大量に抜かれており、複数の人間による計画的な犯行であることは明白でした。これを松川事件といいます。
 8月18日、松川事件の本格的調査も待たず、吉田内閣の増田甲子七官房長官は「今回の列車転覆事件は集団組織をもってした計画的妨害行為と推定される。その意図するところは旅客列車の転覆によって被害の多いことを期待したもので、この点無人電車を暴走させた三鷹事件より更に凶悪な犯罪である。しかし今回の事件の思想的傾向は究極において行政整理実施以来惹起した幾多の事件と同一傾向のものであることは断定できる」という談話を発表しました。
 *解説(下山事件も三鷹事件も、共産党の陰謀という説が流布され、三鷹事件では、この段階で10人の共産党員が検挙されていました。増田官房長官の談話は、この松川事件も共産党が指導する労組幹部が引き起こしたと世論を誘導しています)
 8月19日、読売新聞は「東芝松川労組はスト準備会合を天王原工場で外部団体員300名が出席して行われ、これに出席した争議のリーダー格の共産党員3名が同夜十時過ぎ帰路についたまま行方不明になっている事実があり、これも一応の疑惑をもち目下3名の所在を調査している」と報じました。しかし、疑惑の3人は行方不明でなく、職場に復帰していました。そこで、読売新聞福島支局に抗議すると、記者は「ニュース・ソースはあるが、それは明かせない」とまともな対応をしませんでした。
 8月20日、福島民友新聞は、「事故発生の前東芝工場労組副執行委員長太田省次氏(34)の妻すみ子さん(23)が、同工場堤ケ岡寮の者に対し、『今晩県下のどこかに三鷹事件以上の大事件が起きる』ともらしたことである。捜査本部ではすみ子さんがどこでそのようなことをきいてきたか関係者を取調べ中である」と報道しました。太田すみ子がそのようにもらした事実はありません。
 9月10日、検察当局は、元国労福島支部組合員で解雇されていた@赤間勝美(19歳)を別件の傷害容疑で逮捕しました。彼は共産党員でなく、強引な取調べの結果、「赤間自白」を引き出しました。
 9月13日、福島民友新聞は、「赤間勝美は事件前夜の16日虚空蔵のぼん踊りのさい『今晩列車転覆事件が起る』と語ったとの聞込みからこの点を重視、12日午前には赤間の実母みなさん(75歳)らに任意出頭を求め、赤間のの言動の事実について確めている」と報じました。
 9月14日、福島民友新聞は、「当の赤間氏はどこまでも“事件発生予言”を否認しつづけており・・・」と報じました。
 9月19日、傷害罪で逮捕された赤間勝美の遊び仲間の安藤と飯島は、最初は「転覆事件の話を聞いたのは17日だった」と言っていましたが、国警福島県本部捜査課の玉川正警視から「16日だったな!」脅されて、つい「はい」と漫画のようなやり取りがありました。刑事は、赤間勝美に「安藤と飯島は16日夜だったと言っているぞ」とか、「共産党はお前がやったと宣伝しているぞ」と自白を巧みに誘導していきました。玉川警視とは、特高上がりの刑事でした。
 9月19日、東芝労組の@菊池武が逮捕されました。その後、釈放されました。
 9月21日、赤間勝美は隔離する意味もあって、保原地区警察署に移され、優雅な饗応を受けました。
 9月22日、赤間自白に基づいて、逮捕が始まりました。まず、国労のA阿部市次・B鈴木信・C高橋晴雄・D二宮豊・E本田昇、東芝労組のA佐藤一・B浜崎二雄が逮捕されました。
 10月4日、東芝労組のC大内昭三・D太田省次・E小林源三郎・F佐藤代治・G杉浦三郎が逮捕されました。
 10月8日、東芝労組の菊池武が再逮捕されました。
 10月17日、東芝労組のH二階堂園子・I二階堂武夫が逮捕されました。
 10月21日、国労のF岡田十良松・G加藤謙三・H斎藤千・I武田久が逮捕されました。結局、10月21日までに、20人が逮捕されました。赤間勝美・阿部市次・岡田十良松・加藤謙三・斎藤千・鈴木信・高橋晴雄・武田久・二宮豊・本田昇10人は国労関係で、赤間以外は共産党員でした。大内昭三・太田省次・菊地武・小林源三郎・佐藤代治・佐藤一・杉浦三郎・二階堂園子・二階堂武夫・浜崎二雄10人は東芝労組関係で、小林・菊地以外は共産党員でした。
 10月末、検察側は、「諏訪メモ」を東芝松川工場から押収し隠匿していました。
 12月1日、赤間勝美は、福島拘置所に移されました。
 12月2日、赤間勝美は、岡林辰雄弁護士に面会し、新聞を見せられました。その時、警察でいわれていたことと実際と違うことを知り、騙されていたことを知りました。
 12月5日、福島地裁で、松川事件の第一回公判が開かれました。観察側は、冒頭陳述で「国鉄・東芝の両方が2度の連絡謀議(8月13日)をおこない、その結果、共同で列車脱線転覆事件を起すことにして、国鉄側からは本田・高橋・赤間の3人、東芝側からは佐藤一・浜崎の2人が8月17日午前2時ごろ現場で落合い、線路破壊作業をした。これを民同派の行為の如くするためである」と述べました。
 1950(昭和25)年6月6日、GHQは、共産党中央委員24人の追放を指令しました。
 6月16日、吉田内閣は、集会・デモを全国的に禁止しました。
 6月25日、GHQは、共産党機関紙の「アカハタ」を無期限発行停止処分としました。
 8月26日、84回の公判を経過して、検察側は「死刑10人、無期懲役3人、その他7人に有期懲役計95年」を求刑しました。
 10月25日、東芝は、堀川工場労組の組合長・書記長など共産党員40人、非共産党員2人を追放しました。これをレッドパージといいます。
 11月1日、産別系の金属労組東芝堀川町分会は、この追放に反対して、ストライキに突入しましたが、第2組合の新労連は、追放を承認しました。
 12月6日、福島地裁は、検察側の主張をほぼ認め、「本事件は、昭和24年7月、共同闘争を行うことになった国鉄労組福島支部及び東芝松川労組の組合員である被告らの共同謀議によるもので、その謀議は同年8月13日に国労福島支部事務所で成立し、同月15日には具体的手順を、翌16日には脱線させる列車を決定したものであり、さらに事件当日の午前2時頃に現地付近に集合し、列車を転覆させる作業を行った」として、「死刑5人、無期懲役5人、その他10人に有期懲役計94年6カ月」という判決を下しました。被告弁護団は、即日控訴しました。
 12月7日、全被告は、宮城拘置所に移監されました。
 1951(昭和26)年5月12日、二階堂園子被告が保釈となりました。
 7月13日、仙台弁護士会の袴田重司らが弁護を引き受けました。
 10月23日、控訴審が仙台高裁で始まりました。裁判長は鈴木禎次郎です。
 1952年4月17日、小説家の広津和郎の松川事件に関する発言が朝日新聞に取り上げられました。
 7月3日、佐藤一・武田久が入院しました。
 10月1日、@25衆議院議員選挙で、共産党の当選者はゼロでした。
10  1953(昭和28)年5月7日、第86回公判が始まり、最終弁論と最終陳述を行いました。小説家の広津和郎・宇野浩二らが公判を傍聴し、保釈中の被告と会談しました。
 7月23日、110回目の公判で結審しました。
 10月28日、仙台高裁は、判決日の11月5日を12月12日に職権により変更しました。
 12月22日、仙台高裁は、検察側主張の一部を否認し、「死刑4人、無期懲役2人、その他11人に計104年6カ月の有期懲役、無罪3人」という判決を下しました。3人が無罪になった理由は、8月13日に国労福島支部における東芝労組との共同謀議に参加していたとされる国労側の岡田十良松・斎藤千・武田久の3人のアリバイが成立したからです。当然、この時参加していたとされる東芝側の佐藤一・太田省次の無罪も当然ですし、この謀議を前提にしていた次の8月15日の謀議の根拠も崩れていましたが、死刑を含む有罪判決が出たのです。
11  1954(昭和29)年4月、広津和郎は、『中央公論』に「二審判決批判」の連載を開始しました。田中耕太郎最高裁長官は、「雑音に耳を傾けるな」と全国の裁判官に訓示しました。
 1955(昭和30)年6月25日、広津和郎の呼びかけで、各界文化人458人・各団体57が訴えに参加しました。
 9月30日、選任弁護団204人は、上告趣意書を最高裁に提出しました。
 1956(昭和41)年12月22日、仙台弁護士会は、弁護士法により、国鉄・東芝に対し、証拠不明事項の報告を求めました。これが「諏訪メモ」発見のきっかけとなりました。
 1957(昭和42)年6月29日、毎日新聞記者は、行方不明の諏訪メモについて、鈴木久学検事正に聞くと、「地検郡山支部にある」と示唆されました。
12  1958(昭和33)年11月1日、最高裁は、「諏訪メモ」の提出を命令しました。
 11月5日、最高裁で、口頭弁論が始まりました。
 1959(昭和34)年7月1日、鈴木信・杉浦三郎・本田昇が保釈され、これで全員が保釈されました。
 8月10日、最高裁は、7対5で、被告たちによる謀議が存在したという検察側主張と下級審の事実認定に疑問を呈し、また重要なアリバイに関する「諏訪メモ」の証拠価値を認め、「原審破棄、仙台高裁に差戻す」の判決を下しました。
13  1960(昭和35)年3月21日、仙台高裁差戻し第1回公判が行われました。裁判長は門田実です。弁護人は251人でした。
 10月6日、裁判長は、弁護人請求の捜査段階の書面提出を検察官に勧告しました。その結果、提出された117通の中に自白のデッチあげを立証する新証拠が多数発見されました。
 1961(昭和36)年4月27日、仙台高裁差戻し第47回公判で結審し、判決日を8月8日としました。検察側は、8月8日は「仙台七夕」の当日で、警備上の都合で、判決日の日程を延期するよう求めました。しかし、門田裁判長はこの日を延期することはしませんでした。
 8月8日、仙台高裁の門田裁判長は、第48回の公判で、「全被告無罪」の判決を下しました。
 8月21日、検察側が上告しました。
 1962(昭和37)年11月27日、検事上告に対する弁護人・被告人の答弁書を提出しました。
 12月2日、広津和郎・松本清張・中島健蔵の3人が連盟で救援カンパを訴えました。
 1963(昭和38)年2月4日、検事上告審口頭弁論が始まりました、
 9月12日、最高裁は、検察官の上告を棄却し、その結果、永遠に、無罪が確定しました。
14
国労 @赤間 A阿部 B鈴木 C高橋 D二宮 E本田 F岡田 G加藤 H斎藤 I武田
第一審 無期 死刑 死刑 無期 無期 死刑 12年 12年 15年 無期
控訴審 13年 無期 死刑 15年 無期 死刑 無罪 10年 無罪 無罪
差戻審 無罪    
東芝 @菊池 A佐藤一 B浜崎 C大内 D太田 E小林 F佐藤 G杉浦 H二階堂 I二階堂
第一審 7年 死刑 12年 7年 無期 7年 10年 死刑 3.6年 10年
控訴審 7年 死刑 10年 7年 15年 7年 10年 死刑 3.6年 7年
差戻審 無罪
 この項は、『近代日本総合年表』・大塚一男著『松川弁護十四年』などを参考にしました。
松川事件(論告、諏訪メモ、自在スパナ、無罪)
 上記の表を見ると、一審・控訴審共に死刑を宣告された被告が4人います。最高裁でも差し戻しに賛成した裁判官は7人で、それに反対した裁判官が5人いました。僅か2人の差です。
 これほど、明らかなでっち上げ裁判でも、14年後に無罪になった理由はどこにあるのでしょうか。
 でっち上げた刑事、それを鵜呑みにした検事、デッチあげを真実として死刑などの判決を下した裁判官などが、今から50年ほど前にいたことを不思議に思います。
 同時に、無実を信じて闘った弁護士がいます。第一審の後、仙台弁護士会会長で自由党宮城県連幹部の袴田重司氏が「共産党の事件を引き受けるのか」と非難されながら、「冤罪事件」に立ち上がりました。しかし、大衆運動として支援活動が盛り上がるのは、広津和郎氏や松本清張氏ら有名人が立ち上がってからです。
 これは、福島地裁における検察官である山本諫の論告求刑の要旨です。
 東芝松川工場に於ては経営合理化の為に同年八月九日工員整理を発表したので松川労組は同月十日より団体交渉を開始し散首反対の闘争を展開し八月十三日頃は極めて重大なる労働争議の最中であったのであります。之が為被告人杉浦の離松を許さず・・・其の翌八月十三日天王原工場に於て行われた団体交渉に出席して居った被告人太田は午前十一時頃中座し被告人佐藤一と共に松川駅午前十一時十五分発の下り列車で出発し同十一時五十分頃其の当時福島市早稲町附近の福島駅構内にあった国鉄労組支部事務所に出頭したのであります。被告人鈴木は「東京では三鷹事件が起ったが共産党では民同がやった様に云うて居るから此処でも列車転覆を要領よくやれば民同になすりつけることが出来るからやろう」被告人二宮は「吾々は国鉄の者だから場所其の他は吾々で遺憾のない様にするから心配はない。吾々に委せて貰い度い」、被告人佐藤一は「場所其の他については国鉄の指示に従う。此の事は帰って杉浦に相談する」等の趣旨の発言を為し、其の他列車転覆軽画についてアリバイエ作等に関する発言があって結局具体的の打合は八月十五日更に同所に於て行うこととし、其の日の集合と同時刻頃同所 に再度集合することに決定して、約二十分位で其の謀議を終了したのであります。
(7)同年同月十五日正午頃国鉄労組福島支部事務所に於て鈴木、本田、二宮、阿部、加藤、菊地の各被告人等が会合し、
(8)同日午後五時半頃より同七時頃迄の間東芝松川工場八坂寮に於て杉浦、太田、佐藤一の各被告人等が会合し、
(9)同日午後十時過頃同八坂寮に於て佐藤一、浜崎、小林の各被告人等が会合し、
執れも運行中の旅客列車を脱線せしむることについての謀議を為し之等の謀議に因る計画に基いて本田、高橋、赤間、佐藤一、浜崎の各被告人が、同年同月十七日午前二時頃より同二時半頃迄の間に本件列車脱線作業を為し上り放客第四一二号列車を脱線転覆せしめたのであります。
 求刑
本件各被告人に対し刑法第百二十六条及同第六十条を適用し左の刑を相当と思料致します。
 次は仙台高裁の控訴審判決文の要旨です。
 国鉄側では「十三日正午頃同事務所と同一建物内にある福島地区労働組合会議を訪れた被告人太田省次に対し国鉄側被告人の何人かから国鉄側において列車転覆の計画のあること、これが計画の具
いて八月十五日右支部事務所で協議すべきことを打開けて東芝側からの出席方を要請」した。
 一方東芝側では「被告人杉浦は・・・同月十三日頃国鉄側被告人等の間に人為的に列車事故を引越す計画あることを聞知し、次で被告人太田から前記の連絡を受けるに及び右危惧の念から警察力を他
に転ぜしめるためと吉田内閣に反省を促すという如き考えから之に参加し協力すべきことを決意し、同月十五日午前十一時頃での間に被告人太田省次、同佐藤一等と協議の上同日佐藤一が東芝側を代表して国鉄労組福島支部事務所に赴くべきことを決定」した。
 また「被告人高橋晴雄は右八月十六日夜後記の如く被告人本田昇等と鈴木商店附近に集合するま
での間に福島市内において、国鉄側被告人の何人かから何等かの方法によって前記第三(一)の列車転覆に関する具体的謀議の結果並びに実行現場に赴く際の集合時刻、場所等についての連絡を受けこれを承諾して前記列車転覆の謀議」をした。
 次は最高裁の上告審判決文の要旨です。
「原判決は本件を謀議、実行行為(バール、スパナの持出し、琵の破壊作業)およびアリバイ工作の三部門から成る計画的な犯行であると認定していることが明らかであるが、謀議は本件の発端をなすもの
であり、しかも原判決が特にこれを重要視していることは、本件実行行為はもとよりアリバイ工作といえども、すべて右各謀議に基づいて敢行されたものとしていることおよび本件ではただ謀議のみに関与し、自らは何ら実行行為に出てなかった…七名に対しても、これを共同正犯として、重い責任を負わしめていること、その他判文全体からこれを窺うことができる。原判決の前示認定にょると、本件謀議は国鉄側のみの謀議、国鉄側と東芝側との連絡謀議、東芝側のみの謀議の三組から成るものとされているのであるが、就中、連絡謀議は国鉄側のみの謀議と東芝側のみの謀議とを結びつける枢軸であり、しかも原判示によれば、右国鉄側のみの謀議、東芝側のみの謀議すら、互に相手方の参加と協力とを予定または前提とするが如き内容のものであったとされているのであるから、この連絡謀議の存否は自然その余の謀議、ひいてほ本件事案の全般的な構造にまで影響を及ばす程重要なものとみざるを得ない」
 その結果、「国鉄側と東芝側との連絡は断ち切られることにならざるを得ない」ことになった。「しかも、原判決によると、本件実行行為は、それがバール、スパナの持出であると線路の破壊作業であるとを問わず、また本件アリバイ工作といえども、すべて、右第三の謀議に基づいて行われたものであるというのであり、本件実行行為、アリバイ工作は原判決認定の謀議、殊に国鉄側と東芝側との連絡謀議なくしては到底考えられないところのものである。従って、若しこれら二つの連絡謀議の存在に疑いがあるとすれば、それは自然他の謀議、ひいては実行行為、アリバイ工作、結局本件事実全体の認定にまで影響を及ぼすものと考えざるを得ない」として、破棄、差戻しを結論づけたのである。
 次は仙台高裁の差戻し審での論告の要旨です。ここでは諏訪メモが焦点になっています。
 「弁護人等は、検察官が諏訪メモその他の証拠を隠匿…したと非難するが、かかることは断じてなく、…本件の一審係属中に立合検察官は、証拠物を纏めて弁護人に閲覧せしめた際、諏訪メモについても閲覧の機会を与えている」
 それに対する弁護人の反論は、「我々はは1954(昭和29)年にいたって諏訪メモの存在を知り、それ以来その公開を要求してきた。最高裁で井本公安部長は、手持ち証拠を見せねばならぬ根拠はない、諏訪メモを隠していたといわれるのは心外だと弁明した。見せなかったのがなぜ悪いかというのである。ところが最高裁判決に諏訪メモが大きくとりいれられ、世論が検察の卑劣な行動を糾弾しだすと、諏訪メモはすでに一審で見せてあったとひそかにいいふらし、今回の論告でこれを公言したのである」というものでした。
 次は仙台高裁の差戻し審での判決文の要旨です。ここでは自在スパナが焦点になっています。
 「そもそも、自白によると、バール、スパナの盗み出しが成功したからよかったものの、失敗すれはそれまでであるのに、その成否を連絡する方法も講ぜず、その余裕もない国鉄側の出発する一時間ほど前に盗み出しが行われて、偶然にも駅員に発見されずに成功したというような、偶然と僥倖を期待せねばならぬ冒険をおかすことを、本件のようなあらかじめ綿密に計画したとされる謀議で決めたということ自体が不自然不合理ではないだろうか。およそ、本件自白を検討してみると、すべてが偶然の累積なのである。検察官は、一体これらの点をどのように説明できるのであろうか。・・・本件犯行は謀議といい、実行といい、いずれも偶然の累墳、僥倖の頼み重なりの上に成り立っている周到な計画的犯行といえる」
 1949年8月17日5時、国警福島県本部捜査課の玉川正警視は、国鉄福島管理部から事件の連絡を受け、現場に急行しました。玉川警視は、部下に対して、線路を取り外した工具が現場に落ちてないか探すように指示しました。やがて、現場付近の田の中からバールと自在スパナを発見しました。
 最後まで、玉田警視が犯行に使われたと主張する自在スパナを調べました。
(1)福島保線区で工具が盗まれた形跡が無いか調査した結果、松川保線区で盗まれたらしいとの情報があった。その後、発見されたスパナには、「M」の字が刻印されていることが分かりました。当時、国鉄では英字を刻印している工具を使っていなかったのです。
(2)長さ24センチの鉄製小型工具である自在スパナは、新品同様で、ボルト・ナットをゆるめた時につく使用痕がありませんでした。
(3)自在スパナは、長さ24センチの小型であるため、現場のボルト・ナットをゆるめることは不可能です。
(4)差戻し審で、検察側は、以前の自在スパナは偽物で、「事件直後に捜査員が松川駅の線路班倉庫から引きあげ、金谷川駐在所に保管していた」という大型の新自在スパナを提出しました。
 松川事件の検察側の論告の骨子は、8月13日に共同謀議を行い、それに基づいて8月15日に確認謀議を行ったというものです。
 太田自白調書の「被告人佐藤一が午前11時15分松川駅発の電車に間に合うように団交から退席した」という内容が、松川裁判の骨子に採用されていました。
 最高裁は、検察側が9年間開示を拒否していた諏訪メモの提示を命令しました。その結果、証拠調べをしないはずの最高裁は「同メモの記載によれば昭和24年八月15日午前10時30分より東芝の団体交渉が開かれ、被告人佐藤一もこれに出席したが、同人の資格問題論争となり、結局会社側で納得されるに至って、同人の発言は相当長く継続し、午前中の最後の頃まで発言していたのではないかと窺われる節もあって…同被告人は同日午前11時15分松川駅発の下り列車に間に合う時刻に団体交渉の席を出たとの原判断には疑いなきを得ないのである」と述べて、原判決廃棄の根拠にしました。

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